崩れる日常の話2
夜が明けた。
私は読んでいた小説を閉じて、台所へ向かう。これが日課。一日の始まりだ。
静かな屋敷の中で、私の足音だけが響いていく。静かな場所はやはり落ち着く。私は一日でこの時間が一番好きだった。
ただ、最近は憂鬱な思考が自分の内を延々と廻っていて、そんな前向きな気持ちにはなれそうになかった。
このところ、アリエッタには辛い事が起こり過ぎている。彼女の事を案ずる想いと、私の存在がそれらを引き寄せているのではないかという不安が、私の中で醜い澱の様になっているみたいだった。
台所に着くと、火を起こしてお湯を沸かす。お茶の準備を済ませてから、少し悩んで朝食を作る事にする。この身体では味見ができないので今までやってこなかったが、アリエッタを餓死させるわけにはいかないので思い切ってみた。
食材に関してはおおよそ、私が元居た世界と同じ類の物が揃っている。当然、品種や名前は全く異なるが、肉は肉だし、卵は卵である。味もそこまで変わるまい。
フィッテラと呼ばれるパンの様なものに切れ目を入れ、そこに野菜の葉を敷き、焼いた肉と卵焼きを挟む。それを五つほど作った。アリエッタは一日以上なにも食べていないので、このくらい食べてもらわなければ心配だ。
沸騰したお湯をポットに注ぎ、準備完了。
用意したものをトレイに乗せて運ぼうとしたその時、アリエッタが現れた。今まで寝ていたのか、その顔は少しだけ腫れぼったい。
「アリエッタっ! おはようございます」
彼女が部屋から出てくるとは思わなかったので驚いたが、良い事には違いない。私は食卓の椅子を引き、アリエッタを促す。
「おはよう、ミュー。ありがとう」
アリエッタは爽やかにそう言って、私の引いた椅子に座った。表面的にはいつものアリエッタだが、その内には色々と思うところがあるのだろう。彼女が気丈であろうとするならば、私はそれを支えるだけだ。
アリエッタの前に料理の皿を出し、お茶を淹れる。私が食事まで用意するとは思わなかったのか、アリエッタが驚いたように、目を見開いた。
「これ、貴女が作ったの?」
「ええ。味見はできませんので、かなり心配なのですが……」
「そう。ありがとう、私のために――」
アリエッタは皿に乗ったサンドイッチの一つを取って、その小さな口でゆっくりと食べていく。具まで到達したところで手をおろし、アリエッタはこちらに笑顔を向けた。
「美味しいわ。ミューって、本当に何でもできるのね」
「えっと、正直に言ってくださいね? 不味くても、仕方がない事なので」
「大丈夫。本当に美味しいわ」
「そうですか」
私は胸をなでおろす。こんなに緊張したのは久しぶりだ。オルコットと試験を受けた時ですら、ここまでではなかった。どうも私は、アリエッタに関わる事となると、必死になるきらいがある。
「私、今日からしばらく工房に籠るわ」
三本目のサンドイッチを食べ終えて、アリエッタが唐突に言った。
「人形を造るのですか?」
私の問いに、アリエッタは静かに頷いた。
「……何かしている方が、きっと辛くないから」
感情を抑える様に、慎重な口調で彼女は言う。
「だから、食事とお茶はこれから作業部屋に運んでほしいのだけど、いいかな?」
「承知いたしました」
アリエッタがそうしたいと言うのなら、させてあげるだけの事だ。私には彼女を正しく慰めてあげられるだけの経験も知恵も無い。支えると言いつつも、結局成り行きを見守る事しかできないのだ。
それから、アリエッタは本当に作業部屋に籠るようになった。食事も睡眠も作業部屋で済ませ、トイレ以外で部屋から出る事は無くなった。
朝昼晩と三回食事を運ぶ以外に、私が彼女と会う事は無い。というのも、彼女は部屋に鍵をかけて、必要な時以外は私を入れないようにしていたからだ。独りで居たいという意思表示なのだろうと納得し、不安に思いつつも私はそれに従った。
私は私で屋敷の整備や、ギャランを警戒して屋敷の周囲を監視する仕事があったので、悩む暇も無いほど忙しく日々は過ぎて行った。
オルコットが捕まってから十日が経った。
さすがに、オルコットの安否が心配になってくる。あれから何の音沙汰も無い。アグラード先生ともあの日以降会っていないので、私たちには何の情報も入ってこなかった。
「一度アグラード先生を訪ねた方が良いかな……」
独りごつ。
話し相手が居ないと、やはりなんというか寂しくなってくる。
私は保管庫の中に食材があまり無いのを見て、買い出しに出ようと準備を始めた。財布に資金が無いので、作業部屋に向かう。この家の財産は一つの金庫に全てしまわれていて、それは作業部屋に在った。
扉には鍵がかかっていたので、やむを得ず扉を叩いた。少しの間があって鍵が開き、アリエッタが扉を開いた。
少し疲れた表情のアリエッタは、それでも明るく私に問う。
「どうしたの、ミュー?」
「作業中に申し訳ございません。買い物のために金庫からお金を出したいのです」
「良いわ。入って」
アリエッタに入れてもらい、金庫へと行く。金庫とは言うが、これに鍵はかかっていない。オルコット曰く、作業部屋にある時点で十分に隠れているから、問題ないということらしい。
開くと、二段構造になっている金庫の中には権利関係の書類と、金貨が二枚だけ入っていた。金貨二枚で買えるのは、せいぜい一人前一日分の食料だ。
「アリエッタ、どうしましょう。お金がありません」
私の後ろから金庫の中を覗いていたアリエッタは、苦笑いを浮かべた。
「あー、そうだよね。……仕方ない。下ろして来ようか」
そう言って前掛けを外すアリエッタ。どうやら、外に出るつもりらしい。
「えっと、それは私一人でも……」
先日の失敗を思い出してしまって、アリエッタを外に連れ出すことに抵抗がある。しかも今は、あの時よりも状況が悪化している。アリエッタの精神状態が良くなっているとは、とても思えなかった。
アリエッタは困った顔で笑う。
「銀行なんだから、私しか下ろせないわ。……本当は嫌だけど……貴方が守ってくれるのでしょう?」
「――はい。もちろんです」
「なら、大丈夫よ」
今日のアリエッタは思い切りが良い。それは逆に捉えれば、急いているとも、やけくそな状態であるとも言えなくはない。無理をしているようにしか見えなくて、不安だ。
アリエッタは自室へ戻ると、外着に着替えてすぐに戻ってきた。
「さあ、行きましょうか」
アリエッタは私の手を引き、外へと出た。こうしてアリエッタと共に外出するのは二週間ぶりの事である。
外は連日降り続いた雪で、白一色となっていた。
銀行は以前アリエッタと歩いた商店街の通りにあるらしく、私達は人で混雑した歩道を縫うように歩いた。
私の心配をよそに、今日のアリエッタはやはり強気だった。人混みの中でも、常に私の手を引いて先導している。外の世界に怯えていた二週間前とは、様子がまるで違う。
この十日間の間に彼女が回復したと見るべきなのだろうか? いや、そんなはずがない。彼女がやっていたのは、部屋に籠って人形を造る事だけ。気を紛らわせる事は出来ても、それで苦悩や恐怖感が無くなってしまう程、人間は上手くできていない。まして、この少女を悩ませる問題は、全て現在進行形で続いている。終わっていないものに、区切りなどつけられない。
銀行に着いた。初めて来た私でも、一目でそれと分かる無駄に豪華な外観だ。
仕組み自体も私が知っているものとそう大差ない様だったが、アリエッタは慣れている様なので、ここは彼女に任せる事にした。
控え用の椅子に座って様子を見ていると、カウンターで手続きをしていたアリエッタが、何やら揉め始めた。私は急いで立ち上がり、彼女の元へ向かう。
「引き出せないって、どういうことですか?」
アリエッタが、カウンターの女性に控えめに訊ねていた。
「どうしたんですか、アリエッタ?」
駆け寄ると、アリエッタとカウンターの女性が同時に私を見た。
「それが、口座からお金が引き出せないって……」
アリエッタの言葉を引き継ぐように、カウンターの女性が言う。
「オルコットさんの口座は、郡の命令で差し止められています。ご家族の方であっても、引き出すことはできません」
「……そうか。オルコットの財産は差し押さえられているんだ」
オルコットにかけられた罪状は国家反逆罪だった。その容疑をかけられた者は財産が没収されると、アグラード先生が言っていたのを思い出す。屋敷の所有権は免れたが、口座に関してはオルコットの稼ぎなので、彼の物という扱いになるのだろう。
「そう。……ギャラン叔父様の仕業なのね」
アリエッタが、怒気を含んだ声で小さく呟いた。彼女がこんな風に怒りを表に出すのも珍しい。やはり、今日は様子が変だ。
私は反射的に、機嫌をうかがう様な心持ちでアリエッタに声をかけていた。
「――アリエッタ、どうしましょうか?」
「もう、許せない。パスフィリクの屋敷に行くわよ」
その言葉に、私は耳を疑った。アリエッタがそういった方向に積極性をみせるとは、微塵にも思っていなかったからだ。彼女も、オルコットの事で焦っているのだろうか?
「大丈夫ですか、アリエッタ?」
つい、口を衝いてそんな言葉が出た。アリエッタは一瞬目を開いて、動揺する素振りをみせた。
「……平気よ。行くわよ、ミュー」
平静を取り繕って、アリエッタは足早に歩いて行ってしまった。
私はカウンターの女性へ一礼して、急いでアリエッタの後を追いかけた。
◇
パスフィリクの屋敷は高級住宅街の外れ、ほぼ郊外と言っていい場所に在った。
大きな建物の立ち並ぶこの区画の中でも、ひときわ目を引く豪華な物件だ。広大な庭の先に見える屋敷は、大きいと分かるのに小さく見える。
そんな広大なパスフィリク家の敷地と外とを隔てる門の前で、アリエッタが門番と言い争っていた。
最初こそ朗らかに対応してくれた門番達だったが、名前を伝えた途端にその態度が豹変したのだ。彼らの主であるギャランから、そういう指示を受けているのだろう。
十四歳の少女に対する態度としては、極めて異常だった。まるで大罪人と話すような、冷たく、荒い対応であった。
それに反発してか、アリエッタもまた、怒りを表に出して抗議し始めた。
「入れろとは言わないわ。それなら、今すぐにギャラン・パスフィリクをここへ連れて来なさいっ!」
普段のアリエッタからは想像もできないような怒号。今にも掴みかかるのではないかという勢いに、私は気を揉むような心境で居た。
そう思った時点で、私が止めに入るべきだったのだろう。
「うっとおしいんだよ! とっとと帰れっ!」
苛立った門番によって、とうとうアリエッタは弾き飛ばされた。門番が振り払った強打にアリエッタの身体は大きくのけ反り、地面へと転がった。
私は彼女の名前を叫び、駆け寄る。雪と泥によって汚れた顔からは、鼻血が垂れていた。他にも強く打った箇所があるのだろう。アリエッタは痛みに顔をゆがめていた。
ハンカチを取り出し、彼女の血を拭う。
「子供相手に、なんてことをするんですか!」
私の非難にも、門番達は動じる気配はない。
「そいつは、売国奴の娘だろうが! 庇うお前こそ、どういうつもりだ!」
彼らの態度の意味を理解した。ギャランの指示がどうという訳ではなく、彼らにとってオルコットは裏切り者であり、その娘のアリエッタもまた同罪という事らしい。
オルコットに対するその認識に憤りをおぼえたが、それでも彼らを責められないと抑え込む。事情を知らない者にとっては当然の反応なのだから。全てはオルコットを貶めた、ギャランこそが責められるべきなのだ。
「だとしても……どんな理由であろうと、子供に手を上げていいはずがない!」
私の喝に、門番達はたじろいだ。だからといって、彼らに私の言葉が届いたかというと怪しいものである。彼らの目は私を睨む。責める対象を私にまで広げただけの様だった。
彼らは道理では無く、ただ責められるから責めているだけの、薄い価値観の相手だったようだ。
私はアリエッタを支え起こす。
「アリエッタ、これ以上は無意味です。ギャランが出てきたところで、どうにかなる話でもない。帰りましょう」
アリエッタは私を見つめた。その表情はただ、迷っていた。憤る気持ちをどこへ向けるべきか分からないのかもしれない。帰ろうと言った私を非難するべきか、迷っているのかもしれない。もしかしたら、彼女は自身の行動にすら、明確な意図を見出せていないのかもしれない。今日のアリエッタは、それだけ言動が荒れている。
アリエッタが小さく頷いたのを確認し、私は彼女を庇いながらその場を去った。
「二度と来るな、反逆者めっ!」
門番のどちらかが言った。
私は振り返り、彼らを睨みつける。
「調子に乗るな――」
意味のない威圧かとも思ったが、意外にも二人はたじろいで顔を背けた。見た目よりも小心者らしい。小娘相手にしか威勢を張れないようでは、チンピラと一緒ではないか。
私は二人に聞こえる様に、鼻で笑ってやった。
パスフィリク家の屋敷から離れて、再び街の中へとやって来た。途端、アリエッタが突然しゃがみこんでしまった。
不測の事態に戸惑っていると、アリエッタは顔を伏せながら私に言った。
「ごめんなさい、ミュー。……私、駄目だ。――自分が分からないの。気持ちが抑えられなくて、おかしな事ばかりしてる……ごめんなさい」
後半は泣きながら、彼女は謝罪を続けた。これが言葉にできるだけ、彼女は強いと思う。前世の私はそれができなくて、道を誤ったのだから。
「謝らなくていいですよ。大丈夫。――それは仕方のない事ですから。私には何でもしていいし、何を言っても良い。迷惑だなんて思いませんから、頼ってください」
私はアリエッタの肩に手を添えて、そう言った。もっと気の利いた事が言えればいいのに。
泣き続けるアリエッタをなだめていると、不意に声をかけられた。
「……二人とも、そこで何をしているんだ?」
声のした方へ顔を上げると、アグラード先生が立っていた。
「どうして、先生がここに?」
「どうしてもなにも、ここが私の家だよ」
アグラード先生が困った様に笑って、背後の屋敷を指す。この辺りでは比較的小さい物件だ。私達の住む屋敷よりも小さいかもしれなかった。良家の娘と聞いていたので、少し意外だ。
「とりあえず入りなさい。そんなところに居ては冷えるぞ」
「では、お言葉に甘えて。失礼します」
私はいまだ泣き止まぬアリエッタを抱きかかえて、アグラード先生の屋敷へと入った。
アグラード先生は泥だらけのアリエッタを見るなり、二人の侍女にアリエッタを風呂へ入れるよう言いつけた。
私はアグラード先生に連れられて、客間へと通された。椅子に座った私の前に、また別の侍女が茶を置いていく。
月並みな感想だが、小間使いさんが複数人いるあたり、お金持ちなんだなと感心してしまう。
「しかし、こんな形で君たちが訪ねてくるとはね」
椅子に深く座って、アグラード先生は小さく笑った。
「アリエッタが、ギャランに直談判すると言いまして――」
「なにっ? ……また無茶な事を。そういうのを止めるのが、君の仕事だろう」
アグラード先生の指摘に、私は反論できない。
「……そうですね。私も、アリエッタに気を遣い過ぎているのかもしれません。彼女の状態を気に掛けるあまり、逆に傷つけてしまう」
「……難しくはある。だが、こういう時こそ保護者である君は堂々と構えていなくてはいけないぞ。あの子を守りたいのなら、あの子に嫌われる勇気を持つべきだな。そうでなければ、君は何も守れんさ」
アグラード先生は、いつも通りに遠慮のない指摘をぶつけてきた。私は、それを真摯に受け止めるしかない。私自身がその言葉に、納得してしまっているからだ。
「はぁ……しかし、これも何かの運命かな。今日に限って、君たちの方から来るとはな」
アグラード先生は姿勢を正し、私の方を見た。言いにくい事を切り出そうと言う戸惑いが、なぜだか感じられた。それはとても、不吉な予感。
「……それって、どういう意味ですか」
「………………――――言いにくい事だが、オルコットさんが亡くなった」
アグラード先生は、平淡な口調でそう言った。何の含みも装飾も無い宣告が、深く鋭く、突き刺さってくるようだった。
私には、とっさに返す言葉が見つからなかった。