その1
スタンブルクはドイツの南端に位置し、オーストリア国境に接した半農半工商の美しい公国である 。公爵は在位十一年目のリヒャルト・アロイス2世、公妃は日本から嫁いだアンナ・梨紗・フォン・スタンブルクであり、三人の公子と一人の公女がいる。
この話は、その三番目のおてんばな公女が13歳になったばかりの春のこと。
スタンブルクに遅い春が来る5月、隣国オーストリアでは低地からはい上がるようにバラが開花し、この国ではその波がアルプスの東端の低い峠を越える形で来る。もちろんドイツやチェコでは北部を除きすでに春の様々な花祭が盛りになっている頃だが、国土の大半にシュバルツバルト(独)やベーマーバルト(チェコ)から延びる高原地帯を持つスタンブルクでは、ドイツとは逆行する形で美しい春を迎えるのだ。
公邸が置かれているのは、新都と隣接している古都シュタッテンである。ドナウ川の支流になるイン川のさらに支流となるハラル川に添い、流れの途中の盆地にハラル湖を抱いた小さな都で、彼らの祖先にあたる「ゲルマン系中央ヨーロッパ人」がかつて定住した頃からの街だ。
近代から地下資源として利用されてきた岩塩鉱と鉄鉱脈で栄えた新都は、今や先進国の市街と変わらないビル群が立ち並び、各国から誘致された金融と流通のセンターとして発展している。川添いに四方へ延びる道路網が周囲の国々を繋ぎ、後ろにアルプスの雄大な自然を重ねて見る、その建造物の威様を誇るさまが最近では観光のスポットにもなってきた。
それに対して、新都から車でほんの20分も走れば昔ながらの石畳に入る旧市街は、アルプスに続いていく森林地帯とともにUNESCO 「世界遺産 」の文化遺産として登録された古都だ。かつての森や谷と生きていた時代の自然と、そこで続いている祭や信仰の形態を伝える遺跡などにより、今でも国民の心の拠り所となっていた。中世ヨーロッパの町並みを彷彿とさせる、穏やかさと優雅さを合わせ持つおとぎの国のような街だった。
西洋と東洋の特徴が混じった、愛らしい顔立ちを具えたこのプリンツェッスィンの活発なお喋りや笑い声は、のんびりした石造りの街の、ここかしこで毎日のように聞こえる。時には、黒い瞳と黒髪の母后や乳母のナンネと一緒に、街中で賑やかに買い物をする姿を見ることも多い。目立った護衛も付けず、ごく一般の家族のように母の運転するBMWでスーパーなどへ出かけていた。
「ママ、今度の学校の交流会にはぜったいこの帽子と合うドレスを着て来て‥」
とか、
「ナンネ、今日はお兄ちゃん達には内緒で、ママとお茶して帰ろうよ!」
などと、こっそり聞いている人達が苦笑いしてしまう快活な娘に育っている。
前公爵夫妻の当初の反対にも屈せず、留学先のウィーンで芽生えた「世紀の恋」は、公位継承法の改正と国民の賛同を得て結実した。東洋人の公妃を初めて迎え入れることに議論は沸騰したものの、ハプスブルク帝国時代の伯爵であった、カレルギー代理大使に嫁いだ「ミツコ」以来となる黒髪の公爵夫人は、今ではその人柄や公務に対する熱心さから公爵家の誰よりも人気が高かった。カトリックへの改宗や長いお妃教育の期間を経て、首都のシュタッテン中央教会での婚儀の後、まもなく二人の公子に恵まれる。そして、前公爵ヨ-ハン・ハラルト1世が待ち望んだ可愛い孫娘は、成婚後八年目にやっと誕生した。その幸せに満足したかのように「カイゼル髭のおじいちゃま」は神に召され、ともに36歳の若く睦まじい新公爵夫妻が誕生したのだ。
プリンツェッスィンは、ファーストネームを祖母の太公妃からいただき、ミドルネームを洗礼時の代母「鎌倉のおばさま」に名付けてもらい、多様な文化を体現するごとき存在となった。名をルイーゼ・更紗・フォン・スタンブルクと言い、公家で行われる様々な行事や、非公式のお出かけなどではマスコミの格好のアイドルである。
「お兄ちゃん、早く起きてダイニングに行かないと、またママのお小言が始まるよ!」
長男のヨ-ハン・拓は規則正しい生活が身について成長していて、忙しい母君の手を焼かせることもなく、ギムナジウムの上級を終え大学生になったが、 次男のゲオルク・晃は秋から12年生( 高校三年 )になろうとしているのにまだ寝坊や遅刻が多い。そんな時の説教係は4歳も年下の更紗が引き受けている。母親そっくりの言い回しで、 けっこう厳しくしつこく起こしたり引き立てたりする。しかし、肝心の高校生より素早く起きて、さっさと階下におりてゆき要領よく褒められるのは、一番小さい基礎学校4年生のカール・森なのだ。公家の朝はだいたい毎日がこんな具合だった。もしくは、両親が公務で外遊している時などの留守邸には、小さいママ役の更紗に加えて、乳母や家政執務官のリンドホーフ夫人の声が響き渡る。そして8時を過ぎる頃にやっと公邸に静寂と秩序が戻るのだ。
その日は、来週から一ヶ月続く「Rose Fest (薔薇祭)」の準備に、国をあげて取り掛かる5月の土曜日だった。アンナ・梨紗妃は、ちょうど午前10時に公邸に訪れる自然保護協会の代表者達との打ち合わせのために、早朝からナンネと一緒にシフォンケーキの大量生産に従事していて、子供達にかまけていられない状況だった。
ヨーハンは、大学のバイオ関係の教授の研究室に所属している為、常々、早朝から研究室に詰めたり徹夜することが多いので、その日もすでに出かけた後だった。ゲオルクは、廷内が慌ただしく大人達の注意が向かないのを良いことに、まだ春の心地好い夢の中にいる。休日はわりと誰からもほっとかれていて、昼前に空腹に耐えられなくなると起きてくる。それが彼の通例だった。
更紗とカールは彼らの労力に見合わない兄への働き掛けは止めて、朝からドレスとスーツに着替えて食卓に付いていた。父のリヒャルトはその様子を微笑ましく見ていて、
「ほう、二人とも今日は決め込んだな。もう立派な小公女と小公子だね。」
「パパ、今日のお仕事が会長の補佐役だから、今朝はゆっくり食事して新聞も読めるわね。」
「僕は薔薇祭の企画はどっちでも良いんだけど、ママのケーキは外せない。」
などと雑談していた。会長とは、もちろん梨紗妃のことで、前公妃のルィーゼから引き継いだ重要な役職の一つである。スタンブルク自然保護協会は世界遺産の保護母体となっており、一年2回の会合には妃の主催するお茶会がテレビの特番になった。春は「Rose Fest」の為のシフォンケーキとバラのジャム、秋は収穫祭と兼ねて「Obst Fest (果実祭)」の為のパイ作りを始めたのは梨紗妃だ。ルィーゼ妃は料理は全くしない人で、シーズンになると、今でも離宮からやって来て公邸の騒ぎを楽しそうに見物している。
「まあー、いつものことだけどリーサはよく働くわねー。ほんとに器用だこと。」
嫁の日本名を柔らかく引っ張って呼ぶのが彼女流で、ドイツ的に最後のSAは微妙に濁るところが上品に聞こえる。それがないと嫁への皮肉とも取れるが、実社会で二年間だけだがキャリアを持っていた梨紗妃を尊敬しているのだ。それとは逆に、幼い頃からレディ教育を受けてきた姑は、彼女が息子の婚約者になった時から、ドイツ語の美しい発音や上流のマナー、実家の母から直伝を受けた刺繍と絵画の手ほどきを熱心に行った。他の元貴族などの家に嫁がせた三人の娘に対してもそうだったように、公国の昔話や自分の過去を語りながら、限られた時間を豊かな思い出の時に変えていた。更紗達にとっても、銀髪に丸い老眼鏡をかけて窓辺で刺繍したり、庭園でバラの絵を描く「おばあちゃま」は、その姿そのものが一つの絵のように写る。リヒャルト公が遅くにできた末子だったので、孫達から見れば祖母は大変なお年寄りで、童話に出てくる優しい魔法使いのようなイメージがあったのだ。
「お義母さま、ずっとキッチンにいらっしゃるとお疲れになりますよ。一回目が焼き上がりましたから、向こうで更紗達とお味見してみてください。」
ホウルのままでまだ熱いケーキを一個プレートに乗せながら、梨紗がダイニングへ促した。前会長が控えているセレモニーの慣例で、始まる前の会議室のセッティングと理事達お客様に出すものは太公妃が確認する。さっき部屋のチェックが終わったリンドホーフ夫人はとりあえず一段階目の肩を下ろしていた。公世子の結婚前から長年仕えてきた女主人の補助は慣れたもので、急がず上手に老体を支えながら歩く。他国に比べて広いとは言えないが、それでも公邸の廊下は老女の足で数分かかるのだった。ロココ装飾が施された大きなドアから入り、ダイニングの息子の隣の席へ座った。朝の挨拶はすでに済ませているので、二人の孫も一緒に嫁からケーキの皿を受け取る。
「サラサもカールも小さい頃からママのケーキが大好きだったわね。」
やはり最後のSAが少し濁音になった。
「おばあちゃま、今年のジャムは私も手伝って作ったのよ。薔薇の花びらだけではとろみが出ないって初めて分かったわ。」
料理のことはよく分からない祖母だが、亡き夫が目に入れたいほど(!)可愛がっていた孫娘の成長が嬉しく、そのお喋りを目を細めて見るのだ。同じような表情のリヒャルト公も妻の手製のデザートを受け取り、娘の手からジャムを添えてもらった。
「パパは更紗がお嫁に行く時が大変ね。」
妻のからかいに対して、夫は真剣にNein の眼差しを返した。
「僕はママのケーキなら、丸ごと十個はいけるよ。」
末っ子の甘えに、母君はすぐに首を振る。
「止めてちょうだい。朝の5時から準備して三百人分作っているのよ。あなたに五分の一もあげられないわ。」
「カールが初めて協会の記事に出たのは、たしか5歳の時だったかしらね。まだ小さくて、テーブルの下で足をぶらぶらさせて取材を受けていたわ。」
おばあちゃまが懐かしそうに言う言葉は、少年期を迎えたカールには少々気に入らなかった。また、このことを姉のからかいの材料にされないように予防線を張る。
「ああ、あれはね、 大人の話が長くて、それより早くバラ園に行った方がいいのに‥って思ったからだよ。僕はみんなで庭園にいる写真の方が良いと思ったもの。」
「へえ、でもその後夢中でケーキ食べてる写真もあるね。」
姉弟の幼いやり取りに、父母は苦笑を浮かべ忠告した。
「はい、そこまでだな。これからお客様と会うのに、お互いに膨れっ面じゃ今度はその写真が記事になるよ。」
「そうよ、ママはそろそろ着替えなきゃいけないから、もうつまらない言い争いは止めてね。」
だが、おっとりした祖母君はそんな空気にも頓着しない。さらに嫁に、
「ヨーハンは仕方ないにしても、ゲオルクは来させた方が良いのでは。」
と被せた。そこは息子が引き取って、
「母上、わが家では子供達の担当を決めていて、薔薇祭はサラサとカールなんですよ。大きい子は夜のパーティにも出られますけど、この子達にも公務という責任を学ばせたいので。」
穏やかに母に答えた。お祖母さまは現公爵の説明に満足し、母君は後のことを夫に任せて自室へ戻った。
10時に、公邸の関係者と来客の総勢約五十人が会議室に揃った。先に各団体から参加者の紹介があって、それでも国内8州のそれぞれが全て終わるには半時間はかかる。その後、名誉会長の前公妃の短い挨拶があり、議長の梨紗妃から茶菓のもてなしが始まるのだ。まずスタンブルク新聞とテレビの取材や撮影があって、それからやっとお茶会を兼ねた議事に入る。
会議が始まる数分前に会場に入ってきて、公妃に挨拶したのはベルレン州代表のジュール・ジョエル氏だった。最も規模の大きい行事を行っている州の自負があり、丁寧に半年の無沙汰を詫びるとともに、周囲に控えた記者やテレビカメラを意識している様子が垣間見えた。この長身でフランス語訛りの強い紳士が昨年述べた「ベルレン州の葡萄とワイン」の説明を、更紗もよく覚えていて、痩せぎすだが熱意を強く感じた人物だった。
リヒャルト公には、彼が参加し始めた頃、ちょうど会長職の交代とも重なって、誰に向けてという訳ではないが「多様な文化や感性を結晶させた」よりよい国家行事に‥という趣旨説明が印象深かった。
ルイーゼ・更紗公女は数年関わってきているので、中学生なりに分かるところは理解したり父に質問もできるが、カール公子の方は目的のケーキがなくなってしまえば関心が薄れた。それでも父君に依頼された通り、微笑みを浮かべて各団体の企画を聞いていた。曰く、
「2~3時間くらいの集中力を備えないと、学問も仏師としての修行もできないよ。」
と。
仏師の修行とは、以前、子供達に、将来爵位を継ぐ気持ちがあるのかどうかを聞いた時のエピソードである。当然、家族は長男のヨーハンが同意すると思っていた。
「パパ、僕は長男だからといって跡継ぎになるとは限らないと思う。昔のサリカ法時代とは違って、今は他国でも男女を問わず長子から検討して、本人の意志で決められるように法改正している時代だよ。だから僕も今は『推定相続人』かもしれないけれど、立太子礼まで特別なことはしなくて良い、自分の好きな勉強をしなさい‥って育てられたと思っています。」
サリカ法は、遠くフランク王国時代に発祥したゲルマン系サリ族に関する法典のこと、当時ローマ法との違いが明確で、ヨーロッパ各国で規範とされてきた。相続に関する法の中身も長い時代に色々と変更は加えられたが、主には男系男子しか領地の相続や爵位の継承権を持たないという法律である。有名な所では、神聖ローマ帝国時代のハプスブルク家で、女子しかいなかった皇帝カルル6世の国事勅書により、長女のマリア・テレジアが家督を相続しようとしたことに対して、異論を唱えたプロイセンのフリードリヒ2世らとの間に「オーストリア継承戦争」が起こった。夫のロートリンゲン公フランツ・シュテファンを皇帝に立てて「アーヘンの和約」まで8年もの戦争の末、シュレジェン地方などを奪われてやっと解決できたという有名な話が残っている。
また、ルクセンブルク大公国では近代になって、男性の大公が亡くなったり、国民から退位を迫られて、二代女大公が存在した時代もあった。その際には継承法の改正が行われている。
スタンブルクでは独自の継承法を定めていた。前述の梨紗妃との結婚前、長子が夭折していた公国では、すでに嫁いでいた三人の公女達には継承権は消失しており、末子のリヒャルトといわゆる傍系の男子のみが該当したのだ。しかし、梨紗・神村との結婚を強く望む公世子は、ハプスブルク時代の時代錯誤ともいえる「貴賎結婚」まで例に出して反対する親族に、継承にこだわらずきっぱりと個人としての思いを伝えた。その際、妻は妃としての尊称や立場を得られず、生まれた子供には最初から公家の一員としての扱いがされないことも突き付けられた。そして、いよいよリヒャルトがスタンブルクからの離脱を考えはじめた時、一番の味方として動いたのは、他ならぬ公爵夫妻と国民議会だったのだ。約一年の協議や何度かの公子のスピーチを経て、改正公位継承法は8割以上の賛成を得た。そして、その産物として、長子にも男子にも限定しない一項が補足された。
ヨーハンはまだ思春期の頃、なにかの折にその話を聞き、自分達の置かれた立場や公爵家という伝統の大変さを痛感したことがあったようだった。その頃から自然や生物に興味を持ち、今の研究を生涯の道として選んだと思われる。
「パパやおばあ様が期待してくれることは嬉しいけど、僕は政治家にも実業家にも向いてはいない。新市街や他国にある会社を運営するには、ゲオルクのような大様さやカールのような要領のよさが必要‥僕にはどちらの能力もないよ。更紗だって僕よりは大胆で国民受けも良いと思うし。」
父君はそれ以上重ねて言えなかった。自分達の純愛を貫くことが、必ずしも子孫の幸福に繋がらないことも知った。妻は穏やかに、
「まだ子供だわ。あまり早くから人生の重さを背負わせるのは止めましょう。もし、子供達の誰も望まなかったら、お義姉さま方のお子さんを養子に迎えても、その子が希望することが一番大切だと思うし‥。ただ、私達はお義母さまや亡きお義父さま、そして、好意を持ってこの国に迎えてくれた国民の皆さんのために誠意を尽くすの。それだけよね。」
と微笑んで夫の肩を抱いた。
その何年か後、カールは一人で里帰りした日本の鎌倉で「仏師」という夢に出会った。日本の祖父にあたる神村総二郎氏が、早くに妻を亡くし一人娘を国際結婚でヨーロッパへ送り出した後、一刀一刀魂を込めて仏像制作しているアトリエが、彼の憧れの場所になったのだ。祖父は元々大学教授だったが、歴史家として研究してきた古来の日本人に感銘を受け、特に宗教絡みではなく芸術修業として一から木彫を学んだ。そして、引退後東京から妹の住む鎌倉に住まいを移し、今に至っている。彼は20年前の娘の婚儀に行っただけで、その後は異教徒の美術家ということでスタンブルクを訪れることはなかった。しかし、近年になってヨーロッパにひそかな Japan Boom が起こっていて、日本文化紹介展の仏像彫刻に感銘を受けた公国の末っ子は、去年鎌倉で「仏師の爺ちゃん」にきちんと日本語でお願いした。
「爺ちゃん、僕がギムナジウムを卒業したら、弟子として修行させてください。」
アトリエの床に正座して、真っすぐ見上げる小さな孫を見ながら、彼は大いに戸惑い、なんとも返事できずに、すぐ次の日、婿にあたるリヒャルト公に長い国際電話をした。
「ドイツ語が通じんかったら梨紗に代わってください。」
義父の弁に従えば、
「私は、かつて娘が涙ながらに、貴方を愛し遠い国へ故郷を捨てても嫁ぎたい‥と告げた時に、全ては決まったと思っていた。たとえ国主の愛人と侮られようと、子供が庶子扱いされようと悔いはない‥と言われ、亡くした妻には申し訳なかったが拒めなかった。今、孫が日本へ来たいと言ってくれて、正直とても嬉しいけど、貴方方ご夫妻だけでは決められないことも多いと聞きます。私は心を鬼にしても森を追い返した方がよいのでは?」
というような内容だった。
義理の息子は最初は驚いたものの、たどたどしいが誠実な日本語で答えたのだ。
「お義父さん、私は我々の結婚が多くの人を悩ませたり、寂しい思いをさせたことを申し訳ないと思っています。それでも、神が私達を祝福してくれたと思えることは、素晴らしい子供達を授かったことです。だから 、シンが望むなら希望通りの人生を送らせたい‥どうか彼が傷つくことなく、未来に夢を持ち続けられるように受け入れてやってください。そして、一時凌ぎでなく、本当に少しでも可能性があるなら、将来でよいので遠慮なく厳しく育ててください。どうかよろしくお願いいたします。」
そして、その末息子はシュタッテンの公邸に帰ったとたん、家族に宣言した。
「みんな、僕はギムナジウムを卒業したら大学には行かないよ。日本に行くからね。」
その「 みんな 」は目を丸くして、小さな家族を質問責めにしたが、父君はその様子を優しい笑顔で見ていたのだった。
一通りの企画と運営案が提示された後、今年の「スタンブルク公国、薔薇祭2013」は決議され(もっとも二ヶ月近く前から、ある程度の実施予想の元に準備がなされてきたので、これは最後の承認と外部向けのPRも兼ねたイベントだ。)、各メディアを通じて国内諸州・世界各国に配信された。主要産業の一つとして、観光関連や欧州での有名な避暑地を維持してきた関係企業にとって、この年二回の Fest は大きな利益が期待できる行事である。近年、日本をはじめアジア諸国からのツアー客も増えてきたのは、梨紗妃の輿入れと無関係ではないだろう。その「現代版シンデレラ」の彼女が主催者の一人に名を連ね、色々なアイデアや企画を実践している今の様子を見ることができるので、媒体を通してではなくダイレクトに見て声を交わすこともでき、それはむしろ特別な階級の人よりも、一般の多くの人々の関心を引いた。
この公国は18世紀末の伯爵領を起源とする。後にヨーハン1世と名乗ることになるベルスタンが、当時はまだ権威を保持していた神聖ローマ帝国から羊毛の交易に携わる許認可を受けて、多大な富を得た。それを元に南ドイツに広大な領地を購入、後に岩塩鉱の発掘を始める。その利益を帝国に献上し爵位を授けられたのだ。彼は、帝国議会への参加もハプスブルク家の家宰権も望まず、ひたすら商業利益を上げることに努力し、領地も辺境に求めたので、皇帝や他の公国には疑念を持たれることなく順調に発展させてきた。当時の神聖ローマ帝国は、フランス革命とそれに続くナポレオン戦争で国費は疲弊しており、誇りと伝統を主張する上級貴族よりも、新興勢力としての財力と地域統制の力を求めていた。そして、一生を家系の富と向上に捧げたベルスタンは働き詰めの人生を終え、その領地は「スタンブルク(スタン家の城)」として、彼の子孫に引き継がれていくことになる。
その後の、ナポレオンのラインラント進出とライン同盟の成立を経て、歴史と伝統を誇った帝国は解体され、ハプスブルクは元のオーストリア帝室に戻り、半世紀ほどたって「アウスグライヒ(協和)」による「オーストリア=ハンガリー二重帝国」が成立することになるのだ。ウイーン会議のその後を睨みながら、時の公爵ヨーハン5世は上手にオーストリア寄りに舵を切っていく。プロイセン・オーストリア戦争に宗主国が負けても、その後成立した北ドイツ連邦には組せず、大規模な鉄鉱脈と鉄鋼業で栄えた国勢を武器に、スタンブルクは公国としての独立と世襲権を確立していった。
そして、あの不幸なサラエボ事件を契機として、ヨーロッパ全土を戦場にした第一次世界大戦が勃発。プロイセン・オーストリア・トルコなどの同盟国が敗戦し、そののち各国の皇帝達は姿を消した。しかしその中で、第9代リヒャルト・アロイス1世の統治のもと、スタンブルクは残った。その時、彼は弱冠22歳の君主だったのだ。
さらに、ヨーロッパ大戦の終了後、元々彼等に爵位を授けた帝国が消滅した後も、スタンブルクは君主としての公位を残し立憲制に移行する。隣のオーストリアが紆余曲折を経て、共和国となり新たな歴史を刻み始めたが、それとは道を分けて、大国の狭間に残った小国の幸運さで、国民投票により君主制を維持しているのだ。子のヨーハン・ハラルトは、17歳で亡き父の跡を継ぐ時、その勇猛と伝説的な活躍を記念して戴冠式を行った。摂政は叔父のゲオルク公が務め、成年に達して親政を開始。ルイ-ゼ妃との結婚後に生まれた長男にアロイスと名付けるが、その子は5歳で早世する。そして、遅くに授かった末子に父親の名前を冠したのだ。その期待の公世子が、結婚問題の為に国を捨て日本に行ってしまうかもしれないという事態になった時、彼は床に付くほどのショックを受けた。息子の気持ちは理解しながらも、祖国への思いや祖先が運命を賭して守ってきたことを考えると、どうしても割り切れなかった。時間をかけて説得すれば、変わってくれるだろう‥というのは甘い考えだったことを思い知らされ、個人としての恋愛や結婚ではなく、義務や責任を負うことを説いても公子の考えは変えられず、現代では優先順位が違うことを初めて知ったのだ。
そんな公の気持ちを汲みながら、息子との話し合いを助言したのは、公子の母であるルィ-ゼ妃だった。
「あなた、私達の祖先は元々各国を相手にする商人でしたわ。公国になってからだって、宗主国のオーストリアはスラブ系を含む多民族国家でした。この国は中央の要衝にあったため、多様な文化や民族を受け入れてきたではありませんか。」
彼女もボヘミアの旧王国から嫁いだ身で、民族の融合に伴う悲哀を知っている一人だった。
「公国がどういう道を辿るのが良いのか、それを決めるのは私達ではありませんわ。それは、リヒャルト本人と国民が何を望むかでしょう?」
この頃、公爵夫妻はかなり冷静に国の未来を模索した。国内のマスコミや過熱する外国の報道に左右されず、リヒャルトや議会と話し合い意見を交換していた。近隣諸国の歴史的な変容や、強大だった各帝国の終焉後、国民感情を鑑みながら立憲制と君主制をうまく根付かせてきた諸国など、これからの世界と自国の在り方では対立する所も多かった。しかし、長きにわたってヨーロッパで繰り返されてきた同族結婚の結果、何を得られたか。特にオーストリアとスペインの両ハプスブルク家同士の二重三重の近親結婚から起こった「青い血」の呪縛が何をもたらしたか‥、近代になってからでも、各王国で改革的な継承の方法や新しい婚姻の形態が実施されている。そのことが旧態を変革し、国民の新しい君主観を築いてきたのではないか‥と。
この時の彼等のアドバイザーは、Arzt クルト・クリストフ、ウイーン大学で最先端の生命科学部で医学を修め、当時ヨーロッパでも精鋭の医療指導を実践していたシュタッテン大学に席を置くエリートだ。
彼は現在の公爵家の主治医であり、リヒャルトの友人である。ずっと以前から多民族の融合と遺伝の係わり合いを主張してきた。曰く、ヨーロッパを中心とするキリスト教と白人社会の排他性や独自文化へのこだわりが、長く変革を阻んできており、芸術の多様性など幅広い感性を成長させにくくしている。それは、肌の色や体格の問題ではなく、民族がそれぞれ持っている遺伝的優良因子を発現させることで、これからの世界では最重要となる要素だ。米のS・P・ハンティントンの著書「文明の衝突」に真っ向から反対する人物だった。「世界で起こる紛争は文化や思想が衝突するのではなく、誤解やエゴイズムから起こる。たとえ、利害と宗教などからの衝突が起こったとしても、文化や思想はそれを越えて相互理解と融合を生むことが可能だ。そして、それは同時に尊敬や友愛をも包括して関係を修復する力を持っている。だから文明は『衝突』しない、むしろ正しく融合し、さらに民族は、発展的に混成してゆくべきなのだ‥」と。
ヨーロッパ人類社会学会の下部にある学会で、彼は、強力な反対論者に噛み付いた。「そんなに貴方は純血を守りたいのか。まるで血統書付きのペットのように。何々の血を引いていて、祖先に何々という者がいて、現在の自分自身の価値ではなく、会ったこともない人物に頼らなくては何の説明もできなくてね。」それは、それで物議を醸したが、次に彼が述べた理論は聴衆の心を打った。「かつて、ヒトラーは純粋ゲルマン人( またはアーリア人 )という言葉を用いて大きな過ちを犯した。ゲルマン人がいつまで純粋であったかどうかは疑問だが、彼らは長い時間の中で何千何万キロの移動をして、それぞれの所で融和と混血を繰り返し、現代に繋がる大いなる文明を築いたのではないか。我々はその子孫として狭い世界や視野しか持たなくてよいのか‥地球の概要を確かめるために、未知の航海に船出した勇気は潰えてしまったのか。今こそ、第二の大移動の時が来ているのではないか。」
その論説は、彼の親友の結婚を実現し、多くこの国で金融業や情報産業に関わる外国人労働者を勇気付けたのだ。
「クルト、忙しいのに来てくれてありがとう。」
会議の終了後一人一人と丁寧に握手をする公爵に、医師である友人は堅い友情と親愛を込めた。次の梨紗妃と母后の手にも敬愛を込めて口づけし、傍に控える小さな家族達にも挨拶した。少年はやや恥ずかしそうにはにかんで挨拶し返したが、更紗の方は、祖母や母から彼を奪い取るようにその首に抱きついて、
「おじさま、更紗ね、おじさまにお会いしたかったの。」
と、はしゃぐ。
「おっ、これは姫君。僕個人としては直接的な愛情表現は嬉しいけど、もう少しおしとやかにしないと、今度は中年男性との親密な写真が載るよ。」
家族を持たない医療研究者には、非常に面食らう状況だったらしい。ティーンエイジャーなりに、普通には冗談もウイットも理解できる公女は、「はーい」と返事して笑いながら腕を外した。
「Entsuhuldigen! 相変わらずのおてんばさんで、リサも困っているよ。」
その、苦笑いを浮かべる父君と目配せを交わすのだった。
「今日は記念パーティーが終わってもゆっくりしていってくださるのでしょう。私、また野菜のバイオ栽培のお話をうかがいたいわ。」
ほうー、という表情で医師は少女を見た。彼は何かの折に、公爵の家族を前にして、バイオ技術で野菜を効率よく栽培すれば、栄養価が高く安全で多様な食物を摂取できるという話をしたことがあった。リヒャルト公は以前から公国の農業改善に強い関心を持っており、長男の大学進学を機に、バイオ関係の研究機関を設置しようとしていた。スタンブルクでは、アルプス低地帯の特性で、ブドウや小麦の栽培は伝統として盛んだった。川沿いの農耕地は広大で、比較的安定した収益が上げられる。しかし、国土の大半に高原地帯を抱える公国では、多種の野菜栽培は難しかった。少女は、その話を冬の公邸の暖炉の前で聞きながら、
「それってすばらしいことね、おじさま。国内でいろいろな野菜が作れれば、みんなのビタミン摂取が向上するわ。それに、なるべく国産でまかなえれば、ドイツやポーランドから高いお野菜を輸入しなくてすむわね。」
と言った。
クリストフ氏は、この小さい公女から(少しすまし顔で)政治家のような言葉を聞いた時には、嬉しさと共に心の中で舌を巻いた。これこそが、彼が唱える「民族の融合」のプラス作用の結果だと確信したのだ。
「それでは、皆様。今年の『薔薇祭』の企画が無事に決定したことを感謝いたします。ここからは、成功を期してそれぞれのスタッフの方もご一緒に、ガーデンパーティーに移りますので、どうぞ庭園の方で早咲きのバラを見ながら、ゆっくりなさってください。今日のお客様のために、公邸のスタッフが心を込めて準備いたしました。それに、今年のバラジャム作りは、ここにいる長女の更紗も手伝ってくれました。」
突然自分の名前が挙げられたことに、当人はややびっくりしたが、その後少し誇らしげな笑顔を父やその友人に向けた。二人は笑みを浮かべて見交わしていた。
会長である妃のアルトに近い柔らかい声が、会場の人々を促す。更紗もカールも、母の美しい笑顔とたおやかな辞儀が拍手に包まれるのを誇らしく見ていた。難しいことは分からないながら、両親が大変な苦労を積み重ねて、今の公爵家を進展させたことを理解していた。
恒例で、この行事の一日の間には、公邸のスタッフや警備官も職務を交代しながら廷内の休憩所でお茶を楽しむことができる。その年の薔薇祭の成功を占うほどのイベントであり、公爵ファミリーと同じ気持ちで、来客を迎えパーティーを実施するのであるから、公妃の心配りで、みな同等の時間を持っていい日であった。ジャムの出来やケーキの味で薔薇そのものの開花予想さえ話題になった。梨紗妃がよく不思議そうに語るのだが、
「毎年、同じレシピで同じ作り方をしているのに、出来上がったケーキもジャムも微妙に味やしっとり感が違うのはどうしてかしらねえ。その年の湿度と気温の違いも関係してるとは思うけど‥。やはり、お菓子って生き物なのよね。」
更紗は初めの頃聞いていて、
「お菓子が生き物なんて、アニメみたい。そしたら、食べるのがかわいそう。」
と、子供心に母の言を「おかしなこと」と思っていたが、今回自分も製作に参加してよく理解できた。バラの花びらを煮ていく過程で、レモン汁とペクチンを入れると、突然、鍋の中のジャムと料理用のへらから伝わる感触が変わった瞬間を知り、思わず声が出るほどの感動だった。
「ママ、不思議、不思議 ! 見て、バラの煮込みから、急にピンクの宝石になったよ。」
母君はそばで作業をしているスタッフの手前、「煮込み」という表現には苦言をしたが、娘の感性の鋭さは少し嬉しかった。男の子が多い家庭のつねで、言葉遣いや行動の活発さには注意することが多いが、彼女のお喋りの端々に、鋭い理解力と表現力の豊かさを感じることが増えてきた。そういう所は息子達と違って、照れや屈託のない相互理解ができる。前公のお祖父様が心待ちにして誕生を喜んだ更紗の、こういう成長と将来の楽しみを見せてあげられなかったことがとても残念だった。
ちょうど、お客様方が会議室からそのままテラスを通って庭園に移動しはじめた頃、廊下の方、裏方の作業場所にあたる辺りでちょっとしたざわめきが起こった。他の人々にはあまり気づかれなかったが、ドアを開けて正装したゲオルクが入ってきた時、父君と更紗とカールは少なからず驚いた。行事中のことで、騒いだりできないのは子供達も弁えているので、見開いた目を父から母に向けて肘でつっつきあっていた。そのくらい、次兄の爽やかで整った表情とスマートな身のこなしを見てびっくりしたのだ。更紗は、
「あの、いつもお昼まで寝てて、起こしても寝ぼけたまま不機嫌に口も聞かないお兄ちゃんが‥」
と、言えたら両親に大声で言いたいくらいだった。母はさすがに動ぜずに、
「遅いわよ、晃。もう庭にオットーとワルターがスタンバイしてるわ。」
その言葉を聞いて、庭園の方を見ると、彼の友人達がすでに楽器の調整を始めていた。今日は、どうも母の命でフルートを演奏することになっていたらしい。家族にもサプライズにされていたので、妹や弟も驚いたのだ。父の公爵は一応妻から相談されたが、何といっても自由気ままな次男のことで、その場がくるまでは彼の演奏が実現するのか一抹の危惧を持っていた。午前中にゲオルクの友人達には今日の出演への感謝と、万が一、フルート抜きでも演奏の成功を期して丁寧に挨拶していたのだ。それで、父君は姿を見て驚きとほっとした表情を浮かべた。
「コウ、まったく冷や冷やさせるんだから‥。しばらくクラシックはやってないだろう? 早く行って口角をほぐさないと音が出ないぞ。」
父親としての心配とも相まって、つい、ホッとしてからかってしまう。ゲオルク公子はまったく意に介さずに、弟妹や父上の前を通り過ぎて行き、まず腹ごしらえとばかりにアフタヌーンティーセットと軽食が並んだテーブルに近寄って行った。
シュタッテンの公廷は、第一次大戦の後に国情が落ち着いた頃、旧都のホルストから遷都する時に一部破壊された建材も運んで、現在のハラル盆地の湖沿いに再建された。その後、第二次大戦の直前にナチスがオーストリアに進攻する際の通り道として、新都が峠に向かう道筋にあったため参謀本部に接収された時期があった。「薔薇の公国」として美しい風景と平和を祈念して治世してきた代々の公爵は、大欧州の中心部にある運命から、できるだけ火の粉を被らずにすむよう、また、やむない場合でもなるべく国民に被害が少なくすむようにと腐心してきたが、この時ばかりは国土を蹂躙される悲哀を味わったのだ。
それでも初めの頃は、当時のリヒャルト・アロイス1世の統率の元に、静かに「反抗せずとも従わず」の姿勢を貫いていた。しかし、大戦中期には、国内にも青年層を中心にナチに入党する者が増え、公家も判断を迫られる状況が続いた。その戦況の悪化を受け、公爵は国外に亡命することで家族や国民を守ろうとしたが、間もなく形式上は公弟のゲオルク公に譲位させられたことになり、妻とヨーハン・ハラルトら子供達はダッハウの王族収容所に収監されたのだ。1世と近衛隊の仏軍からの参戦が短かったのと、ゲオルク公の病のおかげで実質的な処分や国の解体は免れたが、公国にとっては大変困難な時期を辛うじて乗り切った。1944年の終わりに連合軍によって解放されてからは、戦後の復興と共に過去の不幸を忘れようとするごとく、若い新公爵を全体で支えて国を発展させてきた。
公爵家も、立憲君主制に移行してからは、領地の大半を国土として国民に払い下げた。残った何カ所かの私有地と離宮などがあったリゾート地、新市街の金融を中心とした会社や国外(ウイーン、ミュンヘン近郊、遠くは親戚にあたるベルギーのブリュージュ)にいくつかの関連会社があり、それぞれの利益から納税しており、国民議会と政府から、君主一家としての公務に対する歳費を受けている。
公廷の造りは、その公国一体となった理念を取り入れ、屋敷と庭園を含めて全ての敷地が半分のスペースに区切られている。廷内は公爵家が住まうプライベートスペースと市民が自由に見学できる史料館としてのパブリックスペース、庭園も公廷関係者が使用する内庭と公園になっている外庭に別れていて、警護は付くものの、このような公廷行事の際などは市民が隣の敷地から見物できたり、直接声をかけることも可能であった。
その日も、庭園と市民公園の境にある低い生け垣の向こうから、シュタッテン市民の挨拶や質問を受け、それぞれと言葉を交わす妃と夫君の姿が見られた。そういう場面はマスコミの絶好のシャッターチャンスであり、返事を受けた人の取材風景などが和やかに続く。どちら側の庭もこれから盛りを迎えるバラの大庭園で、公邸のスタッフや市職員の庭園師などが目立たぬように立ち働いていた。
この庭園は、ホルストからの遷都以前にあった離宮の敷地だったところで、花好きのヨーハン5世の妃達(難産のたびに亡くなって、三代公妃が変わったため‥。最後のエレオノーラ妃は63歳まで生き、天寿を全うした。)が、嫁いでくる時にそれぞれの故国のバラ苗を大量に移植し、交配を繰り返しながら増やしてきた経緯がある。だから、オールド・ローズもモダン・ローズも混在した広大なローズ・ガーデンの様態をなす庭園になっていった。
バラはもともと世界中に分布していた原種(ノイバラ、ハマナスなど)を、紀元前後ぐらいから世界各地で人の手で栽培し始めた。当初はほとんど変化のない単純な花だったようだが、その愛らしさと香りの高さが支配階級に愛好されるようになり、有名な話では、クレオパトラが宮殿の床に敷き詰めた‥などのエピソードが残っている。そして、その高貴さと象徴性が大いに発展したのは、ナポレオンの皇后だったジョセフィーヌに負うところが大きい。彼女は離婚後住んだマルメゾン館で、世界中から集めた多種のバラを栽培し、その花々も樹形も庭園全体をも芸術としての鑑賞対象に高めた。そして、その管理・研究・発展に携わっていたデュポンによる人工授粉の技術が確立され、のちにギヨーが1867年人工交配で「ラ・フランス」を生み出した。それから、一季咲きで原種型の花形や柔らかな香りのオールド・ローズと、四季咲きで花形が大きく華やかになり色も香りも進歩したモダン・ローズと区別される。現在では、ハイブリッド・ティ系の大型で剣弁高芯咲きの種類が数多く発表されている。たとえば、ピースやクリスチャン・ディオールやパパ・メイアンなど、その時代の貴婦人に捧げられたクイーン・エリザベスやプリンセス・ドゥ・モナコやダイアナなど。1969年に英国の育種家オースティンが発表した最初の「イングリッシュ・ローズ」であるワイフ・オブ・バス以後には、オールドとモダンの特徴を併せ持った多種多様なバラの品種が開発されてきた。
この庭園でも、全体にはフレンチ・ガーデン風に幾何学的デザインを取り入れた造りで、バラ園も機能的に配置され、花苗の優れた品種や配合法を取り入れて栽培をしてきた。バラ以外にも多くの草花や花木を愛したエレオノーラ妃にあやかって、代々の妃達は自らもバラ園の手入れや薔薇祭の主催など、公国が「薔薇の国」として後世有名になるように、拡大に貢献してきたのだ。ルイーゼ妃も、現在の梨紗妃も時間が許す限り、これらの庭園や温室のバラの世話に携わる。それは、公務でなくある意味、国のシンボル的時事となり広告としての効果を上げた。また公邸の庭師によって温室は高度に管理され、優れた育種家達が新種のバラを作っている。リヒャルト公の婚約が内定した時は、それを記念したオレンジ色の芳香を持った新種「東洋の神秘」が発表された。
「母上、それではBGMの演奏に入りますよ。」
外聞こえよく、ゲオルクがいつもにない敬語や改まった言葉使いで母と友人達に合図した。父君は一抹の不安を抱えながら、来客と話している方向から横目で見守っていたが、エルガーの「愛の挨拶」がゆったりと流れ始めたのを聞いて、やっと安堵の息をついたのだ。この曲は周知のとおりメインがバイオリンとチェロなど弦楽なので、ゲオルクのフルートは伴奏として入っていて、初めは生演奏と気づく人が少なかった。しかし、朝から息子の演奏に気を取られていたリヒャルト公は、彼のしっかりした音程に笑みを浮かべた。
「小さいときからあんなに一生懸命練習していて、学校の発表会でも注目されるくらい上手だった。それに、本人も大きくなったら音楽家になると言い出すのでは‥と私たちが心配するくらいだったのに。」
次男は、ギムナジウムに入学してしばらくしてから、ポップスやロックに影響を受けて、フルートよりもドラムと激しい歌に傾倒した。幼なじみのオットーとワルターも一緒に、時に触れて廷内でクラシックの指導をしていた父は、少年達の嗜好や音楽性は認めながらも少なからず落胆したのだった。ヨーハンにはチェロの、オットーやワルターにもピアノとバイオリンの教師を付けてまで熱心に音楽教育してきた公爵なので、いつか彼らが成長したら、皆で室内楽の演奏ができると密かに楽しみにしていたのだ。史料館の公共ホールで、初めて少年達のライブを聞いた時の衝撃的な場面は、今でもまざまざと思い出せた。そして、現在は下の二人に望みが移っている。
「パパ、お兄ちゃんの演奏、前に聞いた時のままだね。」
カールが父の心配を見透かしたように話しかけた。彼は、現在、週二回のビオラのレッスンを受けていて、易しい曲だと父のバイオリンと協奏できるくらいにはなっている。更紗は、
「私のピアノとどっちが聴かせるかな。ロックのライブじゃあ、あんなに感情を込めて演奏しないもんね。」
と、生意気を言った。
母が日本の音大からウイーン音楽大のピアノ科へ留学していたので、彼女は物心ついたときから梨紗妃に手ほどきを受けた。まだ小さな娘が、初めて母親と並んで小さい手で連弾する姿を、公は一枚の写真に残してある。それは、10年近くたつ今でもプライベートリビングに誇らしげにかかっていた。彼女は、長兄の生物学にも次兄のロックなどの趣味にも興味が強く、以前父上のがっかりした感想を聞いても気にしなかった。
「音楽が好きな人は、途中でいろんな分野に興味を持っていって、最終的に自分のジャンルにたどり着くって言うよ。お兄ちゃんがドラッグにはまったり、次々とGFを取っ替えるんなら問題だと思うけど、ロックに夢中になってるくらいは普通だと思う。あんなにねぼすけで、普段は私から見ても子供っぽいと思うくらいだもん、きっとまたフルートに戻ってきてみんなで演奏したくなるんじゃないかな。」
13歳のわりに、大人びた発言をして両親を慰めたのだ。
「更紗、あなたのピアノもときどきタッチが雑なことが多いわ。そろそろ正確に弾いて、情感を込められるように毎日練習しなきゃね。」
指導している母からの注意に耳が痛かったのか、「うん、これから頑張る。」とかわした。また、そこへさらに、
「更紗、言葉遣いには気をつけてちょうだい。Osternの時に、小さい伯母様から『男の子言葉が多い』と注意をされたのを忘れたの。」
と、お小言が増えてしまった。「小さい伯母様」はリヒャルト公のすぐ上の姉で、スタンブルクの旧貴族に嫁いで未亡人となっている人だ。弟が結婚する時に最後まで反対した一人で、今でも義妹の公家運営や子育てに厳しい。また、「大きい伯母様」と呼ばれている長姉は、ドイツの旧家に嫁いで、今では多くの孫に囲まれた老後を過ごしている。この方は、母のルィーゼ妃に似て鷹揚な性格なので、あまり実家のことには口を出さなかった。公家の事業の系列でウィーンのホテルを預かって経営している、「真ん中の伯母様」がなかなかに大胆な人柄で、ドイツ人の実業家の夫と離婚した後、自分の子供達をみな外国で実業させたり留学させているので、日本の文化と市場にも大いに興味を持っている。そんなつながりで、梨紗妃の生い立ちや彼女を通しての日本に関心が強く、たまに会うと義妹を質問攻めにしたりするので、むしろ更紗の行動には肯定的だった。それで、甥や姪も「真ん中のマリア・ヨハンナ伯母様」が一番好きだったのだ。
会場のメインエリアでは、公爵家ファミリーが、新種のバラの説明や薔薇祭で販売される関連グッズの話を聞くなど、企画の内容と集客数の目標などの話になっていた。パーティーテーブルのあたりには、ルィーゼ妃と傍についているナンネが、リンドホーフ夫人と確認しながら、お客様方に今日のスウィーツや果物を勧めている。ナンネは、満面の笑みで自分の「かわいい嬢ちゃま」が作ったジャムや、普段の「賢くて活発なお姫様」ぶりを語った。更紗をよく知っている人から、学校の行き帰りの際に見知らぬ老女を補助したとか、文化発表会で実演した日本舞踊風の創作ダンスが素晴らしかった‥などと聞くと、特に、
「まあー、そうなんですか? 私たちは忙しくしてると、そういう噂も聞けなくて‥。」
と、残念そうに答えて、それでも嬉しそうだった。
また、演奏コーナーでも、ワルター中心のヴァイオリン曲とオットーの電子ピアノの数曲が終わり、休憩の間に次のフルート曲を相談していた。いつもギムナジウムの放課後にバンドを組んでいる仲間なので気心が知れていて、今日のパーティーと来客者にふさわしい何曲かを選び、それぞれの楽譜をピックアップしている。こういう時は、マナーも言葉遣いも配慮して、お互いにふざけたりしないで行動できるところは、小さいときから躾けられてきた17歳の心配りが感じられるのだ。ゲオルクの友人達は、彼が国立の基礎学校に入学した時に仲良くなった一般の生徒であるが、学校帰りに公邸に寄っては遊んだり勉強してきた少年達である。彼らの家族も一緒に公爵一家と交流していたので、まったく臆することなくリヒャルト公や梨紗妃に甘えられるのだ。公子は、母に、
「これは僕達からママへのプレゼント曲だよ。」
と言って、フォーレの「シシリエンヌ」を優雅に演奏し始めた。この曲は、メーテルリンクの戯曲「ペアレスとメリザンド」に付けられた組曲の一つで、劇中では愛し合う恋人同士が語り合うシーンで使われる。フォーレはチェロとピアノのために書いたが、今ではフルートをはじめ、いろいろな楽器で演奏される有名な曲だ。
彼の解釈で、恋愛の高揚感ともの悲しく優美で運命的な人生‥というアレンジにしていて、捧げられた梨紗妃は少し面はゆい気持ちだった。
「うちの坊主もなかなかこしゃくだな。こんなに大人っぽく感情を込めた表現ができるようになってきたんだ。君に曲を捧げた相手がたとえ息子でも、私は少々ジェラシーを感じてしまうよ。」
夫がふざけて言う言葉だが、当の梨紗妃には窘められなかった。
「本当‥、私たち親は子供だと思っていても、いつの間にか成長しているのね。」
更紗には、兄の調子の良さと両親の感動がピンとこないので、
「ねえ、ママ、カールと少し市民公園の方も見てくるね。東屋のあたりに新しいハーブのエリアができたって、この間ナンネが言ってたから見てくる。」
と断って、二人で生け垣の向こう側へ歩き始めた。いつもは愛犬のシャーイを伴って、更紗もカールも市民公園へ駆け出して行くところだ。シャーイはとても大きいバーニーズマウンテンドッグという犬種だが、大変穏やかで甘えん坊な男の子で、散歩する市民達のマスコットになっていた。しかし、今日はお供は警護官二人で、後ろから母の声が「行ってもいいから、すぐ戻ってきて。」と追いかける。人が多いのと、マスコミや見物客など、いつもと様子が違うことで心配そうだった。子供達に付いていた警備のハンスとペーターが、さりげなく二人に追随していた。背後では、その「調子の良い」兄の次の曲が始まっていて、これはW・ドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」という高度なテクニックを要する曲なので、吹き始めたとたん、周囲から賞賛のざわめきが聞こえている。
市民公園側のバラ園は、また公邸の庭園と仕様が違っていて、バラ以外の花木も含めてきれいなイングリッシュガーデン風に整備された造りになっている。植え込みと高木や人工のアーチに飾られた歩道に、つるバラやコニファ類が覆い、一見ラビリンス(迷宮)の体をなして市民のちょうどよい散歩道を造っていた。更紗やカールにとっては、普段の時なら大した護衛もつけずに散歩などできる「お隣のお庭」だったのだ。その日はさすがに、海外からの報道関係者や旅行社の取材、一般市民の来園者や野次馬などが一部でごったがえしているので、SPもより警戒して付いていた。
「プリンツェッスィン、ゆっくり歩いてください。ここは速やかに抜けて、もう少し奥の、人が少ない所までは私たちと離れないで‥。」
常々、この少女に巻かれたり置いてきぼりをくらっているハンス・イルマッハとペーター・レンツは、彼らの肩を押さえんばかりに接近して歩いた。そして、やっとハーブ園を抜けて静かなバラの高木園に着く。ここまでの道筋でも、更紗とカールは来場している市民や働いている庭園師の何人もに声をかけた。特に顔見知りのガーデナーとは、春先の花壇のデザインやこの時期の植苗のことなど、話題は多い。ハンスとペーターは彼らが立ち止まって道筋を逸れる度に、立ち位置を調整しながら周囲への注意を怠らなかった。公爵家の希望として、過剰に警護しないで、市民との触れ合いを充分にできる環境を維持したい‥ということがある。もともと平和を好みおおらかな国民性の国なので、これまでも大きな事件や不都合は起こっていない。大戦後の復興の中で、世界に平和と「タックスヘブン」をアピールすることで、積極的に外国の企業を誘致し外国人労働者を受け入れてきた。金融関係の企業や国際機関の会議場も多く、欧州の中央部という位置や国情の安定性が効を奏してきたのだ。そんな公家の子供達も、市街で躊躇なく他人と会話したり、一緒に行動してきた。リヒャルト公と梨紗妃の教育方針でもあるが、公務など特別の時以外はごく普通の子供として養育している。更紗にはよく見知っているガーデナーもいて、市民公園に散歩に出かけると「小さい姫さん」と呼んで、いつも会話する「花の魔術師のお爺さん」がいた。ドイツ語では、公妃も公女もプリンツェッスィンなのでこう呼ばれ、魔術師の老人と会話する小さいプリンツェッスィンは、周囲の微笑ましい話題になっている。今日はその庭園師の姿は見えないようだった。
「じゃあ、カール、ハンスたちと隠れん坊しようか。」
更紗には分かっていながら、お付きに対して意地悪とも取れる提案をするので、即レンツに否定された。
「今日に限っては、それは駄目ですね、姫君。」
彼らも負けてはいない。先ほど母の公妃がかけた言葉を楯に、早く会場に戻ることを促した。二度ほど頑張ってはみたが、頑として受け入れてくれないので、しぶしぶ二人も来た道を戻り始めたのだった。
「お姉ちゃんも、時にはハンスとペーターに負けちゃうんだね。」
カールが楽しそうに言ったのには、「勝つとか負けるとかじゃないでしょ。」と悔しそうに答えてぐずぐずと追い立てられていった。その時だった。目の前を見た人が横切ったのだ。更紗は思わず、
「ジョエルさん、パ-ティーの方はもう出られたの。こちらでお散歩なのですね。」
と声をかけた。更紗は、今日一日の日程の中で何度か直接会話した好で、気楽に話しかけたつもりだったのだ。
その声で(彼女には氏の後ろ姿がそう見えたのだが‥)彼はふらふらとした歩みを止めた。そして、(これも更紗にはそう見えた)ゆっくり、身体を斜めに傾ぎながら振り返った。その表情は彼ら四人の心を凍りつかせた。ジョエル氏は真っ赤な顔を歪ませて、
「‥うう、‥。」
と喉を押さえながら、更紗たちのほんの数メートル手前で蹲ったのだ。周囲に人がいず、華やかで美しいバラや花木に囲まれた散歩道だっただけに、その衝撃は強かった。更紗は気丈夫な少女なので、カールが怯えて護衛にしがみつくのを見て、
「カール、騒がないで! ハンス、すぐ救急車の手配をして!」
と早口で言いながら、ジョエル氏に駆け寄った。氏は、言葉とも呻きとも分からない何かを、必死に言おうとしているように見え、苦しそうに喉をかきむしった。
「ジョエルさん、何? 何が言いたいの。」
更紗が彼の顔に耳元を近づけると、かすかだが、言葉を認識できた。
「‥、ツェ、C・C‥、‥。」
C・C、それって何?‥と思いつつも、長身の老体をペーターと一緒に支えながら、ハンスにしがみつくカールを振り返った。
「カール、この方は今日のお客様の一人なの。心臓発作か何かの急病だと思うから‥と、パパとクリストフ先生に知らせて。怖がらないで、しっかりしなさい!」
弟を叱咤して、また、氏の方に向いた時には、すでに老人の苦しみは終わっていて、さっきまで激しく動いていた彼の身体は、更紗と護衛のペーターの前で静かに横たわっているだけだった。その様子を見て、ペーターが慌てて人工呼吸を始め、救急車が着くまで続けた。
その後、まもなくジョエル氏は救急搬送され、残った娘のもとへリヒャルト公がSPも振り切って駆けつけた後、とりあえず、その日の行事は滞りなく終えた。
お客様たちには動揺を与えないように注意しながら、一日の日程をすべて終え、公邸でカールのショックと更紗の努力を癒せる時間がきたのは夜遅くだった。そして、公爵一家は、救急車に同乗したクルト医師から、ジョエル氏の死因について報告を受けた。
「彼には、蜂毒アレルギーがあったようで、アナフィラキシー・ショックによる呼吸困難での死亡だったよ。」 ‥Fortsetzung(続く)