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絵の中にあるモノ ~急変~

 翌日、いつもと変わらない様子の朝を迎えた私は、さっそく一階の寝室にいるであろう鬼島警部に声をかけたが、彼女はすでに起きており、変わりなく元気な様子だった。

 その後は二人で食事と登庁の準備を終え、警視庁の地下倉庫に出勤した。

 鉄製の扉を開いて中に入るが、鳴海刑事や大倉刑事の姿はない……デスクにカバンがないということは、まだ出勤していないということだろうか?

 ふと時計を見るが、時刻はすでに八時を過ぎている……いつもこの時刻なら、二人はとっくにこの職場に来てデスクワークに励んでいるはずだ。


「おかしいな……」


 鬼島警部もそのことが気になったのか、神妙な面持ちで自身の職場を見渡す。

 その時、私のスマートフォンが音を鳴らした。私は画面を見たが、そこには鳴海刑事の文字が浮かぶ。


「はい?」

「あ、神牙さん……」


 電話口に出たのは、間違いなく鳴海刑事……のはずなのだが、その声はかすれてよく聞き取れない。


「すみません……ゴホッ!……急に体調が悪くなりまして……少し休んでもいいでしょうか?」


 私は咳交じりに病欠を告げる鳴海刑事に、休みの許可を与えた。

 私がそう言うと、鳴海刑事も『ありがとうございます……』と力なく答えて、電話は切れてしまう。続いてかかってきた電話は、大倉刑事。


『か、神牙か……? すまん、どうも体調が優れなくて……休みをもらえんか?』


 私は鳴海刑事と同じように、大倉刑事にも休みの許可を与えた。


「おかしいぜ……なんかあるに違いねぇ!」


 大倉刑事との電話を終わらせた私に向かって、鬼島警部は怒り交じりにそのように言った。

 私は彼女に、絵具と絵の来歴が分かるのを待つ間、もう一度大家から話を聞いてみようと提案した。


「おう! それがいいぜっ!」


           ※


 その後、我々は再び大家である渋谷の自宅に来ている。

 こんなに頻繁にお邪魔していると、果たして協力してくれるだろうかという悩みが浮かぶが、覚悟を決めて自宅の玄関に歩を進める。

 だが訪れた家の玄関には、『喪中』と書かれた張り紙が風に揺れていた……嫌な予感がする。

 私がしばしその場で呆然としていると、鬼島警部が迷うことなくインターフォンを押した。

 少し経つと、先日も会った渋谷の娘である初枝が玄関先に現れた。


「あぁ、刑事さん……」

「すんません、お取り込み中に……」

「いえ……母に、御用でしょうか?」

「えぇ、そうなんすけど、もしかして……」

「はい、つい昨日、突然に……」

「はぁ……あの、お悔やみ申し上げます」

「ご丁寧に恐れ入ります」


 我々を気遣って恭しく頭を下げるものの、その目は赤く充血しており、ほとほと憔悴しきった様子だ。


「では、これからお通夜の準備がありますので……」


 そう言って身を翻そうとした初枝に、私は思わず渋谷の死因を訊ねた。


「お、おい……」


 鬼島警部は私の方に視線を向けて小声でそう言うが、初枝の方は改めて我々の方に向き直って口を開いた。


「医者によれば、心不全だとか……もう歳でしたから……」


 確かに渋谷の年齢を考えれば、心不全というのは考えられないことではない。だが……何かが引っ掛かる。その死は、あまりにも突然すぎる気がするのだ。 

 だからといって、『あの部屋の呪いでしんだのではないですか?』と聞けるはずもなく……なにかいい聞き方はないものかと考えるが、不自然な沈黙はどうも居心地が悪い。

 そこでふと思いつき、私は初枝に、渋谷が亡くなる前に何か変わったことはなかった訊ねた。


「変わったことと言われましても、特には……最期は自分の事よりも孫の事ばかり気にかけていましたし……」

「孫って……あの、マルちゃんとかいう子のことですか?」


 鬼島警部が割り込むように訊ねた。


「ええ、前にもお話したかと思いますが、私の息子が病気を患って入院しているものですから……」


 確かに、そのような話を聞いた覚えがある。

 初枝はそう言うと我々を気遣ってひっそりとため息をつき、やつれた頬に手を当てた。


「本当に……最期は息子の事ばかりでした。あの子は大丈夫、絶対に助かる。そう約束したんだから、と……」

「約束……ですか?」

「ええ、きっと夢と現実がごっちゃになっていたんでしょうけど、女の人とそう約束したから大丈夫だと、何度も……よく夢に見ていたようなんです、黒い服を着た女性を……。今にして思えば、自分の寿命が長くないことを無意識に感じ取って、そんな夢を見ていたのかもしれないって思うんですけとね」


 私はその初枝の発言に、心臓を鷲掴みにされる感覚を覚えた。

 夢に出てくる、黒い服の女性……それはまるで、かつて私が体験した、あの奇妙な出来事を想起させる。そしてその体験は今のところ、我々オモイカネ機関のメンバー全員が体験したことでもある。


「あの……なんでそう思うんです?」


 そのためか、質問をする鬼島警部の声が、少し震えている。

 彼女の言葉に、初枝は今にも泣きそうな、でもそれを無理にこらえた笑顔でこう答えた。


「だってそうじゃありませんか。黒い服を着た女性だなんて、まるで死神です。まるで母の命を、息子に譲ったみたいじゃありませんか」 


……初枝のその言葉に、私や鬼島警部は何も反応することが出来なくなっていた。

 だが、そのままでいるわけにはいかないので、私は時間を稼ぐために、初枝に対して渋谷に線香だけでもあげさせてもらえないか頼み込んだ。


「ええ、どうぞ」


 憔悴しきった初枝に案内されて、再びあの和室へと通される。

 数日前、はかなくても確かにそこにあった一つの命は、確かに失われていた。

 同じ部屋、同じ布団に包まれたその姿は、もう以前会った渋谷とは違う存在に変わっている。かすかに漂っていた生の気配も今はなく、死が静かにこの和室を支配している。

 物言わぬ渋谷の前に我々が正座すると、初枝は丁寧にも遺体の顔にかかった白い布をどけてくれる。

 渋谷の死に顔はとても穏やかで……どこか満足そうにも見えた。


「すっかり遅くなってしまいましたけど、このたびは御愁傷様ごしゅうしょうさまでした」

「ありがとうございます。ですが、母も思い残すことはないかと思います」

「……そうなんですか?」


 私も、鬼島警部の疑問の声に賛同する。

 大往生と呼ぶには、渋谷は若過ぎる。にも関わらず、初枝の口からこぼれた言葉は意外なものだった。


「あの……それって、どういう意味なんですか?」

「母が亡くなってすぐ、臓器移植をお願いしたんです」

「あ、それって、マルちゃんの件で?」

「ええ」


 初枝は小さく頷き、涙でうるんだ瞳で母親の顔を見つめる。


「母のたっての願いだったんです。自分が死んだら、孫に肝臓を上げてほしいと。それで……」

「マルちゃんに臓器移植をしたんですね?」

「ええ。おかげさまで息子も、今は容態も安定しているようなんです」


 なるほど……自分の命が失われても、孫の命だけは救うことが出来る。安らかな渋谷の死に顔は、その満足感ゆえだったのかもしれない。

 初枝と共に渋谷の顔を見ていると、ふとおかしなものに気がついた。白い着物の襟元、年齢を重ねた首筋に、痣のようなものが浮かんでいる。死斑かとも思ったが、仰向けになっている遺体の上面にそれが出るはずはない。

 しかしその痣は、まるで手のひらのような形をしている。確かに亡くなる前に渋谷に会った時にも、首を絞められたかのような痣があった……が、問題はそこではない。

 問題は、襟足にあったはずの痣が、『移動している』ことだ。その痣は渋谷の喉元あたりで、うっすらとだが浮かび上がっていた。

……何とも言えない不気味な痣から目を離せないまま、私は初枝に対してこの痣の事を訊ねた。


「え?」


 私の指差したあたりを、初枝は身を乗り出して覗き込む。


「いえ、気づきませんでしたけど……」


 私は初枝に礼を言って、そのまま鬼島警部と共に渋谷宅を後にした。

 渋谷の身体に浮かんだ痣……まるで掌のような形――死神の手が触れたような跡……。そう思うと、全身を悪寒が駆け抜けた。

 あの手形は、まるで黒衣の女に刻み込まれた市の刻印のようだ。女性の手が渋谷の首筋に触れる映像を脳裏に思い浮かべた瞬間、私の身体に衝撃が走った。

 初枝はあんなに目立つ場所にある痣の存在に、今日まで気づかなかったという。それは、あの痣に気づかなかったのではなく、本当についこの間まで、あの場所に痣はなかったからだ。

 今朝、鏡で見た私の痣も、昨日までとは何かが違うと感じられた。私はそれを、痣が薄くなったせいだと考えていたが、あの痣が移動していたとしたら?

 痣が移動するはずもない……この仕事をし続けていても、そのような常識ぐらいはわきまえている。だが、私が体験している現実は、その常識を平気で蹂躙し、私の心に重くのしかかってくる。

 いつの間にか、鬼島警部の運転する車の助手席で、私は自分の右肩を強く握りしめていた――。


         ※


 その後、我々はオモイカネ機関本部の倉庫に戻ってきた。

 倉庫に戻って開口一番、鬼島警部が口を開く。


「なぁ……アタシの肩に、痣あるか?」


 そう言われて彼女の肩を見ると、そこには私につけられたのと同じような手形の痣があった。

 私がその事実を彼女に告げると、彼女は苦虫を噛み潰したようにしかめっ面をして舌打ちをし、いつものソファに寝転がった。

……このままではいけない。携帯端末を見るが、まだ絵のことは報告が来ていない。そこで私は、鬼島警部に対して気晴らしも兼ねて鳴海刑事と大倉刑事のお見舞いに行くことを伝えた。


「お、いいな、そりゃ! このまま悩んだって、埒が明かねぇしなっ!」


          ※


 その日の夕方、私と鬼島警部はそれぞれ別行動をとることにした。鬼島警部は鳴海刑事のお見舞い、私は大倉刑事のお見舞いだ。

 大倉刑事のアパートに到着して彼の部屋に続く扉の横にあるインターフォンを鳴らす……ほどなくして、扉がガチャリと開いた。


「か、神牙……?」


 部屋の中から出てきた大倉刑事は、薄青いパジャマ姿に、額に冷えピタを張った姿で現れた。

 私が見舞いに来たことを告げると、彼は照れたような笑みを浮かべて私を自宅に招き入れてくれた。

……鬼島警部のアパートもそうだったが、大倉刑事の暮らすこのアパートも、だいぶ年季が入っている様子である。それこそ、大倉刑事がタックルでもかませば、すぐにでも倒壊してしまいそうなほどに……。

 だが、大倉刑事の部屋は独身男性の割にはキッチリと整理が行き届いている様子であり、かなり清潔感溢れる部屋だった。


「すまんな、わざわざ……」


 奥のリビング代わりの和室に敷かれた布団にこもりながら、大倉刑事は力なくそういうので、私は気にしない旨を伝えた。

 その姿は、いつものハツラツとしたものとは打って変わってすっかりやつれ切っており、はたから見れば、かなり具合が悪そうに見える。

 私は大倉刑事に、ちゃんと病院には行ったのかと訊ねた。


「うむ。だが、特に異常はないとのことだ。熱もなければ、咳やくしゃみも鼻水もない……にも関わらず、この体たらくである……」


 そうだったのか……見たところ、全身これでもか! というほどの厳重装備をしているから、心身ともにガッツリ体調が悪いものだと思い込んでいたのだが……。


「自分では、なんともないと思っていたのだがな……やはり、寄る年波には……」


 と、まだ二十代であるにも関わらず、大倉刑事はしょんぼりと肩を落とす……私が直接励ましても意味はないと思うので、ここは鳴海刑事を引き合いに出してみよう。

 私は大倉刑事に、鳴海刑事なら『病は気から』と言うに違いないと言って、さっさとその重装備を取り除いて寝間着を着替えて早く寝るように言った。


「そ、そう思うか? むぅ……」


 私の口から出た言葉に多少の不満はあるようだが、やはり鳴海刑事の名を出されれば彼も断りにくいのだろう。大倉刑事は羽織っていた布団を脱ぎ、ナイトキャップやら毛糸の靴下やらの重装備を次々と外していく。


「……ちょっと失礼」


 照れくさそうにそう断ると、腹部から腹巻まで出てくる……いったい、どれだけ重装備なんだか……。

 毎度のことながら呆れて言葉もない私の目が、ふと大倉刑事の腹部に止まった。


「な、なんだ? そ、そんなに見つめられると恥ずかし――ぐおっ!?」


 私は何事かわめく大倉刑事の寝間着をまくり上げた。

 するとそこには、見事なまでに六つに割れた腹筋の上に忌まわしい刻印のようにくっきりと刻み込まれていた。


「か、神牙、いったい何だというのだっ!?」


 私は大倉刑事の寝間着から手を放し、その腹部を指差してこの痣はいつからあったのかと訊ねた。


「え?」


 そのような声を漏らしながら、大倉刑事は寝間着をたくし上げて自分の腹部に目を向ける……そこには、渋谷の首筋にあったのとそっくりな痣が刻まれていた。その痣に目を向けている間、全身の血が逆流するような錯覚を覚える。


「な、なんだ、これは……?」


 大倉刑事はその痣を見て少しほうけているようだったが、近くに会った姿見の鏡で再度腹部のそれを確認すると、慌てた様子で私の方に顔を向けた。


「こ、ここ、これは、まるで人の掌のような――」


 そこまで言いかけて、大倉刑事は電池の切れたロボットのように固まってしまった。

 その顔色は先程とは比べ物にならないほど悪い。正真正銘の病人の顔色だ。間違いなく、自身の腹部にある不気味な痣に怯えているのだろう。


「は、ははは……いやぁ、おかしなこともあるものだな。掌そっくりの痣が出来るとは……」


 その言葉は、私よりもむしろ自分に言い聞かせているように聞こえてならない。

 渋谷の首筋に刻まれた痣と、大倉刑事の腹部に刻まれた痣……そして、私や鬼島警部の身体にも刻まれた痣……もし、我々の身体に刻まれた痣と、渋谷の首筋に刻まれていた痣が同じものだとしたら……?

 私の沈黙に、大倉刑事の顔にも徐々に焦りの色が濃くなっていく。私は心を鬼にして、大倉刑事に簡潔に別れの挨拶を済ませると、その場から立ち去ろうとした。


「そ、そんなぁ! 頼む、行かないでくれっ! 後生だっ! 一緒にいてくれっ!」


 岩山のような巨体ですがりつこうとする大倉刑事を難なく引き剥がして布団に寝かしつけ、私は立ち上がる……彼には悪いとは思ったが、ここで気休めの言葉を彼にかけ続けても、事態が良くなることはないだろう。

 私はただ一つ、決して揺るがない思いを布団の上で今にも泣きだしそうな大倉刑事に吐露した。


「大丈夫……皆、私が必ず守るから……」

「か、神牙……」


 大倉刑事も、鬼島警部も、必ず私が守って見せる……だが、その方法は闇のベールに包まれたかのように見えてこなかった。


          ※


 倉庫に戻った私は、ソファに寝転がっていた鬼島警部から早速報告を受けた。


「大変だぜっ!」


 だが、鳴海刑事のお見舞いに行ったはずの彼女は、明らかに焦っている様子だった。


「鳴海の見舞いに行ったんだけどよ……あいつの左肩辺りにも、大家の首のところにあったのと同じ痣があったぜっ!」


……その言葉を聞かされて、私は全身から冷や汗を流すことになった。

 鬼島警部の言うことが正しければ、今のことろ、あの部屋に関わった人物、あの部屋に住んでいる人物全員が、その体に痣を身にまとっていることになる。しかもその人物のうち、一人は心不全ということですでに亡くなっている。他の者達はみんな、このオモイカネ機関のメンバーなのだ!

 もはや、疑う余地はないだろう……あの部屋はなんらかの呪いにかかっており、その原因はあの絵だ。だが、絵の鑑定結果は未だにこない……となれば、あの絵と鏡の間に挟まっていた、御札を調べるのが先決だろう。

 私は再び鬼島警部と共に大倉刑事のアパートへと向かい、呼び鈴を鳴らした。


「……はい?」


 よかった……急な訪問の上、時刻はすでに夜になっていたため、てっきり寝ているかと思ったが、大倉刑事は先程見た時は違って普通の格好で我々の前に現れた。


「か、神牙……鬼島警部? いったい、自分に何の用で……?」


 私は大倉刑事に、以前鬼島警部の部屋で見つけた御札の事を訊ねた。


「あぁ、あれか。あれなら、自分の車のダッシュボードの中に入れてある。なんだったら、車ごと使って構わん。ほら、これが鍵だ」


 そう言って、大倉刑事は玄関脇の棚の上から車の鍵を持って私に手渡した。

 私は彼に礼を言ってさっそく、アパート脇の駐車場に停めてある大倉刑事の車を物色した。

 彼の言っていた通り、御札はダッシュボードの中に入れられており、私はその御札を手に取る。

 御札はしっかりとした厚手の和紙で作られているが、所々に小さな破れ目がある。表面には筆で何やら書かれているが、達筆過ぎて読み取れそうにない。御札の中には、薄い紙が幾重にも折りたたまれて入っていた。

 指先でつまみ上げ、恐る恐る開いてみる……所々虫に食われてはいるが、墨で描かれた文字はハッキリと残っていた……しかし、こちらも達筆過ぎて読み取ることが出来ない。

……私もこういった品を捜査の過程で頼りにすることはあるが……読めない文字をいつまでも見つめても仕方ない。ここはやはり、専門家に頼るほかないだろう。

 私はスマートフォンを取り出し、現代の魔女――カチューシャに連絡をとった。


『はい?』


 電話口から聞こえてくるカチューシャの声に安堵の気持ちを覚え、私は身分を明かした。


『あら、ファング? どうかしたの、こんな時間に?』


 私は彼女に、御札の事で聞きたいことがあるとだけ伝えた。


『ふ~ん……そういうことなら、いらっしゃい』


 私は彼女に礼を言って電話を切り、鬼島警部にこれから時間はあるか訊ねた。


「……おうよ」


 鬼島警部は、覚悟を決めたように頷いて見せた。


         ※


 それから、我々は大倉刑事の車を走らせて、郊外の森林にやってきた。そこから闇夜の森林を歩き、カチューシャの住まう館にたどり着く。

 思えば、もっと早くカチューシャを頼るべきだった……そうすれば、鳴海刑事や大倉刑事はあんなことにならなかったかもしれない。

 いささかの後悔の念を抱きながら、私は玄関の重厚な扉を叩いた。


「は~い、待ってたわよ」


 我々の訪問を察知していたかのように、扉はすぐに開かれて中からカチューシャが姿を見せた。

 彼女は我々をいつもの不気味な応接室に通してイスに座る……我々も近くのソファに腰かけ、部屋の有様ありさまにあからさまに嫌悪の視線を向ける鬼島警部を気にしながら、御札をカチューシャに見せた。

 同時に、彼女の瞳の奥からギラついた光が見えたかと思ったら、すでに鳴りを潜め、カチューシャは御札をジッと見つめていた。

 私が彼女に答えを促すと、カチューシャは顔を上げて口を開いた。


「……これが見つかった場所で何があったか、詳しく話してくれる?」


 私はカチューシャのその言葉に深く頷き、自分が見聞きしたすべてを語った。

 鬼島警部の体調不良、彼女の部屋にまつわる噂、その部屋に住んでいた住人達と大家の不可解な死、壁に描かれていた絵と御札、そして、いまや我々オモイカネ機関のメンバー全員の身体に刻まれた、手形の痣……話してみれば、この事件の始まりはずいぶんと遠い昔のように思えるが、これらの出来事はつい最近起きた出来事だ。

 私の話を聞き終えたカチューシャは、私の話によって体内に溜まった毒素を吐き出すかのように長いため息をついた。


「そういうことだったのね……いいわ、私の知っていることは全部教えてあげる。何から知りたいの?」


 私はまず、この御札について質問した。私の見立てが正しければ、この御札の作用というのはあの絵の呪いを封印、または極端に弱める効果があるのではないかと推測する。


「この御札の効力というのは、実に単純明快なものよ。いわゆる、呪いを封じ込めておくためのものね」


 当たり……やはり、この御札にはそのような意味合いがあったか。


「多分だけど、あなたの話から察するに、この御札はその絵から放たれる、何かよからぬモノを封じ込めようとしていたんじゃないかしら?」

「よからぬモノって、なんだよ……?」


 鬼島警部が、部屋の中に置いてある品々に圧倒されつつも、強気な態度で質問した。


「そうねぇ……例えば、さっき言った呪い、あるいは邪気もしくは魔のモノそのもの……色々あるでしょうけど、それがなんなのかは私には見当もつかないわ」


 私はそれだけ聞くと、カチューシャに礼を言って御札を受け取り、ソファから立ち上がって部屋を後にしようとした。


「あ、ちょっと待って」


 ちょうど鬼島警部も席を立ち始めた時、扉に手を掛けようとする私に向かって、カチューシャは気分よさげに呼び止めた。


「もしかしてその御札って、何かの事件の重要な証拠? だったら、その事件が解決したら、その事件が起きた現場に連れてってくれない? いい研究材料が見つかりそうだしっ!」


……私は善処するとだけ答えて、もはやカチューシャに対する怪訝な態度を隠そうともしない鬼島警部と共に、館を後にした。


           ※


 「ったく、なんだよあの女っ!」


 その後、いつもの喫茶店にて、鬼島警部はビールの入ったジョッキを荒々しくカウンターテーブルに叩きつけた。一瞬、マスターが怖い顔を見せたので、私はそちらの方を向いて頭を下げて謝罪する。

 結局、カチューシャを訊ねて分かったことは、あの御札が悪いモノを封じたり、その力を弱めたりするという情報だけだ。

 これからどうしようか……そう悩んでいた私の携帯端末に、着信が入った。

 まさか……わずかな期待を込めて画面を見たが、そこには『その者』から送られてきた絵の鑑定結果が表示されていた。

 隣でホットサンドを食べる鬼島警部をしばしの間無視して、私は端末の画面にくぎ付けになった。


『鑑定の結果、あの絵には血液が使われていた。かなり古いもので、血液型までは特定出来なかった。それと、その血液に混じって若干の毛髪が確認された。この毛髪は毛根が残った状態だったが、この毛髪の主は血液の主と同一人物であることが鑑定で分かった。絵の来歴だが、それについては分からなかった。君から送られてきた資料から分かったことは、それだけだ』


 私は『その者』にお礼の返事をして端末をしまった。

……つまり、あの絵は毛髪を引き抜いて筆代わりとし、血液を絵具にして描かれたということか?

 もし、あの絵に使われた血液と毛髪が、あの絵を描いた画家の物として、あの絵を描いた者もその画家だとしたら、あの絵を描いた画家の精神状態はどうなっていたのだろうか?

 分からない……まるで巨大な渦に飲み込まれたかのように思考がまとまらない……なぜか、体調がいまいち優れないようだ。

 そこまで考えて、私はハッとした。体調不良……まさか、いよいよ私にも呪いが……?


「ちょっと、大丈夫?」


 朦朧とする意識のなか、私の鼓膜に聞きなれた声が響いてきた。振り返ると、そこにはカチューシャがいた。

 彼女は私の背中を二、三回叩く……すると、瞬く間に体調が良くなり、意識がハッキリしてきた。


「ごめんなさいね? 別に尾行するつもりはなかったんだけれど、あなた達の様子がどうも引っ掛かって……」


 カチューシャは私が口に出す前から、私が知りたかった答えを言ってくれた。


「でもよ、これからどうすんだ? 解決の糸口なんて、これっぽっちもねぇだろ?」


 いつの間にか、ホットサンドを完食していた鬼島警部が横やりを入れる。


「そうねぇ……イチかバチか、例の御札があった場所に行って、問題を解決したらどうかしら? 私も手伝うわっ!」


『ものすごく面白そうだしねっ!』といった下心を隠さずに言うカチューシャには困ったものだが、このまま議論しても埒があかない……ここはひとまず、彼女の言う通りにすべきだろう。


           ※


 その後、我々はカチューシャを伴い、再び鬼島警部の部屋があるアパートまで来た。

 車を降りた我々は、いつの間にか降っていた土砂降りの雨のなか、アパートの錆びついた階段を上っていく……その足取りは自分でも驚くほど重く、まるで真上から身体を押さえつけられているかのような錯覚を覚える。

 鬼島警部の部屋の前にたどり着く頃には、吐き気を催すほどの気分の悪さにさいなまれる。その原因が、鬼島警部の部屋から漂ってくる異臭でないことは明白だ。


「か、神牙……わりぃ、アタシ……」


 私は、後ろでうずくまる鬼島警部にここで待機するように指示し、カチューシャと共に部屋へと続く扉の両方に陣取った。


『ガリガリガリガリッ!!』


 部屋の奥で、私達を拒絶するように例の異音が鳴り響く。カチューシャには前もって伝えておいたので、彼女に焦りの表情はない。

 他の住人達も眠っているか出払っているのか、これほどの物音がするにもかかわらず、まったく出てくる気配はない。それは、我々にとってありがたいことだ。


「……行くわよっ!」


 カチューシャの合図と共に、私は扉を蹴破って銃を構えながら室内に突入した――。


『オオオォォォオオオオォォッ!!』

……ファン……これ……じゃっ!?……誰っ!?……神牙っ!?……。


……そこから先の記憶は曖昧だった……まるで、夢と現実がごちゃ混ぜになったような……奇妙な感覚……唯一覚えていたのは、私の手を強く握る、何者かの暖かい手の感触だけだった……。

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