ナツミさんの初仕事
ハロウィンが夢の中の出来事だったかのようだ。街はその香りを一夜で洗い流し、クリスマスに衣装替えをする。
どちらにも興味のない僕にはどうでもいい変化なのだけど、その身代わりの早さには、どことなく薄情で魅力的な女の子を連想する。
僕はナツミさんの初仕事が終わるのを、駅の喫茶店で待っている。彼女の仕事先の近く。ナツミさんとは仕事の帰り道に、一緒に晩ごはんを食べる約束をしている。
僕は喫茶店で温かいコーヒーを口にしながら、森博嗣の「少し変わった子あります」という本を読んでいる。なかなか面白い本なのだけれども、頭の中にすんなり入ってこない。
彼女が初めての仕事をしているところを想像すると、どうにも意識がそっちにとんでしまう。
スマホで時間を確認する。20時。そろそろ仕事終わりの時間だ。
「サキちゃん!おまたせ」
パリッとしたスーツ姿であらわれるナツミさん。
サキちゃん、というと女の子みたい名前だけれども、僕は23歳の男だ。サキちゃんというのは、彼女が僕につけたニックネームだ。彼女とはじめてデートしたときにものすごく緊張してしまい、歩くのがめちゃくちゃ早くなってしまった。あまりに早く歩きすぎて、「歩くの早すぎだろ。一緒に歩いてるのに、どんどん先に行ってんじゃねえよ。もうお前のことはサキちゃんって呼ぶ。死ぬまで呼ぶけえ」と怒られてから、ずっとそういう風に呼ばれている。
ナツミさんは喫茶店のテーブルの向かいに座る。猫のように好奇心にあふれた目。この目で見つめられると、はたして自分はその期待に応えられるような人間なのだろうか、といつも思う。
あ。この間まで黒髪ショートだった髪型が、金髪のボブに変わっている。
「おつかれさま、ナツミさん。髪型変えたんだね」
「うん。美容室にいって、なるべく男受けせんような髪型にしてって頼んだんよ」
「斬新なオーダー。でもとても似合ってるよ」
「えへへ、ありがとう……ってゆーか、その本、私もこの間買った!」
ナツミさんは森博嗣の「少し変わった子あります」を指さす。
「ほんと? すごい偶然だね。森博嗣好きなんだ?」
「んーん。初めて買ったの。でも、なんか森博嗣って。シリーズっぽいタイトル多いじゃん。シリーズだと前の話読んどらんと置いてきぼりになったりしそうじゃけえ、シリーズっぽくないやつ選んだんよ」
「僕も初めて買った。選んだ理由も同じだ。これってすごい偶然じゃない? 運命を感じざるを得ない」
「そうじゃね。もう結婚しようか。あははは」
「ナツミさん、彼氏二人いるくせに。ナツミさんみたいに競争率が高そうな人を、自分なんかが手に入れられる気がしない」
「そう? 人間が頭の中で考えることなんて、その気になれば大抵は実現できないことなんてないよ」
「じゃあ、全裸でコンビニでチキン買ってこれる?」
「余裕。ただ失うものに比べて、得るものが少なそう」
「得るものってなんだろ。チキン? でもチキン買う前に、とっ捕まるかもしれんね」
「そうなると、得るものがなくなる」
「それもまた一つのロックンロール。まあいいや。ご飯食べて帰ろうか」
そういって二人は喫茶店のイスから、腰を浮かしかける。
しかしナツミさんは一瞬その動作をとめて、またイスへと座りなおす。どっかりと。
「ねえ。うち、いいこと考えた!」
「ん?」
「サキちゃんお客さんになって、お店来たら面白いんじゃね?」
「面白いかなあ。お金で人を買うなんて恐ろしいこと、僕には死ぬまでできないなあ」
「やってもないのにできないとか言ってんじゃないよほんとたるんでんなあ」
「うまく行く気がしない」
「きっとすべてがうまくいくよ。サキちゃんはうちと成功したくないの?」
「成功しても失敗しても、どちらでもいいんだよ。ずっと仲良くしてもらえれば」
「はー、無欲じゃねえ」
「そうでもない。僕はナツミさんのこと好きだし」
「知ってる。いしし」
「ふーん。じゃあこれは知らないかもしれないけど、彼氏さんの話とか聞くと、めっちゃ嫉妬してるし」
「うそだ」
「いや。夜中の3時に嫉妬で目が覚めて、斧持って家から飛び出してるよ」
「ほう」
「で、なるべく樹齢が長そうな木をさがして、切り倒してる」
「アウトドア派の不審者じゃね」
「おかげで最近、近所の酸素薄い」
「うちのせいで自然が……。地球のバランスが……!」
ケラケラと笑うナツミさん。
彼女が笑う姿はとても可愛らしい。
僕はコーヒーの最後の一口を飲み干す。それから気づかれないように大きく息を吸って、吐き出しながら「ねえ」と声をかける。
「んんー?」
「僕はナツミさんのこと信じてるよ」
僕がそういうと、ナツミさんは笑顔をくずさずに、少しだけ背筋を伸ばす。
「ありがとう。『信じてる』ってことがどういうことなのかちゃんと全部わかるよ、わかった上でありがとう。わたしは多分どう進もうが良くも悪くもわたしだからそれなりにたのしんでるんだと思うよ、きっと」
「信じてるし、大好きだし、愛してるよ」
「知ってる」
「知ってるんじゃない。分からせてるんだよ。さて、なんかご飯食べにいこうか。何にする?」
「適当に歩いてて目に入ったとんこつラーメン屋で」
「とんこつラーメン限定か」
「ブタの骨を愛してやまない女の子って、なんか愛しくない?」
「愛しい。愛しすぎて来世は豚骨に転生したくなった。転生してナツミさんにしゃぶられたり、噛み砕かれたりしたい」
「しゃぶらねえし、噛み砕かねえよ」
そう言ってナツミさんは、天使のように無邪気に笑う。
二人はこれから晩ごはんを食べる。そしてそれぞれ、自分の帰るべき場所へと帰っていく。来週はまた会えるだろうか。来月は?来年は?10年後は?
いや、たとえ僕と会えなくなったとしても。
10年後もナツミさんは楽しそうに笑っていることを、僕は心の底から信じている。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。