花を愛した岩龍
遥か昔、芸術を愛するひとりの仙女がいた。
芙蓉の花から生まれた彼女は気まぐれに歌を詠み、楽器を奏でて舞い、時には絵を描いて、彫刻を楽しむこともあったという。
そんな彼女の元には、同じく芸術を愛する民が集った。澄んだ川のほとり、俗世から遠く離れた谷はいつしか「芙蓉の谷」と呼ばれ、芸術と安寧の象徴となった。
ある時、仙女の元にひとりの彫金師が訪れる。彼は世にも珍しい巨岩を運び入れ、仙女に悩みを打ち明けた。
「これは鉱山を開拓していた時に、採掘された巨岩です。どんな刃も弾く硬度と、揺らめく奇妙な輝き。これをどのように扱えばよいのか分からないのです」
仙女は巨岩をしばし見つめた後、好奇心に満ちあふれた様子で言った。
「妾に任せよ。きっと素晴らしい作品に仕上げてみせよう」
それから仙女は、熱心に巨岩と向き合い、言葉なき対話を続けた。命を宿したその巨岩には、ある特性があった。
それは、摩耗し続けるということ。
どんなに頑強な岩であろうと、風雨に穿たれて削れ、砕け散る。そのように、この巨岩もまた「忘れ続ける」ことが定められていた。
己が何者でいつどこで生まれたかも知らぬ巨岩に、仙女は告げる。
「いつかきっと、その身に忘れがたい記憶が刻まれるだろう」
七つの夜を越え、八度目の朝日が昇る頃。仙女は巨岩を龍の姿に彫り、世界を視る目と音を聴く角、言葉を紡ぐ口を与えた。そうして彼は「巌龍」という名を得て、芙蓉の谷で暮らすことになる。
巌龍は仙女と共に長い時を過ごし、多くのことを視て、聴き、知った。
風が岩肌を撫でる感覚。じりじりと焦がすような太陽の熱。大地を踏みしめる重み。夜露の冷たさ。
仙女が笑えば弾むような気持ちが芽生え、いつまでも寄り添っていたいと思うようになった。彼女が愛する全てを、巌龍も大切に慈しみたいと願うようになった。
そうしてあらゆることを学び、知った巌龍であったが、特に気に入っていたのは仙女の奏でる歌だった。谷に集ったいかなる文化人も、彼女の才能には遠く及ばない。芙蓉のように麗しい彼女は、誰よりも気高い存在だった。そんな彼女を、誰もが愛していた。
しかし、気高い花を我が物にしようと考える者は、どこにでもいる。
人の口によって広がった噂は、時の権力者の耳にまで届いた。戦争によって富と名誉を得た皇帝は、傲慢な手を芙蓉の谷へ伸ばす。
皇帝に妃となることを命じられた仙女の答えは「否」だった。
仙人は人と交わることを許されない。何より、彼女自身が自由であることを望んだ。
籠の中で生きるくらいなら、荒野を放浪することも厭わない――仙女の答えに皇帝は激怒し、兵士を送り込んで谷を滅ぼせと命じた。
このままでは罪なき民が殺されてしまう――それを知った仙女はすみやかに民を逃がそうとした。
仙女の願いをくみ取った巌龍は、谷へ迫る兵士の前に立ち塞がる。
我は谷を守護する者なり――そう宣言した巌龍は、荒れ狂う魂に身を委ねて殺戮を繰り返した。
琥珀の角が折れ、黒曜の瞳を片方潰されても、巌龍は決して勢いを緩めることなく牙を剥いた。
岩肌が血に染まり、魂が穢されるごとに、彼の記憶は流れ出ていく。
何のために戦っているのか。誰のために存在しているのか。自分に向けられる刃に怯え、恐怖に駆られながら、巌龍は必死に抗い続けた。
そうして死体の山が積みあがってもなお、巌龍の狂気は鎮まることがない。そんな彼の元に、仙女が現れた。彼女は変わり果てた巌龍に胸を痛め、怯える彼に手を伸ばす。
「こんなに傷ついて、それでも守ろうとしてくれたのか」
そう言って微笑んだ仙女は、怯えて拳を振るう巌龍を受け止めた。
意識を失った巌龍が次に目を覚ました時、そこには朽ちた芙蓉の花が落ちていた。
時が流れ――芙蓉の谷は人々の記憶から抜け落ち、皇帝は幾度も代替わりをして、人々は繁栄の道を突き進んでいく。仙人の時代はとうに過ぎ、人間の時代へと移り変わっていた。
けれども美しい芙蓉の花が咲く川のほとりで、摩耗しきった巌龍はいつまでもじっと佇んでいる。体は削れて醜く歪み、かつての美しい龍の姿はどこにもない。
彼は自分がなぜこの谷に存在し、なぜ龍の姿をしているのかさえも忘れ――けれどもたった一つだけ、忘れられないことを思い、そこに在る。
この芙蓉の花のように美しい誰かを、心から愛していたことを。