羅刹の女1
窓の外は、いつの間にか明るくなっていた。あれからどれほどの時間が経ったのだろうか。
アグラード先生の治療のおかげで、アリエッタは穏やかに眠っている。
娼館襲撃の後アリエッタを連れ帰ると、アグラード先生が待っていた。彼女はアリエッタの状態を見るなり、自宅まで戻って薬を持ってきてくれたのだ。
「これで少しは良くなるといいのだが……」
アグラード先生はそう言って、眠っているアリエッタに毛布をかけた。
「アリエッタの症状は、どうなっているんです? あの小瓶の中身はいったい?」
私の問いに、アグラード先生は暗い顔をする。
「……言いにくい事だが、アリエッタには後遺症が残るかもしれない。この小瓶に入っていたのはね、『ユガ』と呼ばれる麻薬の一種なんだ。しかも、かなりの劇薬だ。瓶の中身を丸ごと飲まされたとなると、どうなるか私にも予想がつかん。身体的な障害かもしれないし、精神的なものかもしれん。仮に無事だったとしても、長く禁断症状に苦しむことになるだろうな」
アグラード先生の診断は、覚悟していた以上に衝撃的だった。
――気が付くと、私は床に座り込んでいた。
「……私のせいだ……私がもっと早く助けられていたら、こんな事には――」
「そういう後悔の仕方はやめた方が良い。物事には運命ってものが在る。人生に"もし"や"れば"はないんだよ」
慰めのつもりなのか、アグラード先生は冷たくそう言いながら私に手を差し出した。私はそれを取り、立ち上がる。
「下へ行こう。君も少し休んだ方が良い。この子はしばらく起きないよ」
アグラード先生はそう言って、部屋を出て行った。
アリエッタに目を向ける。静かな寝息を立てて休む彼女を見ていると、胸が強く締め付けられる。確かに、私も落ち着いた方が良いかもしれない。
アリエッタに頭を下げ、私も部屋を後にした。
下の階へ行くと、物音が台所の方から聞こえてきた。台所へ行くと、案の定アグラード先生がそこに居た。
「すまないね。勝手に使わせてもらっているよ」
そう言ってアグラード先生は、二人分のカップにお茶を注いだ。
「しかし、こんな豪邸に住んでいながら台所が食卓とはね」
アグラード先生は意味ありげに部屋の中を見渡した。
この屋敷には、本来食堂として使われるべき部屋が別に存在するのだが、住人がもともと二人しかいなかったために、広い台所に食卓を一つ置くことで、一か所に機能を集約してしまっているのだ。
アグラード先生が言いたいのは、それがもったいないとかそういう事なのだろう。
「オルコットもアリエッタも、質素な生活を好んでいましたからね。それに二人しかいないのに、広い食堂で食事をするなんて、寂しい話でしょう?」
「……ふむ。そうか。――そうだな」
私の言葉に納得のいかない様子の先生だったが、それでも頷いて理解しようとしている様だ。そういうところは、やはりアグラード先生も貴族のお嬢様らしい。
「君も座って飲んだらどうだね?」
カップを対面に置いて、アグラード先生は私に座るよう促した。
「いえ。私は飲食を必要としない身体なので」
「おっと、そうだったな。すまない」
上品な仕草でお茶を飲んでから、アグラード先生は食卓の上に置かれた新聞を人差し指で叩いた。それは今朝の朝刊だった。昨夜の事だと言うのに、一面の見出しには娼館の襲撃事件が載っている。
「しかし、派手にやったものだね。三十六人も殺すとは。誰とは書いていないが、政府の要人も一人いたようだね。――まあ、それはどうでもいいか。この記事はなかなか笑えるぞ。目撃証言によると、犯人は大柄で覆面の男だとさ。君とは似ても似つかないな。おめでとう」
アグラード先生はいつも通りに不敵に笑った。私の罪を知っていながら、この人は咎める事をしない。むしろ称賛までするとは、どういうつもりなのか。
「で、初めての殺しの感想は?」
アグラード先生は心底楽しそうに、私へ問いかけた。
「……実は、初めてではないんですよ。それに、何も感じはしません。私はそういうモノなので」
告白した。アリエッタにすら語った事の無い私の正体を、あっさりと、まるで引き出されたかのように語ってしまった。
「……それは君が召喚される前の事かな?」
「ええ。そうです。――私は人を殺して罪を負った。罪には罰が課せられて、私は今ここに居る。この惨状は全部私への罰なんですよ。……アリエッタは、それに巻き込まれてしまったんだ」
私が初めて他人へと吐露した、疑惑と本音。
それを可笑しそうに、アグラード先生は嗤った。
「ははははっ、君は面白いな。よくもまあ、そこまで屈折できたものだ。考え過ぎもそこまで行くと楽しいばかりだ」
「……私にとっては、真面目な話なんですよ」
「ああ、悪かったよ。そう怖い顔をするな。――君は人を殺して罪を負ったと言ったな。それはどんな罪だ? 君はわざわざ罪と罰なんて言葉を使った。そういうのは、君自身が己の行為を罪と定めたからこそ出てくる単語に他ならない。君は何を自分の罪だと思う?」
何なのだこの人は? どうしてそんな事を訊く?
「……そんな事を訊いて、どうしようと言うのです?」
「どうもしないさ。ただ、話せば君が楽になるというだけの事だよ。どうせ、アリエッタには一度も打ち明けた事は無いのだろう?」
「ええ。まあ」
……
「話してくれ。私はちゃんと聞くからさ」
「…………分かりました」
なぜこうも私の話に興味を持つのか分からないが、聞いてくれると言うのなら私も話してみたい。不思議と、そんな思いに駆られた。
「私の罪は、人を殺した事。そして、その行為に無感動であるという事。その二つです」
アグラード先生は訝しげに眉を下げる。
「ふむ――同族殺しの罪についてはいいだろう。だが、もう一つは理解できんな。なぜ、無感動である事が罪になる?」
「善であるものならば、その行為を恐怖し後悔するでしょう。悪であるものならば、それを快楽とも悦楽ともとるでしょう。だけど、私は何も思わない。私は怒りによって人を殺した。自身の利のために人を殺した。それなのに、その行為そのものにも、そしてその結果にも興味がない。それはどうあっても罪だ。身勝手な理由で、他人から意味を根こそぎ剥奪しておきながら、それをどうでも良い事と切り捨てている」
「意味も無く人を殺した事が、罪だと?」
「意味がない事は無いですよ。私は自身の感情のはけ口に、彼らを殺したんですから。それに昨日は、アリエッタを助けるためだった」
「よろしい。では、その感情はどこからきた? 怒り、憎しみ、君に人を殺させるほどの衝動の根源は、何から生じたと思う?」
「それは……」
分かっている。分かり切っていて、なお私はそれを口にできない。それは私が背負うべき悪を、他人になすりつけるのと変わらない行為だから。私が何よりも尊ぶものに、そんな事はできない。
アグラード先生は、そんな私の心中を察して、それでもそれを突き付けてきた。
「言えないのならば言ってやろう。それは、アリエッタだな? ――いや、あの親子と言うべきか。君の衝動の根源はあの二人だ。君はあの二人に関わる事だけに全ての関心を向けている。それ以外の事は、本当はどうでもいいんだろう? 今こうして対峙している私の事も、そして君自身の事も。それなら無感情に人を殺せるさ。君はアリエッタの為に戦っているだけで、それで誰が死のうと君には興味の無い事なんだから」
「それは、違います。私は、確かにあの二人の事だけを尊んでいる。それは事実です。でも、決してアリエッタに殺しの理由を押し付けた事は無い!」
「本当に?」
アグラード先生は、私を真っ直ぐに見つめた。心の中を見透かすような、射貫く視線。
「どれだけ綺麗ごとを並べても、事実は変わらない。昨日君は、アリエッタを助けるために敵を殺しに行ったのだ。アリエッタを貶めた男を殺そうと、ギャランの首を絞めたのだ。そこに当然君の怒りはあっただろうが、その源は全てアリエッタだ。――君は一度だって、君だけの事情で人を憎んだことがあるかい?」
「…………」
無い。――この世界に来る前から、私は一度だって私だけの理由で何かをした事は無い。私の行動理由はいつだって母さんにあった。そして今は、オルコットとアリエッタにそれが変わっただけの事。
「じゃあ、貴女は全てアリエッタが悪いと仰るんですか?」
「馬鹿者。どうしてそうなる。理由はどうあれ、君の行動は君のものだ。君がアリエッタを思う意思があって、はじめて君の衝動は生まれているのだからな。責任は全て君にある。なるほど。そういう勘違いをしているから、君は関心の無い事を罪としたのか」
「……説明してもらえますか」
私は、自分では理解の出来ない心について、他人に答えを求めた。滑稽に思えてくるが、それが私の求める答えになるのなら、過程は何だっていい。
アグラード先生は頷いた。
「ああ。君は殺人に無感動である事を罪だと言った。それを罪としたのは結局のところ、君自身が自分の行動の全てにアリエッタが起因している事を分かっていたからだろう。君の行動全てが、君が尊ぶ者の為に行われる。したがって君の悪は、君が尊ぶ者たちの為の悪となる。それを認めてしまうと、君が大切にしているものを、君自身が穢してしまう事になる。それが嫌なのだろう? 君は、人を殺した事実に対して、自分がすべての責任を負うべきことだと知っている。だが、同時にその穢れが周囲に伝染する事を恐れる妄信にも取りつかれている。――まあ、それは君に限った話ではないのかもしれないがな。民衆は人殺し個人ではなく、その親族も無意味に糾弾したりするものだ。君は徹底して、アリエッタの事にしか興味がないんだ」
「――だとしたら、私は相当にヤバい奴ですね」
「そうだろうさ。君は怪物だよ。とても優しく、そしてそれ以上に冷たい」
「怪物……」
過程は複雑化したが、結局アグラード先生も私と同じ結論に達しただけの様だ。
「怪物ではあるが、君は幸福な部類だよ」
「なぜです?」
「君にはアリエッタが居るからだ。君は、主を求める人形のそれだ。世界の全てに無関心になれる君には、彼女の様な主がなければ生きていけない」
「そうですね。確かにそうだ」
私はアリエッタに生かされている。彼女が居たから死にきれなかった。彼女が居たからこの世界で生きて行こうと思えるようになった。
穢れた私が、人を憎んだ私が、それでも人であろうと振る舞ったのはオルコットとアリエッタのおかげだ。
「罪や罰など君自身が生み出した妄想にすぎない。そして君の行動で、アリエッタが穢れるような事も無い。君はもっと、自分の思うがままに生きていい」
アグラード先生は優しく、私に言った。悪辣である事を、否定しなくても良いと。それは、私が誰かにかけてもらいたかった言葉だったのかもしれない。けれど、これは魔性の囁きに他ならない。
「……先生、もう一つだけ訊いてもいいでしょうか?」
「もちろん」
「私が殺人やそれに関する物事を罪と断じていた事が、思い込みだったとしましょう。だとしたら、この一連の惨状は何なのですか? アリエッタはどうしてあんなに苦しまなくてはいけないのです?」
アグラード先生は困ったように、頭をかいた。
「そこが、一番の問題だな。君が前世で何をしたかは知らないが、前世の行いで下った罰がどうしてアリエッタに関係する? アリエッタが苦悩すれば、お前も苦しいからか? そんな頭の悪い話があるか。目を覚ませ。君の問題は、君の物だ。アリエッタの苦悩はどうあってもアリエッタの物でしかない。君は自分が彼女に最悪を呼んだ疫病神の気分でいるのだろうが、そんな事はありえないよ。神の様なものが本当にいるとしても、連中は人に罰など下さんさ。何かするとしたら、それは君をアリエッタと引き合わせた偶然くらいなものかもな。奇跡と言っていい。何かを信じたいなら、そういう綺麗な物を尊ぶことだ」
アグラード先生は照れ臭そうにそう言って、立ち上がる。
彼女は窓辺に移動して、外の吹雪を眺めながらカップに口をつけた。
私はそれを照れ隠しだと思って見ていた。しかし、彼女の口から語られた言葉でこれがそんなに奇麗なものではなかった事を知る。
「そもそも、原因が君に無いという事は私だけが断言できる」
「妙な言い方をしますね」
「ふふっ、そうでもないさ」
アグラード先生は、流し台にカップを置いた。
「事象が起きて、その根源を知りたいと思ったら、まずは地道に辿ってみる事だ。始まりまでね。――さて、この一連の惨劇はどこから始まったかな?」
「……ロアンですか?」
彼女がアリエッタを刺したあの日から、全てが変わり始めた。
アグラード先生は、首を横に振った。
「おしいな。それよりも前だ。彼女が凶行におよんだ理由だよ」
「斬殺事件ですよね」
ロアンがアリエッタを襲って以降、あの連続殺人はぴたりと止まった。結局犯人は捕まっていないままだ。
「その通りだ。さて、今度は私が告白する番だね」
アグラード先生は振り返り、私を正面に見据えた。彼女は平然と、不敵に笑ってこう言った。
「私があの事件の犯人さ」




