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絵の中にあるモノ ~不気味な捜査~

「はぁ……結局、何も分かんなかったなぁ……」


 いつもの定位置――この部屋に唯一あるテレビの前に置かれたソファ――に寝転がり、鬼島警部はあからさまに落胆の声を漏らす。

 私も、彼女と同じ気持ちだ。大家に聞けば、あらかたの事は分かると思っていたが……といっても、それなりの収穫はあった。その中で確実に言えることは、大家である渋谷は、あのアパートにまつわる不可解な現象や鬼島警部の住んでいる部屋の前の住人達の末路を、鬼島警部に隠してはいたが、あの壁に描かれた絵に関してはまったく関知していなかったということだ。

 今まで捜査を進めていくなかで、私の心の中ではあの絵こそが元凶のように思える。他にそれらしい状況がない以上、あの絵を中心に捜査を開始していくしかあるまい……が、早くも捜査は暗礁あんしょうに乗り上げている。

 私や鳴海刑事はあの絵についてインターネットを駆使した捜査をしており、鬼島警部は他人事のようにソファで仮眠、大倉刑事は我々がやっているようなデスクワークを苦に思ったのか、私のデスクから見て正面に見える、あの巨大な書架の森にてファイルの整理という、単純な体力仕事に従事している。

 先程までは彼の巨体はすぐそばの書架にあったのだが、いつの間に奥の方に行ったのか、もはや彼の姿は見えない……そう思いながら、キーボードを使ってしらみつぶしに検索をしていると、


「うわああぁぁあああぁぁぁああっ!!」


 冗談でも誇張でもなく、天井からぶら下がっている蛍光灯がビリビリと揺れた。


「な、何事ですかっ!?」


 いきなり聞こえてきた、雷鳴のような叫び声に呼応して、鳴海刑事はビクッと上半身を上げて周囲を見渡す。


「なんだぁっ!? 大倉の声かっ!?」


 ソファで寝ていた鬼島警部も、ガバッと身を起こして書架の方を見つめる。

 私は二人に一緒についてくるように言いながら、書架へと続く階段を下りて声のした方へ走る。

 二、三十メートルほど走ると、地面に散らばった古めかしいファイルや調書……その中央に、青白い顔をした大倉刑事が尻もちをついていた。


「どうしたんですか、大倉さんっ!?」

「い、今……そこに……手、手が……」

「手っ!?」

「真っ黒な手が……ファイルの隙間に……」


 震える大倉刑事の指先は、ファイルの隙間を指し示している。私はその方向を見つめるが、そこには手どころかファイル一つさえない。


「どうしたんです、大倉さん。何もありませんよ?」


 鳴海刑事もそのことを確認すると、それを証明するように書架の隙間に自分の手を突っ込んで見せる。

 しかし、大倉刑事は小さな目を、裂けそうなほどに見開いて唇を震わせたままだ。

 とにかく、このままではらちが明かない。少し、休ませなくては……。

 私は大倉刑事に、デスクの方で休むように言いながら、その巨体を起こした。


「お……」


 恐怖のあまりにろれつが回らない様子の大倉刑事に肩を貸し、鬼島警部が寝ていたソファに腰かけさせる。

 私はソファの前に置いてあるテーブルから湯飲みを一個取って、ポットからお茶を注いで大倉刑事に手渡した。

 大倉刑事は私から軽く会釈をして湯飲みを受け取ると、中に入ってあるお茶を一気にグイッと飲み干し、タンッとテーブルの上に湯飲みを置いた。


「……大倉源三、一生の不覚である……」

「何言ってやがんだよ。で、何があったんだ? 手がどうとかって言ってたろ?」


 大倉刑事は、私から追加のお茶が入った湯飲みを受け取り、今度はほんの一口飲み、


「……なんでもないであります」


 と、明らかになんでもないことはない様子で言った。


「はぁっ!? てめぇ、ふざけてんのかっ!?」


 彼のその様子を察してか、鬼島警部はヤクザのような口調でさらに責め立てる。その様子はまるで、借金苦に陥った中年男性をいたぶる、暴力団の女幹部のようである。


「だ、大丈夫であります、本当に何でもないのでありますっ!」


 しかし、いつもなら鬼島警部の恫喝どうかつに秒速で屈する大倉刑事だったが、今はその太い首をぶんぶんと横に振ってそれ以上は押し黙ってしまう。


「……けっ! わーったよ。おら、どけっ! そこはアタシの席なんだよっ!」


 鬼島警部はこれ以上追及できないことの報復とばかりに、大倉刑事のすねを蹴り上げて、自分のいつもの居場所にドカッと腰かけた。

 それからしばらくして、大倉刑事は鳴海刑事の気づかいによって早めに職場を後にし、残った私と鳴海刑事は相変わらずのネットサーフィンである。


「ひゃっ!?」


 いきなりの電話の音に、鳴海刑事は乙女のような悲鳴を上げる。


「なんだ、鳴海? お前、女みてぇだなっ!」

「は、はぁ……すみません」


 鳴海刑事のリアクションがよほど気に入ったのか、鬼島警部はケラケラと笑いながら、テーブルの上に置いてある受話器をソファに寝転がったまま手に取って、耳に押し当てる。


「はい、倉庫係」


 即座に適当な部署名をでっちあげるのはさすがだ……今度、正式に名称を決めた方がいいかもしれない。この部署にかかってくる電話の本数自体少ないとはいえ、『こちらオモイカネ機関』と名乗り続けるのは、ゆくゆくは組織が重視している秘匿性というものを危険に晒しかねない。


「……おい、誰だ?」

「どうかしたんですか?」


 受話器を耳に押し当てたままの鬼島警部に対して、鳴海刑事がそのように問いかける。


「いや、なんか無言電話みたいでよ……あ、ちょっと待った――」


 鬼島警部がそう言って程なくして、彼女の目はカッと見開かれ、唇が震えだした。

 やがて彼女は何かを振り切るように、ソファから勢いよく起き上がって受話器をガチャンと乱暴に戻した。


「ど、どうかしましたか……?」


 鬼島警部のその様子に、鳴海刑事が怯えながらも問いかける。

 私も、彼女に発言を促すと、鬼島警部はこちらの方を見て、静かに語り始めた。


「なんかよ……初めは無言電話かと思ったんだけど、しばらくしたら向こうからガサゴソ物音が聞こえてきて……それからすぐ、アタシの耳元で呟くみたいにハッキリ聞こえたんだ。『もう逃がさない』って……」

「それは……」


……鬼島警部の話してくれた内容に、私と鳴海刑事はただただ、絶句するだけだった。

 気のせいか、私達の姿を照らし出す蛍光灯が、事態の急変を知らせるようにチカチカと点滅するのが、無性に気になってしまった。


           ※


――翌日、我々はオモイカネ機関の本部であるこの倉庫で目を覚ました。 

 あの後、彼女を自宅に帰らせるのは危険だと判断し、私と鬼島警部はこの倉庫で寝泊まりしたというわけだ。幸い、仮眠に使うための簡易ベッドや毛布なんかは、書架とは反対側にある倉庫の中に置いてあるため、鬼島警部が文句を言うことはなかった。


「じゃ、今日も仕事すっか!」


 いつも通りの鬼島警部に対して、私が力強く頷くと、タイミングよく本部の出入り口となる鉄製の扉が音を立てて開いた。


「あ、おはようございます……よかった、その様子だと、昨夜は何もなかったみたいですね」


 いつものきっちりとしたスーツに身を包んだ鳴海刑事は、扉を閉めながら、まだ幼さの残る顔に笑みを浮かべて自分のデスクへと向かう。


「おうよ、問題なかったぜ!」


 鬼島警部がそのように応答していると、続けて扉が開かれた。


「……あ、お、押忍……おはようございます」


 扉から入ってきたのは大倉刑事だったが、彼は鳴海刑事と違って元気がないようだ。まだ、昨日の『書架から手』事件を気にしているのだろうか?

 その後、我々はあの絵に関する情報を書架やインターネットから見つけ出そうとするが、何の手掛かりもなく昼休みを迎えた。

 根を詰めすぎるのは良くない……私は気分転換と危機管理のため、その場にいる全員に対して昼ご飯を食べに行くことを提案した。


「お、いいな、それっ!」

「えぇ、そうですね。ご一緒します」

「……」


 鳴海刑事と鬼島警部は快く承諾するが、大倉刑事は自分のデスクに肘をついて、そのゴツゴツした岩肌のような大きな手で、これまたスイカのように大きな頭を抱え込んでいる。


「どうしたんです、大倉さん? 頭でも痛いんですか?」


 その様子を心配して、鳴海刑事が大倉刑事の背後に近づいて背中をさすっていると、


「うるさ~いっ!!」


 その一喝に、天井の蛍光灯がビリビリと揺れる。その光景は、昨日の書架での出来事を思い出させるには充分だった。


「す、すみません……」


 鳴海刑事も、大倉刑事の背中から手を放して、床を見つめながら静かに謝罪する。

 対する大倉刑事は、やっと自分の周囲の状況を把握できたのか、顔を上げて辺りを見渡し、鳴海刑事の姿を見るなり、さーっと血の気が引いていくのが分かった。


「せ、先輩っ!? も、申し訳ないでありますっ!」

「いえ……その、僕こそ、何かしてしまったなら、はっきり言ってもらった方が――」

「いえっ! 断じてそのようなことはないのでありますっ! 今のは自分の勘違いというか、なんというか……」


 大倉刑事は席から立ち上がり、今にも土下座しそうな勢いで謝り倒している。だが、我々からすれば、何が何やら、さっぱり分からないままだ。

 もしかして……大倉刑事はこのオモイカネ機関という、表向きはがっつり閑職扱いの部署に嫌気がさし、相当ストレスが溜まっているのだろうか?

 あるいは、根がまじめな人物のようだから、鬼島警部のいい加減な勤務ぶりに耐えられなくなったとか……私があれこれ理由を探っていると、当の本人はがっくりと椅子に腰を下ろす。


「……本当に申し訳ないであります。どうも最近、疲れがたまっているようでして……」

「まぁ、誰にだってイライラする時ぐらいありますから……」

「いえ、そうではないのであります……実はその……」


 そこから先、言いにくそうに言葉を濁し、せわしなく視線を宙に漂わせてから、大倉刑事はようやく言葉を続けた。


「実はその、最近幻聴が……聞こえるのでありまして……」

「幻聴……ですか?」


 それはまた……随分と神経をヤラれているようだ。


「いえ、別に今の仕事にストレスを感じているとか、そういうことではないのでありますっ! ただ、仕事に集中していたり、車を運転していたり、夜に布団に入った時に、耳元でこう、ボソボソッと……いつまで経っても止まないものでありますから、ついさっきは大声を出してしまいまして……」

「はぁ、なるほど……それで、幻聴というのは、具体的にどんなことが聞こえてくるんですか?」

「それが、レパートリーだけは腹立たしいほど豊富なのでありますが、例えば……『もう逃がさない』だとか、そういったことでありますね」

「なにっ!?」


 大倉刑事のその言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。おそらく、鳴海刑事や鬼島警部も同じ気持ちだろう。大倉刑事が語った幻聴の内容は、昨夜鬼島警部が電話口で聞いたことと一緒だったのだから……。

 だが、なぜ大倉刑事まで……私がそのことを聞くよりも早く、鳴海刑事がはやしたてるように大倉刑事に詰め寄っていた。


「その幻聴、どんな声だったとか覚えていますかっ!?」

「そ、そうでありますね……年頃の女性、でしょうか? まぁ、なにぶん幻聴なので、ハッキリしたことは分からないのでありますが……」


 大倉刑事がそう言った後、倉庫内は静寂が支配する……それは、彼の言ったことに納得できない、我々の悪あがきか、はたまた彼の語った現実が、我々の世界を支配しようとしているのか……その疑問に決着がつく前に、鬼島警部の怒声が聞こえてきた。


「チクショウ! マジかよっ!」


 彼女はそう言って、ソファにドカッと腰を下ろす。


「あの……自分、なにか……?」

「実は――」


 その後、鳴海刑事が昨夜起きた出来事を大倉刑事に話すと、彼は分かりやすく肩を震わせた。


「そ、そんな……」

「驚いたでしょうが……事実なんです」


 事実……その言葉が、私の頭の中で嫌に大きな存在感を放っている。それと同時に、やはり鬼島警部の部屋にあったあの絵のことが脳裏に浮かび上がる。

 鏡の裏に、御札まで貼り付けて隠されていたあの絵……理屈ではなく、生理的な恐怖や嫌悪を喚起する女性の姿。

 あの絵は誰が描いたものなのか……なぜ、あんなところに隠されていたのか、そして何より……あの部屋が呪われているという噂と鬼島警部の体調不良は、あの絵とは無関係なのか。

 いや、あの絵こそ、すべての謎を解く鍵のように思える……私はその考えを、未だに沈黙を続けているオモイカネ機関のメンバーに話した。


「……そうですね」

「うむ……」

「でもよ……どうやってあの絵のことを調べんだ? この倉庫やネットなんかには、あの絵のことは何もなかったんだろ?」


 私は書架の方を見る鬼島警部に対して、明日大家に再度訊ねると共に、あのアパートに関する記録を徹底的に調べることを提案した。


「なるほど……確か、大家さんの話では、あのアパートは戦後すぐに建てられたと言ってましたから、その線から捜査をすれば、何かわかるかもしれませんね」

「確かに……希望はありますな」

「よしっ! そうと決まれば、明日は忙しくなるぜっ! アタシはもう寝るっ! 大倉っ! お前、アタシの警護しろっ!」

「はっ!? あの、それは――」

「よろしくお願いします、大倉さんっ!」

「あ、ちょっと、先輩――」


 その後、私と鳴海刑事は、少し雰囲気の良くなった倉庫を後にして、自宅への帰路についた。

 私は自宅へと戻った後、入浴と食事を済ませたらすぐにベッドの中にもぐりこんだ。

 明日は早い……しかも、身の回りに怪異の存在が確認された以上、油断も出来ない……が、そのように警戒している間にも、私の意識は徐々に溶けていくように、夢の世界に旅立っていった。


          ※


……ふと違和感に気がついて目が覚めた。うとうとしていただけなのか、室内はまだ暗い。

 時間を確かめようと、あらかじめ枕の脇に置いていた携帯電話に手を伸ばそうとしたが、私の身体は自分のものではないかのようにピクリとも動かない。まさか……金縛りか?

 通常なら、金縛りというやつはレム睡眠だかノンレム睡眠だか覚醒だかの関係で起きる現象で、根気よく身体を動かそうとすれば、やがて意識もハッキリして身体も自由に動く……だが、いくら頑張っても指先一つ動かすこと叶わず、声を出そうとしたが、喉も舌も石にでもなってしまったかのように動いてくれない。

……まぁ、いい……このまま寝てしまおう……半分寝ぼけた頭でそう考え、まぶたを閉じようとしたが、それさえ動いてくれない。

……まいったな……ぼんやりとそんなことを考えていると、ふとした物音に気がついた。足音だ。

 その足音は、廊下へと続く扉の方から聞こえ、徐々に私の方に近づいてくる。この家には、居候いそうろうのヨモツヒメであるタルホがいる。おそらく、この足音は彼女のだろう。

 そう思って扉の方を確認しようとするが、未だに身体を動かせない……そこで私は、天井に固定されたままの視線を、何とか動かそうと全身全霊の力を両目に込めた。その間にも、足音は徐々に近づいているのが分かる。初めはタルホの足音だろうとタカをくくっていたが、私の心中には近づく足音と共に徐々に恐怖が宿り始めていた。早く……早く、何が近づいているのかを確かめなくてはっ!

 だが、両目は見えない指で固定されているように、まったく動かない。いよいよ、耳元に足音が近づいてくるっ!

……その時だった。突然、視界が勢いよく動く。私の眼球を押さえていた見えない誰かが、気まぐれでも起こしたような唐突とうとつさだった。

 そんな、唯一自由を与えられた両目で私が見たものは、私の枕元の傍に立つ、喪服のように真っ黒な衣服に身を包み、黒いヴェールを被った人影だった。

 わずかに見える口元や指先は、まるで新雪のように白い。そして、その血色の失せた唇はわずかに動いていた。声には出さず、同じ動きを何度も繰り返している。


『あなたの……ねがいは……なに……?』


 黒衣の女性は、そう問いかけているのだろうか?

 私の願い……今の私には、一つしかない。私は現実には言えないその言葉を、夢の中の女性に託す。


『鬼島警部を救いたい』


 声にならない私の言葉に応えるように、黒衣の女性が私の肩を掴み――


「――!!」


 肩に走る、鈍い痛みで目を覚ました。ベージュ色のカーテンからは朝の光が差し込んでいる。いつもと同じ、私の自室だ。

 だが私の体には、まだあの夢の残滓ざんしがこびりついているようで、もやもやとしたものが手足の先にわだかまっている。

 不思議な夢だった……まるで現実であるかのような、生々しい夢……。

 考え過ぎても仕方ないため、私は仕事場に出勤するべく身支度を整える……が、いつもなら十分ともかからず支度を終えるはずが、今日は違った。

 シャツに着替える途中、私の左の肩関節の辺りに大きなあざがあるのが見えたのだ。だが、痣というには大きすぎるし、その形はちょうど人の手のように見えた……あの夢の影響だろうか?

 いずれにせよ、ここで考えても事件が解決することはない。私は少し急いで支度を終え、警視庁へと出勤した。

 オモイカネ機関のある倉庫の、重たい鉄製扉を開けると、すでに鳴海刑事達は出勤していた。


「……押忍……」

「あ……おはようございます」

「よう……」


 しかし、私が朝の挨拶をしても、皆覇気にかけた挨拶を返してくるばかりで、デスクの上に突っ伏したり、ソファの上で力なく横たわるだけだった。

……まさかとは思うが、私は一応、皆に昨夜、女性が枕元に立つ夢を見たかと訊ねた。


「――っ! 神牙さん、どうしてそれをっ!?」

「ば、バカなっ!」

「マジかよ……やべぇな、こりゃ……」


……どうやら、私の勘が当たったらしい。その後話を聞くと、三人も昨夜、私が見たのと同じような夢を、私が体験したのと同じような状況で見たと証言した。

 私はそれぞれの証言を聞き終わった後に、沈黙する三人に対して、鬼島警部のアパートとその大家の元へ向かう旨を伝えた。


「えぇ、行きましょうっ!」

「せ、先輩が行くなら、自分もっ!」

「まぁ……今回ばかりは他人事に出来ねぇよな……付き合うぜ」


 その後、我々は大倉刑事の自家用車に便乗し、初めに大家の元へ向かった。

 私はその間に、昨夜見た夢は、鬼島警部の部屋の壁に描かれていた絵と関係があるかもしれない旨を伝えたが、皆一様に、その根拠は訊ねてこない。私はその行為を、上司に対する気配りとしてありがたく受け取った。

 大家である渋谷の家のインターフォンの前に鳴海刑事が立ち、一呼吸おいてからインターフォンを鳴らす。


『――はい?』

「お忙しいところ恐れ入ります。警視庁の鳴海と申します」

『……まだ何か?』


 インターフォンに出たのは、渋谷よりもいくぶん若い声の女性だった。

 短い言葉の中には、明らかに迷惑そうな雰囲気が込められていたが、その程度のことで鳴海刑事はへこたれるはずはない……と、信じている。


「はい。二〇二号室のことで、ちょっと確かめたいことがありまして。渋谷さんからお話だけでも伺いたいのですが、いかがでしょう?」

『……お待ちください』


 その言葉を信じて、玄関先でジッと待ち構えていると、ほどなくして玄関の引き戸が開く。

 出てきたのは、三十代半ばの女性だった。顔立ちがどこか渋谷に似ている。年齢から察するに、娘だろうか?


「失礼ですが……渋谷静江さんの娘さんでしょうか?」

「ええ、娘の初枝です」


 渋谷初枝しぶやはつえはそれだけ言うと、見てわかるぐらいに不機嫌な顔を浮かべながら、玄関から一歩下がる。


「どうぞ。ご希望に添えるような会話が出来るかは分かりませんが、それでもよろしければ……」


 そして、我々が通されたのは六畳ほどの和室だった。障子が閉められ、部屋はどんよりと薄暗い。ひゅうひゅうと、すきま風のようなか細い音が足元から聞こえてきた。

 部屋の暗がりに目が慣れると、娘である初枝の言っていた言葉の意味が理解できた。

 先日まで健康そのものだった渋谷は、すっかりやつれ果てて横たわっている。しかも、その様子はかつて体調不良になった鬼島警部そっくりだった。


「母さん、警察の方が母さんにってお見えよ」

「警察……? マルちゃんに何かあったのかいっ!?」


 どんよりと天井を見上げていた渋谷が、カッと目を見開き、しわがれた声を張り上げた。

 しかし初枝はそれにひるまず、淡々と答える。


「マルちゃんは病院にいるから大丈夫。そうじゃなくて、ほら、アパートの。鬼島さんのことでお話が聞きたいって」

「ああ、そうかい。マルちゃんは元気かい。よかった……よかったねぇ……」

「そうね。ほら、マルちゃんのことは心配いらないから、警察の方にお話を――」

「マルちゃんはもうすぐ元気になるねぇ……きっと助かるよ。なんせ私がちゃんと約束したからね。早くマルちゃんが元気になりますようにってね」


……もはや、意識が混濁しているのだろうか?

 渋谷はまったくかみ合わない受け答えを初枝と繰り返している。

 困り果てたように首を振り、初枝は我々の方に身体をずらす。渋谷は小さな子供のように、それを追って起き上がった。


「本当よ? 本当に約束したの。だからマルちゃんはもう何の心配もいらないのよ?」

「ええ、そうね。ありがとう、母さん」


 そう言いながら、初枝は崩れかけた渋谷の浴衣の襟元を直し、布団に寝かしつける。

 そして、私は見逃さなかった……渋谷のその首筋に、黒々としたあざ……渋谷の首を絞めるかのような、そのあざを……。


           ※


「すみません、せっかくおいで頂いたのに……」

「いえ、こちらこそ突然お邪魔してご迷惑をおかけいたしました」


 初枝に対してそう言って頭を下げる鳴海刑事にならって、私や大倉刑事、鬼島警部も頭を下げる。


「でも、渋谷さんはこの間まではお元気そうに見えたんですが……」


 頭を上げた鳴海刑事が、さっそく初枝に対して質問する。


「そうなんです。原因は分からないんですが……お医者様は、歳も歳だからと……」

「それは……ところで、マルちゃんというのは?」


 鳴海刑事のその質問に、初枝は顔を曇らせる。


「うちの娘のことです。母もずいぶんと可愛がっているんですが、半月ほど前に肝臓に病気が見つかったものですから、今は大学病院に入院していて……」

「そうだったんですか……本当に、大変なところご迷惑をおかけしました」

「いえ……それで、どのようなことをお聞きなりたいんですか?」

「実は、こちらの鬼島警部が住んでいる二〇二号室の壁に描かれた絵について、渋谷さんにもう少し詳しい話を聞きたかったのですが……」

「はぁ……? その、申し訳ありません。私も母も、良く分からないと思います」

「そ、そうですよね。すみません、お邪魔しました」


 そして、我々は横断歩道を渡って例のアパートに来た。

 階段を上がり、鬼島警部の部屋の前に立ってしばらく立ち止まる……かつて、私が聞いた異音は聞こえてこない。

 安堵した気持ちで私は鬼島警部に鍵を開けるように言って、彼女と共に部屋の中に入った。


「うっ!?」


 私達の先頭を行く鬼島警部が、突然うめき声を上げた。だが、私は鳴海刑事達も、すぐに彼女と同じような状態となる。

 凄まじい腐敗臭……おそらく食物などから漂ってくる臭いだろうが、それが生活臭と相まって凄まじい悪臭を放っている。たまらず、我々は二〇二号室から退散した。


「ひ、ひどい有様でしたな……」

「……ま、まぁな……」


 いつもならヤクザ口調で恐喝する鬼島警部も、今は大倉刑事の言葉に賛同せざるを得ない……私も、大倉刑事の言葉に同感である。


「でも、どうしましょうか? せめて、あの絵でも調べた方が……」

「確かにそうですな……神牙、なにか良い案はないのか?」


 額に脂汗をじんわりと浮かばせた大倉刑事にそう聞かれ、私はしばらく考え込む。

 そして、我々が乗ってきた大倉刑事の車の中にビニール袋が置いてあったことを思い出し、急いで車からビニール袋を手にして戻りポケットからフォールディングナイフを取り出して限界まで息を吸って止め、再び鬼島警部の部屋に足を踏み入れた。

……息を止めれば悪臭は感じないが、部屋の惨状は嫌でも視覚を通して入ってくる……気にしてもしょうがないので、私は壁に描かれた絵に近づいてビニール袋を広げ、ナイフで絵具をこそぎ落としてビニール袋に入れ、スマートフォンで絵の写真を撮る。

 一通りの作業を終えて部屋を後にしようとした時――。


『ガリッガリッガリッ!!!』

「――っ!!」


 私は反射的に扉の方に走り寄って部屋を後にした。当然、部屋の方を見ることなく……。

 私のその様子を見ていた三人は驚いていたが、私はなんでもないことを伝えて、ビニール袋を見せながら事情を説明し、本日の捜査は終了することを伝えた。

 その後、一度本庁まで戻って私は鳴海刑事と大倉刑事と別れ、もはや警護対象と化した鬼島警部と共にオモイカネ機関本部である倉庫へ向かい、組織との連絡に使う携帯端末を使って『その者』に連絡を取る。

 数分して、『その者』から返信が来た。


『どうかしたのか?』

『絵具の鑑定と、今から送付する画像にある絵がどういったものか、調べてほしい』

『事件か?』

『どちらかというと、トラブル』


 少し間をおいて、返信が来た。


『了解。その画像はこちらで早速調べるとして、絵具はどうやって受け渡しをする?』

『いつものように、忘れ物の方法で』

『分かった』


 その返信を最後に、『その者』との連絡は途絶えた。

 それから私は、訝しむ鬼島警部の質問をはぐらかしたまま警視庁の忘れ物預かり所に絵具の入ったビニール袋を預け、彼女と共に自宅に帰ることにした。


          ※


「うひゃーっ! すげぇな、こりゃ!」


 私の自宅を見てあからさまに驚く彼女を車に残し、私は一人で家の中に入り、二階へ上がってタルホの部屋に入る。

 どうかいてほしい……と思いながら扉を開けると、彼女はベッドの上で仰向けになり、漫画雑誌を読んでいた。


「ん? おお、帰ったか。なんぞ用か?」


 私はタルホに、今日は知人が寝泊まりするので、あまり姿を見せないことと、万が一見つかってしまった場合は、家族のフリをすることをお願いした。


「ふむ。別に構わんぞ?」


 私は彼女に礼を言って、車に待たせていた鬼島警部を自宅に招き入れた。


「かーっ! マジかよっ! ひぇーっ!」


 先程から感嘆詞ばかり述べる鬼島警部をリビングに誘導し、作り置きの料理を並べて風呂に入った後、彼女を風呂に入れて一階の寝室に案内した後は、自室に戻ってそのままベッドに倒れこんでしまった。

……気のせいか、体調が悪いように思える。渋谷の首にあった、あの痣……あれは、私の肩にあるのと同じ類のものではないだろうか?

 だとすれば、私もいずれ……そこまで考えると、タルホがいる部屋の扉が開いた。

 タルホは私に静かに近づくと、痣のある方の肩を撫でてすべてを見通しているかのような口調で言った。


「お主も大変じゃのぅ……ま、本当に危なくなれば、わらわが助けてやろう。お主の魂はまこと美味であるからな……」


 そして、タルホは再び自室へと戻り、残された私は無事に明日を迎えられることを祈りながら、徐々にその意識を手放していった……。

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