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桜色のフィルター越しに

作者: 空丘ジル
掲載日:2026/04/01

「うわああああっ!!!」

 自分の叫び声が、ひどく遠くで響いた気がした。

 聞きつけた両親が、扉を弾き飛ばすような勢いで部屋に飛び込んでくる。

「ど、どうした!?」

「……黒い。目の前が、真っ黒なんだ」

 父さんが僕の肩を、痛いくらいがっしりと掴んだ。覗き込んでくる顔は、まるで泥の中に沈んでいるみたいに暗い。

「おい、俺の顔が見えるか?」

 僕はコクコクと頷いた。見えないわけじゃない。父さんの焦った眉も、震える唇も見える。

 ただ、大好きだった父さんのポロシャツの、鮮やかな青色がどこにもなかった。

「だったら、どう黒いんだ?」

「……黒いフィルターが、視覚に張り付いたみたいっていうか……」

「白黒映画みたいなこと?」

 母さんが、消え入りそうな声で尋ねる。

「それよりもっと、暗いかな」

 昨日まで見ていた世界が、古い写真になってしまったみたいだ。


 両親がこれほど狼狽うろたえるのには、理由がある。

 昨日、僕は小学校の階段から足を踏み外し、後頭部を強かに打ちつけた。アスファルトに広がった自分の血が、あの時はあんなにどす黒く、嫌な赤さをしていたのに。

 運ばれた総合病院でのCTスキャンは「異常なし」。胸を撫で下ろした矢先の、この「暗闇」だった。

 結局、僕は今日も同じ病院へ連れて行かれた。

 昨日と同じ、消毒液の匂いが鼻につく診察室。医師は画像を眺め、再び「異常なし」という冷たい太鼓判を押した。

「石頭で良かったなあ」

 デリカシーの欠片もない言葉が、今の僕にはひどく虚しく響く。先生、僕の目には、あなたの白衣さえ薄汚れた灰色に見えているんだよ。


 念のため眼科の検査も、という話が出たところで、父さんの携帯電話が静かな廊下に鳴り響いた。

 祖母が急逝したという知らせだった。

 検査は後日に回され、僕たちはそのまま祖母の家へ向かうことになった。

 色を失った僕の世界に、また一つ、暗い影が落ちた。


 祖母は、山を駆けるイノシシを連想させるほどパワフルで頑丈な人だった。僕より長生きするんじゃないかとさえ思っていたのに。

「あ」

 買い物袋を両手に下げ、車から運び終えた直後。たった一言だけ漏らして倒れ、そのまま動かなくなったのだと伯母さんが教えてくれた。あまりに呆気ない幕引きは、まるでおばあちゃんが「ちょっと一休み」と横になっただけのようにも聞こえた。


 僕は少し窮屈になってきた小学校の制服で通夜と葬儀に出た。

 田舎の葬儀は独特だ。近所の女性たちがスクラムを組むような完璧な手際で一切を仕切り、親族であるはずの僕たちは、まるでお客さんのように座っているだけでいい。忙しそうに動く彼女たちの黒い背中の向こうで、僕はただじっと気配を殺していた。棺の中で眠るおばあちゃんの、冷たくなった指先に意識を向けながら。


 僕は毎年夏休みにこの家に来ていた。両親は数日で帰るけれど、僕は一ヶ月ずっと居座った。

 従兄弟たちと駆け回った山、照り返す光を跳ね返していた海、跳ねる魚の鱗。記憶の中のそれらはあんなに眩しいのに、今の僕の目には、すべてが古い新聞の切り抜きみたいに色褪せて映る。

 おばあちゃんの作る食事は、いつも机からはみ出しそうだった。「どうやったら食べ切れるんだ」と呆れる僕の前で、おばあちゃんは「さあ、たんとお食べ」とニコニコ笑う。

 土の匂いがする豚汁の人参。宝石みたいに赤かったトマト。塩を振って丸かじりした、瑞々しい緑のきゅうり。

 あの時、僕の身体に注ぎ込まれていたはずの「命の色」が、今の視界からは一滴残らず消えてしまっている。それがたまらなく寂しかった。

 都会の狭い家では誰もが細かいことに目くじらを立てるけれど、この広い家では、ちっちゃなことは誰も気にしない。僕はおばあちゃんの作ってくれる栄養と、このゆったりとした時間のおかげで、夏が来るたびぐんぐんと背を伸ばした。迎えに来た両親が「また大きくなった!」と驚くのが、僕の誇りだった。

 けれど、もうすぐやってくる今年の夏、僕は誰に背丈を測ってもらえばいいんだろう。

 どれだけ背を伸ばしても、もうおばあちゃんの目線には届かない。そう思うと、胸の奥がぎゅっと窄まって、うまく呼吸ができなくなった。


 悲しくも慌ただしい数日が過ぎ、両親は再び僕を眼科へ連れて行こうとした。

 けれど、僕は頑なに首を横に振った。

「……もう、見えるんだ。全部」

 視界を覆っていたあの息苦しい黒いフィルターは、あの日限りだった。翌朝、おばあちゃんの家の湿った空気の中で目覚めたとき、世界には不自然なほど鮮やかな色が戻っていたからだ。けれど、戻ったはずの色彩は、どこか薄っぺらな書き割りみたいで、僕の心にはちっとも響かなかった。


 それでも「念のため」と引きずられるように連行された眼科で、案の定、三度目の「異常なし」を食らった。僕を診た医者は、カルテを叩きながら素敵なコメントをくれた。

「心療内科の受診をお勧めしますよ。思春期の心は、ガラス細工みたいに傷つきやすいですからねえ。ワッハッハ!」

 高笑いするその喉の奥まで見えてしまいそうで、僕は吐き気がした。

 ……その無神経な言葉こそが、僕の柔らかい場所を一番深く抉ったことに、大人の彼は気づきもしない。


 僕がいくら拒否しても、両親は譲らなかった。僕を「壊れ物」のように扱う両親の視線が、色の戻った世界で一番重苦しかった。

 渋々受けた心療内科では、さすがに「異常なし」という放免はされなかった。かといって、僕の心のどこに穴が空いているのか、誰も指し示してはくれなかった。

 ただ、白く清潔すぎる診察室に通い、判で押したような質問に答えるだけの時間が積み重なっていく。

 月に一度の通院を一年ほど続け、その間に僕は中学生になった。

 ぶかぶかの新しい詰襟に袖を通し、鏡の前に立つ。昨日までの自分を脱ぎ捨てたはずなのに、鏡の中の僕は、あの夏の日から一歩も動けていない顔をしていた。

 どれだけ背が伸びても、心はまだ、あの色のない暗闇の中でうずくまっている。

 「普通」のふりをして笑う術だけを、僕は少しずつ身につけていった。


 あの黒いフィルターが再び視界を覆ったのは、中学二年の、またしても夏休みだった。

 僕はもう、二年前のように叫んだりはしなかった。あの一連の、無機質な消毒液の匂いがする病院通いは、二度と御免だったから。僕はただ、静かにまぶたを閉じ、再び訪れた「色のない夏」を喉の奥で飲み込んだ。


「クラスメイトの柚木さん、事故で亡くなったそうよ」

 母さんに告げられても、僕は驚かなかった。友人からのメールですでに知っていたから。そして、それが実は自ら命を絶ったということ、大人たちがそれを「不慮の事故」という綺麗なオブラートに包んで隠そうとしていることも。

 その死は、しんしんと胸の奥に冷たく降り積もった。

 同じクラスというだけで、言葉を交わした記憶さえ数えるほどしかない。けれど、彼女が時折見せた、陽だまりのような少し茶色い髪や、教室の窓際で笑っていた瑞々しい唇の赤を思い出すと、胸の奥がチクリと疼く。

 今の僕の目には、その「色」を再現することさえ許されない。

 十三、四歳で命を絶つということ。彼女にとって、生の世界はどれほど寒々しく、死の側がどれほど暖かな安住の地に思えたのだろう。僕は頭を振って、思考の渦から逃れようとした。

 なぜなら、僕の視界を塞ぐこの黒い膜は、冷徹な観測者のように僕に問いかけていたからだ。

 「死」と、この「フィルター」の因果関係について。

 一度目はおばあちゃん。二度目はクラスメイト。

 ただの知人や、テレビの中の有名人が亡くなっても、世界が色を失うことはなかった。

 関係の深さがトリガーなのか? それとも、僕の心のどこかが彼女の絶望に共鳴してしまったのか。

 僕は答えのない問いを抱えながら、モノクロームの景色をじっと見つめていた。人の死なんて、そうそう身近で起こるものではない。そう自分に言い聞かせて、この暗闇が過ぎ去るのを待つしかなかった。


 三度目にあのフィルターが視界を覆ったのは、それから三年後のことだった。

 目覚めた瞬間、色を失った天井を見上げて、僕は重い溜息をついた。

「……またか」

 うんざりしながら制服を着て、重い足取りで高校へ向かう。今日の僕は、一体誰の死を突きつけられることになるのだろう。まるでおみくじでも引くような不謹慎な予感に、自分の心がひどく濁っている気がした。

 一時間目の国語。いつもは騒がしい澤村が、目を真っ赤に腫らして遅刻してきた。教壇の坂口先生は、彼の痛々しい顔を一瞬だけ見つめたが、何も言わずに黒板へ視線を戻した。

 休み時間になり、僕は吸い寄せられるように彼へ歩み寄った。声をかけるより早く、澤村が絞り出すような声で口を開く。

「俺、バカだよな。母ちゃんがうるさくて、ついムシャクシャして……。いつもは、絶対気をつけてたんだ。リビングのドアを閉めてから、玄関を開けるって」

 脳裏に、何度も遊びに行った彼の家の、日当たりのいいリビングが浮かぶ。

「今日はそれを、忘れちまって……。玄関を開けたら、あいつ、ぴょんって。……そこへ、バイクが」

 澤村はそこで言葉を詰まらせ、机に突っ伏して号泣した。嗚咽に合わせて震える彼の背中を、隣の席の杉山さんが、言葉もなくポケットティッシュを置いて見守っている。


(……ああ、もう、あの子はいないのか)

 僕の記憶の中では、あんなに真っ白で、綿あめみたいにふわふわだった子猫。僕らがゲームに熱中している間、僕の膝の上で微かな体温を分け与えてくれた、あの小さな命。

 今の僕の目には、あの子の毛並みの白ささえ、濁った灰色にしか映らない。

 胸が、万力で締め付けられるように痛んだ。

 その時、僕は不意に悟った。

 黒いフィルターは、選ばれた「人間」のためだけに現れるのではない。

 フィルターが発動する残酷な条件。それは、対象が誰であるかではなく、「僕の心が、その死を予感して震えてしまうこと」。

 この暗闇は、僕自身の「悲しみ」の影そのものだったのだ。

 しかしまだ疑問は残る。朝目覚めて見る黒いフィルターが、その日の誰かの死を暗示することに一体何の意味があるだろう。どうせ数時間後には遭遇することになるのだ。そして、どうしてこのような現象が僕に起こるのだろう。これは他の誰かにも起こっているのだろうか?


 それから一年半が過ぎ、僕は大学生になった。

 初めての一人暮らし。狭いワンルームに並んだ真新しい家具と、まだ馴染まないシーツの匂い。期待と不安が、春のぬるい空気にかき混ざる。

 大学では映画サークルに入った。特別な情熱があったわけじゃない。高校からの腐れ縁である澤村に、半ば強引に背中を押されただけだ。僕より数奇な運命に翻弄される映画の中の人々を観たかったのも確かにある。


 五月のある朝。目覚めた瞬間、僕は絶句した。

 視界の端から端まで、べったりと、毒々しいほどの「黄色」に塗り潰されていた。

 窓から差し込む朝光さえ、どこか腐敗した果実のような色をしている。ついに脳の病気か、それとも肝臓か。最悪のシナリオが脳裏をよぎるけれど、始まったばかりの講義をサボる勇気も出ず、僕は粘りつくような視界を引きずって大学へ向かった。


 すべての講義を終え、サークルの部室のドアを開ける。

 西日の差し込む部屋に、同学年の田辺さんが一人で座っていた。

「おーっす」

 僕が声をかけると、彼女は弾かれたように立ち上がり、迷いのない足取りで近寄ってきた。そして、息を呑む間もなく、唐突に切り出した。

「……ずっと、君のことが気になってたの。私と付き合わない?」

 生まれて初めての、告白。

 本来なら、僕の心臓はもっと幸福な音を立てて跳ねるはずだった。けれど、僕の網膜に映る彼女の笑顔は、この異常な黄色のフィルター越しに、ひどく歪んで見えた。

 「嬉しい」という感情が、この不吉な色彩にじわじわと侵食されていく。

「えーっと、僕は君のことをほとんど何も知らないし、いきなりお付き合いというのもどうかと……まずは、友達からじゃ……」

「じゃあもういい!」

 言葉の続きを遮るように、彼女は冷たく言い放った。翻した背中が、黄色の濁流の中に消えていく。

 取り残された僕は、しばらくの間、静まり返った部室で呆然と立ち尽くしていた。

 彼女を追いかけることよりも、僕の指は震えながら、スマホの検索窓に『視覚 黄色 異常』と打ち込んでいた。

 世界が黄色く染まった理由。それがもし、また「誰かの何か」を暗示しているのだとしたら。僕は、自分の心さえまともに信じられない。


『なんだか、締まらないなあ』

 乾いた声が、静まり返った部室に染み込んだ。その途端、僕の目の前から黄色が剥がれ落ちた。クリアになった視界を僕は思わず見回す。ここには僕以外、誰もいないはずなのに。

『空耳じゃないよ』

 僕は弾かれたように立ち上がった。ドアを開けて無人の廊下を確認し、窓の外の濁った景色を覗く。机の下、テレビの裏、重なり合った脚本の束……。

「……出てこいよ」

 虚空に向かって、震える声を投げた。子供の頃から、世界が色を失うような不条理の中に生きてきたんだ。今さら、何が現れても驚かない。

(小人か、羊か、あるいは……)

『アハハ、そういうチョイス?』

(……やっぱり、心療内科の通院を、勝手にやめるべきじゃなかったかな)

『いや、病気じゃないって。君が一番よくわかってるでしょ?』

 そいつは、僕の脳裏に浮かぶ思考を、熟れた果実を摘むように正確に拾い上げてくる。

(いいから、姿を見せろ)

『姿、ねえ……。じゃあ、君の好みに合うように作ってみるとしよう。やれやれ』

 湿った音とともに現れたのは、一匹のカエルだった。

 紫色の毒々しい地肌に、刺すようなショッキングピンクのドット柄。

(……悪趣味な。僕の網膜が腐りそうだ)

『ハハハ! じゃあ、これならどう?』

 ピンクの斑点が、意志を持つ生き物のように蠢き始めた。

 背中の上でくっついたり離れたりしながら、逆三角形の陣形を組んで止まる。

(……顔だ)

『面白いよね、人間って。三つの点があるだけで、そこに「命」を見出しちゃうんだから』

 言葉に合わせるように、口にあたるドットがぐいっと下向きの弧を描き、嘲笑うような笑みを形作った。

『いや、これは西洋向きかな。日本人はもっと、こう……』

 今度は、目にあたる二つのドットが細い三日月形になる。

(……ああ、そう。こっちの方が、笑っているように見える。本音を隠して笑う、僕たちみたいに)

『だよね。日本人の笑顔は、感情を殺して細める目が特徴だから』

(なるほどな。お前、詳しいんだな)

『じゃあ、これを使おうか』

 カエルが告げると、その顔がつるりと「のっぺらぼう」になり、背中の模様が本来あるべき顔の位置へとピタリと収まった。

(うわ、グロい……)

『ちょっと! 失礼な感想を垂れ流さないでよ。まだ「完成」じゃないんだから』

 思考を覗かれるというのは、服を剥ぎ取られるよりずっと心許ない。

 紫色のぬめった肌が、不気味に質感を揺らしながら変質していく。手足がまっすぐに伸び、ピンクの落書きだった顔に、彫刻のような凹凸が生まれる。その姿は、一瞬だけ、遠い星から来た宇宙人のようにも見えた。

『ここで止めてもいいんだけどね』

 軽口を叩きながらも、粘土をこねるような変化は止まらない。

 何もない虚無の眼窩に瞳が宿り、柔らかな髪が芽吹き、指先の水かきが消えて、繊細な爪が揃っていく。

 現れたのは、三十センチほどの、「人間」だった。

 子供のような幼さではなく、どこか成熟した大人の気配を纏っている。けれど、その体には決定的な何かが足りない。

『うん、不要なものは省かせてもらったよ。乳首とか、ヘソとか、性器とか。誰かと繋がったり、何かを残したりする必要はないからね。僕は、ただの「現象」なんだ。』

 完成されたその小さな「人間」は、恐ろしいほど人工的で、そして誰よりも人間らしく見えた。


『次は、服を決めようか』

 カエルから脱皮したその小人は、いたずらっぽく笑うと、部室の隅で埃を被っている棚に目を留めた。古いビデオやDVDが、時代に取り残されたように乱雑に積まれている場所だ。

 小人は驚くほど軽い身のこなしで棚をよじ登り、パッケージの背表紙を一つひとつ、恋人を選ぶように指でなぞっていく。


『お、これなんてどうかな?』

 小人がパッケージに触れるたび、その姿が吸い込まれるように、目まぐるしく変貌を遂げた。

 まずは『ティファニーで朝食を』のホリー。映画史上最も気高く、孤独な黒と言われるリトル・ブラック・ドレスだ。

 次は『時計じかけのオレンジ』のアレックス。純白のシャツにサスペンダー、そして不気味な山高帽。

 さらに『インディ・ジョーンズ』。使い古された茶色のフェドラ帽に、砂埃を被ったレザージャケット。小人は不敵な笑みを浮かべ、見えない鞭を空に振るった。

 次は『夢のチョコレート工場』のウィリー・ウォンカ。毒々しいパープルのベルベットコートに、視線を刺すような赤茶色のトップハット。七〇年代のサイケデリックな狂気が、小人の歪な存在感と不気味に共鳴する。

『華麗なるギャッツビー』のピンクのスーツに着替えたときには、その顔つきまで、愛に破れた男のような虚無感を湛えていた。

 極めつけは『グリース』のダニーだ。ジョン・トラボルタが夜を支配した、あの煌めく黒のスーツ。サーモンピンクのシャツの襟をピンと立て、完璧なリーゼントをなでつける。

(……まるで、時代を食い荒らす化け狐だ)

 次から次へと、僕の知らない「世界の色」を浪費していく小人。僕はその鮮やかな「化けの皮」に、ただ呆気に取られていた。

 その時。

 カチャリ、と無機質な音がして部室のドアが開いた。

 小人は、弾けた泡が空気に溶けるように、一瞬でその姿を消した。そして僕の視界は再び黄色に侵されていく。

 入れ替わりに入ってきた先輩は、足元に無残に散らばったビデオの山と、その中心で立ち尽くす僕を交互に見て、氷のような視線をぶつけてきた。

「ぼ、僕じゃありません……!」

 必死の叫びも、静まり返った部室では虚しく霧散する。先輩の瞳には、荒らされた棚と、言い訳をする「厄介な後輩」しか映っていない。

 僕は一人、喉の奥に苦い沈黙を溜め込みながら、スゴスゴとそれらを棚に戻し始めた。指先に触れるビデオケースの冷たさが、僕と「普通の世界」との距離を、あらためて思い知らせるようだった。


 翌朝、僕の視界は嘘のようにクリアに戻っていた。

(……やっぱり、あれは「黄色いフィルター」だったのか)

 あの奇妙な小人の出現か、それとも田辺さんからの唐突な告白か。どちらにせよ、実害のないまま僕の日常は、春の穏やかな日差しの中へ溶けていった。


 異変に気づいたのは、数日後のことだ。生協でのバイトを終え、いつもより遅れて部室のドアを開けた瞬間、僕は自分の肺が凍りつくような錯覚に陥った。

 室内には、刺すような険悪な空気がよどんでいる。

「おい……お前、調子に乗ってんじゃねえぞ」

 怒声とともに胸ぐらをつかまれているのは、澤村だった。

 慌てて止めに入った僕を、顔を真っ赤にした副部長の池端さんが激しく突き飛ばす。

「関係ない奴は引っ込んでろ!」


「おい、手を離せ!」

 そこへ響き渡ったのは、今しがた現れた部長・竜崎さんの、地を這うような凄まじい胴震声どうぶるいごえだった。

 池端さんの指が、凍りついたように動かなくなる。その隙に、僕は澤村を背後に引き寄せた。

「何があった」

 竜崎さんの鋭い視線が一同を貫く。誰もが糸の切れた人形のように黙り込み、重苦しい沈黙が足元に溜まっていった。

「いーけーはーたーっ!」

「は、はいっ!」

 直立不動になった池端さんの喉が、ひきつるように鳴る。

「こ、この澤村が、俺の彼女にちょっかいを……」

「違います! 田辺さんは俺の彼女です!」

(えっ、田辺さん……?)

 絶句する僕の横で、ダムが決壊したように声が噴き出した。

「いや、僕とも付き合ってますけど」

「俺の彼女ですよ」

「俺なんて、もう半同棲状態だぞ」

 次々に名乗りを上げる男子学生たち。信じていた「特別」が、安っぽい量産品に成り下がっていく残酷な瞬間だった。

「おーい、貴様らッ! 今後一切、サークル内での勝手な交際を禁ずる! 私に報告し、許可を得てから清く正しく美しくお付き合いだ。分かったか!」

「はいっ!!」

 僕を含めた男子一同の、情けないほど揃った唱和が、部室の壁に虚しく跳ね返った。


 その時、パタンと軽やかにドアが開いた。

「あれっ、なんだかお取り込み中ですかぁ?」

 渦中の人物、田辺さんだ。彼女はいつもの調子で男子たちに目配せを送るが、昨日まで彼女の虜だった彼らは、一斉に目を合わさぬよう明後日の方角を向いた。

「田辺」

 竜崎さんの重々しい呼びかけに、彼女はまだ、自分の足元が崩れていることに気づかない。

「はぁい、部長ぉ。こんにちは」

「……こんにちは、ではない。お前、この落とし前をどうつけるつもりだ?」

「へ?」

「うちの大事な部員たちを、ずいぶんと大勢『可愛がって』くれたそうじゃないか」

 ようやく事態を察した田辺さんは、縋るように「彼氏たち」を一人ひとり見つめた。

(……なんか、すごいな、この人。この状況でもまだ、誰かが助けてくれると思ってるんだ)

 居たたまれなさに顔を伏せる男たちを尻目に、僕はただ、人間の業の深さに圧倒されていた。

「田辺萌香。たった今をもって、お前の除名を宣言する。これは正式な放逐だ」

 竜崎さんの宣告は、死刑宣告のように冷徹だった。

「今後一切、部室と部員に近づくことは許さん。破れば大学に報告する。……私のネットワークを甘く見るなよ。他のサークルでも、同じことができると思うな」

 田辺さんは、金魚のように口をぽかんと開けたまま立ち尽くしていた。

 放心して動こうとしない彼女を、業を煮やした女子部員たちが両脇から抱え、部室の外へと連行していった。


「くそー、……っくそー!」

 焼き鳥屋の狭いカウンターで、僕は澤村の「ヤケ酒」ならぬ「ヤケ・ジンジャーエール」に付き合わされていた。

「生まれて初めての彼女だったんだぞ、くそー! これで女性不信になったら、どうしてくれるんだよ!」

「もう忘れろって。あれをカウントしちゃダメだ。お前はまだ、誰とも付き合ってなんていない」

「……それはそれで、複雑ではある」

「ほら、飲め飲め。追加いくか?」

 未成年の僕は、同じく未成年の澤村に、琥珀色の炭酸をさらに勧める。グラスの中で氷がカランと乾いた音を立て、弾ける泡が、僕たちのやり場のない青い熱を冷ましていくようだった。

「いや、もう腹タプタプだ。……。それにしても、お前は大丈夫だったのか? あの女に、何か言われなかったか?」

 澤村が動きを止め、僕をまじまじと見つめた。

「ああ、……実はさ。僕も言われたよ。断ったけどね」

「……マジか。すっげえな、お前。ホント、すっげえよ。あの誘惑を断れるのか? なんかもう、神様みたいに見えてきたわ」

 僕は「ガハハ」と、わざとらしく大げさに笑ってみせた。

「だろ? もっと崇めてくれてもいいんだぞ」

 おどけて返したが、背中を冷たい汗が伝うのを感じていた。

 あの日、もしもあの黄色いフィルターが僕の視界を遮っていなかったら。もし、あの毒々しい色に世界が塗りつぶされていなかったら――。

 僕だって、鼻の下を伸ばして、二つ返事で頷いていたかもしれない。

(……黄色いフィルター。あれは、文字通りの『黄色信号』だったってことか。気をつけろ、って。立ち止まれ、って)

 不吉な黒とは違う、奇妙な警告。

 僕は氷の溶けかかったグラスを傾け、炭酸の抜けた甘い液体を飲み込んだ。

 脳裏をよぎるのは、あの部室で、僕の知らない映画の衣装を次々と着替えていた、派手で孤独な小人の姿だ。

 「僕しか知らない世界」が、僕を窮地から救ってくれた。それは孤独で、けれど、少しだけ温かい秘密だった。


 次に小人が現れたのは、それから数年後のことだ。僕はすでに社会人になっていた。

 小人は、以前あれほど入念に服選びをしておきながら、裸だった。しかし、余計なものが何もついていない、尻の膨らみさえないそのからだは無機質すぎて、裸というより、マヨネーズのように見えた。


 現れたにも関わらず、小人は僕の方には目もくれず、一人で遊び始めた。何もない空間から、いろんな色の積み木のような小さな板切れを取り出し、それをまた、何もない空間に刺して、階段のようなものを作っていく。三つくらい刺しては登り、また刺しては登りを繰り返す。色とりどりの階段が天井まで着いたとき、どうするか見ていたら、小人のからだは天井を通り抜け、見えなくなってしまった。階段だけが取り残された。


 しばらくすると、小人が頭の方から天井を通り抜けて再び現れ、今度は床のほうへ板を突き刺しながら登っていく。重力なんて関係ないのだ。小人はひたすら登っていく。上にも下にも登っていく。そのうち僕の部屋は階段だらけになった。僕はその積み木のようなものに手を伸ばしかけ、何色を触れば正解なのか分からず、結局手を引っ込めてしまった。そして、ひたすら登っていく小人を眺めながら眠ってしまった。


 翌朝、目覚めた瞬間、視界の異変に気が付いた。上半分が沈んだような「黒」、下半分が鮮やかな「緑」。二色が同時に現れたのは初めてのことだった。僕は困惑を飲み込み、重い足取りで会社へ向かった。小人も階段も消えていた。


 昼休み、スマホが震えた。澤村からだった。

「おい、聞いたか……? 現国の坂口先生、亡くなったって。学校前の横断歩道で、生徒を庇って車に跳ねられたらしい」

 受話器越しの声に、僕は言葉を失った。

 脳裏に浮かんだのは、あの日の授業風景だ。猫を亡くして泣き腫らした澤村が遅刻してきた時、先生は何も咎めず、ただ一瞥して授業を続けた。理系だった僕らにとって国語は重点科目ではなかったけれど、先生が語る文豪たちの破天荒な素顔は、今でも鮮明に覚えている。そして、厳しさのなかに、生徒を見守るさり気ない優しさを持ったひとだったことも。

「俺、お通夜に行こうと思ってる」

「……僕も行くよ」

 僕は即座に答えた。

 会社帰りに澤村と合流し、通夜の会場へ向かった。


 そこには現職の教師や生徒、そして大勢の卒業生が集まっていた。先生の遺影に手を合わせ、冥福を祈る。同級生たちと静かに挨拶を交わす中、僕は「彼女」の姿を見つけた。

 杉山さん。

 あの日、絶望していた澤村の机にそっとティッシュを置いてくれた彼女。その優しさに惹かれながらも、何も伝えられないまま卒業し、今日まで会えずにいた。

「久しぶり、杉山さん」

 声をかけると、彼女は寂しげな、けれど柔らかな微笑みを浮かべた。近況を語り合ううちに、彼女が僕の家の最寄り駅を利用していることが分かった。

 帰り道、三人で駅へ向かっていると、澤村が唐突に声を上げた。

「悪い、用事を思い出した!」

 澤村は僕の肩をポンと叩くと、そのまま反対方向へ走り去っていった。あいつなりの、不器用な気遣いなのだろう。

 夜の電車に揺られながら、僕たちは高校時代の思い出を語り合った。彼女が覚えている些細なことを僕が忘れていたり、その逆があったり。

「あの頃は、何でもできるって信じてたよね」

 そう言って、二人で小さく笑った。

 すっかり暗くなった駅に着き、僕は彼女をマンションまで送ることにした。

 僕の視界には、依然として黒と緑のフィルターが掛かっている。こんな大切な夜なのに、彼女の顔をクリアに見ることができない。それがひどくもどかしくて、悔しくて――気がつくと、言葉が溢れていた。

「あの……また、会ってくれるかな?」


 さらに数年後。僕は久しぶりに「フィルター」を纏って目を覚ました。

 視界を染めていたのは、透き通るような、優しい「桜色」だった。


 昨夜、数年ぶりに小人が姿を現した。大きなピンクの帽子と裾の広がったフワフワのドレス姿。昔流行ったというフランス人形のようだった。

 考えてみると、僕は小人のことをほとんど知らない。名前も知らないし、名前があるのかさえ知らない。

(……好きな食べ物は?)

 ふと思いついて問いかけてみると、脳内に直接声が響いた。

『……スパゲティー』

(住んでるところは?)

『井戸の中』

(ハハハ! 想定通りすぎるだろ、それは)


 僕は苦笑しながら腰を上げた。妻が不在の夜、僕は自分のためにスパゲティーを茹でる。

 僕は数年前に結婚した。相手は、慎ましく優しい人。泣いている人に、そっとポケットティッシュを差し出せるような――。

 妻は数日前から入院していた。


 僕は朝一番で病院へと向かった。

 この桜色の視界が何を告げようとしているのか、今の僕には分かっている。

 白い病室のベッドで、妻は必死に戦っていた。

 僕は彼女の汗ばんだ手を握りしめ、ただひたすらに祈った。

 代わってやることも、痛みを分かち合うこともできない不甲斐なさに、視界が熱く潤む。

「頑張れ……頑張れ……っ!」


 長い、長い時間が過ぎた。

 嵐のような静寂が訪れ、一瞬の沈黙のあと。

 看護師さんが、慎重に、けれど誇らしげに掲げた「それ」を、僕は桜色のフィルター越しに見つめた。

 シワシワで、真っ赤な顔をして。


 この世界に初めての呼吸を刻み込んだ、僕たちの、小さくて愛おしい宝物。

 それは僕の人生で最も美しく、鮮やかな「桜色」を纏っていた。

お読みいただき、ありがとうございました。

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