『乱鴉の島』ネタバレありレビュー
谷藤さんにお勧めされた『乱鴉の島』を読み終えた僕は、翌日の大学からの帰りに〈谷藤屋〉に寄ってみた。実はあれから何度か谷藤屋を訪れようとしたのだが、そのいずれもことごとく、店にはシャッターが下りていた。まさか、もう閉店したのでは? 不安な気持ちを抱きつつ足を運んだのだが、今日は無事営業中。まるで、僕が本を読み終えるのに合わせているかのようだった。そんなことあるわけないけれど。
「いらっしゃいませー」
ドアを開けて入店した僕を、店主谷藤風さんの声が迎えてくれた。
「谷藤さん、今日は営業してるんですね。僕、何度か来てみたんですけれど」
「ええ、うちは不定期営業なので。古本も扱っているので、その仕入れなどに出向くことも多いものですから。ご不便をお掛けして申し訳ありません」
「ああ、いえいえ……」
深々と頭を下げてきた谷藤さんに、僕は恐縮して両手を振った。
「で」顔を上げた谷藤さんは、「お読みになりました?『乱鴉の島』」
「ええ、昨日読み終わったんですよ。面白かったです」
「よかった! 満足していただけると思ってました。ぜひ感想を聞かせて下さい! 今、コーヒーを持ってきますね」
おかまいなく、と告げる間もなく谷藤さんは奥に引っ込み、二人分のコーヒーを持って戻ってきた。椅子も用意してくれ、レジ台を挟んで僕と谷藤さんは腰を落ち着ける。いいのかな? 営業中に。僕は、熱いコーヒーをブラックのままひと口すすってから、
「まず、とても読みやすかったですね。正直、ミステリって登場人物も多いし、事件の様相や人間関係とか色々複雑そうだから、構えちゃってたんですけれど」
僕の話を谷藤さんは、そうだろう、そうだろうという表情で頷きながら聞いている。
「火村英生もかっこよかったですよね?」
「ええ、僕、ネットで調べたんですけれど、このシリーズの探偵、火村英生って女性に大人気なんですね。でも、男から見てもかっこいいですよ。憧れます」
「ですよねー! 特に、拓海くんとキャッチボールするシーンが最高ですよね!『変化球、投げられる?』って訊かれて、『俺は曲がったことが嫌いだ』って返すところ、最高です!」
この話題には谷藤さん、ぐいぐい来た。
「永城さん、事件についてはどうでしたか?」
「特に僕が面白いなと思ったのは、舞台となった島の電話線が切断された理由ですね。こういった孤島ものって、外部との連絡手段が断絶されることがお約束だっていうことは、ミステリを読まない僕も知っていますけれど、その理由が秀逸でした。外部との連絡をできなくすることで、残った人物たちに恐怖を与えるとか胡乱なものや、警察に通報されなくするとかの取って付けたようなものじゃなくて、ある種のインサイダー取引を成立させるためという、現代ならではの俗物的な理由が、変な言い方ですけれど共感しましたね」
「そうなんですよ。有栖川有栖の、特に火村英生ものは、今、私たちが生きているリアルタイムの現代社会が舞台ですからね。登場人物たちの行動理由にいちいち共感出来ますよね。ミステリの犯行動機は、恋人を殺されたとか、長年に渡る一族の復讐とかいった仰々しいものもロマンがあっていいですけれど、単純な個人的利害が犯行や行動の動機になるっていうほうが現代人には納得出来ますよね」
「そうですね。リアルタイムといえば、当時話題だった堀江貴文をモデルにした人物が出てきたり、作品の肝になるクローン技術とか、時代の空気を感じますよね。でも、あとがきで作者が書いていたように、だからといって作品が時代を経て色あせたり陳腐化することはない。現にこの作品は初出版から十年以上経ってますけれど、今読んでも本当に面白かったですから」
「ラストも切なかったですよね」
「本当に。クローン技術で生まれ変わって、また結ばれるという、現代のテクノロジーを駆使した最先端な計画は頓挫したわけですけれど、最愛の人と出会い、僅かな時間だったけれども、その人と結ばれた。海老原はそれでよしとした。古典的なロマンス、限られた時間の中に生きる人の心情が、現代の科学を凌駕したとも取れる。永遠に色あせないテーマを最後に持って来たからこそ、この作品は時代性に左右されることなく、ずっと残る名作になるでしょうね。百年後の人が読んでも共感すると思います……え? どうかしましたか?」
谷藤さんはレジカウンターに両肘を突き、両手の上に顎を乗せた姿勢で話を聞いていた。眼鏡の奥から、まっすぐに僕を見つめながら。
「ふふ、永城さん、楽しそうです」
「そ、そうですか? いや、そうですね、読んだ本のことを誰かと話すのって、とても楽しいですね」
「よかった。勧めた本を楽しんでもらえるって、本屋冥利に尽きます」
「はい、僕も、谷藤さんにこの本を勧めてもらって、本当によかったです」
この店に、谷藤さんに出会えたことも。もちろん、そんな言葉は口にしない。何だか急に照れくさくなって、僕はコーヒーをあおった。淹れてもらってから結構時間が経っていたけれど、まだ温もりは残っていた。
「それじゃあ、僕はそろそろ」
一気に飲み干して空にしたコーヒーカップをカウンターに置いて、僕は椅子から立つ。
「はい、また来て下さい」
谷藤さんも立ち上がる。引き留められないことを少しだけ残念に思った、けれど、
「絶対にですよ」
彼女の笑顔を見せられると、そんな卑下た気持ちも消えていく。
「ええ。そのときはまた、面白いミステリ小説を教えて下さい」
「もちろんです」
最後に谷藤さんの笑顔を目に焼き付けて、僕は〈谷藤屋〉を出て家路についた。