ウィンドアンテナ(全編)
からっとした天気は秋特有のものだった。突き抜けるような青空の下、日差しはとても高く照り付けていたが、気温はあまり高くなくて過ごしやすい天気だった。そんな中ちょうど長めの坂道を登り切ったところだった。
いま、僕の目の前にはやや古びた図書館がある。校内に図書室が存在しない僕の学校では、代わりにこの図書館を使わせてもらえるようになっていた。しかし、学校の裏門から出て道なりに歩き、さらに坂を登り切らないとたどり着けないこの図書館は、はっきり言って不便だった。生徒もあまり使っていない。なぜわざわざこんなところまで来たかと言えば、今日は僕が図書委員を手伝う当番だったからで、そんなこともなければまず来ることはない。
「ちぇっ」
不満をぶつけるようにアスファルトの上の小石を蹴っ飛ばした。思ったよりも高く吹っ飛んだそれは綺麗な放物線を描いて、図書館の横の花壇の方へ飛んでいき……、
そこにいた人影にぶつかった。
しまった、と思うやいなやよろめいた人影に向かって駆け寄る。
「ごめんなさい!」
ぶつけてしまったのは、女の子だった。
女の子はちらりと視線を僕に移したが、すぐに目を伏せた。その先では女の子が左の手の指を右手で抑えていた。
鞄から絆創膏を取り出して女の子の手を取る。女の子の爪の小さい人差し指に絆創膏を巻いていると、戸惑った表情の女の子からふわりとしたゆずの香りが漂ってきて、僕は無意識に良い匂いだと思った。
傷の手当てが終わると、女の子は初めて口を開いた。
「えっと、ありがとう」
「ごめん、今石当てたの僕なんだ……」
「そうなの」
女の子は一瞬驚いた顔をしたが、すぐににこりと笑顔を取り繕った。
「今日は、図書委員のお手伝い?」
「うん、そう。君は?」
「私が図書委員だよ」
「へぇ」
ついしげしげと眺めてしまう。この小柄でロングヘアーの女の子は、学校では見覚えがなかった。多分、別の学年なのだろう。
「今日はもうお仕事終わったから大丈夫。わざわざ来てくれたのにごめんね」
言葉の通り彼女は申し訳なそうな顔をした。
「でも悪いよ。何か手伝えることない?」
「うーん、もうないかな。ありがとう、気持ちだけ」
「そっか。……じゃあ、さよなら」
「さようなら」
あまり食い下がらずに僕は大人しく帰ることにする。彼女は手を振って僕を送ってくれた。
帰り際に、びゅうっと吹いた秋風が彼女の香りを僕のところまで運んできた。さっきと同じ、ゆずの匂い。あまり嗅いだことがないのに少し懐かしく感じたのはなぜだろうか。そして、からころ、という音が辺りに響く。音のする方を見てみると花壇の柵の上に風車がたくさん置いてあり、それが一斉に回っているのが見えた。
次の日、僕はまたもや坂を登っていた。今度は早足で。
もう一度謝って、今日こそ手伝いをしようという算段だ。さっき授業が終わってすぐに、当番の子に「代わって欲しい」と言ったら二つ返事で許可をしてくれた。
昨日と同じく、図書館前の花壇のところに女の子はいた。彼女からは今日も独特の香りがする。僕の気配に気づいた女の子は振り返って、僕を認めると笑顔で迎えてくれた。
「今日も当番?」
「うん。もう一回謝りたくて」
「えぇ、もしかしてわざわざ? いいよ、気にしてないし」
女の子は呆れたように笑っていた。
「でも、良いことだね。良いことをすると来世が良くなるでしょう」
さっきとは別の表情でくすりと笑った。左手の指をピンと立てている。指に巻かれている絆創膏に目が行った。
「ケガ、大丈夫?」
「え?」
自分の指を見て、思い出したような表情になる。
「あぁ! 全然大丈夫だよ。心配してくれてたの?」
「一応、僕が悪いし……」
女の子は右手にじょうろを持っていた。どうやら花壇の水やりをしていたらしい。図書館の中の仕事はまだ始めていないのかもしれない。
「あの、図書委員の手伝いってどんなことすればいいの?」
「ごめんね。今日ももう終わっちゃったの」
「あれ? もう終わっちゃったの?」
図書委員の仕事ってそんなに簡単なのだろうか。今日も手伝えないならと少し焦る。
「じゃあ、水やり手伝うよ」
「これ?」
女の子がじょうろを少し持ち上げた。
「別に図書委員のお仕事じゃないよ。私の好きでやってるだけ」
「いいんだ、手伝いたいから」
「ん」
女の子は口に指をくわえて逡巡している。
結局女の子は折れ、僕はもう一つのじょうろをもらって一緒に水やりをすることになった。花壇には紫色のコスモスの花が咲いていた。
「そういえば、名前聞いてなかった」
女の子がじょうろを傾けながら口を開く。
「僕は、風宿」
「……下は?」
「下? 下は、直って名前」
「ジキ君かぁ」
「君は?」
「私は川傍久美って言うの」
「川傍さん」
「クミって呼んで」
「いいの?」
「もちろん」
「じゃあ……クミさん」
不意に強めの風が吹いて会話が途切れた。柵の上の風車がからころと音を立てて回った。花壇の風景ともあわせて、なんだか子供っぽいなと思った。
花壇はそれなりに広かったが水やりは意外と早く終わった。物足りなく感じもする。
「今日はありがとう」
「どういたしまして。あんまり手伝えなかったけど」
「そんなことないよ」
クミさんが愛想良く笑うとまたふわりとゆずの香りがした。
別れ際、笑顔で手を振っているクミさんは小さく古い図書館にこの上なく馴染んでいて、ふとこの人は図書館に住んでるんじゃないかと想像してしまった。
それからしばらく、僕がクミさんと出会うことはなかった。係でもなければ図書館に行くことはなく、特に会う口実もなく。ともなればあんな坂道を登るきっかけは全く出来ず。そのまま不思議で魅力的な図書委員との出会いが僕の記憶から薄れかけだしたころ、しかし僕は意外なところでクミさんを見かけることになる。
そのとき、僕は授業で使うカッターを買いに街に来ていた。
学校とは逆の方向にある、埃っぽく車の音がうるさい街中。そこは人が多く空気も悪く、ストレスが溜まって仕方がない。僕は自然と早足になり俯きかげんで、地面のタイルを数えるように歩いていた。
不意に街の喧騒を掻き回すように風が吹き、様々なものが混じり合った空気が僕の顔を叩く。自分の顔が汚れていくような気分になりより一層陰鬱になったが、その中に覚えのある匂いが混ざっているのに気付く。甘い柑橘系の匂いだ。
淡い期待を込めて顔を上げると、はたして僕の歩く前方で長い髪が揺れているのが見えた。クミさんだ。僕は声をかけようとした。だが、直後のクミさんの驚くべき行動に僕は固まってしまった。
クミさんは歩道から車道へ飛び出していった。足を踏み外したりした様子ではない。もちろん身を投げたような様子にも見えない。ごく自然な足取りで突っ切っていったのだ。確かに車はほとんど通っていないし向かいの歩道までの距離はそんなに遠いわけでもない。けどいつ車が来るともわからない。クミさんは無事に渡り切ってくれたが、それまで僕は息を呑んだまま目を離せないでいた。
そして、さらに驚くことに僕以外の通行人が誰一人としてクミさんの行動に反応していなかった。みな平然とそれまで通り無機質に歩いていた。その中で僕だけが立ち止まりその流れを乱していた。取り残されたような感覚。肩をぶつけられて我に返った。
慌ててクミさんの姿を目で追ったが、すでに遠くの人込みに紛れていってしまいまもなくすっかり見えなくなってしまった。
その後、釈然としないままデパートでカッターを品定めしながらぼんやりと思いつく。もしかして他の人にはクミさんが見えていなかったのでは?
週明けのとある授業で、僕たちのクラスは工作をやらされた。
僕たちはペットボトルを切って分解している。工作用のカッターを持ってきていたおかげでとても楽だ。一方、隣は小さいカッターで苦戦しているようで、しばらくすると僕に助けを求めてきた。
「なぁ風宿、そのカッター貸してくんない?」
「いいよ、僕のができたら。もう終わるから」
ペットボトルの底を切り取り、口の方に少し切り込みを入れる。そのままタコの足のように広げていくと羽根になる。あやまって触れてケガをしないようにテープを貼っていく。最後に内部にハリガネを通して完成だ。
そう、ペットボトル製の風車を作っていた。
回るとからころという音がするんだろうな、と思った。再びクミさんのことが頭に浮んだ。そんなことを思っていると、
「いたっ!」
横で悲鳴が上がった。カッターを貸した彼だ。
「どうしたの?」
「ちょっと指切っちゃって、いてて」
どうやら勢い余ってカッターで指を切ってしまったらしい。手の平に痛々しい一筋の切り跡が出来ていてそこから血が滲み出ていた。声を聞きつけて周りの子が集まってくるが、彼は動じずに手慣れた様子で片手で器用に僕の鞄から絆創膏を取り出し自分で貼っていく。
「あの……、まぁいいんだけど」
「わりぃわりぃ」
全く悪ぶれたように見えない。ムッとするがこらえる。
「あぁー、今日は部活行けないな」
彼は僕にというわけでもなくぼやいた。彼は運動部だった。
「ちょっと。それもそうだけど、あんた忘れてないわよね?」
「ん?」
野次馬の女の子の一人が声をあげた。
「今日はあなたが図書館の当番よ」
「あっ……」
思い出したのか固まって露骨に嫌そうな顔になる。
「その手じゃ無理だろうけど。全く、どうすんのよ」
彼は安堵で、女の子は困ったようにそれぞれ溜息をついていた。
図書館という単語。それは僕にとってはちょうど良かった。
「僕がいくよ」
二人が一斉にこちらを向いた。すぐに片方の顔がにやりといやらしい顔になる。
「恩に着る。頼むぜ、親友」
親友になった覚えはないけどなというセリフは心の中にとどめて、僕は席に腰を落とした。それを合図に見物に来ていた生徒たちも各々の席へ戻っていく。隣の友人は再びカッターを持って再開しようとしていたが痛むのか作業が遅い。僕は無言でそいつの机のペットボトルとカッターを取り上げ、途中から作ってやることにした。我ながらお人好しだと思った。
放課後、都合よくクミさんに会う口実ができた僕は、坂道を登りながら思案していた。当然、クミさんに会ったらこの前の街でのことを訊いてみたい。でも見間違いかもしれないし……。あまり面識のない僕が、ちょっと見かけただけの理由でわざわざ来たと思われたら気味悪がられるかもしれない。クミさんに嫌われたらと思うと、僕はどうにもそれが嫌だった。
ゆっくりと坂を登ったにも関わらず、結論はまとまらなかった。あっけなく図書館に着いてしまい、記憶と同じところ、花壇の前にクミさんはいた。気づいたクミさんが声をかけてくれる。
「こんにちは、久しぶり」
「……こんにちは」
向こうから話しかけてくれたのが嬉しい反面、僕はまだ迷っていた。ここまで来たんだから訊くべきだよなぁ……。でもやっぱり変に思われたくもない。
「今日も水やり、手伝ってくれる?」
彼女は両手に持っていたじょうろのうち、片方を差し出してきた。クミさんはいつかのように笑顔だった。それを見て、とりあえずお手伝いしよう、街でのことは後回しでもいい、そう思った。僕は彼女の手からじょうろを受け取った。
時折吹いてくる風が風車の回る音とゆずの香りを運んでくる。僕は紫色の花の根元に目がけてじょうろの水をかける。意外と雑草が多いな、と思った。花が大きく色鮮やかなおかげで普段はあまり根元に目が行かない。
「~♪」
クミさんは鼻歌まじりに水をやっていた。長い髪も無地のブラウスも地味なスカートも風景に溶け込んでいるようで。クミさんの周りだけ違う世界のようだった。僕はその姿に見惚れていた。
「クミさん」
気がつくと僕は声をかけていた。慌てて手で口を抑えたが遅かった。
「なに?」
クミさんは声だけで返してくる。良かった、もし振り向かれていたら僕の変な顔を見られていた。
「えっと……」
何か言わないと。でも何も思いつかなかった。いっそ今、街でクミさんを見たことを、訊いてしまおうか?
「水やりって、図書委員のお仕事なの?」
やっぱり勇気が出なかった。何よりもこの雰囲気をもっと味わっていたかった。
「違うよ。前も言ったじゃない、私の趣味だよ」
「花が好きなの?」
それならクミさんらしいと思う。彼女が花に水をかけている姿はとても似合っていた。
「んー、ちょっと違うかな」
「?」
「私、良いことをしようと思うの」
そこまで言ってやっとクミさんは振り向いた。にこりと笑いかけてくる。
「良いこと?」
「そう、良いこと。道徳の授業とかで習うでしょ」
「そうだけど……、あまりやろうと思ったことないなぁ」
「ジキ君はいっぱいやってるじゃん。無意識だったなら、とてもすごいこと」
「僕が?」
お人好しとはよく言われるけど自分ではそんなつもりはなかった。
「良いことをするとね、来世が良くなるの」
クミさんは空を見上げながら続ける。その表情は恍惚としていて、まるで歌でも歌っているかのようだった。
「私はそう信じて良いことをし続けているの。ジキ君もそうしない?」
クミさんの目が妖しく光って僕を射止める。僕と彼女のじょうろは同じところに水を注ぎ続けて水たまりを作っていた。
来世。普通の人は多分考えないことだ。
「僕は、未来はあまり信じてないよ」
不気味な雰囲気を取り払うように、咄嗟に僕は言っていた。
「不確定な未来よりも、過去の方を大事にしたい」
「そっか……」
クミさんは残念そうにしていた。そんな顔を見るのは初めてで、僕がさせてしまったと思うと胸が痛んだ。
「でもクミさんの考えも素敵だと思うよ」
「えへへ、ありがとう」
クミさんに笑顔が戻る。
「私たち、前よりちょっと仲良くなれたよ、きっと」
その変わった会話の後はお互いに無言だった。僕はちぐはぐな気持ちのまま水をやり終え、クミさんと別れて図書館を後にした。帰り道のからころという風車の音が嫌に頭に響いた。
家に帰ってからもクミさんとの会話が頭から離れなく、何度も思い返していた。
クミさんは来世のために良いことをしていると言う。僕がどう思おうと、そう信じるのは彼女の勝手に違いなかった。そうではあるけれど、僕は否定せずにはいられなかった。
それにクミさんは意識して良いことをしているらしい。僕に優しく接してくれているのは、もしかしたらそれだけのためなのかもしれなかった。それも僕は嫌だった。
その日から何故か頻繁に街中でクミさんを見かけるようになった。歩道の上に、車道の上に、デパートの中に、屋台の前に、マンションの屋上に、クミさんはいた。自由奔放に振る舞う彼女に、しかし周りの人は誰も注意を向けることはない。そして僕の行く先々に彼女は現れるのに、彼女は僕に気づいた素振りを見せない。僕はクミさんのことを考えすぎたせいで自分の目か頭がおかしくなったのかと思った。いっそ声をかけてしまおうとしたことも何回かあった。しかしそれには敏感に彼女は遠ざかっていってしまい、全く追い付くことができないのだった。
僕はもう一度図書館へ行くことに決めた。
クミさんはいつもと変わらず花壇に水をやっていて、僕を見ると用意していたじょうろを渡してくれた。僕の異様な雰囲気を感じ取ったのか彼女の様子もぎこちなかった。言葉少なに花壇に向かう。
「前に、花は好きじゃないって言ったけど」
唐突に彼女は口を開いた。
「私、水やりは好きだよ。じょうろの水、雨みたいで」
「そう」
僕たちの間をびゅうっと風が吹き抜けて、会話を途切れさせる。
視界の隅で風車がからころと回っていた。
「この風車、いいよね、風情があって」
「んー? そうでしょ、私が作ったのよ」
雰囲気でクミさんが笑っているのがわかった。僕も笑みを作った。クミさんがどんな人であろうと、クミさんとのこの時間が僕は大好きだった。でも落ち着かない。心の底がざわめき始める。
「クミさんが?」
「そうよ。この前、授業があったでしょ?」
「うん、僕も作ったから。それで思い出して……?」
滑らかに会話を繋ごうとして、何かがおかしいことに気づいてしまう。そう、おかしい。だって授業で作ったのはついこの前だった。
「そっかぁ、ジキ君と私って同じ学年だったんだね!」
「えっ」
確かに僕と同じ授業があったのなら同じ学年だったんだ。あれ? それもおかしい……。
「でも僕たち学校で会ったことないよね……」
「そうね、きっと別のクラスなのよ。私は二組の方」
怖くなってきてしまった。それは彼女自身が、というのももちろんあった。でも今はそれよりも。
「学校で会えるかもね」
「もしかしたらもう会ってたりして」
彼女は笑っていた。なによりもこの笑顔がもう見られなくなることが怖かった。この違和感を解いてしまえばもうクミさんとは会えなくなりそうだ。そう思った。しかし脳裏には車道をスキップしていた姿が過ぎる。
「この辺って風が強いから、風車がよく回ってくれるの」
「違う、勘違いだよ」
「どうして?」
「風はどこでも吹いてるよ」
僕の声は震えていた。が、歯を食いしばって続ける。
「風車があると僕たちは風を感じやすくなって、それでたくさん吹いているように見えるだけ」
「へぇ……」
クミさんは目を細めた。
「でも私たちはそうでもしないと風を感じられない。そうじゃない?」
「そうかもしれないけど、僕たちは……」
いきなり激しい吐き気に襲われて両手で口を抑える。
「どうしたの!?」
僕の様子を見てクミさんが心配そうな声を上げた。彼女が隣に駆け寄ってきて、甘い香りが強くなる。僕の好きな香り。ぼんやりと目が眩んだ。
「ちょっと気分が悪くて……」
「大丈夫? 水やりは終わったから、今日はもう帰ってもらってもいいよ」
目も合わせられないままクミさんに見送られて僕は坂道を下っていく。頭が痛い。
家に帰って部屋に籠って布団を被り、そして何日も経ったが、頭痛は収まらなかった。僕は彼女のことで頭がいっぱいだった。過去を大事にするためには過去の出来事から避けるわけにはいかない。どうにかなる、忘れてしまえ、と未来に放り投げてしまうのは、やってはいけないことだ。未来は実に勝手なものなのだから。
過去は大事にしなければならない。僕がクミさんと出会ったことは消えてなくなりはしない事実だった。
彼女に街でのことを訊こう。もう迷っていてはダメだ。痛む頭を押さえて僕はそう決心した。
布団から体を起こし日付を見ると実に一週間が経っていて、今日は日曜日だった。図書委員の仕事はないが、それでもきっと彼女は図書館にいる。僕はそう確信して家を出た。
混雑する街中で人を掻き分けて進む。こんなところを自由に動き回れるわけはないのだ。学校の周りをぐるりと周って裏手へ向かう。僕の学校は僕が入学した年にはもう一学年に一学級しか存在していなかった。
坂を登り切った先の図書館は人気がなかった。休日は開いていないのだ。花壇に目を走らせるとじょうろが一つ置いてあった。しかしクミさんの姿が見えない。
そのとき、ふわっと風圧を感じた。遅れてうっすらと甘い香り。ハッとして振り向くと長い髪が坂の下へ消えていくのが見えた。クミさんだ! 駆けだして追いかける。
「待って!」
坂道を下っていくクミさんは見た目に反してとても速かった。距離を離さないでいるのがやっと。下り道を、バランスを崩さないように走っていく。途中、バス停の標識にぶつかりそうになったが体を捻ってかわした。全力で走っていると耳元で風切音に混じってからころという風車の音が聞こえてきた。
クミさんは学校の裏門から学校の中へ入っていった。僕もそれに続く。見慣れた廊下を走っていくと少し違和感があった。ボロボロのはずの廊下の壁紙がどれも新築同然に綺麗だった。そして至るところの張り紙に、どれも見覚えがない。ふと教室のドアを見て目を見開く。僕の学年にクラスが二つある……!
クミさんは昇降口を抜け、正門を飛び越え、街中へと走っていった。その後を追いかける僕に周りの人々がぎょっとして立ち退く。
「おーい、何走ってるんだ? マラソンかー?」
顔見知りが声をかけてくるが返す余裕はなく。やはり他の人には僕しか見えていないようだった。多分逆だ。僕にしかクミさんが見えないんだ。
歩道の通行人の間を縫ってクミさんを追いかけていく。しかし街中で彼女に追い付けるわけがなかった。長い髪が、どんどん遠ざかっていく。風が吹き抜けていく。
もう無理かと諦めかけた瞬間、クミさんが車道に飛び出た。そのまま向かい側の歩道へ抜けようとしたのだろう。人のいないところならまだチャンスがある。そう思い、彼女を追って飛び出そうとした瞬間、地面からの振動に気づいた。
後ろからだ。車道を、後方から大きなトラックが走ってきていた。車がほとんど通っていないせいか、ものすごい速度を出していた。埃を舞い上げガソリンの臭いをまき散らしながら爆走して、そしてその先にはクミさんがいた。声を上げる暇もなかった。
僕は反射的に手を伸ばしていた。何も為すことのない手の先で、クミさんとトラックが同じ視界に映る。トラックが減速する気配はなかった。クミさんがやっと気づいた。もうかわしようがない。クミさんの目が見開く。
パッと辺りにゆずの香りが広がった。今までとは比べ物にならないくらい濃密な匂いだった。
トラックはそのままの速度で何事もなかったように走り去っていった。
あの後、僕は彼女の元へ走った。彼女の体はマンションの横のゴミ捨て場まで飛ばされて、横たわっていた。彼女の体はひどく傷ついていたが、不思議なことに血は一切流れていなかった。
クミさんの手を取ると、クミさんは街でははじめて僕と目を合わせてくれた。そして今にも死んでしまいそうな表情で小さく、
「また」
とだけ言うと、僕が何か言ったり訊いたり、泣いたり悲しんだりする間も与えてくれずに、ふっと体ごと消えたのだった。
手の中に薄い何かが張り付く感触があって、手を開くと丸まった絆創膏があった。
あの時の「また」とはどういう意味だったのだろう。僕は図書館へと続く坂を登りながら考えていた。
からっとした天気は秋特有のものだった。突き抜けるような青空の下、日差しはとても明るかったのだが、ときたま吹く風は強く僕の思考を邪魔してやまない。
坂を登ると見慣れた花壇が見えた。週明け一番、僕は図書委員手伝いの係だった。紫色の花を横目に、閑散とした図書館へ入口から入っていく。
「あら、早いじゃない」
中で待っていたのは、以前に僕の友達をたしなめていた女の子だった。
「君が図書委員だったんだ」
「そうよ、私本が好きだから」
そう言いながらカウンターに積み重なった本を整理する手は止めない。おそらく生徒から返却された本だ。
「待った?」
「待ってないわよ。ていうかさっきまで同じ教室にいたじゃない」
笑いながら言われた。確かにそうだ。僕も口の端をゆがめた。
「そういえば、この前サボったでしょ」
「そうだっけ」
「そうよ。ちなみに二回も。理由があったなら言ってくれれば良かったのに」
口調とは裏腹にあまり怒ってはいないようだった。
「ごめん」
僕は手短にそれだけ言うと彼女が整理し終わった本を抱えて棚に戻していった。
この図書館は蔵書のほとんどを街中の新しく建てられた図書館に移されていて、実質廃館となっていた。下の学校の図書室代わりということもなければ取り壊されていたかもしれない。それでも昔、僕たちが入学する前のまだ図書館として使われていたときはそれなりに多くの人が出入りしていたそうだ。
仕事が終わると、図書委員の女の子は鍵をかけて帰っていった。僕は残って花壇に水やりをすることにした。
花壇の前に放置されていたじょうろには少し水が残っていた。水やりを始めて、しばらくするとびゅうっと風が吹いた。しかし風車の音もゆずの香りもしなかった。
クミさんは「来世」と言っていた。最期に言っていた「また」というのは、来世で会おう、という意味だったんじゃないかな。
僕は花壇に水をやる。良いことをすれば来世で会えるかもしれない。また会いたいと僕は思っていた。
柵の上の風車を一つとってみる。風車の羽根はボロボロでいたるところが土で汚れていた。長年雨風に晒され続けていた。鞄から自分で作った風車を取り出して柵の上に取り付けた。
風が吹き抜けて僕の風車が回る。よく耳を澄ませればかろころという音が聞こえた気がした。それで、ゆずの香りを一生懸命思い出してみると、辺りにその香りが漂っているような気がした。滲む視界にクミさんの姿だけが足りなかった。
以前冒頭だけ公開した作品の全編です。
のど飴はハッカ味が好きです。