第二話:ゾーイ婆さんの薬棚
ゾーイの薬小屋はたくさんの匂いで充満していた。壁にかかったミモザの香りと朽ちかけた根草の苦み。壁の棚には『妖精界での出来事』『魔法書:初級編』といった古めかしい本や、名も知らぬ薬瓶が雑然と並んでいた。
セルゲイはその扉を押しながら、こういう場所が落ち着くのは、自分が〝おかしい〟からだと知っていた。
「ふぇふぇふぇ。魔女の館へ……と、朝早くからどうした? 可愛い孫よ」
奥の暗がりからしゃがれた声がした。
足元でフェイガードが小さく鳴く。黒い体毛はセルゲイの足元で丸まっている。ゾーイはその様子に目を細めた。
「知りたいことがあると見た。いいさ、なんでも聞くといいよ。アタシに答えられることだったら教えてしんぜよう」
「妖精界に行きたいんです」
ハシバミ色の目に揺らぎはなかった。しかし、老婆の数珠つなぎのネックレスが妖しく光る。
「伝承を聞きたいのかね? どぉれ、そこの棚に『隣人の国へのいざない』という本があるからとっておくれ」
埃にまみれた緋色の本を渡すと、ゾーイはフッと埃を払い、ページをめくる。セルゲイでも知っている話を滔々《とうとう》と聞かせた後、老婆はハーフエルフに向き直った。
「退屈そうじゃな、セルゲイよ。しかしな、なぜそんなことを知りたい?」
「……この身体が、本当に自分のものか分からないんです」
退屈そうにあくびをしていたフェイの耳がピクリと動く。
ゾーイのギョロリとした目が一瞬座った。
「前世を思い出したのかえ?」
「はい。僕は『冬木悠真』でした。でもこの身体の持ち主『エルフのセルゲイ』の魂が妖精界にあるはずなんです」
前世は冴えないアラサーだ。セルゲイは続ける。
「数日後、二つの月が満月になる時、オークの古木の根本に妖精界への扉が開かれる。そうリリスさんから聞きました。それはいつなんです?」
カラカラと老婆が笑う。
「十五年に一度の満月の時。それはここユルゲン村でも、ルーネでも、月夜祭として祝われる。二つの月がようやく手を取り合う夜じゃ。そこら中でアベックがいちゃついているよ」
ゾーイは赤い本を机に置き、フェイの頭を撫でる。赤い目が細くなり、黒い犬は気持ち良さそうに鳴く。
「あの森の古木が二日後、目を覚ます。ゴツゴツした老いた樹の皮膚が、まるで鏡のように銀に光るのさ。それは隣人の国――妖精どもが棲まう、あちら側への扉が開いた証じゃ」
セルゲイは咳をひとつして、ゾーイの言葉に耳を傾ける。
「けれど、誰でも入れるわけじゃない。扉は〝選ばれた者〟しか通さん。あれは招かれたものへの返礼。……さて、セルゲイよ。アンタは呼ばれておるのかね?」
呼ばれているかどうかは分からない。当日、確かめるしかないだろう。
「僕は『妖精女王の愛し子』ですよ。僕の方から会いに行ったって、出迎えてくれる……はずです」
セルゲイは自分に言い聞かせるよう、自分の言葉が頼りなく響くのを感じた。その虚勢をゾーイは見抜いてた。
「戻ってこられるか保証のない旅じゃ。覚悟はできているのか?」
半妖の耳が跳ねる。頬に汗が滲み、長いまつげが伏せた。
村のみんな、ルーネの冒険者『風詠みの刃』たち。そして、スズランの君のクララ。得難い友人たちと離れ離れになるのは心が苦しい。それでも――。
「それでも、確かめたいです」
ゾーイはため息をついて、棚の奥から古びたコンパスのような器具を取り出した。
「これは〝妖精の気配〟を測るもの。大まかなものしか分からんが、アンタにゃ必要かもね」
フェイはそれを怖がり、尻尾を丸めた。
「アンタ、まだ〝誰か〟に返すつもりなのかい?」
「…………」
セルゲイは返事をしない。だが、その目は「確かめたい」と静かに語っていた。
棚の奥で乾いた葉が一枚、ぱらりと落ちた。彼はそれを拾いもせず、ただ見つめたまま、旅の始まりを感じていた。




