閑話 夢が教える始まり
その女は、汚物と伏した人間、元が何だったかも分からない廃棄物が路上に散乱するスラム街には大凡似つかわしくなかった。
別段身に着けているものが高級品なわけでもなく、長い黒髪は乱雑、袖から見える腕はお世辞にも肉付きがいいとは言えない。特徴らしい特徴と言えば、その両目を覆うように巻かれた布切れくらいだろう。その足取りは確かなものだが、まるで遮蔽物があるかどうか確認しながら歩く様子から、盲目だろうということが伺えた。
見目だけで言えば肥溜めの人間に近い。だが、その女の纏う空気は緩慢な死へ向かう、諦念したスラム街のものではなかった。
遠くからでも匂う、濃厚な血と死の匂い。まるで死神を背に引きずっているかのような佇まいは、死の恐怖を忘れたはずの人間さえ近寄ることを許さない。だからこそ、俺はその瞬間恐怖に息をすることも出来なくなった。
女が、指を指している。緩慢な動作で持ち上がったその先にいるのは、誰も目を向けることさえしない路傍の石のような存在。そう、それは確かに俺を示していた。喉元に突き刺さるチリチリとした緊張感が、身体を震わせることさえ許さない。
指が曲り、こちらに来いと無言の圧力がかかった。
行かなければ殺されるだろう、あの指一本が俺にとっては突き付けられた剣にも見えた。まるで何かに引っ張られるように盲目の女へと俺は近づいていく。
脚を止めて正面から見上げた女は、感情の読めない顔でこちらを見下ろしていた。砂ぼこりに汚れた青白い肌は生気を感じさせず、女にしては高い背も相まって朽ち木の従僕のような魔物にも見える。
色素の薄い唇が動く。それは死神がゆっくりと鎌を首に押し当てるように。空気が冷たく沈殿し、息をすることも忘れそうな緊張感が張りつめた。
そして、言葉が発せられる。
「ごめんなさい少年。お姉さん迷子だから大通りまで案内してくれませんか?」
これが、俺の人生を変える女との出会いだった。