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ミステリ専門書店〈谷藤屋〉不定期営業中  作者: 庵字
○ちがいじゃが仕方がない『獄門島』横溝正史 著
17/32

『獄門島』ネタバレありレビュー

「こんにちはっ!」


 僕は谷藤屋(たにとうや)のドアを勢いよく開け放った。


「あ、永城(えいじょう)さん。いらっしゃいませ」


 レジの向こうから、谷藤さんが声を掛けてきた。僕は広くない店内を見回す。客は……いない。正確には僕ひとりだけ。よし、あの鋭一(えいいち)なる男はいないな。


「どうかしましたか? 永城さん」

「あ、ああ、いえ……」


 きょろきょろと店内を見回す僕の挙動を不審がられてしまったのか? まあいい。とりあえず僕は安堵の息を漏らした。


「それに、汗びっしょりですけれど……」

「あ、いえ、これは……」


 谷藤さんに不審がられたのは、このせいもあったのか。汗の理由は、ここまで走ってきたためだ。僕がハンカチを取り出そうと懐を探っていると、


「はい、どうぞ」


 谷藤さんがハンカチを差し出してくれた。


「あ、ありがとうございます……」


 受け取ったハンカチを、僕は額やら頬に当てた。いい匂いがする。


「永城さん、お店に来てくれたということは、『獄門島(ごくもんとう)』を読み終えたのですね」


 はい、と言いながら僕は頷いた。そう、その通り。というか、ここから本を買って帰り読み終えるまで、いつ来ても谷藤屋は休業中なのだから、必然そうなる。


「で、どうでしたか?」


 谷藤さんは眼鏡の向こうで目を爛々と輝かせながら訊いてくる。帰ってきた。いつもの日常が帰ってきた。僕は内心ほくそ笑み、


「面白かったですね。最初は正直、こんな古い作品を今更、なんて思っていたんですけれど、予想外の面白さでした。三件の見立て殺人も、話を盛り上げるためだけに無為に重ねられるのではなくて、一件目は大胆なアリバイトリック。二件目はどうして釣り鐘の中に死体を入れる必要があったのかという謎。三件目は片腕に怪我をしていた犯人が被害者を絞殺する方法と、それぞれにテーマがあって、見事な本格ミステリでしたね。最高だったのは何と言っても、一件目の現場での了然(りょうねん)和尚の台詞ですね」

「『気違いじゃが仕方がない』ですね」


 谷藤さんが言った。まぶしいくらいの笑顔でその台詞。何だかおかしな気分になりそう。変態か。


「あれは面白いですよね」と谷藤さんは続けて、「あとになって、金田一耕助(きんだいちこうすけ)に『どうしてあんなことを言ったのか』と問われた和尚が、顔を覆って肩を震わせるんですけれど、金田一はそれを、『痛いところを突かれて動揺している』と勘違いしてしまうんですよね」

「ええ、でもそれは、本当は笑いを堪えていたんですよね。この場面も僕は意外で驚かされましたね。古典の作品って、こんなユーモアというか、稚気にとんだトリックには無縁な、もっと仰々しいものばかりだと思っていたので」

「遊び心のある仕掛けですよね。それと、実はここ、ミステリとして実にフェアになるように、作者の横溝正史(よこみぞせいし)の工夫が見られるのに気が付かれましたか?」

「えっ? 何ですか?」

「それはですね、第六章『錦蛇のように』の最後の行に、その台詞は出てくるんですけれど、はっきりと『気違いじゃが仕方がない』と書いてあります」

「ええ、それがどうかしたんですか?」

「これ、普通ならアンフェアな表記になると思いませんか?」

「……え? どうしてですか?」

「永城さん、この『獄門島』は、三人称視点で表記された物語なんですよ。地の文に虚偽を書くことが許されないのはもちろん、登場人物が言った言葉も、正確に記さないとルール違反になります」

「そうですね」

「だったら、了然和尚は、見立てに使う俳句の季題と、現在の季節が違うことに対して思わず口にしてしまったのですから、例の台詞は、気持ちの『気』ではなく、季節の『季』すなわち、『季違いじゃが仕方がない』と書かないとルール違反になるのではないですか? 了然和尚はそのつもりで言ったのですから」

「ああ! そういえばそうですね?」

「でしょう。でも、ここで思い出してみて下さい。第六章最終行、その台詞のすぐ前の行に、何と書かれていたか。こう書かれているんです。『耕助の耳には、たしかにそれが、つぎのようにききとれたのであった』と」

「……あっ! 和尚の思惑は全然違うのだけれど、金田一耕助自身は『そう聞き取ってしまった』という意味ですね! 確かにこれなら、虚偽を書いていることにはならない!」

「そうなんです。第六章の最後、実は和尚自身が実際に発した言葉は一文字も書かれていないんです。金田一耕助の心証としてそうである、というだけなんです」

「なるほど。これならフェアだし、鋭い読者なら、『おかしな書き方だな。これには何かある』と気が付く、という寸法ですね! これは見事な変形叙述トリックですね――」

「楽しんでもらえたみたいだね」


 背後でドアの開く音がして、声が掛けられた。この声!


「あ、鋭一」


 谷藤さんの視線が僕を通り越した。つかつかと靴音が近づいてきて、


「やあ、(ふう)。それに、いらっしゃい、永城くん」

 僕の横に立った鋭一なる男が、言いながらさわやかに微笑んだ。お前に「いらっしゃい」と言われる筋合いはない。お前も客だろ。ああ、いつもの日常が……。


「今日は何の用? 鋭一」

「いや、もしかしたら永城くんに会えるんじゃないかなと思って。勘が当たったよ」

「何よそれ、変なの」


 谷藤さん、いつかのように、とても親しげに鋭一と会話を始める。鋭一と視線が逸れた瞬間、谷藤さんは僕と目を合わせた。


「……永城さん、お体の具合でも悪いんですか?」

「えっ? い、いや、そんなことは……」

「そうですか? 何だか痛みや苦しみを堪えているようなお顔でしたから……」


 いけない。気が付かないうちに憤怒の形相になってしまっていたのか。


「大丈夫かい、永城くん」


 鋭一が僕の前に来る。お前はどけ。谷藤さんが見えなくなる。と思っていたら、


「ああ、そういえば、まだ正式に自己紹介してなかったよね」

「え?」


 鋭一は右手を差し出してきて、


「俺、谷藤鋭一って言います」

「……たにとう?」

「そう、風がいつもお世話になってるんだってね。ふつつかな妹だけど、今後とも仲良くしてあげてほしいな」

「……いもうと?」


 その横から、谷藤さんが、


「それはこっちの台詞です。永城さん、変な兄ですみません」

「……あに?」

「はい」


 きょとんとした顔で谷藤さんは頷いた。


「風は俺のことをいつも呼び捨てにするんだよ。いちおう兄なんだからさ、少しは敬って『鋭一兄さん』って呼んでほしいんだけど。永城くんからも言ってあげてよ」

「呼び捨てで十分です」


 谷藤さんは、ふん、と口を尖らせた。


「……そ、そうですか、お兄さん……ご兄妹(きょうだい)だったんですか……そうですか、そうですか」


 僕は頭髪に手を突っ込んで、ぼりぼりと掻いた。


「永城さん、金田一耕助みたい」


 谷藤さんが笑う。はは、と僕も笑って、


「『き違い』ならぬ『勘違い』だったんですね……」

「え? 何がですか?」

「い、いえ、じゃ、じゃあ僕、これで失礼しますっ!」

「あ、またいらして下さいね」

「待ってるよ、永城くん」


 兄妹の声を背中に、僕は谷藤屋を飛びだしたのであった。谷藤さんから借りっぱなしのハンカチを握りしめたまま。

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