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その4

更紗に言われて、リヒャルト公はもう一度その写真をよくよく見た。(くだん)の 老人は彼には覚えがない人物だが、写真の人は濃いネズミ色の当時の収監服に破れかけたニット帽のヨレヨレなのを被って、見るからに寒そうに肩を縮めて歩いているのがわかる。まだ五十になる手前くらいだろうに、長年の苦労からか、もっと年老いたようにも見えた。


「その『花の魔術師』のお爺さんとは、いつ頃からどこで会ったの?」


父からの問いかけに、娘は何も不審に思わずに、


「いつも行く市民公園の花壇や管理事務所で、何度も会ってお話ししたわ。私が基礎学校の頃からだから、もう4年ぐらい前からよ。遊びに行くと『小さい姫さん』と呼んで、いろいろなことを教えてくれた。」


と、笑いながら言う。公は、単純な印象かもしれないが、このホーエンシェーンハウゼン記念館での雰囲気の中で、しかも20年以上も前の写真の寒々としたイメージと、あの故国の公邸脇で多くの市民が集う明るい公園のイメージが、むしろ奇妙な一致点として感じられるのを止められなかった。更紗が「‥あ、でも‥」と言う言葉で、リヒャルト公は我に返って娘を見た。


「何?どうしたの?」、


「そういえば、パパ、お爺さんが何度か『薔薇祭』のことやお客様方について聞いたことがあったわ。一週間前に行われる企画会議は、ふつうの人は知らないけど、後からテレビや新聞を見れば分かるのに‥って思った。」


聞いて、公は黙り込んだ。はっきりとは説明できない雨雲のような疑念がわいてくる。自分の頭の中の神経ニューロンが、いきなり目まぐるしく活動し始め、シナプス同士が分子を放ち合っているように感じた。


「これは何の符牒だろうか‥。偶然と言うにはあまりにも身近な人の存在感だ。かつて東ベルリンで収監された人物が、今、移民としてスタンブルクで過ごしていることに違和感はない。近代ヨーロッパの歴史の中では、当然そういう事態はあるだろう。‥しかし‥」


まもなく彼の思考は中断する。一般公開の時間が近づき、外国からの来賓の訪問時間を、公自身の謝意の言葉で締めくくったのだ。終了後、さらに、ベルリンの商工団体幹部職員への挨拶や、来年予定されている様々なイベントにまつわる準備内容などの会議が続いたため、リヒャルト公と更紗がゆっくり話ができたのは、夕方、長姉の屋敷へ戻ってからだった。しかし、夕食時までは、一日別行動だったカールが、最高に楽しかった見学を報告するのにずっと付き合った。横で話し好きなミヒャエル氏も一緒に会話するので、更紗も共に互いの報告会のような時間を過ごした。この従兄弟は、おっとりしたテンポの母親と違い、更紗とカールにはなじみやすい親戚のようで、楽しそうに交歓する様子を見て公はホッとしている。執事が夕食の時間になったのを告げに来て、そのお喋り会はやっと終わった。そして三日後、一週間のドイツ訪問を終えて、スタンブルク公爵一家は帰国したのだ。


 8月の下旬、久しぶりに、シュタッテンの公邸のリビングに、一日遅れで帰国した母と次男を加えて家族が揃った。珍しく祖母君のルィーゼ太公妃も加わって、それぞれの夏の公務の結果を話している。一番の話題はゲオルク・晃が時間を取ってちゃんと勉強を続けたかに集中したが、そこは母の梨紗妃が、みんなに


「大丈夫よ。晃は、疲れてても夜遅くまでしっかりやってたわ。」


と保証したので、父君からもお褒めの言葉があった。次には留守と国内の行事を引き受けて、リヒャルト公の代行を果たしたヨーハン・拓から、来年に向けての予定や秋の「Obst Fest」の企画報告がされた。これにはルィーゼ妃も関わるので、おばあ様からも


「タクはとてもしっかりしていて、『公爵の言葉』の代読だけでなく自分の意見も言ったし、なにより周囲の関係者への心配りがよくできていたのよ。本当におじい様が見ていらしたらどんなにお喜びになったかと思うくらい‥。」


と、感動的なコメントを受けて、本人も満足そうだった。父と母はそれを聞いて、以前の懸念が少しずつ晴れていくのを嬉しく思う。長男の成長を感じたのと、自分たちが20年取り組んできた「公務」という仕事に対する揺るぎない気持ちと苦労が報われるように思えたのだ。そして、カール・森からの楽しかったベルリンでの自由行動についての感想が終わり、話題は更紗が行った元収容所の見学内容と、エリーザ・マルゴ伯母様のところで過ごした数日の話で結ばれた。


子供達がそれぞれ自室に引き取り、母君を玄関から車寄せで見送った後、リヒャルト公と梨紗妃はやっとゆっくり感想を話し合えた。ホーエンシェーンハウゼンでの娘の話から、結果的にはレベカ・ハナ・ヨエルに関することは何も発見できなかったものの、更紗のこだわりの何分の一かには相当する「クルトおじ様」への贖罪‥という効果はあったと判断した。公は、写真の人物が、現在すぐ近くにいることまでは妻には言わなかったが、子供達が成長していく過程で、ある部分は本人たちに任せたり、子供ながらの直感による判断は、時には大いに効果があることも初めて分かった。そして次の日、リヒャルト公は、ずっと何かのパズルのパーツになっているような、あの老人について内密にレンツに調査の指示を出したのだ。


そのミッションを受けて、ペーター・レンツはすぐに休暇を取り、ドイツへ個人旅行に出かけることになる。約一週間後、彼が帰国したことで、公は密かに公邸で会談の時間を持った。公は、腹心の部下とも言える彼には、ある程度の事実を打ち明けてはあった。聞いたレンツも、常日頃公女と公子を警護している時に、何度も接点があった庭園師の、まさかその一人が偶然でも東ベルリンの元収監者だったということに違和感を禁じえなかったので、リヒャルト公の特別な依頼にも即断したのだ。


「公爵、報告が遅れて申し訳ありませんでした。」


レンツが恐縮がるのに対して、公は心から慰労した。自分の個人的な依頼で、スタンブルク警察の精鋭を現場から遠ざけたことは、公としても申し訳なく思っていたからだ。なおかつ、5日の予定を一週間に延長せざるをえなくなったことも、結果的にはレンツ個人に負担をかけることだった。


「いや、私の方こそ、忙しい君に特別任務をさせてしまってすまないよ。ただ、この件はどうしてもおおやけには扱いにくい部分があって‥。」


みなまでは‥と首を振る部下に、公爵もそれ以上の弁明は止めた。そして、彼の渾身の調査はそれまで未知だった部分のかなりのところまで確認する結果だった。まず第一に、公爵も尋ねてはみたが、案内をしてくれたドメニク氏からは新しい情報は得られなかったこと。つまりあの老人が何者なのかの確定はできなかった。また、彼以外の関係者も当時のことまでは詳細が説明できる人間はいなかった。次に、レベカの母親だと分かっていたエッダ・サラ・クリューガーという女性について、これは非公式に収監者名簿から過去の記録を集約できた。それは、公爵もあまりの凄惨さに眉をひそめるくらい悲しい事実だった。


                               挿絵(By みてみん)


「彼女は、ベルリンの壁が建設される前から、第三区に住んでいたユダヤ系ドイツ人の一人で、元々はかなり裕福な一族だったようでした。幼い頃はナチスが台頭していた時期で、大戦中はゲットー(ユダヤ人隔離地区)で育ちしっかりした教育も受けられないまま、終戦後は東ベルリンの居住区から西ベルリンの会社へ事務員として通っていたようです。記録に残っているのは、1961年8月の『壁(当初はまだ有刺鉄線や板塀などの簡略なもの)』建設後まもなく、西への亡命を企てたかどでホーエンシェーンハウゼンに収監され、その後獄内で女の子を出産しています。その子の詳細は分かっていませんが、おそらく公爵がおっしゃっていたレベカという女性のことだと思われます。」


そこでレンツは言葉を切った。レベカと母親のことはウィーン大学関係からの資料で分かっているので、公も何も補足の質問はしない。レンツは続ける。


「そして、約二年半後の1964年初め、エッダは収容所から娘とともに釈放されますが、その日の深夜に彼女は幼児を連れて再度壁を越え、西側との境に設けられた無人地帯で監視塔からの銃撃を受けて射殺されています。」


そこまで聞いて、公は心臓を鷲掴みにされるような胸苦しさを覚えた。様子を見てレンツも黙った。調査した彼自身が、その悲惨さに胸がつぶされるような思いを感じたことだからだ。


東西ベルリンは、1948年6月の旧ソ連による「ベルリン封鎖」によって、旧西ベルリンへの道路網と鉄道が遮断され、同胞や親族が完全に分断された。それまでも高まる東西対立の中で、東ドイツの中にある自由主義国占領地という意味で「赤い海に浮かぶ自由の島」と呼ばれていた所だ。翌年、封鎖はいったんは解除されたが、統制が厳しく物資の乏しい東から、豊かで戦後の発展を遂げつつある西への亡命者が相次ぐ。その危機感(それは壁建設前の一時期には、年平均20万人の市民が流出するほどで、建設後も、結局1989年の壁崩壊までの逃亡者は合計で数千人とも一万人とも言われ、うち200人前後の人が射殺された。)から、61年8月13日の深夜に国境警備兵が一斉に恐ろしいスピード(これは当時東側にいた人で、現在の高齢者が同音異口に語ることだった。すなわち、作業人すら亡命させないように当局が国境警備兵だけを使って早急に行ったから‥。午前2時過ぎにはブランデンブルグ門が閉鎖されるという早さだった。)で、有刺鉄線やバリケードを築き始めたのだ。それまでは、体制や国家の境界といっても、双方の合意の下に行き来が可能だったり、分かれた家族が自由に会える状態だった。また、就労年齢を過ぎた高齢者は無審査で西側へ移住できた。それは税収の少ない東側が年金を支給しなくてすむ‥という打算もあったらしい。加えて東側市民としての徴兵を嫌った若者が亡命した際も、双方の承認があれば西側が賠償金を払って身柄を買い取るという方法もあった。その後、次々と西ベルリンを囲むように総延長165㎞に及ぶ本格的なコンクリートや石材で建設されてからは、壁と西側の境に幅数十mの「無人地帯(各監視塔から遮るものがなく、たとえ壁を越えられてもそこでの逮捕や射殺につながった。)」を設置した本格的な遮断ゾーンとなったのだ。この時の様子は歴史的モニュメントとして現在も残されている部分的な「壁」の残骸や、かつての検問所として残された「チェックポイント・チャーリー」に行くとよく理解できる。


公もレンツも、小国であるがゆえに、自国の穏やかで主体的だった戦後復興に改めて感謝を感じていた。そこで、レンツが遠慮がちに言葉を繋ぐ。


「まだ、私の憶測の段階でしかありませんが、二度目の逃亡を謀るのに、子供を連れた年若い女性一人ではかなり無理があると考えるのですが‥。また、無人地帯の外れまでは逃げられたとしても、そこで母を失った幼児がどうやって西ベルリンへたどり着いて、その後の生育を支える誰かの所まで行けたのかは判明していません。」


それを聞きながら、公爵もずっと不自然に感じていたことを初めて口にした。


「つまり、彼女には誰か協力者がいて、エッダと共に壁を越えて逃げたが、女性は殺され、その誰かが幼児を連れて西側まで逃げおおせた‥ということだね。」


頷くレンツは確信を持った目で公の次の言葉を待った。実は、そこにこだわって調査を続けたために休暇を延長した経緯があったのだ。


「それが、きっとヨエルというレベカの親に当たる人物なのだろうね。ただ、あのジョエル氏がその人なのかどうかは未だに分からない‥。」


困ったように話を詰まらせる公に、レンツから新しい報告がなされた。


「実は、エッダ達の元の居住区や記録があるゲットーの資料から、『クリューガー』という家名と『ヨエル』という一族の名前が見つかりました。さらに、その教区のユダヤ教会(シナゴーグ)で洗礼を受けた者の記録から、ユウル・B・ヨエルという1940年生まれの男児がいたことも分かりました。」


聞いて、リヒャルト公は、はっと顔を上げて驚愕を浮かべた瞳でレンツを見つめた。何もコメントはなかったが、その瞳は確実に考えがレンツと一致したことを表していた。


「そうです。ドイツ語でユウル・ヨエルをフランス語読みすれば、‥ジュール・ジョエル、あのベルレン州自然保護協会の理事と同姓同名になりませんか?」


二人ともそのまま暫く沈黙した。公の思い出の中でのレベカの笑顔と、ジョエル氏のそつがない饒舌な印象で、似たような表情が思い当たらない。レンツも、公から託された昔の写真を思い浮かべて戸惑っていた。結局、本題の、収容所の写真で見つけた「花の魔術師」のお爺さんについては、過去からは手がかりを得られなかったので、明日以降、市民局・公園課から当たっていくことにして会談は終わったのだ。


9月の新学期から、カールは5年生になり、更紗はギムナジウム下級での8年生に進級した。スタンブルクの学校は基本的にはクラス替えも担当の変更もないので、二人にとってはそれほど大きな変化があるわけではなかった。ただ、また登校が始まり、授業と自主活動を活発に行うようになって、夏の間に身長が伸びたクラスメートや、バカンスに出かけたらしい日焼けした友人が話題の的になったくらいだ。次兄のゲオルクは最上級生になって、ますます勉強に熱を入れなくてはいけない状況で、もう妹の探偵趣味にも同室の弟にもかまってはいられない。長兄のヨーハンは、夏に父の代行を勤め上げた実績から、10月に行われる 「Obst Fest (果実祭)」 に向けてのイベントにも何度か出席を予定されることになっていた。リヒャルト公と梨紗妃ばかりでなく、公家の子供達にとっても忙しい秋を迎えたのだ。


ちょうどこの頃、教育文化省からの要請で、公妃を中心に自然保護協会が主体となって、新しい世界遺産の登録を目標とすることが決まった。現在ある一件は、文化遺産の「スタンブルクの森と湖、旧市街」だが、今度はアルプス山系の動植物やバラの公国に発展した自然の中で、住民が生活を続けている「ホルストのアルプス山麓の村」を暫定リストに挙げることを目的にしている。この話は最初の一件が登録された2005年からずっと取り上げられてきたが、他国と同じく"保存か開発か‥" で長い間揉めていて、なかなか一致点が見られなかった件だ。しかし、今回、梨紗妃と第2公子がハンガリーに招かれた際、同国の「ホローケー」を視察することができ、住民が数百年もの間守ってきた集落が、そのまま「人の住む世界遺産」として維持運営されている様子を参考にしたのだ。ホルストは、第一次世界大戦まで首都が置かれていたという歴史上の価値と、遷都後の近代化が影響しなかったことで、アルプス山麓の牧畜や花作りの伝統をそのまま残している。冬季の厳しい環境に合わせた木造の伝統的家屋に、今でも各家庭で乳牛の飼育やチーズ造りを継続している関係で、その作業場を含む特徴ある間取りと、木工が盛んな地域柄から美しい彫刻を持つ家並みが際立っていて、最近では芸術集団の移住があり、ホテルやレストランなど観光業の新しい仕事が展開する村に変化しつつある場所だった。


挿絵(By みてみん)


ここもご他聞に漏れず、一時期は住民の高齢化と継承者不足が問題になっていたが、近年では地域外からの新しく若い世代の住民が増えてきていることも目立っていた。ホルスト州の文化課からの熱心な働きかけもあり、スタンブルクらしい歴史的な村を何とかより良く残し、次世代に引き継ぎたいと、国を上げて取り組むことになったのだ。


「世界遺産」はすでに世界中のほとんどの人が知るところとなっているが、もともとはUNESCOが1972年第17回パリ総会で採択した「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」に基づいて、各国各地域から推薦された物件を「人類共通の遺産」として保護・保全していこうという活動だ。きっかけはそれ以前の様々な国際的な規定 ( 1948年のベイルート協定や1952年の万国著作権条約など) を踏まえて、1954年「武力闘争の際の文化財の保護のための条約 ( 通称『ハーグ条約』)」の採択等に従い、紛争地域の文化財や施設を国際的に保護することだった。さらに1962年には文化遺産だけでなく自然遺産も対象として保護する勧告を出し、1964年「歴史的記念建造物及び遺跡の保存と修復のための国際憲章 (通称『ヴェネツイア憲章』)」の成立を経て72年の世界遺産条約に繋がるのだ。そしてヴェネツイア憲章に基づいて、国際的NGO団体であるICOMOS (国際記念物遺跡会議、1965年設立、文化財の調査や保護の進言を主とする学者・技術者の会議)と、それ以前に成立していたIUCN(国際自然保護連合)が、文化遺産・自然遺産それぞれの遺産価値の判断や危機遺産として保護の決定をする。その答申を受ける形で、世界遺産センターが登録準備をし、毎年夏に開かれる世界遺産委員会で、その年の登録物件が決定されるのだ。


世界遺産に推薦されるためには厳しい条件が課されることも有名だ。まず推薦条件の根底に、文化遺産も自然遺産も、その国やその推薦母体となる公的機関と法律で保護されていることが必要である。そして、登録後も厳しいチェックが入り、登録時の水準を常に維持していかなくてはならない。いったん登録されたとしても、災害や紛争等で損傷すれば「危機遺産」という措置がされて、早急に復元し元の状態を保持し管理する義務を負うのだ。最初の登録(1978年の「アーヘンの大聖堂」「イエローストーン国立公園」など12件)から35年を経て、物件数では1000件に近くなったが、すでに2件が登録を取り消しになっている。1件は「オマーンのオリックス保護区」で、自然界では絶滅してしまったオリックス(ユニコーンのモデルといわれるウシ科の珍獣)を復活・増殖するための保護区が、地下資源開発のため十分の一の面積になり、世界遺産委員会からの度重なる勧告にもかかわらず、遺産の成立条件が大幅に損なわれたことによる。もう1件はドイツの「ドレスデンのエルベ渓谷」で、渋滞緩和のための新しい架橋工事を住民投票で決定したことで危機遺産になった。遺産価値には「文化的景観」という条件が課されていたので、新しい橋によりその景観が大幅に損なわれることを懸念した世界遺産委員会とドイツ政府とのやり取りで、他の方法が模索された期間もあったが、結局、国の決定と地元の住民の意志が相反する形で登録の取り消しに至ったのだ。これも争点は"伝統や美観を重視して保護するか、市民の不利不便を解消するための開発を優先するか"だった。このように、世界遺産と認められるには、遺産そのものの範囲だけでなく、より厚く守って行くための方法として、コア(核心)エリアとバッファーゾーン(緩衝地帯)の設定という考え方があるのだ。それに加えて、周囲の優れた景観の保持という条件も存在する。それらが全て満たされた上で、整った物件と見なされる。


だが、このようにして厳しく遺産の成立や維持をしていくのは、単に文化財・自然の保護や観光産業の活性化を目標に‥というだけではない。そもそも世界遺産条約が誕生するきっかけとなったのは、1959年のエジプトで「アスワンハイダム」の建設が決定したことにより、重要な遺跡がナセル湖に水没するという事態に、国や文化の相違を越えて世界が結束して救済に取り組んだことに始まる。当時、ダムの建設に対しては、ナイル川の氾濫を防ぐという避けがたい実情があった。だが、その結果上流の広大な地域が水没することで、アブシンベル神殿ばかりでなく他のいくつかの遺跡も水没することがわかり、エジプト政府の緊急要請を受けたUNESCOが調査し、翌1960年3月から世界に向けて「ヌビア地方の遺跡救済キャンペーン」を行った。これは、初めて国家や思想を越えて貴重な遺産を救う第一号となったのだ。その結果、各国から膨大な資金と技術者が集結して、アブシンベル神殿は一万六千個ものブロックに慎重に裁断され、元の位置から64メートル高い丘に移築・復元された。その事業は初めての試みではあったが、繊細で可能な限りの新技術を駆使して数年かかる革新的なことだったのだ。また、湖の中に位置する「フィラエ島のイシス神殿」は、地勢がよく似ていて高度の高い「アギルギア島」に神殿を移し、そこをフィラエ島と名前を変えて再現している。これらの「ヌビアの遺跡群」は、世界遺産条約による遺産が生まれて2年目の1979年に登録されている。このことからも分かるように、世界遺産の理念の中には、世界の人々が手を取り合って目標に向かうことや、地球上の貴重な自然と文化財を守るために紛争を無くしていくこと、環境破壊や温暖化について人類全体で考える基盤を作っていくという使命を含んだ活動でもあるのだ。


スタンブルクの三ヶ所の「ホルストの集落」は、冬の雪深い気候に合わせて急勾配の屋根を持った造りと、ハーフティンバー様式の中央ヨーロッパらしい外観に、ドアと出窓に施された彫刻が美しい建造物の集合体である。アルプスの東の山塊を背景に、旧公邸の辺りを取り巻くように東西北に位置しており、薔薇の原種を含め様々なバラ園と香料の精製工場こうばを併設した集落だった。登録準備についての整備や造園の関係で、梨紗妃は数度、夫君のリヒャルト公も一度視察に行ったところだ。その中には、環境学者や政府関係者も入っていて、昔ながらのエコな暮らしや環境との共存をテーマとした遺産に位置づけていた。


秋の陽射しが明るい休日の午後、公務があいたリヒャルト公はしばらくぶりにペーター・レンツと会っていた。例の件は解決していないものの、公家の子供達はそれぞれ充実した日常を送り、行事等でも来たる「果実祭」に向けての準備や、ホルスト地域への公務など、妃を中心に公家が関わることが増えて慌ただしかった。更紗も母君に、偶然遠いベルリンで知己の古い写真を見た驚きを語っただけで、それ以外の何かの思惑はないらしかった。


「ママ、不思議にこの頃『花の魔術師』のお爺さんに会えないのよ。せっかく昔のお写真のことを話してあげようと思っているのに‥。」


梨紗妃は、その時初めて老人の写真のことを聞いたのだが、特に不審には思わなかったようだ。


「そう、そんな偶然もあるのね。今度市民公園でお仕事しているようなら、ママも是非会ってバラのことを教えてもらわきゃね。」


ただ、二人の何気ない会話を聞いたリヒャルト公だけは、少し間を置いて娘に確認する。


「サラサは、そのご老人に最後に会ったのはいつ頃 ?」


「えーっとね、春の花壇が終わる頃、秋に向けて蒔く種を教えてくれた時だから、‥多分5月の最初だったと思う。」


その話はそこで終わったのだ。その後、公が眉根を寄せて黙ったことに、梨紗妃も更紗も気付かないままだった。


そんなある日、レンツは、約一ヶ月の調査を終えて報告書をリヒャルト公に届けに来たのだ。公から依頼された内密の調査なので、通常の職務と兼ねて実施するにはどうしても時間がかかった。また、スタンブルクの政策上、年金支給の対象にならない高齢者に対する措置として、移民の臨時雇いのガーデナーは数多くいて、正式な氏名が分からない人物を写真もなく捜すには膨大な手間を要したのだ。


話を終えてレンツが退出する時、彼はやや心配そうに公に言った。


「もし、この件で公爵が何か行動することが必要になれば、必ず私とハンスが警護します。早めに体制を組んでくださるよう、それだけはお約束ください。」


聞いてリヒャルト公は笑いながら、


「そんな大事おおごとではないだろうし、まだ彼がなんらかの容疑者とは限っていないよ。私は今でもジョエル氏は事故死だったと思っているから。」


と、レンツを安心させるように答えたが、その約束は公からの握手で充分感じられた。さらにエントランスで彼は悪戯っぽく付け加える。


「公が秘密をお守りになれるなら、別の重大なことを打ち明けますが‥。」


是非‥と聞きたがるリヒャルト公に、これ以上はないくらいもったいぶって、ハンスとイルゼが内々で婚約したことを告げた。


驚いて何度も状況を尋ねる公への返答を楽しむように、


「いいですね、本人達が話すと言っていたので、ご家族にも2~3日は絶対内緒ですよ。」


と、微笑みながら、意地悪とも取れる決定的な言葉を残して職務に戻ったのだ。


いくばくかの時間の後、書類を読み終えて、さらにレンツと電話でやり取りをした後、リヒャルト公は書斎のドアの前に更紗の姿を見つけた。彼女も暫く用が終わるのを待っていたような様子で、父の表情を読んで黙っていた。


「どうしたの?パパに用?」


廊下を並んで歩きながら、父は優しく娘に尋ねる。この公邸は、ホルストから部分的に移築してからでも90年近く経つから、古くなった所は修理し空調や電化など改修は折に触れてなされているが、それこそ文化財にもなるほどの石造りの外観や、創建時の当主の趣味でロココ彫刻などの派手な装飾(公は「見ていると気恥ずかしくなってしまう。」という‥)が要所要所に目立ってあり、ナンネたちスタッフの作業上はやや手間取る所だ。その“派手な”出窓に座り、先日イルゼたちスタッフがみんなで秋の文様に掛け替えたカーテンにもたれて話した。


「パパ、ペーターが訪ねて来たと聞いて、気になったから来てみたんだけど‥。」


またしばらく言い淀んだが、父君は辛抱強く更紗の言葉を待った。


「もしかして、あの『花の魔術師』のお爺さんのこと、何か分かったの?」


リヒャルト公は、それまでのいろいろな会話の中で、娘がそんなにいつまでも気に留めてないと安心していた。しかし、最初に父に依頼した経緯(薔薇祭の終了時の応酬)から、やはり更紗は結果を待っていたのかと気付いた公は、少し躊躇してから答えた。


「うん、さっきレンツ君が調査結果を届けてくれたから、一応必要なことは分かったよ。」


その言葉を受けて、更紗も聞きたいことを我慢して待っている様子だった。父君に促されて、彼女は遠慮がちに問う。


「ガーデナーのお爺さんにお話する時って、ペーターがするの?いつになるの?」


少女の勘の良さに内心驚きながら、公はゆっくり考えながら娘の顔を見守った。子供だから今後の諸々のことは無理‥と突っぱねることは容易たやすいし、このところの更紗は成長した分聞き分けがよいから、それでも強引に連れて行ってほしいとは言わないだろう。だが、最初から関わった人間として、彼女の思いを汲んでやれるなら、できれば一緒に行けないか‥とも思う。ただ、警備体制と危険度がまったく想像もつかない中で、自分ばかりか更紗に何かの影響がないかどうかを心配した。


長い時間しゃべらないまま、父が窓越しに庭園とそれに続くバラ園、その向こうの市民公園に視線を流していくのを、更紗も同じように見た。もの心ついた時から兄弟や愛犬と数知れず遊んできて、季節ごとに「花の魔術師」のお爺さんと話し、数ヶ月前あの事件と遭遇した公園だ。今回、なんらかの決着をつけることになるなら、そこにはやはり娘の心情と切り離せない何かがあるべきだと、父親として迷っていたのだ。公は一度伏せた目線を、今度はしっかりと更紗に向けた。


「パパは君の気持ちはよく分かっているつもりだ。だから、もし私が会いに行けたとして、これからレンツ君と細かい相談をし、スケジュールの調整をして、ゆっくり更紗の言う『お爺さん』と話し合う時間が取れるかどうかを検討しなきゃならない。明日・明後日とか学校が休みだから‥という気軽な考えではできないことなんだ。」


更紗も微動もしないで聞いている。あの、やみくもに大学へ行ったり、兄と密談してベルリンへ行こうとした表情とは違っていた。


「そして、たとえ君を連れて行けたとして、彼が本当にジョエル氏の事故死に関係があったとしたら、それはとても危険なことで、ペーターやハンスが警護に付いてても大変なことになるかもしれないんだよ。」


そこで、初めて娘は頷いて言った。


「はい、私もそれは分かってる。私が一緒に行くことで、ペーター達にとって余計な仕事が増えるかもしれないし、パパの足を引っ張るかもしれない‥。だから、行かない方が良いのだったら、私は公邸うちで待ってます。」


大きなロココ装飾の出窓は、もう夕日が差し始めている。じっと考えたままの公と更紗は、そのオレンジの光に包まれていくのだった。


 ホルストの旧公邸跡には、小さな記念館は残っているが、広大な敷地のほとんどは公園として州に寄贈されていた。そこにも見事なバラ園が造営されていて、今日も多くのガーデナーが働いている。例年の「Obst Fest」間近の準備と世界遺産関係の整備で、ホルスト州公園課の職員は総出で作業に当たっていた。その中の新庭園を造園する主任のカスパル氏が、図面を見ながら部下と細かい確認をしている時、旧公邸の門があった辺りから歩いてきた背の高い紳士が声を掛けた。


「お忙しいところ申し訳ないが、臨時職員で庭園師のイーザック・ツェッペットさんはどこで仕事中ですか?」         


その後方から「ヴオン、ヴオン‥」という犬の鳴き声と、それを窘める少女の声を聞いて主任は顔を上げた。目前の二人と大きな犬を確認して、彼は驚きを隠せない。


「こ、公爵。‥どうしてここへ?それにプリンツェッスィンも‥。」


前触れのない出来事に言葉を詰まらせる主任に、にこやかに公は問いを繰り返した。焦りながら要領を得ない言い方で、


「池の向こうの新しい茂みを植栽するチームの所に‥、たぶん外れの方ではないかと‥。」


作業員の居場所までは不確かですが‥と言い訳も付け加えた。公はまったく意に介せず笑顔のまま明るく礼を言う。


「Danke ! サラサ、シャーイ、行くよ。」


ゆっくりと立ち去る公爵の後ろから、同じく笑顔で会釈しながら少女も駆けて行く。カスパル氏は傍の作業員と顔を見合わせて、呆然と一行の後ろ姿を見送っていた。


     挿絵(By みてみん)


古い作業着に、小さなスタンブルクの国旗とホルスト州のマークが付いたいでたちの老人は、任された植樹の作業を一人で行っていた。小柄な体格のどこからそれほどの力が出るのか‥と思うくらい勢いよく、地面に掘った穴に根回しをした木を置いていった。まもなく来る冬に向けて、より注意深く植えていかないとせっかくの作業が無駄になってしまう。施肥の方法も独自の経験から、配合や地面からの深さ・根との間隔など、他の作業員では分からないことが多く、このエリアは初めから彼に一任されていたのだ。夢中で仕事している背後から声を掛けられて、彼は振り向いた。


「こんにちは。『花の魔術師』のお爺さん、お久しぶりです。」


見慣れた可愛らしい笑顔を見て、老人も微笑んだ。


「あれ、こんな所へ、小さい姫さんが一人で来なさったのか?」


あらためて身体を向き変えた前で、更紗が少しはにかんで言った。


「ううん、今日は昔のお屋敷跡のバラ園を見に来るのに、パパに連れてきてもらったの。」


パパ‥とすぐには府に落ちないまま顔がほころびかけたが、その後ろの人物を認めてまた真剣な表情に戻る。そこには、彼と目が合って、丁寧にお辞儀をする公女の父の姿があった。


「これは、‥公爵。‥なぜこんな所へ?」


世界遺産の登録準備に入ってから、公妃を始め関係者の視察や訪問は何度かあったので、訪問者があることには驚かないが、この時間に親子二人だけの姿にはいぶかしげだった。老人は手を止めて、無意識に自分のズボンや袖をはたいて泥を落とした。来場者に失礼がないよう、身だしなみを整えたのだ。そばの手車式の移動ベンチを指さして薦め、自分はその横に立っておそるおそる言葉を発した。


「プリンツェッスィンはもちろん、一国の君主であられる方が、このような所にお供も連れずに来られては‥。」


お供‥と言われて、公爵はややすまなそうに来た方向へ目をやって答える。


「いや、心配させて申し訳ないが、私と娘だけでは来られないので‥。」


最後までは言わなかったが、老人もその方向を見やって、古木の陰にさりげなくこちらを見守る複数の人影を認めた。彼は納得したようにため息をついて続ける。


「そうですか、公爵が私の所にまでお出でになるには、よくよくの理由があるということですな。私はただの臨時雇いの庭師ですが、このツェッペットに何かご用でしょうか?」


老人の口調は、どこか開き直ったような強い言い方だった。更紗は以前と変わりなく「お爺さん」と呼びかけて、今の作業の詳細を聞いてきて、それに答える老人を公は待った。ひとしきり植樹の話が終わり、父は娘を池の向こう側の水上花の方へ促した。少女と愛犬が移動するのに合わせて、木の陰から一人の青年が公女について離れて行く。その姿を見送って、リヒャルト公はおもむろに老人に向いて尋ねた。


「ツェッペットさん、‥いえ、ご本名はクラウス・イーザック・クリューガーさんですね?」


その言葉で老人はビクッと身を縮めたように見えた。たぶん誤魔化そうか認めようかと迷うくらいの時間の後、彼は静かに言う。


「誰にも言ってなかった名前をすでにご存じなのだ‥ということは、いろいろお調べになったからここへいらっしゃったのですね。」


公も静かに頷いて、ベンチの隣の空いた所を薦めた。老人は躊躇なく公爵の横に腰掛けて、


「貴方が私に聞きたいことは、J・J‥ユウル・ヨエルのことでしょう?私たちは遠い昔、旧東ベルリンで幼な馴染みでしたから。しかし、それなら、私に何らかの嫌疑がかかってのこと‥。そんな人間の傍で、あなたのような方がお一人でおられていいのですか?危険だとはお考えにならないのですか?」


と、真っ直ぐ見つめて問うのに対し、公も真っ直ぐ見つめ返して答えた。


「私は危険だなどとは考えていません。ジョエルさんは、たまたま5月の薔薇祭の直前に、不幸な事故死を遂げました。そのことにたとえ貴方が関係あったとしても、それを調べたり嫌疑を確認するのは警察の仕事です。ただ、偶然でしたが、サラサがそこに居合わせて、彼の最期を看取ることになってしまった‥。それは娘の父親として大変遺憾でした。」


一言一言、言葉に心を込めて老人に話す。相手は動揺せず聞いていたが、少女のことには微かに反応した。公は続ける。


「あれ以来、私も妻も、本心はサラサに早く事件のことを忘れて心の傷を癒してほしいと願ったのですが、あの子は違っていました。自分が関わったことで、なんらかの真実を知って、納得したいと‥。そして、彼女はエッダとレベカ母娘のことも知ったのです。貴方のお姉さんと姪御さんにあたる方ですね。」


公爵はそこで息を継ぐように少し間を置いた。老人はやはり動ぜず、肯定も否定もせずにただ聞いている。途中からは顔を空に向けて、今はいない二人を捜しているようにも見えた。公も一緒に天を仰ぎ、また視線を老人に戻して話を続ける。


「レベカさんは、私にとっても妻にとっても、また今でも親友のある男性の友人でもありました。サラサが小さい時から慕っている彼の真情を知って、娘は余計に彼女のことを知らなくてはと思い、彼女の人生を追随せざるをえない気持ちになったようです。そしてとうとう娘はある時に、レベカさんの出生地を知りました。」


そこで、老人は驚いたように目を大きく見開いて公爵に向き直った。


「そうです。ホーエンシェーンハウゼン‥先月、私がサラサを連れて訪問しました。今は歴史的な記念館というだけですが、十数年前に行った時と何も印象は変わりません。あそこには、人間の苦悩と魂の叫びが今も淀んだように渦巻いている。当時の収容者の苦しみは、多分、一度や二度見学したからといって、簡単に理解できるものではないでしょうね。」


老人は答えないが、話を聞きながら悲しそうに表情を変えた。そして小さなため息‥


「ただ、今回違ったのは、資料として展示している古い写真の中に、解放時の貴方が写っているのをサラサが見つけたことです。色褪せた、人物の一人一人も特定できないような多くの人の中で、クリューガーさんだけを見つけて『花の魔術師』のお爺さん‥と。」


淡々と、しかし娘への労りと愛が籠もった公爵の言葉だった。その言葉は老人の琴線に触れたようだった。そして何かを悟ったように静かに答える。


「そうですか‥。あの時の写真が‥。そんなこと知りもしなかった。20数年前の自分の忘れ去りたい過去が、今でも人の注目を集めているなんて‥。しかも、私の『小さい姫さん』がそれを見つけるなんて、運命とは恐ろしいものですな。」


遠くから聞こえる少女と担当者の話し声や、シャーイと戯れる笑い声とハンスが注意する声が届いてくる。2人は池の向こうに小さく見えるその人群れを、互いに目を細めて見ていた。


挿絵(By みてみん)


「貴方も多分ご存じでしょうが、娘は半分東洋の血を受け継いでいます。このヨーロッパで長い間、排他的で独善的な歴史が続いてきたことには私自身が疑問を持ってきました。ただ、そういう中で多くの方々が、理不尽な思いと言いようのない苦しみを受けてこられたことには、謝罪の念とこれからの改革の責任を肝に銘じています。唐突でしたが、今日、こういう会話の時間を取ったのも、直接サラサがお話ししたいと望んだことからです。ご理解いただけますか?」


頷いて聞きながらも、老人は疑問を呈した。


「しかし、そう考えられるのは、貴方様が恵まれた環境のお生まれで、何も不自由なく育ったからでしょう?公妃様とご結婚されるいきさつも、お二人を取り巻く困難との闘いはあったでしょうが、強大な力に引き裂かれて、あらがえない状況に置かれた経験はおありにはならない‥。」


世が世だったなら、子供時代にナチや戦後の拘束と貧困に遭わなければ、本来の聡明さに加えて教養を身に付け、それなりの職業にも就いていたであろうと彷彿とさせる物言いの人物だと思った。リヒャルト公は、エッダのことを考え、納得して聞いていた。確かに、愛した人の子を宿しながら会えないまま、しかも獄中で出産し、その子を連れてまで「壁」を越えようとするようなことは自分にも梨紗にも起こりえなかっただろう‥。


「そうですね、私たちの時代にはそこまで過酷な状況はありませんでした。どんな立場の人間でも、個人としての意志を主張することは可能でしたから‥」


‥しかし、と言葉にはしなかったが、心の中で続けて考える。それは懐かしい気持ちでもあったのだ。


「もし、どうしてもリサとの結婚がかなわないとなれば、私は本気で日本に行っていた。」


少々自虐的にも見える微笑みが公に見えた。小さな声で老人に弁明する。


「他の人から見れば、『おんば日傘で育った』者の戯言たわごとにしか映らないと思いますが、これでも全てを捨てる決心はあったのですよ。‥もしかしたら、ここに居るのは私ではなく、私は遠い東アジアでドイツ語の教師になっていたかもしれません。」


ただ‥そうなったとしても、あの子達の親には確実になれただろうことは、今でも誇りです‥と言葉を結んだ。公爵の微笑みは何の含みもない晴れやかな笑みに変わったのだ。老人もそこは相手を見て笑う。


「そうですね。あのお転婆でお喋りなプリンツェッスィン以外の、他の姫さんは考えられませんな。」


聞いて苦笑しながらも、公はゆっくりと本題に入っていく。


「これは、あくまでも私の想像に過ぎませんし、そのことで貴方の行動の何かを咎めるものでもありません。‥、エッダさんが最初の逃亡をしようとして逮捕された時、ジョエルさんとの相談でどういう理由でかまでは分かりませんが、少なくとも二度目の逃亡には一緒だったと考えます。母親が射殺された後、幼いレベカは無事に西ベルリンにたどり着いて保護されていますから‥。そして、十数年の間に、ヨエルという家名できちんと教育を受け、優秀な留学生としてウィーン大学に在学していました。その後に、私達も私の友人も彼女と親交を結び、素晴らしい先輩として、多大な影響を受けることができたのですよ。」


エッダの死に関する所は苦しそうな表情になり、成長したレベカのことを聞く時には、皺の多い顔と背中の曲がった老人が急に若々しく身を乗り出したのだ。だが、それらの公の推測にも彼は何も答えなかった。


「貴方はエッダさんの弟として、お姉さんの幸福と、幼い頃しか知らなかったレベカの成長した姿を見られることを願っていたのでしょうね。収容所から出て一人で、そのままジョエルさんが居住していたと思われる場所を転々としているので理解できます。それがやっとかなうと思っていた時に、再会したジョエルさんから二人の死を告げられた‥と解釈したのですが。」


公は、その後は敢えて続けなかった。自分と更紗がこの老人に関われるとしたら、ここまでの彼の人生と心情のみであって、それ以上踏み込むことは礼儀としてあってはならなかった。その後、長い長い沈黙が続く。数十メートル向こうの木陰から、レンツの懸念が秋波として伝わってくるようだった。今回の面会を提案し、更紗の同行を含む警備体制を依頼した時、彼はとても信じられないと反対した。公爵は、反対されるのは当然だと思いながらも、その前に更紗が言った言葉、


「お爺さんは、決して悪人ではないわ。長い間にいろんな事があって、苦しみと悲しみを背負ったまま、この国で花や木を生きがいにしているだけの人‥。今まで私が話をしてきて怖いことは一度も感じなかった。その人に、亡くなったお姉さんやレベカさんのお話を聞かなくちゃならないのに、警察が取り調べる以外に方法がないの?パパは、お爺さんと胸を開いて話し合えないの?」


との要旨を伝えて再考を促した。それでもレンツは「駄目です!」と、なかなか了解をしなかった。彼の心配は当然だったろう。


「公のお手際を疑うわけではありませんが、たとえ我々が銃器などで警護したとしても、話の流れではクリューガーが感情的になって、後先なく保身に走るかもしれません。いくら70歳の老人だとて、ジョエル氏とあれだけの狡猾なやり取りをしてきたのですから、完全な善人とお考えになるのは危険です!ましてや、プリンツェッスィンが傍にいて人質にでもされたら、公爵だけでなくサラサ様まで危険に晒されます!」


顔色を変えて意見する若い部下に、ゆったりと公は話し続けた。


「我々の安全第一に考えてくれてとても嬉しいよ。そして、警備の責任上、少しでも懸念があれば無理ができないことも重々分かった上で、それでも敢えて私は君に頼みたい。これは、あくまでも公家が私的に旧都を訪問し、そこで娘の知り合いと語り合う‥そのために君とハンスに付いてもらう“だけ”(レンツは呆れたように何か言いかけたが、公は手で制した。)のプライベートなお願いだよ。」


そして最後はレンツが折れた。一つには、公自身が防護術を会得して何度か実践してきたことがあったのだ。まだ、結婚前、公世子としての公務が始まった頃から彼は身体を鍛えると同時に、結婚後は特に、妻や子供達を同行させる際にも、いつでも対応できるように日々訓練を積んでいた。しかし、それでも緊急の時は許可なく発砲もあることを含んだ上での了承だったのだ。


「それに、この老人がどういう形でジョエルさんの死亡に関わったのかはまるで分からないのだから‥、今の時点では、幼な馴染みの姉の元の夫で、年老いて会えるはずの姪にも会えなかった‥というだけの関係だよ。あの日の呼び出しの紙片も彼のものかどうかは確かめるまで断定できないし、子供の頃の友達だった相手と、何十年ぶりに昔話をしたかっただけかもしれない‥。」


大人しく聞きながら、仕方ない‥という表情を隠すことなく部下は答えた。


「そうですね、好意的に解釈すれば‥。そうあってほしいものですね。」


 今、公の目前にいるクラウス老人はただでも小さな身体をもっと曲げて、ずっと逡巡しているようだった。そして、ふと姿勢を伸ばした。大きく息をついた後、リヒャルト公の方は見ずに話し始める。


「まったくおかしな展開ですな。こんな公国の外れで、君主ともあろう方がロクなお供も付けずに一介の移民と話しておられる。しかも姫さんを連れて無防備に‥。私なんかと話されることも異例なら、あんなユウルなんかのために真実を探ろうとすることも異例のことでしょうな。」 


それには公は何も返答しなかった。「あんなユウル」という言い方は気になったが、どんな小さなことでもきちんと解明することが大切だと考えた更紗や自分への自負があった。


「公爵のお考えでだいたいは合っています。ただ、一つだけお調べになれなかったことがあるようですね。」


老人はベンチの端へ身体を遠ざけて、あらためて公に向いた。そして長い話を始める。


「ユウルと私達姉弟は本当の家族のようにして育ちました。物心ついた頃は、まだベルリンも住みやすくて皆で農場など駆け回っていましたよ。ゲットーに入れられても家族ぐるみで助け合い、食べ物を分け合ったり励まし合ったり‥。少年期を過ぎる頃、姉と相思相愛だったのに彼は、戦後の混乱と生活に困窮する東から、一族も友人も捨てて西へ亡命したのです。それでも初期は、ユウルが西で市民権を得て小さな会社を立ち上げたことが、いつかは我々にも何かの恩恵をもたらすと期待していました。その頃、エッダは正式に許可を得て彼の会社に働きに行っていたので‥。」


そこまで一気にしゃべり、老人は息を継いだ。遠い過去の記憶ながら、順を追って確実に話すことから、もう数え切れないほど反芻したであろう様子が分かる。


「1961年7月のある日、姉はユウルがプロポーズしたと言いました。自分ももちろん受けて、9月の末に式を予定していると‥。西ベルリンの市街の様子や、結婚後に暮らす家や、予約した教会のことや‥、本当に幸せそうに。そして、8月13日の夜中に、突然『壁』の建設が始まり、このままでは結婚式に行けないという事態が起こったのです。何度も何度も当局に掛け合いましたが、ついに許可は下りませんでした。東側が焦って境界を遮断した背景には、若い労働力の流出を阻止するという目的がありましたから、21歳の市民に対して『結婚』という理由があっても許可はできなかったのです。そして、越境を決心した姉は、誰にも言わず準備をしていました。私達家族は何も知らされてはいませんでしたが、私はうすうす感じていた。なぜなら、荷物などはほとんどないはずでしたが、手製のウェディングドレスを大きいハンドバックに隠していたから‥。」


公は、1961・8・13の数字とエッダの思いに胸を打たれていた。なんと皮肉な‥とも感じていた。もう少し時代がずれていたなら‥せめて後一年‥という運命の意地悪さだと思ったのだ。老人の次の言葉はなぜか長い躊躇を伴った。公も黙って待つ。


「‥、エッダが『壁』を超える前に当局に通報したのは‥、」


異様な言葉の高潮に公は老人の方向を見た。まさか‥という思いが駆け巡る。


「通報したのは‥私‥です。」


苦しい息の下からクラウス老人の言葉が吐き出された。エッ‥と、聞いて言葉を飲んだ。


「ユウルは、その頃には少しずつ変わってきていました。私も西の小さな工場に通勤していましたから、二人の関係が以前と微妙に変わってきていて、姉が思うほど彼は純粋に結婚に誠意を持っているとは感じられなかったのです。それでも、家族は祝福しようとしました。‥それなのに、あの男は『壁』に隔てられたとたん、『もう無理だ。あきらめよう。』と連絡してきたのです!」


最後は「叫び」にも聞こえる言葉だった。その場にいなかったリヒャルト公ですら胸がふさがるような錯覚を覚えたのだ。「自由主義」のもたらす恩恵と功罪の狭間を強く感じていた。


「私達も体制には逆らえないと姉を説得しましたが、彼女の思いは強くどんな危険を冒しても‥という覚悟だったようです。もしかしたら死んでもいいくらいの‥。でも、シュタージに逮捕されて収容所送りになって、短期間で釈放されることを願って家族は待ったのです。」


後は調査したことで理解できる。しかし、老人は絞り出すような声で続けた。


「子供ができていたことは、私達は知らなかったのです!それだけは、どんなに悔いても取り返しがつかない‥。ただ、傷ついた姉の心を家族で癒し、いつか新しい幸せを見つけてくれれば‥、ただそれだけの浅はかな判断でした。」


泣いてはいなかったが、一つ一つの言葉の震えが彼の心境を語っている。公も何も言えなかった。


「そして、やっと面会ができた時、女の子が生まれたことや『レベカ』と名付けたことを知らされ、私は死ぬほど後悔しました。どんなに謝っても許されないことでしたから‥。しかし、姉は許してくれたのです、自分の安全を思ってくれたから‥と。いつか、この子をユウルに会わせたい‥、東西が自由に行き来できる日がくることが希望だと‥。家族は、その時のエッダの言葉を信じました。釈放されたら、父親を知らずとも家族みんなで大切に育てよう‥。私はユウルの心変わりを姉に伝えてはいませんでしたので、レベカは私や老いた両親にも希望の星になったのです。だが、釈放されたその深夜に、姉は『壁』を越えると言いました。今度は必ず協力してほしい‥と。」


「忘れられない‥、あの雪と氷で凍てついた壁の脇の暗闇で、レベカは泣きもしないで母親にしがみついていました。もう、エッダには何の説得も通じない。子供を父親に会わせることと、豊かな西での未来を与えること‥、彼女の希望はそれだけでした。‥一緒に無人地帯を逃げ、途中で姉が撃たれても走り続けることしかできなかった。」


そこで、公は自分たちの判断の間違いに気付く。


「そうです、エッダと一緒に壁を越えたのは、私です。銃声の後、彼女が生きているかも即死なのかも分からないまま、国境警備隊の迫ってくる足音から必死に逃げました。今でも毎夜のように夢に見る光景‥、サーチライトとサイレンが渦巻く中、私に抱かれて走りながら、レベカはその幼い瞳で母親の倒れた姿を見続けていたのです。」


公は目の奥に痛みを感じるようで、瞼を開けていられない気持ちになった。遠くに映る自分の娘の姿から目を伏せたのだ。


「ユウルの所にたどり着き、彼にレベカを託しましたが、そのまま私が居ては子供の行方が捜されると思い、半月も経たずに東へ戻りシュタージへ出頭しました。そして、やっと解放されたのが、公爵がご覧になった写真とやらなのです。」


そこでリヒャルト公は目を開け、再び遠くでハンスと話している更紗を確認する。そして、決心したように、疑問に思ったことについて尋ねた。


「なぜ、収監されると分かっていて、わざわざ東へ戻ったのですか?ふつうに考えても貴方の収容年数は異常に長いと思いましたが‥。」


「一つには、自首したら早く釈放されると考えました。エッダのことは仕方ないにしても、残された老親のことは心配でしたから‥。もう一つには私の収監は一回ではありません。出る度に、越境こそできませんでしたが、レベカのその後のことを知りたくて西の知人と連絡を取っていましたので、それが当局に知れると逮捕・拷問の繰り返しだったのです。」


話している老人も、聞いた公も何度かため息を禁じ得ない。


「1989年の初冬から、ユウルとレベカを捜して、ベルリンからミュンヘン、そしてストラスブールと居を変えました。彼は、東西統一後のどさくさで大きくなった会社を移転させたり、自分の身元を分からなくしたりすることでそこの名士になっていったようです。私は何の資産もなく、ただ、唯一の身内になってしまった姪に会いたい、姉の無念を晴らしたい‥それだけの気持ちでしたが、スタンブルクでやっと会えた彼は、私のことは『知らない』としか言わなかった。」


クラウス老人は自嘲的に回想しているようだった。しかし、公は「身元」という言葉で全てを理解した。


「でも、あなたと彼が、J・JとC・Cという子供時代の呼称で呼び合うのは、他の人間には分からなかったはずですよね。ジョエルさんが白を切り通せなかったのは何故?」


そこで彼は初めて薄笑いを浮かべた。


「あの男の性格ややり方は充分承知しています。西ベルリンでやっていた事業から、たたけば埃が出るくらいのキズはすぐに分かる。」


「脅した‥のですか?」


老人のあざ笑うような表情に、公は少し寒いものを感じた。


「私の疑問にそらとぼけながらも、ユウルはこのままではまずいことを理解していました。なぜなら、私と会った時にはもうとっくにレベカはこの世にいなかったから‥。それを知らせないためにも、我々の関係を認めることはできなかったでしょうね。だって、レベカが彼から離反したのも、自分たちの出自‥ユダヤ民族であることを隠蔽したことが原因ですから。」


「クリューガーさん、一つ確認したいのですが‥。」


公はまっすぐに老人を見つめて、その答えから真実を見つけようとした。


「シュタッテンの市民公園で彼を呼び出したのは二回目ですか、三回目ですか?」


そのとたん、頬を緊張させたクラウス老人の顔が印象的だった。


                               挿絵(By みてみん)


「なぜ、そんなことを?‥私が彼を追って公国に住み着いてから、臨時の庭園師になれてやっと接点が持てたのです。回数なんか関係ないと思いますが‥。」


リヒャルト公はその返答を残念な気持ちで聞いていた。そして、言いたくなかった事実を告げる。


「いえ、とても重要なことなのです。今年の5月の首都は、例年に比べて確かに暑い日が続きましたが、それでもヨーロッパクロスズメバチが異常に繁殖したという報告はされていませんので‥。」


「‥。」


答えを模索している老人の心理が手に取るように分かった。そして、彼は覚悟するように、言った。


「なるほど、公爵の部下は大変優秀ですな。そこまでお調べになっているのですね。」


その時の引きつった笑みの中に、何か冷たい光を感じる。公は無意識に息を詰めた。


「私が持って行きました。仕事の合間合間に集めて飼っていたものをビンに入れてね。ユウルが蜂毒に対して特殊な体質を持っていることは子供の時に知っていたから。‥でも決して殺そうとしたわけではありません。ただ、脅そうとしたのです。私はどうしても、姉のこともレベカのことも責任逃れすることを許せなかった。真実を認めて謝ってくれれば‥と思っただけです。もし、私になんらかの罪咎つみとががあるとしたら、その後に蜂に刺されたかもしれない彼を放って帰ったということだけでしょう?」


公は、老人から一旦目をそらして、また見つめながら丁寧に補足した。


「いいえ、それは犯罪です。たとえ直接手を出さなくても、明らかにそうなるかもしれない事態を予測できるのに、それを避けずに、この場合『蜂』という凶器を持っていった、これは『未必の故意』に当たります。結果、最悪の事態が起こってしまったことに対して、貴方の責任は免れないのですよ。」


クラウス老人はしばらく黙り込んだ。そして、苦々しそうに再度口を開く。


「それでも、あのユウルが‥天国ではないだろうが、あの世でエッダやレベカに謝罪していると思えば胸のつかえも下ります。私を逮捕したいのなら、どうぞ!‥むしろ私は本望です。」


公はこれ以上は‥と思った。老人の言葉に首を振りながら、


「いえ、『逮捕』なんて‥。ただ、私は貴方に、ジョエルさんの人生についても考える時間が必要だと思いました。それだけのことです。」


と言うが、その言葉にも彼はせせら笑いを浮かべたように見えた。公は重ねて言う。


「たとえどんな過去を持った人でも、また貴方が個人的に恨みを抱いていたとしても、誰にも、彼が生きて何かに従事していたことを取り上げることはできません。貴方は『あんなユウル』と言いましたが、ジョエルさんのおかげで動くはずだった行事や職員がいました。公国に貢献してきた実績もありました。‥レベカさんのことだって、二人が結果的に離反したとしても、親として、彼は娘をきちんと教育し育てたではありませんか。そのことを否定することは誰にもできない。」


最後の言葉は少し強かった。それは、どんなことがあってもクラウス老人に理解してほしかったからだ。聞いて、相手はうつむく。


「‥逮捕はできません。私もスタンブルク警察も証拠となるものを掴んでいるわけではないので‥。自首なさるかどうかは、ご自身の判断でしょうが、それも必ずということでは。ただ、私は、貴方の年齢と長いご苦労への、情状酌量の余地は大いにあると考えます。」


二人の長い話は終わったかに見えた。では‥と立ち上がりかけたリヒャルト公に、老人は話を付け足した。


「自首することになれば、事実を全てお伝えしなくては‥。」


意外な表情で振り向いた公に、彼は悟ったように言った。


「公爵と姫さんが、真実を知ろうとここまで努力してくださったお気持ちには感じ入ります。これが例えば、警察に連行されて、尋問を受けたなら私は何もしゃべらない。どこで話しても、誰にも理解などできないと思っていたから‥。」


そしてベンチに掛けたまま、最後の話をした。


「あの市民公園の東屋で、散歩の人も近づかないことは承知の上で、私はユウルに向けて蜂の数十匹を放ちました。そして、刺されて苦しみ始める前に、彼がいつも持ち歩いている『エピネフリン皮下注射』のキットを取り上げたのです。その時に彼が見せた悲しみの表情を、私は、それ以上に悲しく感じながら立ち去りました。」


公を見つめる老人の瞳には、もう何も込められてはいなかった。澄んだ水に浮かぶ枯れ葉のような表情だと思った。


「ただ、これも状況証拠でしかないでしょうが‥。」


リヒャルト公はもう何も言わずに、敬意を込めてお辞儀した後、遠くに向かって更紗を呼んだ。少女は息を切らせて駆け寄ってきて、父と老人に話しかける。


「お話は終わったの?お爺さんが今度市民公園でお仕事する時には、ママがバラのことを教えてほしいそうよ。」


そして、さらに楽しそうに老人に言う。


「この間、パパが教えてくれたの。お爺さんのお名前が分かったって‥、クラウス・イーザックさん。」


にっこり笑って「またね‥。」と言い、父ともと来た方向に帰って行く。去り際に、


「寒くなってくるから、風邪など引かないで、お気をつけて過ごしてください。」


と、愛らしく手を振った。老人も、礼を言って付け加える。


「プリンツェッスィン、貴方もお元気で‥」


あとは心の中で繋いだ。


「どうぞそのままスクスクと成長なされますように‥。」


公は敢えて振り向かなかったが、彼が言った「自首するなら‥」という言葉を心の中で繰り返していた。自分の無茶とも見える行動に感銘して、老人は決意をしたのだろう。そのやり取りの途中には、彼がかわいがって馴染んでくれた更紗の笑顔が必要だったことを再認識したのだ。


挿絵(By みてみん)


 数日後、「果実祭」の企画会議が近づくにつれて、梨紗妃とリヒャルト公は様々なイベントを主催したり、各関係団体の会議や行事に出席したりで、早く時間が流れて行くように感じていた。毎年のこととはいえ、参加者の顔ぶれが変わるなど、その年の農産物や花の生産状況によって企画の内容が変わるので、初めての対応も多くなる。今回、シュタッテン大学のヨーハンとエーリッヒが所属する研究グループから「新開発による」何か(?)の出品があるということで、主催者というだけでなく、父母としても心待ちにして準備してきたのだ。その日は伝統舞踊の発表を鑑賞するために、公邸から正装して史料館に出かける時、二人はそんな話をしながら歩いていた。市民ホールは公邸の隣の敷地で、正門から大きく回ると歩いて15分や20分はかかる。もっとも、あの事件の際、更紗を心配して公が駆け出した時は、横の通用門から30秒で入って行けたが‥。今回、取材や市民の声援に応えるための歩きだったが、警護に付いていたレンツが、さりげなく近づいて来てリヒャルト公に耳打ちする。


「公、大きくは取り上げられていませんが、今日のホルストの地方紙に、『臨時職員の庭園師が蜂毒によるアレルギーで死亡』という記事が載っています。名前は伏せられていますが、内容で判断するとクリューガーのことだと思われます。」


聞いて、公爵は目を見張ってレンツを見た。梨紗妃には分からないように、彼がそっと頷くのを確認したが、周囲のどよめきとカメラのフラッシュに我に返って、にこやかに目線を戻したのだ。その時はそれ以上の話ができず、午後に公邸に戻ってから、書斎でホルスト新聞を受け取って時間をかけて読んだ。その記事そのものには大して詳しく書いてはいなかったが、他の場所に、世界遺産登録関係の整備の進み具合や、旧邸跡の新庭園の工事の概要なども書いてあって、レンツとそれらの情報交換をしながらだった。公は先ほどの驚愕が、今やっと静まったので、


「これは‥、クリューガー老人にも蜂毒のアレルギーがあったということだね。だから彼は対処法をよく知っていたのだ。」


と、数日前を思い出していた。エピネフリン皮下注射のキットを、いまわの際にジョエル氏から取り上げるという行為の中に、明らかな殺意があったことは、あの時の彼の告白で理解していた。アナフィラキシー・ショックの即時性の危険を抱えた患者は、アレルゲンとなる食物や蜂毒の作用によってショック症状を起こし、10分ぐらいの間に口唇こうしんや全身の痺れ・極端な血管縮小・呼吸器の狭窄によって死に至る。最近の医療器の開発から、症状が発現する前に少量のアドレナリン注射をすることで、これらの状態が緩和され救命につながる例が増えてきた。それがエピネフリンキットで、ショックを起こす恐れのある患者に対する医師の診断のもとで、携帯することができるのだ。その記事には、いつも持っていた注射のキットがその日には携帯されておらず、仲間や現場主任が駆けつけた時にはすでに手遅れだったとも書かれていた。リヒャルト公は読み終えて、長いため息をつく。


「結果的に彼を死なせてしまったことは、我々の判断ミスだったのだろうか‥。あの話し合いが終わった後、速やかにホルストの警察に保護させておけば‥。」


老人の過酷だった人生の話と、あの日の最後に見せた達観したような表情がオーバーラップして、自分の対応に悔いが残る結果だった。


「いいえ、公。どんな方法を取っても、おそらくクリューガーが納得する人生の締めくくりにはならないでしょう。これで良かった‥とは申しませんが、長い苦悩の結果、最後に彼が自分で選んだ方法なのですから‥。」


あの時、密かに公爵のチョッキの内側に付けていた超小型のマイクで、ペーターもハンスも二人のやり取りを聞きながら、いざという時は瞬時に動けるように身構えていた。それで、同時にクラウス老人の悲しい半生の話も聞かざるをえなかったのだ。警護責任者の青年は、あの時の緊迫感を思い出したようで、


「公のお話が、途中から、ジョエル氏を呼び出した『回数』に波及した時は、少なからず我々も身構えました。事前の打ち合わせでは、お一人では難解な分野までは踏み込まず、事件性を匂わせて彼を説得するだけ‥ということでしたので。うまくして老人が出頭したら、その後はホルスト警察に任せるとおっしゃったから、あの展開では最悪の事態も考えました。」


と、やや恨めしそうに上司に言う。行動が予定外だったことはすでに謝っていたので、公爵もただ頷いた。


「どちらにしても、初めから、彼が我々に反撃することも、説得に応じて自首することもなかった‥ということだったんだね。」


二人が新聞に目を落として座っている所に、更紗が学校から帰ってきて書斎に来た。今日は「果実祭」で忙しくなる前に、イルゼとハンスの為にお祝いのお茶会を予定しているので、公邸のスタッフも子供達も楽しみに待っていた午後だ。レンツは半休を取っているので、今日の仕事はもう上がっている。公女の明るい声に気持ちが浮揚した。


「パパもペーターもいつまで内緒話してるの ? リンドホーフ夫人はきちんとしているから、ハイティーの時間が1分でも遅れると怒られちゃうわよ。」


少し意地悪な表情で、楽しそうに少女は二人を急きたてた。ホルストでのいきさつについては、更紗からの問いに父君が明確に答えてあったので、もうあえて話題に上ることはない。


「クラウスさんは、あの時、長い間会えなかった幼な馴染みのジョエルさんに会って、お姉さんや姪のレベカさんのことを聞きたかったんだそうだよ。やはり、ジョエルさんとエッダさんはレベカのご両親で、東西に引き離されたり収容所に入れられたり、結婚することはできないままだったけど、その後に父親に引き取られて育っているはずの身内に会いたかった‥って言っていたよ。」


更紗はホルストから戻る車の中で、シャーイを間に挟んで彼の毛並みをいじりながら聞いた。その時の少女の様子は、とても感傷的に見えた。


「お爺さんが、レベカさんの事故死を聞いた時はどんなにかお辛かったでしょうね。レベカさんだって、幼い頃にお母さんを亡くして留学して一人で暮らしていたから、二人とも寂しい思いを耐えていたんだもの。‥私、ママがいなかったりパパや家族と一緒にいられないことは考えられないわ。本当に、‥悲しかったと思う。」


リヒャルト公はそんな娘を優しく見守った。家族について、あらためて考えさせられる事件だったと思った。その後は公も長女も何も言わなかった。公邸に着いて、もの問いたそうに出迎えた母君にも、「バラが綺麗で、工事が進んでいた」ことだけを報告したのだ。


「それで、ジョエルさんは、やはり蜂に刺されたことによるショック死だったの ? 」


公邸の廊下を歩きながら、娘の質問に、公ははっきりと答えた。


「そう‥。偶然だけど、話し合いを終えて、クラウスさんが立ち去ってから災難に遭ったようだね。レンツが聞き込みをした内容では、数分の時間差で彼は蜂に襲われていたらしい。皮肉だが『C・C』と言ったのは、最後に思い出を語り合ったからなのかもしれない。サラサが見かけて役立ってあげられて、きっと良かったんだよ。」


秋のパイやケーキを囲んで、賑やかにアフタヌーンティーの時間が過ぎていく。公邸のスタッフは入れ替わりでイルゼを祝福しに来、カールと更紗は、ハンスを良いからかい相手にして彼が照れる様子や反論する内容を面白がっていた。そこへ遅れて帰ってきたヨーハンとゲオルク、大学を一時抜けてきたクルト医師が合流する。ひとしきり話が盛り上がった後、ヨーハンが何か重大なことを報告すると予告して一度部屋を出たのだ。リヒャルト公と梨紗妃は「Obst Fest」への出展絡みのことだと予想がついたが、他のメンバーは何かとワクワクする様子で注目した。公家(こうけ)の長男は、以前にも増して落ち着いた表情に少し笑みを浮かべて戻ってきた。みんなが歓声を上げたものをその手に持って、


「これは、明日発表される新種のバイオ栽培によるバラです。今日はおめでたい席だし、ヘルムート先生から公邸で紹介するように‥と預かってきました。来週からのイベントに出品されて、世界に向けて発表されるので、みんなも承知しておいてください。」


と誇らしげに「青いバラ」を見せた。今までも、諸外国ではバイオバラの青い品種は開発されていたが、自然交配での青バラはまだ完成してはいない。現在は紫や灰青の品種までの改良が進んでいる。バイオによる技術も、バラの色素が繊細で微妙な発現をすることから、なかなか安定せず、青紫で色が薄いものは、例えば日本の「サントリーフラワーズ」がペチュニアから取り出した「デルフィニジン」という青い色素を用いた遺伝子組み換え技術によって成功した。すでに「カルタヘナ法」で認定されているので、切り花としては多く出回っている。世界中が長年あこがれ続けてきた「青いバラ」が数多く栽培される日も間近なのだろう。しかし、今、ヨーハンが手に捧げているのは、何とも言い表わせないほどの涼やかで明るい「水色のバラ」だった。皆の驚きを代表したように、梨紗妃が言葉を発した。


「素晴らしいわ、ヨーハン。『薔薇の公国』と呼ばれるスタンブルクで、こんなに美しいバラが咲くなんて、皆さんの努力で開発できたことを誇りに思うわ。」


リヒャルト公も満面の笑みを浮かべた。


「ヨーハンやエーリッヒが関わってこんな技術が成功したことは、私達もとても嬉しいよ。次の『薔薇祭』はきっとこの青いバラが主役だ。今から楽しみだね。」


それは、この日の秋空の色を写したようで、吸い込まれるほどの幸せな色だった。そして、ヨーハンは教授に言いつかった一番の用件を伝える。


「ママ、教授からの伝言ですが、このバラの名前はぜひ公妃につけてほしいとのことです。お忙しいでしょうが、よろしくお願いします。」


夫に腕を取られて、梨紗妃は、一瞬みなを見回し照れながらも大きく頷いた。そして後日、「果実祭」の花のイベント会場で、その名称が発表されたのだ。それは、誰もがほのぼのと納得する名前だった。


「Kleid Prinzessin (リトル・プリンセス) 」


会場のメインコーナーに数本の大輪が飾られ、その後ろには開発に携わったシュタッテン大学の研究チームと、名付けた梨紗妃を囲んで公爵家の全員の写真が掛けられている。まさにリトルプリンセス更紗の笑顔が印象的な、家族の肖像であった。

Das Ende  



             挿絵(By みてみん)

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