夜明け前のデュエット〜記憶がなくなった程度で私の愛は消えないよ〜
世界の終末は、ある日突然、静かに始まった。空に浮かんだ巨大な亀裂「セレスティア」から、夜な夜な異形の生物「ノイズ」が溢れ出し、地上を蝕んでいく。人類はシェルターに籠もり、わずかな「音使い」と呼ばれる能力者が、その歌でノイズを退け、日常を守っていた。
僕は、その音使いの一人、アルト。歌でノイズを「消滅させる」ことができるが、その代償として、僕の歌は少しずつ、人の記憶から消えていく。僕の歌を聴きすぎた者は、最終的に僕が存在したことすらも分からなくなる。
「お願い、アルト。もう歌わないで。あなたの歌を聴くたびに、大切なあなたが消えていくのを感じる」
僕の幼馴染で、唯一の友人である少女、ルナはそう言って僕の手を握る。彼女は僕の歌を一番長く聴いてきた。その瞳には、確かに影が宿っている。僕はルナにそんな表情をさせたくないんだよ。でもさ、世界が僕を礎にすることをきっと望んでいる。
「大丈夫だから、僕がノイズを全滅させてセレスティアも塞いで見せるよ。それまでの辛抱だから」
その時にはきっと、僕のことを忘れてルナは平和な世界で暮らせているよ。ルナを宥める僕にもう一人の心配してくれる存在が声を掛けてくれる。僕のために苦しんでくれなくてもいいんだよ。
「また、お前が歌ったのか、アルト。昨晩の襲撃で、シェルターの住民が数名、お前のおかげで命が助かった。感謝する。だが、無理はするなよ」
音使いの指揮官、厳格なメゾが僕を気遣う。彼の目は、僕を英雄として見ているが、同時に僕の歌の代償を知って憐れんでいるように感じる。
「止めても無駄ですよ、メゾ指揮官。僕が歌うのを止めたら、ノイズに街が飲み込まれてしまう」
僕の言葉に、メゾは何も言わない。彼の沈黙が、僕の意思の強さと思いを尊重しているように感じた。
side:ルナ
アルトの歌は、世界を救う。それは知っている。でも、彼が歌うたび、私の心の中にぽっかりと穴が開いていく。大切な記憶が、砂のように指の間からこぼれ落ちていく。昨日、アルトと初めて会った日のことを思い出そうとしたら、うまく思い出せなかった。顔は見えるのに、情景がぼやけている。
それでも、アルトの歌を聴くのをやめたくない。私たち無力な一般人がここにいるから、彼は歌い続ける。人から自分の記憶が消えると知って、彼は歌を歌い続けている。私は聴き、彼が戦っている姿を見続けることで、彼の努力を少しでも覚えていたいから。
「ねえ、アルト。今日の歌も、感情的で綺麗だったね」
記憶が薄れても、彼の歌が私の心を震わせるのは変わらない。それはきっと、私が彼を「友達」と呼ぶ、唯一の記憶だから。
side:メゾ
アルトの歌は、確かに他の歌使いたちよりも並外れている。もはや、奇跡だ。しかし、その奇跡は代償を伴った。彼の心を犠牲にして、より多くの人間を救う。それが俺の、指揮官としての責務なんだろう。
「この厄介な代償さえなければ……」
どうして、人のために頑張っている奴を誰も覚えてやれないんだ。誰にも覚えられないのを知ってどうして彼の心が無事と言えるだろう。俺はアルトの歌の秘密を調べていた。なのに、何も分からなかった。
ただ、俺たちが彼を忘れるほどに彼は力を増した。彼はその力で自分を代償にノイズを滅ぼす気だ。クソッ、上司なのに俺は優秀な彼を覚えてやれないのか。
「アルト、もう歌わないでくれ!」
俺が不甲斐ない自分に耐え切れずにそう叫んだ時、シェルターの防壁が崩れ、大量のノイズがなだれ込んできた。そして、その先頭には、見たこともないほど巨大なノイズが──。
side:アルト
ノイズがシェルターに侵入した。目の前には、シェルターの住民を守ろうと奮闘するメゾや他の音使いたち。そして、彼らは僕が歌って傷つかないように必死で僕の出番が来ないようにしてくれている。
最近は彼らの努力も虚しく、僕が出ないと被害が出る可能性が高いことが多い。僕の隣には腕を掴んで恐るように縋るルナの姿。
「アルト、お願い。 もう私たちは大丈夫だから歌わないで……」
ルナの小さな悲痛な叫びが、僕の心を深く抉る。歌えば、ルナの記憶から僕はさらに失われる。歌わなければ、ルナも、みんなもノイズに殺される。だから、ごめん。その要望には今日も応えられそうにないよ。
「……僕は、僕は歌います」
その瞬間、僕の喉から溢れ出した歌は、これまでのどんな歌よりも強く、深く、そして悲しかった。ノイズたちは次々と消滅という眠りにつき、巨大なノイズさえもその動きを止め、存在しなかったようにサラサラと消えた。シェルターの危機は去った。
しかし、僕の目には、歌い終えた僕に駆け寄ろうとして、立ち止まったルナの姿が映っていた。彼女は僕の名前を呼ぼうとするが、その口から出るのは意味のない音だけ。瞳は焦点が定まらず、僕を見つめるその視線には、もう僕を「友達」と認識する光はなかった。
「君は……」
メゾも僕がもう誰か分からないように見える。彼は僕の犠牲に気づいていた。僕の歌は、ノイズを消滅させるだけでなく、自分自身の存在も曖昧に消していたのだ。僕は、歌を歌い続けることで、この世界に「いなかったこと」にされる運命だった。
メゾもルナも僕の記憶を失ったのは、二人が僕の歌を聴きすぎたからではなく、僕の存在そのものが消え始めている証拠だったのだ。
僕は微笑む。これでルナは、僕というこれからを生きるルナにとって不要な存在の記憶から解放される。
「これで、もう誰も苦しまない」
シェルターの人々は、ノイズを退けた英雄としてメゾを讃える。もう僕の存在は彼らの記憶から静かにほとんど消え去ってしまっていた。ルナが僕を誰だったか認識しなくなったのも、その最たるものだ。
そして、僕の意識もまた、ゆっくりと、しかし確実に薄れていく。最期に、ルナの顔が、僕を認識しないまま僕の手を握ろうと伸ばしている姿が、僕の目に焼き付いた。彼女の手は、もう僕には届かない。
「夜明けは…もうすぐ…」
僕の歌は、世界に夜明けをもたらしたが、僕自身は永遠の夜に消える。
これが、僕の選んだ道。
side:ルナ
私は大切な誰かを少し離れた位置から見守っていた。その誰かの奏でる悲痛な叫びのような、刻み付けられるような声を聞いていた。ノイズの大群は過去類を見ないほどの軍勢でその誰かは私たちのために歌ってくれた。
ねえ、あなたの名前は? 誰なの? ボヤけたように認識されるその誰かはノイズを退けたメゾ指揮官麾下の歌使いたちを讃える群衆へと紛れて消えていった。ダメ、ダメな気がする。何かがおかしい。彼がメゾ指揮官麾下の歌使いってだけじゃなかった気がするのに。
何か、何か思い出せるものはないの? 辺りを見渡しても何も思い浮かばない。あれ? 私って何をこんなに慌てているんだろう。フラフラとポッカリとあいた心を埋めるように自分の部屋に戻った私は習慣でつけている日記帳を開いた。
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誰も覚えていない。もしかしたら、この記録でさえも消えてしまっているかもしれない。でも、私はアルトが生きていた存在したことを記そうと思う。淡い恋心さえも消えてしまうって思えないけど、最近ボヤけて思い出しにくくなったから。
……
……
――――――――――――――――――――――――
私の日記にアルトという少年の物語が記されている。おかしい。これは日記帳なのに。私は何を書いているの? 意味が分からないのに、目が離せない。空想だと思うのに、現実だと感じる。何より、読んだ日記の中の少年に私は恋していた。
「意味が分からないよ!」
乱雑に置かれた日記帳は机から落ちる。その時、間に挟み込まれていた写真が私の足元へとヒラヒラと落ちた。知らない男の子と私が並んで笑顔で幸せそうにしている。知らないのに、確かにそこにいるのは私で……日記に写真を挟んだ記憶はあった。そして記憶が正しければ、大事なことを写真の裏に書いた。
『ねえ、大好きなアルトのこと。忘れていないでしょうね、ルナ』
ああ、私は忘れたんだね。日記からこんなに大好きだって気持ちが伝わるのに……私は忘れたんだ。私は忘れたよ、でもね。ルナ、あなたの書いた気持ちは現在の私に伝わったよ。
私たちから記憶が消えた今、日記にあるアルトなら亀裂に向かっているよね。代償を力に変えて今までで一番強力になった彼なら、亀裂を塞ぎに向かって一人で死ぬつもりでしょ。
side:アルト
歌使いとして力が人並み外れていて、人から僕の記憶が消えるにつれて力が強くなり続けていたことからこうなる未来のために心の準備を整えてきた。なぜか、僕の近くでずっと歌を聴いてくれていた幼馴染のルナは記憶が消えている様子は薄かったけど。
『私がアルトのことを記憶し続けるから』
そう言ってくれていたルナも今日で記憶が抜けてしまっていた。
「嬉しかったよ、大好きなルナがそう言ってくれて」
そのルナが暮らす世界が平和になって彼女が幸せになってくれるなら、僕は亀裂「セレスティア」を塞ぐ最後の旋律になることも厭わないよ。さあ、最後の歌を奏でよう。
そんな僕の決意は最も会いたくて会いたくない相手によって一時的に中断させられた。
「……アルト」
知っている。この心配するような声はルナ、君なんだね。僕のことを忘れてしまっていたはずなのに。
「ルナ、どうしてここに?」
「私も一緒に歌っていいかな?」
一緒に歌うことがどういう意味か分かっているの? 僕はこの身を捧げて亀裂を塞ぐんだよ。ルナも巻き添えになってしまう。そう言いたいのに。そうか僕は君と一緒に封印の一部になりたいって思っているのか。
「ダメだよ。ルナは死ぬ必要がないんだ。無駄死にするべきではないよ」
「私の命の使い道は私で決めるわ。私はアルト、あなたが好きだよ」
「記憶はどうするんだ。知らない男と二人きりになってしまうんだよ」
言っていて自分でも辛くなる。どうして、自分は普通に生まれなかったんだ。
「記憶がなくなった程度で私の想いが打ち切れるはずがないでしょ。何度でも恋してみせるわ。アルトが苦しんでいるのは知っていたよ。私にも苦しみを分けてくれないかな?」
ノートを持って胸を張るルナは少し前に感じていた悲壮感をどこかに置いてきたように前向きで昔に戻ったみたいだ。
「本当にいいんだな?」
「もちろん」
不安を打ち払うようなルナの覚悟は諦めていた僕を照らしてくれる光のように思えた。分かったよ。ルナには生きていて欲しかったけど、僕はとんだワガママだったらしい。
僕と一緒に人生最期の時間を共有してね。
メゾ指揮官と歌使いたちが巨大なノイズを退けて凱旋している姿を祝福しているように男女のデュエット曲が一時的な喜びに溢れる街へと響く。シェルターの一番高い場所で二人の男女の魂の声がセレスティアへと吸い込まれていく。夜空を裂いていたセレスティアはその口を静かに閉じた。