現界期が教える朽ち木の森
綾辻の後に付いて向かったのは校庭ではなく、陵星高校と隣接する裏山だった。
昨日は校門の前で従僕と戦ったが、本来はこの裏山が主戦場となるようだ。三神が言うには、知らぬ間に一体だけが逃れて俺を狙ったそうな。
「でも、考えてみるとアウターってのは夜にしか出てこないのか? 昼はそれらしき気配は一切ないし」
月明かりだけを頼りに山道を歩きながら、隣を歩く三神に小声で問いかける。人の手がほとんど入らない山と違って樹が生い茂っているわけでもないので、なんとかライトなしでも歩けている現状だ。
綾辻は数歩先を歩いていて、その足取りには張りつめるような緊張感が見て取れる。
三神は前を向いたまま答えた。
「基本的にアウターは人里に近い特定の空間、時間内に現れることが確認されてる。空間に関しては規則性が見つかってないけど、時間はだいたい零時前後。その間だけ異界化が起こってアウターが出現する。私たちは現界期と呼んでいるけど、その時間が過ぎればアウターはこの世界から消滅するし、特定の空間から外に出る事もない」
成程、つまり昨日俺がうたた寝せずにランニングしていたらこんな事態にはなってなかったということか‥‥。
「ん? それなら別にアウターを無理に討伐する必要もないんじゃないか?」
異界化が起こる場所、時間がある程度絞り込めているのなら、その時間だけ立ち入り禁止にしてしまえばいい。でなければ人払いのコードで結界を張れる奴だっているだろう。たぶん三神が張っているのにも組み込まれてる気がするし。
しかし、三神は首を横に振った。
「昔、異界化していても何の問題も起こらなかったせいで、長年発見されることもなく放置されたケースがあった。人自体が少ない地域だったからアウターに襲われるような事件もなかったけど‥‥」
「けど?」
「結果として、その地域は異界化が進み過ぎた。アウターを放置していると、加速度的に現界期と異界化する空間が広がっていって、アウターの数も多くなることがそれ以降に確認された。その場所は今半日以上が現界期で、相当数の守り人がそこに配備されている」
ふむ。想像以上にヤバい状況じゃないか、それ。つまり、異界としての濃度が高い状態を維持していると、そちらに染まり易くなるということか。
「ちょっと待てよ、それ極論を言えば、放置してたら日本全土が常にアウターで溢れる世界になるってことだよな?」
「そうならないために、私たちがいる。アウターはこちらの世界の物理法則による影響が薄いから、コード以外では倒せない」
強い口調で宣言する三神の横顔を、つい見てしまう。微かな明りに照らされるのは責任を負う戦士のそれだ。その瞬間、まるで幾度となくそんな顔を見てきたような強い既視感を覚え、俺は思わず口を噤む。こいつらはそうやってずっと戦ってきたのだろう。
三神はアウターがこちらの世界の物理法則に影響されにくいと言ったが、実際はこちらの世界に限らず純粋な物理攻撃がほぼ効かない。何故なら、神の残滓であるコードを核にして生まれたアウターは、物理法則に縛られた概念より数段上、高次元の存在だからだ。同じレベルの力を使わなければ、倒すことは出来ない。
これは、現代における兵器のほとんどがアウターという脅威に対して効果がないということになる。咲良の言っていた近代兵器との折り合いがこんな形で付けられるなど、笑いも起きない。
どこか前世で知っているからと軽く見ていたが、アウターは容易く人を殺す怪物だ。何故忘れていたのだろう、奴らに抱いた憎しみを、怒りを。俺は一体何人の友が殺されるのを見てきた? 力なき者が蹂躙され、戦うために立ち上がった戦士の多くが戦場で命を落とした。
昨晩一撃で消えた従僕でさえ、熟練の戦士が油断した瞬間に殺される。一般人では対抗できる人間の方が稀だ。もしも奴らが人通りの多い時間帯にポツンと出現したら。もしもそこに咲良が、俺の家族が偶々居合わせたら。どうなるかなど考えたくもない。
おかしい。どうして俺はアウターが居ると分かった後も危機感を抱かなかったんだ? 俺はどこかで、
「どうかした?」
不意にかけられた声に、沈んでいた思考の沼から引き上げられる。同時に視界に入る夜の道と、どこかに飛んでいた歩く感覚が返ってくる。
俯いていたらしい顔を横に向ければ、三神が不審げな目でこちらを見ていた。
「いや、悪い。なんでもない」
「そう、そろそろ会敵してもおかしくないから、気を抜かないで」
そうだ、今は思考にふけっている暇はない。既にここはアウターのテリトリー、いつ首を掻かれてもおかしくはない場所だ。
改めて気を引き締めると、前を歩く綾辻がすっと手を横にあげた。
どうやら、俺の考え込んでいる間にお出ましらしい。空気の密度が増し、いつの間にか息苦しさを覚えた。
「‥‥」
無言で俺の袖を引く三神について、音を立てないようにその場を離れる。近くの樹の陰に背中を預けるようにしてしゃがむと、顔だけを出して綾辻の様子を伺った。
土を踏みしめる音が無遠慮に響き渡り、静寂の中でなにかが近づいて来る気配が徐々に大きくなる。
夜闇の中に紛れるような襤褸切れが木々の隙間から覗き、月明かりすら照らせぬ漆黒の洞が綾辻を見るようにして現れる。
『朽ち木の従僕』、こちらでは木偶と呼ばれるアウターだ。
そして、姿を見せた木偶は一体ではなかった。
まるでこの森そのものが朽ち木の棲家と化したように、数体の木偶が暗闇から這い出て来る。俺の見える範囲では、五体。
‥‥大丈夫なのか、これ。
木偶は確かに耐久力が低く、動物的な本能を持ち合わせない故に倒すこと自体は難しくない。
しかし、その殺傷力は紛れもなく本物だ。〝恐慌〟のコードは生物に対して凶悪な効果を発する。一人前と称されるレベルに達した人間が一瞬の油断で命を散らしたことなど珍しくもない。
その脅威を当然知っているはずの綾辻は、囲まれているにも関わらず平然と立っている。アッシュブロンドが風に怪しく揺らめき、両手は構えを取ることもなく下へ降ろされたままだ。
木偶が緩やかに前傾姿勢を取り、幾体かの腕は枝が重なるようにして槍や剣の形状を作る。
夜の冷たい空気の中で体温と鼓動の高まりがひどく強く感じられ、すぐ隣で三神の押し殺した呼吸の音がする。
動きがあったのは、月が雲に隠れた瞬間だった。微かな光源を頼りに見えていた景色が一瞬にして黒に沈み、全方位で草木を折る音が炸裂する。
風を切り裂き、綾辻が立っていた場所に木偶の殺到する気配。何かを貫き、切り裂く鈍い音に身が竦むが、それと同時に感じる強いコードの発動に俺は上を見上げた。
雲が流れ、現れた月を背負う金糸の輝きが、夜空を舞う。
彼女は凍えるように凄絶な美しさを持って、そこにいた。