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「ふ……ざけるなっ!!」
一体こいつは何を言っているのだろうと思ったのも束の間、顔を真っ赤にして激昂したシェスティンは、山猫の様に俊敏な動きでライヒアルトの前に立つと同時、そのまま渾身の一撃を振り下ろした。
小気味よい音を立て鳴った頬をそのままに、ライヒアルトは真っ直ぐにシェスティンを見据える。
逃げるという言葉は、彼女の辞書から破り去られていた。
シェスティンは、先程の言葉を撤回させるべく、再度拳を振りかぶった。
だがそれは、見慣れぬ顔をしたライヒアルトにしっかりと受け止められる。
「じゃああんたはこのまま、実験動物になる訳?」
「それは――っ」
見た事のない様な冷たい色を帯びた紫の瞳がシェスティンを射貫き、聞いた事もない様な凍えた声音が、彼女の動きを止めた。
こんなライヒアルトは知らない。
自分の知っているライヒアルトは、何時でも飄々としていて、軽薄で馬鹿で彼女が何を言っても最終的には仕方ないと言って折れてくれる。何があっても自分の元から離れず側にいてくれる存在だ。
でも今は違う。
今回はどうにも彼が折れることをするつもりがないと言うのが、シェスティンには本能と言うレベルで感じ取れた。
もし、もしもここで自分が逃げないと最後まで言い張ったら、どうなるのだろうか。
ぐらり、と視界が揺れる。
まさかと言う思い、でもと言う気持ち。
ライヒアルトが消える。自分の隣からいなくなる。
――考えられない。
あって良い筈がないことが、もしかして起こるかもしれない。
視界が歪んだ。
頭蓋骨を残したまま、ぐるぐると脳だけが回っている様な奇妙な感覚と共に、全身が泡立つ様な寒気がする。思わず両腕で自分の身体を抱きしめ様としてライヒアルトに捕まれたままの腕がそれをさせてはくれない。そう、彼の手の温もりを感じるからこそ、それをなくした時のことを考えて呆然とする。
シェスティンが感じたそれは、『恐怖』と言う感情だった。
未だ嘗て、どんなに激しい戦いの最中にいても、怖いとなど思ったことはなかった。普通、ルーキーの時にやって来ると言われた『初めて敵を殺した時の恐怖』と言うのも、それほど強くは感じなかったのだ。軍汎用戦闘機――アーベントで撃墜した時は勿論、白兵戦で生身の人を殺した時も。そんなものを感じるのは、罪悪感などを持つ臆病者だからだと思っていた。軍人だから、任務だから、敵を殲滅するのは当たり前のことで、それに対しての疑問などない。敵にも家族がいて、友達がいて、恋人がいると言うことくらい解っている。けれど、それを一々斟酌していては、戦えなくなると言うことも解っていた。だからその感情を殺して戦った。
そうしなければ、自分が殺されるから。
なのに──。
命のやり取りをしていると言われる戦闘よりも、ライヒアルトがいなくなると考えた今の方が、余程怖いと感じた。
シェスティンの手から力は抜けても、ライヒアルトはその掴んだ手を離さなかった。
けれどそんなことにも思考は回らない。別のことに気付いてしまったからだ。
自分の意思で進んでいるつもりだった、自分の足で歩いているつもりだった。
自分がいるからライヒアルトもいるのだと思っていた。
でもそれは違う。
ライヒアルトがいるからこそ、シェスティンも同じ場所に立っているのだ。
シェスティンが主でライヒアルトが従ではない。
どちらも主であり、従なのだと。
だからこそ、どうしても相容れない場合、袂を分かつ可能性もあるのだと。
そんなことすら解っていない自分は、破壊的に馬鹿だったと今自覚した。
ライヒアルトは、そのことをきちんと理解していたのだろう。
認めたくはないが、ある意味自分は脆いのだ。それを知っていたからこそ、ライヒアルトはシェスティンにそのことを気付かせない様にしていた。
気付いた自分は、恐らく、いや間違いなく今までの自分とは変わってしまうから。少なくともライヒアルトはそう考えたのだろう。
だがそれも全て間違いと言う訳ではなく、それが証拠に、今途方もなくライヒアルトが消えることが怖い。
もうおいていくと言われることが怖い。いらないと言われたらと考えると、可笑しくなりそうだ。
頭が……と言うより心が冷えた。
確かに、ここで留まっていてもどうしようもない。
だが自分達は軍に所属しており、そして家はこの連邦の中核とも言える六代氏族だ。
だからその為になることなら、協力し貢献するのは当たり前である。そして今まではずっとそうして来ていたのだ。
「私は……」
留まれば実験動物。刃向かって戦えば反逆者で、逃げれば脱走兵。どの選択も、明るい未来とはほど遠い。
例えライヒアルトの逃げると言う選択を選んだとしても、では何処へと言う話になる。家から何も知らせがなかったと言うことは、恐らく協力しろと言うことなのだろうと彼女は考える。つまり家にも居場所はない。手助けしてくれる人はいないと言うことだ。もしかすると最悪は家からも追われるかもしれない。
大事だと大切だと思っていた家族だったが、それは自分だけだったのかもしれないと言う思いは、怒りや悔しさをも伴って、シェスティンの心を重くさせた。
いや、何より彼女が愕然としたのは、例えその家――一族と縁が切れたとしても、ライヒアルトがいると思った時、ほっとしたことだ。
ずっと一番は、自分達一族の方だと思っていた。オズボーン家の一員であることが最優先だと思っていたのが、実はただ一人、ライヒアルトさえいればそれで良かったのだと気付いたのだ。
そして。
この場で出す答えが異なれば、彼は自分を置いていくかも知れない。
怖い、そして腹立たしい。
そんな存在へとなったライヒアルトと、そんな風に考える様になった自分が。
再度ライヒアルトが、シェスティンを引き寄せ抱きしめた。
「マジかよ。嘘だろ……」
額に手を当て、焦りの表情を見せるのは、精悍な面持ちをした金髪の男だ。軍服を着崩しているのだが、だらしないと言う印象より野性味があると感じてしまう。その彼の徽章はは、銀河連邦軍で大佐の地位を示していた。
次の任務まで、このコロニーで一時待機と言う状況にある彼だが、上に立つ者の義務として、定時連絡を受けることもある為、定期的にメールのチェックは欠かさない。緊急であればブレスレットにしているウェアラブルタイプの端末にコールがなされるのだが、そうでない場合は、こうしてメールで報告や連絡がなされるのだ。
彼がそれを確認したのは、つい今し方だ。一通のメールが、日頃焦りなど見せない彼の様子を変化させる。
以前にもこの内容のメールは見た。そしてそれを見る度、今と同じく自分の無力さを思い知らさせ情けなくなる。
「しかも、明日とかないわ……」
時間は刻々と過ぎていく。
今までと違うのは、あまりにその時間は短すぎた。これでは碌な手も打てはしない。折角今までよりは反骨精神のありそうな者であるのに、自分側の時間がなさ過ぎるのだ。
日頃陽気すぎるまでに明るい色を乗せているその顔は、視線に捕らえたメールを見た時から深刻な表情へと変わっている。
何故今回、これほどまでに期間が短いのだろう。
もしかすると今まで自分がやったことが原因なのだろうかとも思ったが、それなら自分がここでこうしていられる筈もないだろうと思い直す。
何か他に理由があるのだろうか。
末尾に余計なものが着いているのも気になるところだ。
「今からじゃあ、大したことも出来ねぇが……。まあ、今俺が出来ることをするしかないってな」
落ちてきた前髪をぐいと掻き上げた彼の唇には、無理矢理浮かべた笑みが乗っていた。
そう、時間があろうがなかろうが、彼は彼の決めたことをやり遂げるだけだった。
ライヒアルトは、シェスティンが今考えてることを推測した。
彼女が悩むのは、自分自身の一族のこと。そしてここからは逃げたとしても、その先はどうするのだと言うこと。
シェスティンが知らぬことだが、彼は先程ヴェンツェルと、ここから抜け出す算段を付けている。シェスティンの状況からライヒアルトはそれを言えなかったのだが、そんなことを彼女が解る筈もない。
逃げ果せるのは簡単な話ではないことを知っている。コロニーから逃げたとしても、外星系へ渡る方法に頭を痛めることになるからだ。
だがその憂いも、ヴェンツェルの持ちかけた計画なら、取り敢えずは取り除かれてはいる。勿論それは、彼が信用出来ると言う大前提があればと言う但し書きがつくのだが。
ライヒアルトにしてみれば、このまま無為で無策で無駄な時間を過ごす訳にはいかないのだ。
彼にしてみれば、二人一緒なら泥水を啜って生きたとしても構わないと言う思いがある。
だがシェスティンは、泥水を啜って生きるくらいならばいっそ死ぬ、もしくはその原因を作った相手に報復すると言う気性の持ち主だ。
行こうと引き寄せた身体が震えているのが解るのに、うんとは頷かない。
腕の中で強張ったままでいる、この頑固な女王様を誰か何とかしてくれと思うが、その何とかする役目は自分なのだと思い出し、頭痛がしそうになる。
どうすれば彼女に、逃げることを納得させるのか。
与えられたのは四十八時間。しかしメールを見るタイミングやシェスティンを連れ戻す時間などが過ぎ、可成りの時間が減っている。通達された時間が来れば、彼らの意思など斟酌されず、否応なく技術部の人間が彼らを迎えに来ると言うことだ。
本来、重要な内容であれば、アラームが響くはずのそれがなかったと言うことは、明らかに悪意を感じた。気付かずにいれば、間抜け面を晒して使者を迎えることになっただろう。
ここで待っているだけなら、実験動物扱いが待っている。
――冗談じゃない。
「あんたホント解って言ってんの? 俺ら死んだって、そこに身体がある限り、死体すら平気で切り刻む奴らだ。そう言うの死に損て言うんだよ、死・に・ぞ・ん。ちゃんと俺の言葉理解してる?」
「だったらっ! 死体すら残さずに済む様に、動力炉にでもなんでも飛び込んでやるっ! あっと言う間に溶けてなくなるだろう!」
最初の強気は目減りしているものの、やはり彼女は頷かない。
今の言葉は完全に脊髄反射だろう。シェスティンのこの強情さには目眩がする。
イヤなことは何があってもイヤなのだ。
彼女に自分の意思で着いてくると思わせずに強引に連れて行けば、間違いなく言葉通りにやるだろう。
だがそんなこと、ライヒアルトに許せる筈もなかった。
「無茶なこと言ってるって思うけど、オレから言わせればこのまま従うってのも無茶な話なワケよ。それにもしかしたら、何とかなるかもしれないって案もあるんだ。だから頼むよ。一緒に来て」
何時ものいい加減さは成りを潜め、これ以上ないくらいに真剣な顔で言い募るライヒアルトを、シェスティンは見たことがないだろう。彼女が引き攣った様に息を飲む。
「アルト、離せ。痛い……」
引き寄せられた時捕まれた手が痛いと、顔を顰めて言う。普段なら怒鳴り返して一発殴る筈の彼女は、それが出来ずにいる。
「一緒に来るって言うまで離さない」
もう逃げるとは言わない。流石にその言葉では、シェスティンが冷静になってくれるとは思えなかったからだ。
ただライヒアルトは、彼が慎重に隠していたことにシェスティンが気付いたことを知ることが出来なかった。その瞬間の顔を見る前に、自身の腕に囲い込んでしまったからだ。
「なあ、シェス……シェスティン、マジムカつくと思うけど、オレ達にこんな思いをさせたやつには、後でしっかり思い知らせてやれば良いだろう? ただ今は無理だ。報復する時は、ちゃんと手駒も計画も揃えてやろう」
出来るかどうかなど、今問題ではない。ただシェスティンを頷かせれば良いだけだ。
シェスティンの肩が微かに揺らぐが、それでも彼女は絞り出す様に言った。
まるで懸念事項を、一つ一つ確認していく様だ。
「……私達が召喚に応じなければ、一族はどうなる?」
予め予期していた言葉だとは言え、ライヒアルトは瞬間詰まる。
勿論六大氏族の一員にちょっかいをかけているのだから、彼らの両親を始め一族が何も知らない筈はない。何らかの通達なりは行っている筈だろう。けれどその家からの連絡は何もなかった。
このコロニーから、彼らの一族のいる惑星までは、銀河系中心部のバルジより発生している強力な電磁波の為、軍の巨大な出力を叩き出すものならばまだしも、個人が携帯しているレベルのものであれば、連絡を取ることすら出来ない。どう言うつもりなのかを、確かめる術はないのだ。
例えば氏族の一員としてのディースカウやオズボーンは、戸惑いもなくその召喚を受けろと言う筈だ。いや、逆にそう言わなければならない。けれど親としての彼らは、自分達の身や血などを顧みることなく逃げろと言うだろう。そしてそれは自分達においてであれば、軍人としての立場と、個人の感情に言い換えることが出来る。
連絡がないと言うことは、そう言うことなのだろうとライヒアルトは考える。恐らくシェスティンもそう考えているのだろう。
その考えが正しいとは限らないが、今までの経験則から、ライヒアルトはそう考えていた。
ここで二人が姿を眩ましてしまえば、一族の立場は可成り悪くなるだろう。その上、ディースカウ家においては、たった一人の直系であるライヒアルトが消えれば、傍系から跡取りを迎え血は続くとは言え、連綿と続いた直系の血は途絶えてしまうのだ。
シェスティンの方は、妹が跡取りと決まっているが、立場の弱くなった氏族の家に入ろうと思える家があるかどうかが問題となる。つまり六代氏族と呼ばれた一族の二氏までが、霞んでしまうのだ。
「後で何とかする……」
自分で言っていて、これほど説得力のない言葉はない。そして当然、そんな言葉に納得するシェスティンではないだろう。
「後でだとっ?!」
「今は無理だって、解るだろう?」
「やってもみないで、何故そう決めつけるっ!」
「あんたこそ、何でそんなに聞き分けないんだよっ! 頼むから、今は自分のことだけ考えてよ!」
後もう少しだと感じるのに、一進一退している会話は、どうにももどかしい。
シェスティンだって解っているのだろうが、そもそもの理不尽さに納得できずにいる為、どうにも素直になれないのだろう。
だがここは聞いて貰わなくてはならない。
いくらそれがシェスティンに酷だとは解っていても、だ。
自分の身と意思を捨て、血族と言う名を取るか、それとも六代氏族のプライドを捨て個々の自由を取るか。
二つに一つ。
シェスティンにとってのジレンマであるそれは、実のところライヒアルトには大した問題ではない。
薄情ではあるが、彼にとって自分の両親やシェスティンの両親より、今目の前にいるシェスティンの方が余程大事なのだ。
「大丈夫。オレ達より、よっぽど一族の方が余裕がある。伊達に六代氏族とか呼ばれてる訳じゃないよ」
……多分ね、と、そう心の中で呟いた。
半ば公然とした血族主義が続いているのが、この平等を謳った銀河連邦の正体で、二人が召集されたことに驚きを隠せない理由でもあるのだから。
通常の事態であれば、軍属であること、自分達の軍内部の地位、そして更にその一族の恩恵と、これ以上にないほどプラス条件が働いているにも関わらず、今回においてはそれが何の役にも立たなかった。
その絶対人口の少ない新人類、リヴァーシアンと言う種が絡む今回は、須く平等に災厄が襲ったのだ。しかも今になって。
リヴァーシアンの持つ特殊遺伝子の秘密は、それほどまでに持たざる者には垂涎の的であると言うことだ。
「それに軍はオレ達に来いと言ってる。つまりオレ達が目的って訳じゃない? だからオレ達さえ捕まらなきゃ……」
ライヒアルトの反応が、一瞬遅れた。
がつんと言う音と共に、目の前に火花が散った様な感覚と顎からの衝撃がやってくる。
警戒して然るべきだが、完全に意識がそちら方面へと向いていなかった為、シェスティンの頭突きがクリーンヒットしたのだ。
当然やった本人も痛かっただろうが、それより怒りが勝ったらしい。
半ば悄然としていたシェスティンが、その卑怯な言い様に瞬間復活し、悶絶して緩んだライヒアルトの腕をすり抜ける。
「ライヒアルトっ!! 貴様ぁっ!!」
激怒したシェスティンは、再度思い切りライヒアルトを殴りつけた。
彼女からすれば、ライヒアルトの言う言葉は、恥知らずな愚か者の戯言にしか過ぎない。そこらへんの馬の骨かチンピラが言うならまだしも、それが自身が離れたくないと自覚したライヒアルトから発せられたのが、何より腹に据えかねたのだ。
そしてまたライヒアルトは、自分の失言に気付き、しまったと思うが遅い。
自分が無事と言うより、シェスティンが無事なら良いと言う気持ちに何の偽りもない。だがそれを口に出してしまったのが、不味かったと思う。
何をどう言えば良いのか、もうさっぱり解らない。
クールダウンの時間を置いた方が良いのだろうが、それすら惜しいと思う。
使いたくなかった手だが、と、ライヒアルトは心の中で溜息を吐いた。
『あーもう、マジサイアク』
心の中でそう呟くと、ライヒアルトは言い募る。
「オレはさ、オレは別に家の為に生きてんじゃない。オレはオレの為に生きてんの」
それだけではない。
シェスティンがいるからこそだ。
シェスティンは、何があってもライヒアルトが自分と離れた道を行く筈がないと信じているから、絶対に折れ様とはしないのだろう。
ライヒアルトが自分から離れる事などあり得ない、それがシェスティンの中では事実として確定している。まるで呼吸するかのごとく当たり前だからこそ、意識することもないのだと。
それが崩れることがないと無意識に刷り込まれているからこそ、無理であっても無茶であっても、ライヒアルトへ叩き付けるのだと。
そしてそれは間違いではない。
だがライヒアルトの知らぬところで、もしかすると別の道を行く可能性があるかもしれないとシェスティン自身が考え始めたことに思い当たっておらず、ある意味大変ややこしい状態になっていることも気付いていなかった。
シェスティンが今まさにそう思い当たった結論に達しない様、ライヒアルトが誘導しまくった結果、お互い可笑しな方向に向き始めているのだが、それを二人とも気付いてはいないのだ。
ライヒアルトは、これで少しは方向性の修正をしてくれるだろう程度に考えていた。
日頃は従順――とは少々違うかもしれないが――に、彼女自身の意のままに沿った方向へ進んでくれるライヒアルトが折れないと言うことで、今回の事態が明らかに今までとは違うことなのだと意識を変えてくれるだろうと。
だから。
「シェスティン。あんたはどうしてもオレと来たくない、一人で行けって言うんだよな」
冷たく光る紫の瞳。薄い唇を歪ませて、わざと酷薄な顔と声を作ると言った。
「じゃあ、そうするわ」
何を言ってるとばかりに、喰って掛かってくると思っていた。
何を勝手なことをと、逆ギレしてくるのだと思っていた。
けれど。
ただの馬鹿みたいに、ライヒアルトは口を半開きにしてシェスティンを凝視した。
俯き加減で顔面蒼白となったシェスティンが、目に見える程に震えている。
「ちょっ……、あの、え? シェス?!」
まさかこんな反応が返るとは、思ってもみなかった。
わざわざ表情を取り作ったのが台無しだと思いつつ、明らかに様子の可笑しい彼女の肩を揺さぶった。
何かぼそぼそと言っているのは、解る。けれど何時もの様な、澄んだ声は聞こえなかった。まるで悪夢に魘されているかの様だ。
「シェスティン、ちょっと、何? ねぇ、何言ってんの? 聞こえねぇよ」
言葉を聞こうと引き寄せ様としたが、思い切りその手を撥ね除けられた。
「お前だけは、……私を置いていかないと思ってたのに――!」
瞬間、ライヒアルトは理解した。
この会話の中で、彼が一番辿って欲しくない事柄に彼女が辿り着いてしまったことを。
シェスティンにしてみれば、まさかそんなと動揺し、自身の中で納得のいく形で結論づける前に、ライヒアルトから答えを突きつけられた、そう言うことになるのだと。
ああ、それでも、と。
『これにつけ込めば、上手くシェスを誘導出来るかも……』
こんな時でもそう考える自分の最低加減に呆れ果てると同時、ほっとした。
この状況に、罪悪心を刺激される様な性分でなくて良かったと思う。感情に流されずに自身の思惑に乗せることが出来るのだ。
心の中で、大きく深呼吸。
「置いていくも何も、シェスが来るって言ってくれないから、オレは行くって言っただけじゃんね?」
通常ならば睨み付ける様に見る筈の彼女は、唇を噛み締め力ない視線をライヒアルトに送っている。
取り敢えず、彼女の精神が復調するまでにケリを付けるつもりで畳みかけた。
「あのさ、あんた解ってるかどうかしんねーけど、オレ、あんたのことはホントマジ大事なんだよ? だからこうしてあんたに殴られても文句一つ言わず、来てよってお願いしてるワケ」
まあ、大抵のことに文句を言ったことはないけどなと、心の中で付け足した。
「でもあんたの答えは、オレ以上に大事なことがあるから行けないって答えだったよな?」
「そんなこと――!」
「ないの? んなワケないわな。一緒に来てっつっても、一族がどうのとかプライドがどうのとか考えてるワケだし」
「それは……」
「それは? 時間ない中聞くから言ってよ」
「私は……」
唇を噛み締める彼女を見て、噛み切ってしまうのではないかとはらはらしつつ、顔には全く出さずに言い募る。
「ねぇ、シェス。ちゃんと会話してよ。オレが言ってることに反論出来ないから、ちゃんと話せないんじゃないの?」
「違う」
そりゃ違うだろうなと、ライヒアルトは心中で頷いた。解っているけど、助け船は出してやらないと決めている。ただ、これからのことを考えて、ライヒアルトのご機嫌を伺うのみな人間にならない様なさじ加減だけは、気をつけなければならない。
「シェスが大事なのは何? オレの大事なのは、シェスだよ。でも、シェスは違うんだよね?」
冷たい表情を少しだけ消し、諦めた様な視線で見る。
「オレはね、シェスが一番大事。次は自分。んでもってシェスが大事なものは、その次に大事なワケ」
大嘘だ。
シェスティンが大事なものなんて、彼女が関心を持つものなんて、自分以外に消えてしまえば良いと思っている。
本当に消してやろうと思ったことなど、何度もある。けれどしなかったのは、一番であるシェスティンの為だ。
その為に吐く嘘は、全て真実なのだと暗示をかけて語りかける。
誠心誠意、心を込めて、一途に思って嘘を吐く。
「シェスティン」
鼓動を落ち着ける必要もなく、平静そのものの様子でライヒアルトは震えるシェスティンを抱きしめた。
本当のことだよとばかりに、彼女に自分の鼓動を聞かせる。ゆっくりと一定のリズムで響くそれを聞かせつつ、大きな手のひらで彼女の背を撫で摩る。
震えが徐々に収まるのを認めて、再度言葉を募る。
「あんたのことを一番に考えてるオレのこと、信用出来ないとかないよね?」
うんとばかりに、頭がゆっくり揺れる。
「だったら、オレがあんたの為にならないこと言うワケないってことくらい解るよね?」
再度頭がゆれた。震えはもうほぼない。
「シェスティン、返事は?」
敢えて自分の口から言わせたい、自身の耳で聞きたい。
「お前と一緒に――」
ライヒアルトの背中に、力強く腕が回された。
最後の言葉は、本当に微かな声だ。
けれどはっきりその耳に聞こえた。間違いなく、彼女は言ったのだ。
『お前と一緒に、ここから出て行く』
と――。