壊れる話1
その日は不快な事に雨だった。
アグラード先生の援助によって、オルコットの葬儀がひっそりと行われた。参列者は私とアリエッタと先生の三人だけだ。
帰ってきたオルコットの遺体は、見るも無残な姿だった。身体中に打撲傷や裂傷があり、死因かどうかは定かではないが、首には擦痕まであった。壮絶な拷問の痕跡。
アリエッタには見せられないと判断したが、結局こちらの制止を振り切って、彼女は棺のふたを開けてしまった。その姿を見てしまった時のアリエッタの反応は、これまででもっとも酷い物だった。彼女はあれ以来、一言も言葉を発していない。放心に近い状態が、二日も続いている。
葬儀が終わって業者が帰った後も、アリエッタは無言で墓の前に立ち尽くしていた。私は彼女に傘をさし、彼女の気が済むまで待機する。
アグラード先生も、今日ばかりは慰めの言葉を一つだけ残して帰って行った。
どうして、こんな事になってしまったのだろうか。
誰が悪いのだろう。何がいけなかったのだろう。
私は、どうすれば良かったのだろうか。
私の願いは、またしても奪われてしまった。大切な家族を、父親と呼べる存在を、私はまた失ってしまった。
誰が悪い? 誰を憎む?
そんな事は分かっている。憎悪を向ける対象はただ一人。でも今の私は、あの時の私とは違う。まだ、守るべき人が居る。アリエッタの為に、私まで去るわけにはいかない。
……まるで人任せだな。いや、人のせいにしているのか。私は私が動けない理由を、人のせいにしている。
結局、私は割り切れていない。私は未だに自分が可愛くて、穢れてしまうのを恐れている。嫌われてしまう事を恐れている。
単純に、思うがままに振る舞うならば、私はきっとオルコットを守れたはずだ。アリエッタを、ここまで苦しめる前に救う事ができたはずなんだ。
私は殺人犯で、人形で、兵器だ。暴力を行使するために生まれた私ができる事なんて、もっと簡単な事だっただろうに。
私は未だに人間の倫理や道徳に従っている。それを妄信するから裏切られ、傷つけられることを、とっくの昔に痛いほど味わっただろうに。
それでも、穢れた私を見たら、アリエッタはどう思うだろうか。純粋で優しいこの女の子は、私の考えを知ったら、軽蔑するだろうか?
共感してもらえるとは思うまい。私は、自分でも分かっているくらいには普通じゃない。
……
「――行きましょうか」
アリエッタがぽつりと呟いた。低く重く、無感情な声。
「はい。戻ったら火をおこしますから、体を暖めましょう。冬の雨は冷えますから」
私はアリエッタの手を引いて、屋敷へと戻った。帰る間も、アリエッタは終始無言だった。私も今は上手く話せる自信がない。
屋敷へ戻ると、アリエッタは「火はやっぱりいいわ」と言って、作業部屋に閉じ籠ってしまった。鍵のかかる音が、静かな廊下に鳴り響く。
独りになってしまった私は、見放された気分になって、廊下の真ん中に座り込んだ。
もう、何もしたくない……
膝を抱えてうずくまってみても、しょせんこれは人の真似事だと気づく。造り物のこの身体では、心の動きが身体に反映される事は無いのだから。
抱いたところで、自分の身体すら認識できないこの身体。泣ければ良かっただろう。叫べれば楽になっただろう。だけれど、私にはそれができない。
私は生まれ変わって初めて、人でなくなった事を後悔した。
この状況は、あの時に似ている。自分が終わりを迎えようとする気配を感じる。死ではなく、ただ終わるという事。奇妙な、およそ説明のつかない感覚。しかし、それは一度現実となってしまっている。今度もきっと、そうなる。
……だが、私にはまだアリエッタが居る。あの子の傍に居て、守る事が私のやるべき事だと思う。
オルコットは私を家族だと言った。私はこの親子にそう定義された。ならば、最期の時まで私はアリエッタの家族で居なくてはならない。私一人が憎しみで動いて、ここを去る事は許されない。
――仮に、私の身体が血で穢れたとして、アリエッタは私を受け入れてくれるだろうか? 傍に置き続けてくれるだろうか?
…………私にとっての最悪は、彼女から拒絶される事だけなのか。
そうか。そうなんだな。
「嫌われる勇気か……」
アグラード先生に言われた言葉を思い出す。それを持たないと、アリエッタを守れないと先生は言った。
それは、この状況で私にどうしろという事なのだろう?
復讐か、待機か。迎撃か、逃走か。選択肢は迷うほど多くは無い。
それでも思考したところで、答えは出ない。
◇
一日が経った。アリエッタは出てこない。返事がないので、食事を入り口に置いた。
五日が経った。アリエッタは出てこない。食事を入り口に置いた。中から礼を言われた。
十五日が経った。今日はアグラード先生が訪ねて来られたが、アリエッタは出てこなかった。
私は待ち続けた。
アリエッタが自ら出てくると、私は期待していたのだろうか?
否。待つことしかできないと、勝手に思い込んでいただけだ。
二十日が経った。鍵が珍しく開いていたので、そっと中に入った。
作業台に乗せられたランプの灯りだけが、暗い部屋を照らしていた。濃厚な明暗の中で小さく動く影が一つ。私の気配に気が付いてか、影が振り返った。
「――っ!」
私は言葉を詰まらせる。
変わり果てた姿のアリエッタがそこに居た。妄執に取りつかれた、怨霊の如き相貌。十代の少女がするような表情ではない。
「何か用かしら?」
疲弊しきった顔で笑みを作り、私に向けるアリエッタ。
ようやく私は、自分の愚かさを覚った。私は、オルコットの死やギャランにばかり目を向けて、最も大事にしなければならないものを見失っていた。
アリエッタの事を思うのならば、彼女を一人にするべきではなかった。例え恨まれたとしても、扉を蹴破って彼女を部屋の外へ連れ出すべきだったのだ。
結局私は、最も必要な時に彼女の傍に居なかった。
なんて、愚かな……
持っていたトレイを投げ出して、私は彼女に跪いていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい――」
気が付くと、縋る私の髪をアリエッタが撫でていた。
「どうして謝るの?」
澄んだ声で、彼女は問いかける。そこには綺麗過ぎて何の感情も無い。
「……貴女を一人にしてしまったからです」
「不思議な事を言うのね。ミューはずっとこの家に居たじゃない。――いつもご飯とお茶をありがとう。おかげで、ようやく形になったわ」
アリエッタは手を伸ばし、私の視線を促す。その先には人形が立っていた。等身大の人間の模造品。首のない身体。
「あれが、貴女の新しい身体よ」
恍惚の表情で、アリエッタは笑う。私にはそれが怖ろしかった。
「……アリエッタ、一つお願いがあります」
「なあに、ミュー?」
「お休みになってください――どうか、お願いです」
「そんな事? おかしなことを言うのね。良いわ。またお茶を淹れて頂戴」
不思議そうに首をかしげて、アリエッタ言った。
「は、はいっ! すぐにお持ちします」
私は急いで散らかした物の後始末をして、台所へ向かった。
茶を淹れて戻ると、アリエッタは満足気な表情で、造った人形を眺めていた。
「どうぞ――」
私からカップを受け取り、口をつける。アリエッタはいつも通りの笑顔を私に向けた。
「やっぱり、ミューの淹れるお茶は美味しいわね」
「ありがとうございます」
アリエッタの様子は、正常なものに見える。だけれど、どうしても不穏な予感がして私は落ち着けずにいた。もしかするとこれは、彼女を放置していた事への負い目からくる感情なのかもしれない。
「あの――――」
「そうだ、ミュー! 少し手伝ってもらえないかしら。調整のために、新しい身体の感想を聞きたいのだけれど、いい?」
自分でも何と言いかけたのか分からないくらい曖昧な言葉をさえぎって、アリエッタははっきりとそう訊いてきた。
「えっ? ああ、はい。もちろんです」
アリエッタの勢いに気圧されてしまう。
アリエッタは跪いた私の身体から、頭部を取り外した。真面目な彼女にしては珍しく、楽しそうに鼻歌交じりに作業する。そのまま大事そうに私を抱えて、新たな身体へと私を運んでいった。
背が小さくて届かないのか、踏み台に上ってアリエッタは私を新しい身体へと繋いだ。
……
「どうかしら?」
『……おかしいですね、動きません』
身体は動かない。それどころか、頭部の機能すら硬直していた。私の言葉も、外へは届いていない様だ。
「動くまで、少し時間がかかるかもしれないわ。その身体は色々と特別だから」
そう言って、アリエッタは私の前で楽しそうに佇む。
ふと、遠くで扉を強く開くような音が聞こえた。複数の足音が、迫ってくるようだ。
それにアリエッタも気が付いたのか、慌てた様子で振り返る。
作業部屋の扉を乱暴に開いて、複数の男たちが入ってきた。白髪と灰色の肌。青い瞳と、長い耳。初めて見る種族だった。
その後ろから、見覚えのある男が姿を現す。
「ギャラン、これはどういうつもり?」
アリエッタは威嚇するように言った。
ギャランは馴れ馴れしい嫌味な笑みを浮かべる。
「ふんっ、とうとう呼び捨てか。つくづく礼儀を知らんガキだな。まあ、いい。それをこれから先、嫌という程後悔する事になる」
「今度は何をするつもり?」
「何もしないさ。私はな」
ギャランがそう言った途端、灰色の男たちがアリエッタを囲むように動いた。
「旦那、本当にこの娘もらっていいんで?」
灰色の男の発言に、ギャランは頷いた。
「ああ。そいつも返済の一部と思ってくれていい」
「ひっ――」
ギャランのその言葉に、アリエッタが慄く。ギャランは借金の形に、アリエッタを売ろうとしていた。
「それじゃあ、遠慮なく。ガキは趣味じゃねえが、まあ、その手の客にはウケるかもな」
「嫌っ――!」
アリエッタは逃げる素振りを見せるが、すでに囲まれて退路を失っていた。
「抵抗するんじゃねえよっ!」
灰色の男の一人が、アリエッタの腹部を殴った。アリエッタは咳き込みながら地面にのたうつ。
『アリエッタっ!』
声は届かない。
くそっ! 動け、動けっ!
どれだけ念じようと、体は動かない。
「み、ミュー……」
アリエッタは救いを求めて、私に手を伸ばす。
その手を今すぐに掴んであげたいのに、身体は意思に反して動かない。
灰の男たちは両側からアリエッタを持ち上げて、引きずるようにして連れて行く。
「嫌っ! いやぁ! ミュー! ミュー! ――――――」
『アリエッタ!』
嫌だ。やめてくれ。連れて行かないでくれ。その子は私の全てなんだ。
アリエッタの叫びが遠のいていく。
あぁ、私はどうしてこうも無力なのか。いつだって奪われるだけ。力があったって、私じゃ何も守れない――
これが私の罪に対する罰なのか?
だとしても、あの子に罪はないじゃないか。あの少女は何もしていないのに、どうしてこんな目に遭わなきゃならない?
ギャランが、私の前に立った。訝しげに私を見つめる。今すぐに、その顔を切り刻んでやりたい。
「――ああ、思い出したぞ。あの小間使いか! 人形だったとは驚きだな」
ギャランは私を突き飛ばした。私の身体は床に崩れ落ちる。この行為に何の意味があるのか。
私を見降ろして、心底楽しそうにギャランは嗤った。彼はそのまま背を向けて、部屋を去ろうとする。
不意に、私の中で何かが繋がった。
私の意識が身体を廻る。それは血の様に、神経の様に、私の四肢の末端まで広がっていった。
私は音を立てずにゆっくりと起き上がった。
背を向けているギャランの頭部に、全力の一撃を叩きこむ。
悲鳴を上げ、ギャランは前のめりに転倒した。彼は床をはいつくばって、逃げようとする。その肩を掴んで、彼の体をめくった。
向かい合ったギャランの表情にあるのは、混乱と恐怖。ついさっき、この男がアリエッタに与えた屈辱だ。
「死ねっ!」
私はあらん限りの声で叫んで、彼の首に手をかけた。絞めるのでは生ぬるい。へし折ってやる。
ギャランは私を振り解こうと、私の顔に手を伸ばす。
私は彼を持ち上げて、床に叩きつけた。
「お前の様な下等な男が、オルコットの造った物に触れるんじゃない!」
ギャランの目が上を向き、その身体が小刻みに震えだす。
「――はい、そこまでー」
唐突に、緊張感のない声が廊下から聞こえてきた。私は手の力を緩め、声の主を確認する。
そこに居たのはアグラード先生だった。彼女は不敵に笑って、愉快そうに私を見ていた。
「なぜ、貴女がここに居るのです?」
「そんな事より、早くアリエッタを追え。取り返しのつかない事になるぞ」
アグラード先生は歩み寄ると、私の身体を押しのけて、ギャランに回復魔法をかけ始めた。
「……どうしてその男を助ける!」
私を片手で制止するアグラード先生。
「そう、怒鳴るな。悪いようにはしないよ。それよりもアリエッタだ。早く追いかけないと、手遅れになるぞ。あの灰色の連中はアシュメスだ」
「アシュメス?」
「そういう種族なんだよ。君にはダークエルフって言えば分かりやすいか?」
「なるほど――」
ん? なんだろう、この違和感。
「連中はアアルメリオという犯罪組織のメンバーだろう。アアルメリオは西地区で『マ・ラガーナ』という娼館を経営している。これがどういう意味か、分かるか? あの子を無事に取り戻したいのなら、今すぐに行け」
焦った様子で、アグラード先生は私に地図を投げた。なぜこの人は、こうも手際が良いのか。どうも、引っかかる事が多すぎる。
だが、そんな事は今はどうでもいい。
攫われたアリエッタを一刻も早く見つけなくては。
「後の事は頼みます――」
私はその辺にあった適当な布切れを掴み取り、身体に纏って外へと飛び出した。