放課後が教える文芸部の咲良綴
我がC組の担任は、物語にありがちなやる気はないけど実力一級品だったり、ロリだったりする感じもなく、普通に三十代半ばの男性教師である。名前は大河原徹。専科は算数科で既婚。最近の悩みは額部分が後退し始めていることと、生まれたばかりの娘と遊ぶ時間が仕事で取れないことらしい。
そんな大河原先生の淡々としたHRを終えれば、これで本日の学業の時間は終了だ。
クラスの生徒たちも帰宅組はうだうだ駄弁る者と帰る者に別れ、部活組は急くようにして教室を出て行った。伊吹は放課後になるとさっさと女を物色するために街へ行くため、その姿は既に教室にはない。
中学時代までは俺も帰宅部だったため、これまでであればうだうだと帰る準備をするのだが、今は幸か不幸か放課後に行く場所があった。俺は誰に挨拶することもなく、鞄を持って教室を出た。
この陵星高校の歴史は古く、老朽化や耐震対策といった関係で十年ほど前に新校舎が建てられた。そして取り壊されなかった旧校舎の一部が文化部の部室棟として利用されている。俺が今向かっているのが、まさしくその部室棟だ。
部室棟と校舎をつなぐ渡り廊下を歩いていると、黄色い声が聞こえたので校舎の方を見やれば、一か所窓が開いており、そこからは黒髪に混じって今朝見たばかりのアッシュブロンドの髪が見え隠れしていた。
綾辻日々乃だ。朝といい今といい常に周りに誰かいるようだが、もしかしたら社交的で容姿端麗、その上学業優秀で運動神経抜群だったりするのだろうか。
だとしたら本当に漫画のキャラのような人間である。
まあ、漫画のキャラと言えば俺もよく母親に「あんた、漫画の悪役とかで絶対出て来るわよねー」と言われるが。おい、産んだのあんただから。
もしこの世界が物語で綾辻日々乃がヒロインだったとしたら、そのうち俺は主人公に倒される運命にあるのかもしれない。ただ幸か不幸か世の中は意外とドライに出来ているもので、なんだかんだ言って恐らく三年間会話一つすることなく高校生活を終えるだろう。
そんなことをつらつら考えながら部室棟の階段を上がり、四階のちょうど角部屋まで歩く。廊下には演劇部やら文化祭実行委員やらの立て看板や小道具の類が立て掛けられており、部室棟は意外と雑多な雰囲気に包まれていた。それというのも部室棟に教員が足を運ぶことは相当に稀で、部活指導をしっかり行うような部はそもそも部室棟とは別にしっかり校舎で練習するためだ。
そして、俺が着いた部屋も例に漏れず薄汚れた扉で、そこには可愛らしい女の子のイラストと共に『文芸部』と書かれた紙が貼られていた。
扉にかけられたシリンダー錠の番号は『8150』で背後霊と覚えるらしい。なぜこの番号にしたのかは甚だ疑問が残るが、まあ覚えやすいのはいいことである。
確認したところ番号は既に合わされており、どうやら彼女は先に来ているらしかった。
扉を開けると、部屋の中はおおよそ普通の教室の三分の一ほどの広さで、入ってすぐ左側には巨大な本棚が鎮座している。床には全面ジョイントマットが敷かれており、その中央には我こそは部屋の主とばかりに炬燵がでんと置かれていた。
そして、その炬燵に下半身を潜り込ませ、天板の上に頭をのっけて突っ伏している少女が一人。サラサラとしながらも柔らかそうな黒髪が炬燵の上いっぱいに広がり、頭の隣にはブックカバーのかかった本が置かれている。どうやら本を読んでいる最中にそのまま寝落ちしたらしい。
「‥‥」
これは起こすべきなのだろうか。時間帯的に考えて、授業が終わってすぐここに来たと考えても一瞬で寝落ちしたとしか考えられない。
とはいっても、わざわざ起こすのもなあと考えながら、俺も彼女の対面に座るようにして炬燵に潜り込んだ。まだまだ春とはいっても完全に暖かいとは言えない気温、ほんのりとした炬燵の暖かさが心地いい。
読みかけだった本を俺も読もうかと鞄を取り寄せようとした瞬間、
「ん‥‥」
という声とともに、目の前で突っ伏して寝ていた少女がむくりと身体を起こした。
窓から差し込む光に輝く濡れ羽色の髪の隙間から覗く顔は人形のように白く、さきほどまで炬燵に当たっていた額の部分だけが赤くなってしまっている。
「‥‥」
彼女は暫くのあいだ寝ぼけ眼で周囲を見渡すと、その後正面に座っている俺に気付いたらしく、本を読んでいる時とはまるで印象の異なるふわりとした表情になって俺を見た。
その瞳はまるで透き通る湖面のようでありながら、底の見えぬ不思議な引力を発している。
「あ、おはようございます七瀬くん」
「ああ、おはよう咲良」
彼女――咲良綴は眠気を振り払うようにして頭をふるふると振って覚醒したのか、しっかりとした目つきで改めてこちらを見直す。
そしてわたわたした手つきで髪を整えると、本を鞄に仕舞って言った。
「いつの間に来たんですか、七瀬くん」
「ついさっきだよ。咲良こそ、寝てたってことは大分早く来たのか?」
「いえ、そんなに早く来たわけじゃないですよ。単純に、本を読み始めて二秒で寝ちゃったんだと思います」
「そりゃまた凄まじい早さだな、おい」
いやー、それほどでもと照れて笑う咲良は、朝A組にまで覗きに行った時の他者を寄せ付けない静謐さの片鱗は欠片も見えず、少し精神年齢低めな少女にしか見えない。まるで双子を見ている気分だ。