大禍時
視界がぐらつくのは刺されたせいなのか、それとも倒れた衝撃からくるものなのか。
アリエッタは刺された右腕を抑えた。血の染みた外套のヌメりとした感触に、アリエッタは顔をしかめる。それでも熱を帯びた傷口は、アリエッタの意思とは無関係に痛みを訴え続けた。
地面に敷かれた石レンガには、小さな血だまりができていた。この程度では死なないと知っていても、アリエッタの脳裏に死の恐怖が駆け巡る。
――怖い。お父さん、ミュー、助けて……
震える身体を抱きしめて、アリエッタは目の前に立つ少女を見た。
ロアン・パスフィリク。いじめっ子。従妹。
アリエッタの中にある情報は、これだけ。なぜこの少女がこんな事をしたのか、アリエッタには理解できなかった。
血に濡れたナイフを両手に握りしめて、ロアンは怯えの混ざった表情で泣いていた。
その顔を見て、ロアン自身にも自分を刺した理由を正しくは説明できないだろうと、アリエッタは思った。プライドの塊みたいな彼女が、人前で涙を流すことなどあり得ない事を、アリエッタは知っていたから。
二人は互いに何もできないまま、静止していた。
幾人かの観衆が、二人の動向を静かに見守っている。
雨が降り始めた。
…
アグラードの許可をもらって以降、アリエッタは一度も教室へ行く事は無かった。アリエッタは当初その状態を学校側がどう捉えるのか危惧していたが、いつのまにかアリエッタの担任はアグラードの扱いとなり、図書室はアリエッタ専用のクラスとして機能するようになっていた。
役職よりも身分が優先される学舎においては、最も地位のある家の出であるアグラードに、異議を唱えられる者は誰も居なかった。
アリエッタはそれから半月の間、平和な時を過ごした。知識への欲求。魔術の探求。アリエッタにとって、学ぶという行為をなんのしがらみも無く行えることは夢のような出来事であった。
家柄という大義名分でアリエッタを虐げる者たちにとって、アグラードがアリエッタを囲ったという事実は何よりも効果があった。この街の盟主の娘であるロアンですら例外ではなく、誰一人図書室へ立ち入る事は許されなかった。
当然アリエッタの虐めは止まり、いじめられっ子といじめっ子は二度と遭遇する事は無かった。
そう、二度と。
街で起きている連続斬殺事件の被害者が、全員アリエッタを虐めていた生徒だった事を、アリエッタがアグラードから聞かされたのは今朝の事だった。
六人目の被害者が出たという朝刊を見ながら、アグラードはこんな事を話した。
「これで、ロアンの腰巾着が全員死んだな。次はロアンかな。それとも、君かな?」と。
常々アグラードはこの様なブラックジョーク、ともすれば意地悪な事を言うのが好きな人物であった。その事を分かっていたアリエッタは特に返すことをしなかった。
アグラードの言葉を不謹慎とは思いつつも、アリエッタの心は動かされなかった。自分の敵が死んだ事に清々したという感情は無い。はなから、彼女たちの存在そのものには何の興味も無い。逆に、自身の周りに殺人鬼が居る事についても恐ろしいとは思わなかった。アリエッタには、その手が自分に及ぶ事はないという不思議な確信があったからだ。その根拠は、アリエッタ自身にも分からなかった。
だが、そうして一日を過ごして学舎を出たアリエッタを待っていたのは、刃物を持ったロアンだった。
何の前触れも無く、ロアンは言葉にもならない叫び声を上げて、アリエッタに突進した。その軌道はアリエッタの腹部を狙ったものだったが、咄嗟に避けたことが幸いしたのか、それともロアンが正気でなかったせいか、ロアンの刃物はアリエッタの二の腕を貫いた。ロアンは容赦なく刃物を引き抜くと、アリエッタを突き飛ばしたのだった。
…
これまでの行動を振り返っても、アリエッタにはロアンの意図が分からなかった。
ロアンが自分を嫌いな事は揺るがない事実であっても、この様な凶行に及ぶ相手ではないという事がアリエッタには確信としてあった。互いに嫌いな者同士だからこそ、分かる心理がある。貴族としての誇りだけで生きているようなロアンが、自分程度のために犯罪者になるほど、頭の悪い女だとは思えなかった。
だとすると、ロアンこそが斬殺事件の犯人だったのか? ――それこそ無い。万が一にもアリエッタを殺す事はあっても、ロアンが自分の取り巻きを殺す動機なんて、どうあっても考えられない。
ロアンが、がなり立てるように叫んだ。
「お前が悪いんだ。お前がやったから、お前ガ、オマエガッ!」
泣きながら悲痛に訴えるその言葉は、聞き取りにくさを除いたとしても、アリエッタには意味不明だった。
アリエッタは考える――
「そう――私がやったと思っているのね?」
導き出した結論を、アリエッタは呟く。
アリエッタが斬殺事件の犯人だと思い込んで、ロアンは自分がやられる前にアリエッタを始末しようと考えたとするなら、筋は通る。死んだ少女たち全員を殺す動機が、アリエッタにはあるからだ。
それを肯定するかのように、ロアンの身体が微かに動いた。
「――私はやってないわ。それに、貴女を殺すつもりもない。私は貴女なんかに、最初から何の興味も無いのよロアン」
アリエッタの言葉に、ロアンは慄いた。
強く、そして冷たい声に、発したアリエッタですら驚いた。普段の自分では出せないような強気な態度に戸惑う。
「もう、私に関わらないで」
更に精一杯の努力で、アリエッタはロアンを睨んだ。震える声で紡いだ言葉は、ひどく弱弱しいものだったが、怯えたロアンには十分だった。
「お前が……私に? ……ふざけんなぁ!」
ロアンが激昂した。
怒気にアリエッタは身をすくませる。彼女が何に怒ったのか、アリエッタには理解できなかった。少なくとも、刃物で刺しに来た時点で正気じゃないのは確かだ。
ロアンが再びアリエッタを攻撃しようと、刃物を振りかざす。
アリエッタが恐怖で目を閉じた瞬間、割って入る声が聞こえた。
「止めろっ、本当に殺す気かっ!」
アリエッタが目を開けると、アグラードがロアンの手を掴んでいた。
「放せっ――このッ!」
ロアンはアグラードの手を振り払って、一目散に逃げだした。アグラードはロアンには目もくれず、しゃがんでアリエッタの様子をうかがう。
「大丈夫か、アリエッタ?」
「はい。……でも、ちょっと、痛い、です――」
アリエッタは無理やり笑顔を作った。心配するなという意思表示をしたかったのか。
気を張っていたせいか、助かったという安心感から気が抜けたのか、アリエッタの意識は急激に遠のいていった。
自分の名を呼ぶアグラードに対して、薄れゆく意識の中でアリエッタはごめんなさいと呟いた。