絵の中にあるモノ ~発見と調査~
「――さん、神牙さん、起きて下さい」
……まどろみから目覚めつつある私の耳に、優しく響く男性の声……声の主は前方、おそらく助手席にいるのだろうか?
私は重たい瞼を半分ゆっくりと開け、少しだけ身を起こす。
「神牙さん――あ、おはようございます。もう出勤時間ですから、そろそろ鬼島警部の部屋を見に行った方がいいかと思いまして……」
そこには、急遽上司から夜勤を命じられたにも関わらず、朗らかな笑みを浮かべる鳴海刑事の姿があった。
私は後部座席から完全に身を起こし、運転席の方に目を向けるが、そこには腕組みをしてスヤスヤと寝息をたてる大倉刑事の姿があった。
「あの後、僕と大倉さんで交代で見張りすることになって大変だったんですからね。せめて、これぐらいは神牙さんがやってもらいませんと……」
私は目をこすりながら鳴海刑事の言葉に肯定の返事をすると、後部座席のドアを開けて外に出た。雨はすでに止んだらしいが、曇天の空模様を見ると嫌でも気分を削がれる。
私は少し肌寒い空気に身を晒し、アスファルトの道路の窪みに出来た水溜りに気を付けながらアパートまで歩いていき、鬼島警部の部屋がある二階へと上がっていく。
すでに時刻は朝七時を回ろうとしているが、曇り空のためか、建物の中は薄暗く、カビ臭い……それぞれの部屋へと通ずる扉の横に置かれた折り畳み自転車や花の咲いた植木鉢などが、なんとも言えない昭和の世界観を醸し出している――これはこれで、私は好みだが。
古びた木製の扉には部屋番号や表札の類は出ていなかったが、私は昨夜の記憶を頼りに鬼島警部の部屋があるはずの二〇二号室に行きついた。
扉を軽くノックするが、返事はない……それならばと、今度は少し強めにノックをするが、それでも部屋の中からは応答がない。
……おそらく、寝坊でもしているだろう。ならば、このままここで辛抱強く待とうか……そう思った矢先、私は奇妙な物音に気付いた。
辺りを見回すが、アパートの住人は皆出払っているのか、それらしい気配は感じない。木材を爪でひっかくような、このカリカリという小さな異音は、どうやらこの近くから聞こえているようだ。
私はしばらく耳を澄ませ、音の出所にあたりをつけた。それは、目の前の扉の向こうだ。
周囲を憚り、小声で鬼島警部の名を呼ぶが、返答はない……だが、返事の代わりとばかりにこのカリカリという異音が激しさを増してきた。
私は思い切って、木製の扉に備え付けられた金属製の新聞受けの蓋を押して、室内を覗き込む。
「――っ!!?」
……思わず大声を上げるところだった……私が新聞受けの隙間から中を覗きこもうとしたまさにその時、室内からドス黒い手が現れた。幸い、その手は現れたと思った瞬間に室内に引っ込んでいったので実害はないが、あまりにも衝撃的な出来事のために、しばらくその場で立ち尽くしてしまう。すると、隣室のドアが静かに開けられた。
「……なんか、あったの?」
ドアから顔だけのぞかせた男は、私と鬼島警部の部屋のドアを交互に見つめ、『なるほど』というようにゆったりと頷く。
「あぁ、見ちゃったの?」
……私がどういうことか訊ねると、
「隠さなくたっていいんだよ。最近多いからな」
私がさらに深く話を聞こうと再度訊ねると、男は肩まであるウェーブのかかった金髪を揺らして面白そうに答えた。
「幽霊さ。あんたで何人目かな? ま、俺も時々見るけどな。気にすんなよ、あんたに付いて行ったりはしないからさ」
そう言ってドアを閉めようとする男に、私はさらに詰め寄って話を聞きだすことにした。男は私が自分の部屋の扉近くまで来たことに驚いた様子だったが、私がさらに情報を欲しがっていることを知ると、特に気にすることもなく無精ひげにまみれた口を開けてくれる。
「当ててやろうか? あんたが見たのって、ドス黒い手だろ?」
男のその言葉に、思わず心臓がバクッと不規則なリズムを刻む……その様子を察してか、男はさらに饒舌になって喋り始めた。
「そういえば、幽霊が出始めたのってここ最近……たぶん一週間も経ってないんじゃないか? そこの住人もだいぶ苦労してるだろうな。最近はうめき声や何かがぶつかったような物音まで聞こえてくるぜ」
一週間前から現れ始めた幽霊……気になるワードだったが、私がそのことについてさらに質問しようとする前に、男は扉を閉めてしまっていた。
仕方ないので、再び鬼島警部の部屋の前に立ち、扉をノックする。
「は~い」
今度は手の代わりに、室内から気怠そうな返事が聞こえてきた。
「お……」
静かに開かれた扉の向こうから、青白い顔をした鬼島警部が姿を現した。その様子はかつて見た飢餓に苦しんでいるような状態よりはマシなようだったが、それでも顔色は優れない様子である。
「よ、おはようさん……」
彼女はそれだけ言うと、『まぁ、あがれよ』と出勤時間も気にせずに私を部屋に招き入れる。
断る理由もないので彼女の言う通りに部屋にお邪魔するが、靴を脱いで彼女の部屋に上がり込むタイミングで、やはり壁に描かれたあの絵が目に入ってしまう。幸い、昨日から変わり映えはしていないようだが、その絵は昨日よりも私の中で嫌な存在感を放っていた。
結局、私はすでに出勤の準備が済んでいた鬼島警部と共に朝食を頂いた後、その部屋を後にした。
……ちょうどいいから、聞いておこうか……そう思い、私は彼女とアパートの階段を降りながら、先程彼女の部屋の新聞受けからドス黒い手が見えたことを打ち明けた。
「……マジ?」
私からその話を聞いた鬼島警部は、眉間にシワを寄せてあからさまに不快感を表していた。
「……実はよ、最近夢に出てくるんだよな、ドス黒い手とか、薄気味悪い女とか……」
昨日の天気が嘘だったかのような晴れ模様の下、鳴海刑事達が待つ車へと続く通りを歩きながら、鬼島警部は神妙な面持ちで語り始めた。
「なぁ、神牙……」
車まであと数メートルという距離まで差し掛かった時、私の後ろを歩いていた鬼島警部が私のスーツの端を掴む。
「アタシ……大丈夫だよな?」
……その言葉に、私はただ自信ありげに頷くことしか出来なかった。
※
その日、我々はいつもの職場で仕事に励んだが、本日は何事もなく業務を終えることが出来たため、一日中鬼島警部の様子を観察することが出来た。結果はというと、少し元気がないといった印象である。
彼女は日頃愛読している競馬新聞には目もくれず、職場に着くなり、いつものソファに頭から倒れこむようにして眠ってしまった。いつもはその態度に苦言を呈する大倉刑事も、この日ばかりは見ないふりをしていたのが印象的だった。
その後、退勤時間を迎えたオモイカネ機関のメンバーに対し、私は鬼島警部の体調と彼女の部屋に関する調査を宣言した。
「確かに……このままではまずいですよね」
「うむ、そのようですな……」
幸い、鳴海刑事も大倉刑事も、ソファで寝込む鬼島警部の様子を見て、私の意見に賛同してくれた。
そして我々は、未だに眠り込む鬼島警部を起こし、捜査の開始を知らせた。彼女も、『おぉ、頼むぜ……』と力なくではあるが、快諾してくれる。
その返事を受けて、我々がその場で協議した結果、私と鬼島警部は、ひとまずこのオモイカネ機関の本部で寝泊まりすることに決まった。
理由は、鬼島警部の部屋の壁にある、あの絵である。
今回の鬼島警部の体調不良の原因は、大倉刑事の証言もあってあの絵にある可能性は非常に高い。そのため、あの絵から出来るだけ距離を置くのと、その間の身辺警護を理由に、私と鬼島警部がこのカビ臭い倉庫に寝泊まりすることになったのである。
……ここに寝泊まりするくらいなら、私の自宅で……と言いたいところだが、あいにく私の自宅にはタルホがいる。彼女の存在は、出来れば鬼島警部を始めとしたオモイカネ機関のメンバーには知られたくない……色々とややこしい事態になるのは目に見えている。
そして、私と鬼島警部が元々備わっていた備品の毛布に身を包んで二つのソファで夜を明かした次の日……ぼんやりと意識が覚醒した私が最初に気にかけたのは、鬼島警部の容態だった。
早速彼女の眠るソファまで向かい、毛布によって半分隠れた顔色を伺うが、見た感じでは普通のように見える。一瞬、『もしや死んでいるのでは?』という嫌な考えが頭をよぎり、彼女の脈を計ろうとしたが、そのために近づけた右手にかかる彼女の寝息を感じて、その考えが杞憂であることに安堵した。
そのまま彼女の様子を観察していると、彼女が少しの身じろぎの後に目を開けるのが見えた。
「……神牙?」
鬼島警部の毛布に隠れた口から私の名前が聞こえたので、私は寝起きの彼女に向かって静かに朝の挨拶をする。
「……おぉ、おはようさん……」
そう言って、鬼島警部は毛布を剥ぎ取ってソファから起き上がった。
私が彼女に体調はどうかと訊ねると、彼女はその口元にニコッと笑みを浮かべた。
「あの部屋にいなかったせいか、だいぶ良くなってるぜ。ありがとよ」
その様子が、今の私にとっては何よりの救いだった。
それから、我々が備え付けのポットとお茶を使って朝のお茶を楽しんでいると、出勤時間ピッタリに大倉刑事と鳴海刑事が姿を現した。
「おはようございます、神牙さん、警部……見た感じ、異常はなさそうですね。良かった……」
「うむ。幸いでありますなっ!」
二人も、いつもと変わり映えしない鬼島警部の様子を見て、安堵の声を上げる。
その後、我々は鬼島警部のアパートの前に来た。理由は二つある。
一つ目は、今回の捜査が終わるまでの間、鬼島警部はオモイカネ機関の本部で寝泊まりするため、その間の私物を取りに行くこと。
二つ目は、現場捜査と聞き込みのためである。
幸い荷造りは早く終わり、ダッフルバッグを肩にかけた鬼島警部が部屋を後にするタイミングで、アパートの階段を上がってくる足音が聞こえた。
「……お? なんだ、あんたか?」
階段を上がってきた人物は、昨日鬼島警部の部屋に幽霊がいると言っていた、あの男だった。私がその男に形ばかりの挨拶をしようと名前を聞こうとすると、
「あぁ、隣の今村だ」
互いに自己紹介もしていなかったことを思い出したように、目の前にいる男はすぐ横にある錆びついた郵便受けを顎で示す……確かに、郵便受けの一つに貼られたガムテープに、黒いマジックペンでその名が書かれていた。私は鬼島警部に、先に部屋に戻っているように伝えた。
「ん? おぉ、分かった」
そう言って、彼女は素直に部屋の中に姿を消す……そして、私は自分の部屋へと続く扉を開けて中に入ろうとする今村を引き留め、鬼島警部の部屋に関するさらなる情報を得ようとした。
「……詳しいことは知らねぇけど……その部屋は呪われてる、色々とヤバいんだ。前にも言っただろ? 一週間ぐらい前、急にその部屋から幽霊が出るだの妙な足音や物音がするってんで、このアパートじゃちょっとした噂になってんだよ。俺もそういった話は信じないタイプだったけど……今は、信じるしかねぇや」
今村からその話を聞いて、大倉刑事の体調がみるみるうちに悪化していくのが分かる。
今村は開けていた扉を閉め、さらに話を続けてくれる。
「前々からそういう噂は聞いてたけどな。その部屋だけじゃなく、アパートそのものがなんていうか……古くて暗くて、ジメッと陰気な感じで……それっぽいだろ?……ったく、どうりで安いアパートだと思ったぜ。おかげで引っ越しだのなんだのでいい迷惑だっ!」
ちょうどその時、今村の携帯に着信音が流れた。
「おっと、不動産屋からだ。じゃあな」
気楽な挨拶ひとつを残し、今村は再び扉を開けて部屋に中に消えていった。
鬼島警部の部屋は呪われている……?
それだけならば、さっさと彼女に引っ越しをさせれば済む話なのだが……。
「神牙さん……どう思われますか、今の話?」
私は心配そうに見つめてくる鳴海刑事に、何とも言えないと返答した。
「……ですよね」
「じ、自分はけ、け、決してオバケなどは――」
「あぁ、はい、はい。大丈夫ですよ、大倉さん。オバケなんていませんよ」
「お、押忍っ! その通りでありますっ!」
……私は鳴海刑事と大倉刑事のやり取りを横目で見た後、部屋の中にいる鬼島警部を呼び出した。
「おう、もういいのか?」
私は彼女のその言葉を肯定し、このアパートの大家の元へ向かうと三人に告げた。
「あ、なるほどっ!」
鳴海刑事は私の意図を察したようで、顔をほころばせて頷く。
このアパートには、元々幽霊などの噂があった……それは今村も証言していたことだ。それに加えて一週間前、鬼島警部の部屋からあからさまに怪奇現象などが頻発し、我々は鬼島警部のあのあられもない姿を目撃したのである……この状況では、まず大家に話を聞くのが適切だろう。物件にそのような噂が流れていれば、その内容は嫌でも大家の耳に入るはずだ。私はその考えを、大倉刑事と鬼島警部に分かりやすく説明した。
「むぅ……自分はあまり気が進まないが――」
「あ? てめぇ、アタシがどうなってもいいっていうのかよ?」
「い、いえ、決してそのようなことは――」
という具合に、大倉刑事の懸念は秒殺された。
その後、我々は私物の詰まったダッフルバッグを大倉刑事の車の中に置いてきた鬼島警部に導かれて、アパートのすぐ対面、横断歩道を渡った先にある大家の家へ訪れた。
周囲を植物の壁で囲われたその家の表札には、『渋谷』と表記されていた。
チャイムを鳴らすとガラスの引き戸が開き、一人の老婆が姿を現した。
老婆は少しボサッとした短い黒髪をかき上げ、しわくちゃの顔を遠慮なしに苦々しく歪ませた。 その様子を察して、私は鳴海刑事の背中をポンと叩いた。最初は驚いていた彼だったが、私の意図を察すると胸ポケットから警察手帳を差し出して、
「お忙しい所、恐れ入ります。警視庁の者ですが、向かいのアパートの大家さんはいらっしゃいますか?」
と、マニュアル通りの対応。実に素晴らしい。
老婆は我々の向こう側にあるアパートに視線をやった後、
「……はい、私が大家の渋谷香苗ですが……?」
と、しゃがれた声で告げた。
「実は……あのアパートの二〇二号室の件で伺いたいことが――」
「っ!? 知りませんっ! あの……奥に病人を待たせてますので……失礼しますっ!」
「あ……」
こうして、渋谷香苗はその老体に見合わない速度で引き戸を閉めて室内に戻っていった。
「……ちっ! あのババァ、アタシにシメられるのが怖くて逃げやがったなっ!」
……私の後ろで、鬼島警部が警察官としては問題のある発言をするのが、よく聞こえてきた。
※
その後、我々は一度オモイカネ機関まで戻り、あのアパートや鬼島警部の部屋、そして壁の絵に関する情報を、保管しているファイルや備え付けのパソコンなどを駆使してしらみつぶしに探している。あのババ――老婆が快く話をしてくれるには、それなりの手土産が必要だと考えたゆえの判断だ。
私の人生経験上、呪われているという噂が立つにはそれなりの理由がある。それは単純な恨みかもしれないし、表立っては口に出来ないメッセージのようなものかもしれない。
虫の鳴き声よりか細いそれらの情報を聞き取ることも、そしてその意味を吟味することも、通常の警察組織――例えば捜査一課など――では不可能だろう。その音の存在を知り、その聞き分け方を知る我々でなければ、正しく理解することは出来ない……オモイカネ機関の本来の存在意義はそうあるべきだし、そうあってほしい。私を突き動かしているのも、そういった信念からだと、ハッキリと宣言できる。この部署にいる他の者達も、そんな信念のようなものに突き動かされているのだろうか?……そうあってほしいものである。
そうこうしているうちに、私は膨大な書架の中からいくつかのファイルに目が釘付けとなった。
『涼風荘失踪事件』
『涼風荘無理心中事件』
『涼風荘餓死事件』
最初の頭にくる文字の問題で連続して収められたであろうそのファイルに書かれている文字を目にして、私の額に冷や汗が浮かび上がってくるのが分かった。
ほぼ反射的にそれらのファイルを書架から取り出して中を見ると、その冷や汗は頬をつたってくる。
『【岡崎 聡子 20XX年4月18日 失踪宣告】』
『【小野 良二 20XX年4月18日 死亡】』
『【小野 明美 20XX年4月18日 死亡】』
『【長瀬 俊也 20XX年4月18日 餓死】』
……住居というものは、人の生活と切り離せないものだ。そうである以上、生き死にとも密接な関わりを持っている。にもかかわらず、あの二〇二号室に住んでいた住人は、ことごとく死亡しているのだ。これは……いくらなんでも死に過ぎである。偶然と切り捨てるには、あまりにも重すぎる事実だ。
実際問題、この岡崎という女性は姿を消してから七年が経過しているため、民法によって失踪として認定されている。これは、法律上の死を意味する。
小野夫妻はガスによる無理心中であり、遺体の解剖記録では、胃から大量の食物が見つかっている。長瀬という男の場合も、胃に大量の食物が見つかった状態で餓死となっている……これでは、あんな噂が立つのも無理はない。
やはり、あの部屋には『なにか』がある。その『なにか』がどんなものかは今のところ不明であるが……確かめないわけにはいかない。
私はそれらのファイルを持ち、鳴海刑事達がいるデスクへと戻っていった。
「神牙さん? なにか見つかったんですか?」
私の腕の中にあるファイルの束を見つめ、鳴海刑事がそのように聞いてくるので、私は近くのテーブル――鬼島警部の根城であるソファの前――にそれらのファイルを広げ、彼らに一つずつ読ませた。
「これは……」
最初にファイルを手に取った鳴海刑事は、目を見開いてファイルの中にある文字を追っていく。その様子を見て、大倉刑事や鬼島警部もファイルを手に取って読み始める。
「……マジかよ」
ファイルの内容にあらかた目を通した鬼島警部は、そう言って大きくため息をついた。
※
その後、私達は再び大家の家の前に来た。
大家に対する嫌悪の感情をむき出しにする鬼島警部は少々危険なため、大倉刑事の巨体の後ろに追いやって静かにしているように命じた。準備が整ったところで、鳴海刑事がチャイムを鳴らす。
『はい?』
インターフォン越しに、渋谷香苗のしゃがれた声が聞こえてきた。
「たびたび恐れ入ります。警視庁の鳴海ですが、お伺いしたいことがありまして……」
『……あの部屋のことでしたら――』
「いえ、今日はその部屋に住んでいた前の住人の方々について、お話を聞かせて頂きたいんです」
『……』
しばらくの沈黙の後、インターフォンはブツッと途切れ、引き戸が開けられて渋谷が姿を現した。
「……どのようなご用件でしょう?」
渋谷はほとほと疲れたといった様子で、左手で右腕を抱え込むようにして鳴海刑事にそのシワに埋もれた両目を向ける。
「すみません、お忙しい時間に。実は、あの二〇二号室ですが、現在住んでいらっしゃる住人の前にも、何人かの方がお住まいになっていますよね?」
「そりゃあ、まぁ……うちも家賃収入がないと苦しいですから……出来るだけ空室にはならないようにしてはいますよ?」
「失礼ですが、その住人の方々について、少々調べさせて頂きました」
「――!」
鳴海刑事の変わらぬ、優しい声色でそう宣言されると、渋谷は目を見開いた後に我々の周囲にせわしなく視線を向ける。
「僕が確かめただけでも、あの部屋で亡くなった方は三名おり、一名は未だに失踪人として行方が分かっていないようです」
「……」
「奥さん、我々は奥さんを疑っているわけではないのであります。しかし、ここでだんまりを決め込まれてしまうと、要らぬ疑いをかけなくてはいけなくなりますが……」
鳴海刑事の追及に渋谷が地面の一点を見つめたまま黙り込んでいると、大倉刑事が昔の刑事ドラマに出てくる人情派刑事のように優しく、しかしハッキリとした口調で言った。
そんな大倉刑事の言葉が効いたのか、渋谷は覚悟を決めたように長いため息をついた。
「確かに、あの部屋に入居した人はおかしな死に方をしたり、失踪したりすることが多いんです……」
「そのわりには、すぐに部屋が埋まるようですね?」
「あのアパートは建物も古いですから、家賃も安くしてありますので……」
大家である渋谷のその言葉に、私の脳裏には、あのいかにも昭和の雰囲気を醸し出す木造アパートの外観がフラッシュバックした。
しかし、私があのアパートに軽くノスタルジーを感じている間も、鳴海刑事も追及は続く。
「それでも、これだけ不可解な事件が続けば、事情を知って嫌がる人も多いのでは?」
「はい……ですから、事件のことを知られないように――」
「隠匿したのでありますかっ!?」
「違いますっ!」
渋谷は怯えたように首を振り、一瞬話すことを躊躇したように見えたが、やがて観念したのか、ポツポツと話し始めた。
「ですからその、自殺や事件があったことは、外国の方に……」
「なるほど……そういうことですか」
「先輩? 自分には良く分からないのですが……」
私も、大倉刑事と同じ意見だ。彼女はいったい、何が言いたいのだろうか?
私が悩んでいると、鳴海刑事が後ろにいる私達に向かって説明してくれた。
「簡単なことですよ。大家と不動産屋は、入居希望者に対してその物件の来歴を知らしめる義務があります。ですがそれは、前の入居者の事だけを申告すればいいんです」
「はぁ……?」
「例えば、僕が今借りているマンションで自殺したとします。そして、僕が自殺した直後に大倉さんがその部屋を借りようとすれば、大家と不動産屋は僕の自殺を大倉さんに教えなければいけません。ですが、僕の死んだ後、一か月でも他の住人が入れば、その部屋の履歴は更新され、次に大倉さんが入居する際の告知義務がなくなるわけです」
つまり、鬼島警部が住んでいるような賃貸アパートで告知の義務があるのは、実質的にその前の住人に関してだけということか……それで、先程大家が言っていた『外国の方』という言葉……なるほど、見えてきた気がする。大倉刑事も同様の様子だ。
「なるほどっ! この辺りのには出稼ぎに来ている外国人の方も多い。そういった方達にとっては事件があろうとなかろうと、少しでも安い家賃がありがたがられる。そして、出稼ぎに来た人達は長期間住むことはないから、履歴は更新され、速やかに次の入居者を募集することが出来る……そういうことでありますね?」
「その通りです。ですよね、渋谷さん」
「……はい」
……決して褒められた行いではないが、自殺や事件は大家からしてみれば降って湧いた災難のようなものだ。一刻も早く、その事実を葬り去り、新しい入居者を入れたいと考えることは、不自然ではない。
「クソッ! アタシはまんまと騙されてたってワケかっ! そういえば、前住んでた奴は外人みたいだったなっ!」
大倉刑事の巨体の向こうから、鬼島警部の怒りの声が響き渡る。当然、その声に呼応するように、渋谷は肩をビクッと震わせ、そのシワだらけの眉間をさらに厳しくした。
「……私達も、あの部屋はおかしいと……刑事さん達には笑われてしまうかもしれませんが、御祓いもして頂いたんですけれど……」
効果は無かったということか。もっとも、御祓いなどは心理的な負担を軽減するための儀式といった側面もあるから、急激に何かが改善するということは期待できないだろう。
「なるほど、分かりました。それでは、これまでの入居者と、その中でもあの部屋で不可解な死を遂げた人や失踪した人の名前を教えていただけますか?」
「分かりました。なにぶん古い建物ですので、さかのぼるには限界があるとは思いますが、不動産屋さんに確認してみます」
「お手数おかけしますが、よろしくお願いします」
「ちなみに奥さん、その出稼ぎの外国の方達は無事に出られたのでありますか?」
「そうですねぇ……あの部屋で亡くなった方はいませんが、そもそも出稼ぎの方は長くても一か月ほどで別の場所に越されてしまうので、私にもよく……」
これは仕方ないことだろう。短期滞在の外国人となると、その身上と行方を追うことは厳しい。ただただ、無事であってくれと祈るしかない。
「岡崎さんといい、小野さんといい……やはりあの部屋、いえ、あのアパートは呪われているのかもしれません」
大家である渋谷香苗のその言葉に、大倉刑事が分かりやすく肩をビクッと震わせる。鳴海刑事はそんな大倉刑事とは対照的に、すかさず口を開く。
「何か、心当たりでもあるんですか?」
「心当たりと言いますか……あの建物の中はご覧になったんですよね?」
「はい。一応、室内も」
「見ての通り、かなり老朽化の進んだ建物ですから、五年ほど前に建て替えようという話が持ち上がったんです」
確かに、あれでは大型の台風でも上陸した日には跡形もなく吹き飛ばされてしまいそうだ。
「せっかくだから、これを機にマンションに建て替えようと資金を用意し、業者さんにもお願いをしたんですが、おかしなことが続きまして……」
「お、おかしなことでありますか……?」
早くも大倉刑事が、脂汗をにじませながらオウム返しに繰り返す。怖い話が苦手なくせに、こうして聞いてしまうところが不可解極まりない。
「住人の退去も済んで、いざ取り壊そうとなったら、まず現場監督さんが原因不明の高熱で倒れてしまいまして……代わりの方をお願いしたんですが、今度はその方が、現場に来る途中で事故に……」
「なんと……」
「それに――」
「まだ続くのでありますかっ!?」
「え、えぇ……信じて頂けるかは分かりませんが……その次は、クレーン車でアパートを取り壊そうとしたら、突然そのクレーンが横倒しに……」
「それはまた……壮絶ですね……」
「幸い死者は出なかったのですが、クレーン車を運転していた方はあちこち骨折されてしまって……それで、建築業者さんというのは、結構迷信深いところがあるようで、『この現場は縁起が悪いから、降りさせてまらう』と……」
「ふ、不幸な偶然というのも、あるものですな……」
せわしなく額の汗を拭いながら、大倉刑事は引きつった笑みを浮かべる……一応、笑って恐怖を吹き飛ばそうと努力しているらしい。まさに、無駄な努力である。
「偶然なのか、それとも別の何かなのか……ともかくそれ以来、私共も何社か別の業者さんにお願いしたのですが、同じような事故が続きまして……とうとう引き受けて下さるところもなくなり、今に至るという次第です」
……聞いてみれば、なんとも立派な『それらしい経歴』を持つアパートらしい。建物の外観こそ、大倉刑事が全力で体当たりでもすれば、そのまま倒壊してしまいそうなオンボロぶりだが……『呪われている』という噂が流れるバックグラウンドとしては、充分な経歴である。
「では、あのアパートは建てられた時のまま、現在も使われているんですね?」
「ええ。なにぶん古い建物ですから、メンテナンスは定期的に入れていますが、基本的には戦後に建てられたままの姿です」
「戦後……? それはまた、随分と古いですね。室内もですか?」
「はい。入居者が変わる時にはクリーニングしますが、やはり大きく手を入れることは難しいですから……」
それは当然であろう。あの部屋を今どき流行りの洋間にリフォームしようというのは、少し無理な話に思える……鬼島警部の部屋を脳裏に描きながらそのように考えていると、私はあることを思い出した。彼女の部屋の壁に描かれた、あの不気味な絵だ。
私はそのことを、渋谷に直接訊ねた。
「さぁ……存じませんねぇ」
頬に手を当ててしばらく考え込んでから、渋谷はそのように答えた。私は次に、その絵を隠すように設置されていた鏡について訊ねた。
「鏡……は、あったような気もします。でもあれは、ずっとあの部屋に置きっぱなしになっている残置物ですから、その裏に何があるかまでは……」
「おいっ! そりゃ、本当だろうなっ!?」
「ひっ!? ほ、本当ですよ、嘘じゃありませんっ!」
大倉刑事の巨体の横から、にゅっと顔だけ出した鬼島警部の怒声に、渋谷はあからさまに肩を震わせて答える……まぁ、リフォームのすべての段階に大家が立ち会うことはないだろう。となれば、彼女が絵の存在を知らなくても、無理はない。
私は彼女の前に立つ鳴海刑事に撤収の指示を出し、渋谷に礼を言った。
「はぁ……あ、あの、お願いしますよ、刑事さん。こんなこと、あまり他で言いふらさないで下さいよ?」
私は大家である渋谷の懇願に生返事を出し、オモイカネ機関の面々と共にその場を後にした。