絵の中にあるモノ ~警部の異変~
時刻は夕刻……そろそろ退勤時間が迫ってきた私は、職場の相変わらずの武骨さに辟易していた。
薄暗い室内……コンクリートが打ちっぱなしになっている壁……私のデスクからはちょうど正面に見える、武骨なステンレスの書架の数々……。その書架の中には紺色の分厚いファイルが詰め込まれており、この位置から見れば、さながら荘厳な墓場のような光景である。
だが、その感想もあながち間違いとは言えないだろう。あの書架に収められている、膨大な量のファイル……あの中身は、いわゆる非公認事件記録というヤツだ。
警察によって公式に記録され、分類されはしたが、その事件の特殊性ゆえに正当な事件記録として扱われず、たらい回しにされ……最終的に行きつくのが、あの書架の森というわけだ。
私は暇つぶしも兼ねて、同僚達の目を盗んでその書架の山に階段を使って降り立つ。一応、この書架の森は上下二段式になっており、それぞれ階段によってアクセス可能だ。
書架と同じ素材で作られているステンレスの床が硬質な音を響かせるなか、私は書架の森を見渡してみる……一つの書架は縦六段構成になっており、奥行きはかなりの広さがある。
続いて手近にあったファイルを手に取って中を見てみるが、そこに書かれていた内容は、やはり異様なものだった。
高速道路を猛スピードで飛んでいく火の玉を見ただの、首のない人間が住宅街を徘徊していただの……そのような内容だった。
一応、このような事例でも、善良な市民に駆け込まれた交番では調書を取らざるを得ない。だが、調書を取ったところで、その内容を信じる者がいようはずもなく、そのため、裏付け捜査がされることもない。
そういった、普通の警察官なら夜勤の雑談のタネにしかならないような調書は、先程も言ったようにあらゆる部署をたらい回しにされて、この書架に送られてくる。
私はファイルを元に戻し、一息つく……私から言わせれば、これらのファイルに書かれていることをすべて眉唾物にすることは出来ない。
高速道路の火の玉は光の加減でそう見えてしまっただけかもしれないし、首のない人間は誰かが面白半分にやったイタズラかもしれない。そのようなことを実際に検証し、推理し、証拠を集めて事件の解決を図るのが、本来のオモイカネ機関の役割である。
しかし、昨今はそのような、普通の警察官なら相手にしないような事件が、私達オモイカネ機関の周りで頻発しているように思える。
何事もなければいいが……私はそのように自分に言い聞かせると、職場へ戻るための階段を上って自分のデスクの席に着いた。ふと時計を見ると、ちょうど退勤にはいい時間だった。
「先輩、自分はそろそろ帰宅しようと思うのですが、先輩はどうされますか?」
小さなデスクにその体を埋める大倉刑事も、鳴海刑事の方を見ながらそのように言った。その手には、すでにヨレヨレの通勤カバンが握りしめられている。
「そうですね。僕もあがります」
そういって、鳴海刑事は手際よく帰宅の準備を終えて席を立つ。
「神牙さんはどうしますか?」
私の答えは決まっている……と言わんばかりに、私はすでに帰宅の準備を終えていた。
「それでしたら、鬼島警部は……ん?」
いつものようにソファに寝転がっている鬼島警部に声をかけた大倉刑事は、そのゴツゴツとした岩のような顔面をシワだらけにして、鬼島警部のいるソファに近づいた。
「鬼島警部?」
「……あ?」
「だ、大丈夫でありますかっ!? ひどく顔色が悪いようですが?」
大倉刑事のその言葉に、私や鳴海刑事は一緒に鬼島警部のいるソファに近づく。
私はソファの背もたれから覗き込むような形で鬼島警部を観察するが、彼女の様子は確かにおかしかった。
普段の憎たらしい笑みは消え失せ、その頬は飢餓状態にあるかのように痩せこけ、その瞳には生気がまったく感じられず、唇は真っ青になっていた。彼女の健康的な身体は、今は見るも無残に痩せている。ハッキリ言って、かなり異常な状態だった。
私がたまらず彼女に気分はどうかと訪ねると、
「……うぁ?……大丈夫だよ……」
と、まったく大丈夫ではない様子で答えた。
「か、神牙……いったい、どうすれば……」
その様子に恐怖してしまったのか、小刻みに巨体を揺らす大倉刑事が私に問いかけてくる。
……正直言って、神明大学附属病院にいるアシュリンに容態を診てもらった方がいいと思う。
私は大倉刑事と鳴海刑事の顔を交互に見つめながら、そう進言した。
「よしっ! さ、警部。立てますか?」
「う~ん……」
鬼島警部が立てるかどうか返答するよりも早く、大倉刑事は鬼島警部を抱えて背負った。
そのまま、私達はアシュリンのいる神明大学附属病院へと向かった。
※
「さっぱり分からんな」
「そ、そんな……」
蛍光灯の明るい光に照らされた室内で、大倉刑事は大きくうなだれた。私も、内心では大倉刑事と同じ気持ちである。
神明大学付属病院に到着した我々は、そのままアシュリンの元へ向かったのだが、彼女の専門外らしく、内科の先生に鬼島警部の容態を診てもらった。その結果を、内科の先生から知らされたアシュリンから教えてもらっているのである。
だが、その内容は到底納得のいくものではなかった。鬼島警部は今は病棟で安静状態を保っているそうだが、彼女の体調の悪化や異様に痩せてしまった原因は不明とのことだった。
「その先生も私も、最初は彼女の容態を診て拒食症を疑ったのだが、内視鏡検査の結果、彼女の胃には大量の食物があるのが判明した。それこそ、大食い大会に出場したのかと思うほどの大量の食物がな。だからこそ、なぜ彼女があのような状態になっているのか……私にはさっぱり分からん。最初は拒食症の疑いを隠すために、あれほどの量の食事をしたと考えていたのだが……」
「でも……鬼島警部は、昨日まではいつも通り元気な様子でしたよ?」
「それは、あのような痩せた状態ではなく……という意味かな?」
「えぇ、そうです。鬼島警部は元々痩せ型でしたが、あそこまでは……」
鳴海刑事がそのように言うと、アシュリンは自身のデスクに置いてあったマグカップを手に取り、コーヒーを苦々しく一杯口にした……そんなに苦いなら、砂糖でも入れたらいいのに、と思う。
「なるほど……それで、今日はどんな様子だった?」
「どうって……大倉さん、知りませんか?」
「い、いえ、自分は今日、退勤を聞くためにあそこで初めて警部の姿を目にしたので……」
「ふむ……ファングはどうだ?」
私も、鬼島警部の姿を今日見たのは、あの時が初めてであると証言した。
「ふむ……ちなみに、昨日最後に彼女の姿を見たのはいつ頃だった?」
まるで王道の推理小説に出てくる探偵のような仕草で、アシュリン探偵の尋問が始まっている。
「自分は……昨日は、今日と同じ時間に退勤の知らせをしたのが最後です」
「僕も同じです」
私は、昨日の午後六時頃、鬼島警部と一緒に職場を後にし、警視庁の正面玄関の前で別れたのが最後だと証言した……まるで、ミステリー小説に出てくる容疑者の一人のように……。
「ということは、彼女があのような状態になってしまったのは、昨日の午後六時過ぎから今日の午後五時まで間、ということになるな」
「となりますと……怪しいのは神牙ということにっ!?」
「いや、それはないだろう」
私が大倉刑事の股間を蹴り上げるよりも早く、アシュリンが弁護してくれた。
「そもそも、ファングがどのような方法で彼女をあのような状態に追い込んだというのだ?」
「それは、その……神牙なら、妖術や魔術の類で――」
「私に喧嘩を売っているのか、君は?」
「いえっ!! 決してそのようなことは――」
その後は大倉刑事の暑苦しく、うるさい自己弁護の声にかき消され、なぜ鬼島警部があのような状態になってしまったのかは謎のままとなってしまった。
※
翌日、私は重苦しい気持ちで職場に通じる鉄製の扉を開けた。あれから、アシュリンには鬼島警部の容態が急変したら知らせるように伝えておいたが、連絡がないということは、容態が安定していると解釈していいのだろうか?……どうか、そうあってほしい。
私は暗い気持ちを押し殺して、すでに出勤していた鳴海刑事と大倉刑事の二人に向かって朝の挨拶をする。
「あ……」
「か、神牙……」
だが、二人から返ってきたのは、そのような言葉にならない声だった。
私が二人の異変を察知して思わず職場を見渡した結果、その一点……ソファの近くに信じがたい光景を目撃した。
「おっ!? オッス、神牙っ! 元気だったかっ!?」
……それを聞きたいのは、我々の方である……そう、ハッキリと彼女に言ってやりたかったが、出来なかった。その光景に、私の心が圧倒されてしまったために……。
そこには、いつもと変わらぬ姿の鬼島警部が立っていた。
※
「いや~っ! 昨日は悪かったな、世話になっちまってっ! あんまりよく覚えてねぇんだけど、アンタら、アタシの面倒見てくれたんだってっ!?」
「え、えぇ、そうですが……」
「ホント、失敗かけて悪かったな。今日、目が覚めたら病院のベッドの上でよ。まだ気分が少し悪かったんだけど、朝飯食ったらすっかり良くなっちまったぜ、なははっ!」
……やはり、いつもの鬼島警部である。
あれから数時間以上、彼女を観察しているが、ソファに寝そべったまま彼女は仕事をすることもなく、ただただ、鳴海刑事と大倉刑事、時折私に向かって自身の体調のことを話してくる。そろそろ退勤の時間だというのに……。
案の定、終業時間を知らせるチャイムが鳴った後、鬼島警部はソファから跳ね起きた。
「おっ!? 退勤の時間だ、じゃあなっ!」
私はそんな彼女を、少し声を張り上げて静止する。
「な、なんだよ?……仕事は明日でもいいだろ?」
私は声を震わせて意外そうにこちらを見る鬼島警部に対して、今夜は全員で鬼島警部の家に寄ると伝えた。
「はっ!?」
「ど、どういうことだ、神牙っ!?」
「そ、そうですよっ!」
私は説明を求めるために詰め寄ろうとする鳴海刑事と大倉刑事のことをひとまず無視し、鬼島警部に対して、一昨日、つまり警視庁正面玄関の前で私と別れてから体調が悪くなるまで、どこかに出かけたのか訊ねた。
「いや、まっすぐ家に帰ったぜ?」
やはり……私の思った通りだ。
私の考えが正しければ、あの日、私と別れた鬼島警部が寄り道をしていなかった場合、彼女があの異様な状態になった原因は、彼女の自宅にあるのではないかと考えていた。
無論、彼女がその前にどこか別の場所にいたのなら話は別だが、その可能性はたった今、本人が否定して見せた。よって今夜、私はオモイカネ機関のメンバーと共に鬼島警部の自宅に向かい、彼女の体調不良の原因調査並びに鬼島警部の身辺警護をすることに決めた。
私はその考えを、三人に包み隠さず打ち明けた。
「な、なるほど……そういうことだったのか」
「確かに、その可能性はありますね……」
「ま、確かに言われてみれば、そうかもな。アタシはそれでいいぜ」
よかった……三人はどうやらその気になってくれたらしい。
かくして、我々は職場を退勤時刻ちょうどに後にして、鬼島警部の自宅へと向かった。
※
その後、私と鬼島警部は私の自家用車、大倉刑事と鳴海刑事は大倉刑事の自家用車に乗り込み、彼女の案内で小さなアパートが立ち並ぶ住宅街の奥に来た。
私の目の前には、小さな二階建ての木造アパートが、いつの間にか降っていた雨に濡れてひっそりと建っている。薄汚れた看板に書かれた文字はかろうじて読むことができ、そこには『涼風荘』と書かれていた。
「ここだぜっ!」
雨が降りしきるなか、車を降りた鬼島警部は、まるで自身の住まう城を誇示するかのように右手でアパートを示して見せた。
そして、私達は鬼島警部を先頭に、錆びついた階段を上がってすぐの、彼女の部屋へと上がり込む。
玄関で靴を脱いでリビングとなる畳が敷かれた部屋に通されるが……なんというか、鬼島警部には申し訳ないが、この部屋は狭いうえにあまりにも生活感がありすぎて気分が悪い。というか、そばに置いてあるカップラーメンの残骸から漂ってくるなにがしかの臭いで、本当に不快な気分になる。
他にも、山積みになった競馬新聞や灰皿にうずたかく積もったタバコの山、いつの時の物とも知れぬ洗面台の洗っていない食器類……これが、今の独身女性の部屋だというのか?
……申し訳ないが、この部屋に長居したいとは思わない……言い出しっぺの私でさえそう思うのだから、大倉刑事や鳴海刑事もさぞ大変な思いをしているだろう。
私はキッチン周辺に出来たゴミの山――あるいはゴミの山に出来たキッチン――にいる鬼島警部に目をやりながら、二人の様子を見てみる。
「うぷっ……」
「大倉さん……大丈夫ですか?」
……案の定、そのようなやり取りを二人が小声でしているのが見えた。
大倉刑事は、怪談や幽霊の類はおろか、不潔な環境も受け付けないというのだろうか?……そんなナリをしてるのに?
とりあえず、一応上司らしい行動はとっておかなければいけない。私は大倉刑事に、大丈夫かと声をかけた。
「す、すまん、ちょっとお手洗いに……」
私は鬼島警部に、トイレはどこかと訪ねた。
「あ? あぁ、ここのトイレは共同だぜ? 部屋を出て左の突き当りにあるよ」
「で、では、自分はちょっと失礼して……」
そう言って、大倉刑事はよろよろとした足取りで玄関へ向かう。といっても、この部屋の狭さで大倉刑事の体格ならば、玄関まで大股で二、三歩といったところだ。
「っ!?」
……びっくりした。玄関の方から突然、何かが割れる音がしたので、慌てて振り返る。
「……」
そこには、蒼白な顔色を浮かべた大倉刑事が床に尻もちをつき、周辺には割れた鏡の破片が散らばっていた。
私と鳴海刑事はすぐさま大倉刑事の元に駆け寄り、容態を確かめる。
「大倉さん、大丈夫ですかっ!?」
「だ、大丈夫であります……申し訳ありません、ちょっとふらっときたもので……手をつこうと思ったら鏡が……」
私はこちらの方を見て立ち尽くしていた鬼島警部に、鏡の後始末を命じた。
「お、おう、分かった」
彼女は少し戸惑った様子でキッチンに置いてあったチリ取りとホウキを手に取り、大倉刑事の周辺に散らばった鏡の破片を掃除していく。
私と鳴海刑事も、細かい破片などをキッチンから拝借した雑巾などで片付け、近くに置いてあったペーパー袋に破片を入れていく。
その間も大倉刑事は立ち上がろうともせず、空中を凝視していた。
「はぁ……終わった、終わった。おい、大倉。大丈夫か?」
鬼島警部がそのように声をかけるが、大倉刑事からは一向に返事がない。ただ、ジッと壁側を見つめるだけだった。
我々も彼の視線の先が気になり、思わずそちらの方に目を向ける。そこは鏡があったと思われる位置で、鏡がはめ込まれていた場所は、壁がむき出しになっていた。
「なんだ、これ……?」
私は、そう呟いた鬼島警部と同じ気持ちになった。
最初はただの壁の染みかと思ったのだが、よく見てみると違う。木製の壁に直接描かれた絵のようだ。色味はなく、暗褐色の絵具一色で描かれた、不気味な絵……描かれているのは女性だろうか?
私は絵画の事には詳しくないが、一色しか使っていない割には、かなり精密に描かれているように感じる。どうやら大倉刑事は、この絵を凝視していたようだ。
私が再度大倉刑事に無事を確認すると、
「す、すまん、自分はちょっとヤボ用を思い出して……先に車に戻るっ!」
……こうして、大倉刑事は先程の体調不良など嘘のように俊敏な動作で鬼島警部の部屋を後にした。
「……どうしたんだ、あいつ?」
「さぁ……?」
あとに残された私達は一旦大倉刑事のことを忘れ、目の前の絵に意識を集中させる。
……よく見てみれば、この絵の背景となっている古くなって黄ばんだ壁と共に、だいぶ劣化しているように見える。この暗褐色も、おそらくは劣化によってこのようになったのだろう。
私はその意見を鳴海刑事と鬼島警部に伝えた。鳴海刑事は私の横から絵をジッと見つめて、
「確かに……そう言われればそうですね」
「クソッ! 気味悪りぃな……いつからこんな絵があったんだか……」
私は鬼島警部に、この部屋にはいつからいるのか訊ねた。
「たしか……三年前くらいだったかな?」
「だとしたら、それよりも前に、この絵はあることになりますね……」
「まったく……全然、気づかなかったぜ……」
「仕方ないですよ、どうやらこの絵は、鏡の裏にあったみたいですから」
さて、どうしたものか……。正直言って、この絵と鬼島警部の体調不良になんらかの因果関係があるかどうかは疑わしい。ただ、これ以外に鬼島警部のあの異様な体調不良を説明できる証拠は未だに出てきていないわけで……いずれにしても、現在はこの絵を重要な証拠として扱うほかないだろう。私はその旨を二人に伝えた。
「分かりました」
「アタシも。でもよ……結局、アタシ達はどうすればいいんだ? この絵が原因なら、洗い流すなりこそぎ落とすなりした方がいいだろ?」
確かに、彼女の言う通りである。
私は鬼島警部に了解を取って、キッチンに放置してあった手頃なサイズの鍋を洗ってその中をお湯で満たし、よく洗った雑巾をお湯につけて壁に描かれた絵を拭い取ろうとした。
※
「……なぁ、無理っぽいか?」
……あれからしばらく経つが、一向に絵が消える気配はない。何か、特殊な加工技術でも使ってるのか、あるいは怪異の類か……いずれにしても、これ以上やっても無理な気がする。
「はぁ……もういいよ。それより、明日も仕事なんだ。早く寝ようぜ?」
「そうですね……じゃあ、僕はこれで……」
私も、鬼島警部に対してもう帰る旨を伝えた。
「いや、アンタは今日、ここで寝ていけよ」
……はい?
「あ、そうですね。神牙さんなら安心そうですし」
……何とも言えない。いや、全力で断らなければなるまい。
というわけで、私は断固拒否する旨を二人に伝えて、部屋を後にした……自分の後方が若干やかましいが、この際気にしないでおこう。確かに、鬼島警部の身辺警護を思いついたのは私だが、だからといって私が彼女と一緒に生活して彼女を守る必要はない。
私はそのまま階段を下りて、車を停めてある通りに向かった。
雨は未だに止む気配がなく、夜空には星どころか月明かりさえ見えない……まるで、天候が調節できる巨大なドームに詰め込まれたような感覚だ。
少し通りを歩くと、電柱に隠れるようにして大倉刑事の車が停まっているのが見えた。車内は室内灯で照らされ、オレンジ色のぼんやりとした明かりの中で、大倉刑事は運転席でハンドルを抱え込むようにしてアパートをジッと睨みつけていた。
「神牙……」
私が車の後部座席に入ってスーツに付着した水滴を軽く払っていると、大倉刑事の力ない声が聞こえてきた。思わずバックミラー越しに彼の様子を伺うが、その顔は少しやつれているように見える。
私が大倉刑事に体調を訊ねると、
「うむ……問題ない」
という具合に、かなり問題のありそうな顔つきで返答した。
ほどなくして、鳴海刑事がアパートの階段を下りてこちらにやってくる姿が見えた。
「もぅ、ひどいですよ、神牙さんっ! あの後、鬼島警部を説得するの、大変だったんですからねっ!」
助手席に座ってそのように文句を言う鳴海刑事に対して、私は形だけ謝罪した後、彼に大倉刑事が鬼島警部の部屋で起こした出来事を訊ねた。彼ならば、大倉刑事も素直に自身の体調について告白するかもしれない。
「確かに、少し辛そうでしたね。大丈夫ですか、大倉さん?」
「は……その、恐縮であります……」
鳴海刑事に横目で見つめられ、大倉刑事は狭い車内でただでさえ小さくした肩を、ますます小さくして鳴海刑事に頭を下げる。
「一体、どうしたんです? 顔が真っ青でしたよ?」
「いや、その……あ、そうでありますっ! 自分、あのような生活臭漂う空間がどうも苦手でありましてっ! それで少々気分が……」
そう言った後、大倉刑事は黙り込んで再びアパートを睨みつける。
……確かに、鬼島警部のあの部屋の汚さは凄まじかった……多少、無精者の気質がある私でも、あそこまでは部屋を汚したりはしない。もし、大倉刑事に潔癖症の気があるのなら、確かにあの部屋にいて気分が悪くなるのも分かるが……私は知っている。彼の仕事場のデスクは、かなり乱雑な様子だった。散らかった書類の束や文房具の類、果てには有名なコンビニチェーンのレジ袋に入ったままのざるそばなど、あのデスクの荒れ模様は鬼島警部の汚部屋といい勝負だと思う。
それに、かつて牢山村の事件を解決した時には、加藤巡査の自宅リビングの荒れ模様をさほど気にしていない様子だった。ということは、大倉刑事が潔癖症というのは間違いだろう。
そうなると、なおさらあの部屋で気分が悪くなった理由を問いたださなければなるまい。私は大倉刑事に今行った推理を聞かせて、あの部屋で何があったのか訊ねた。
「うぐぉっ!?」
途端、大倉刑事は目を張り裂けそうに見開き、首をぶんぶんと横に振る。ついでに、両手も左右に振る……全力で私の言葉を否定したいようだ。
だが、その広くゴツゴツとした額にじんわりと浮かんだ脂汗が、何よりの証拠だろう。鳴海刑事も、そんな大倉刑事の様子を察してすかさず問いただす。
「やっぱり、何かあったんですね?」
「ち、違うでありますっ! 自分は何も見てないでありますっ!」
『その通りでありますっ! 自分は確かに見たでありますっ!』と受け取れる態度を示しながら、その事実を否定しようとする大倉刑事……そんな彼の姿は、まるでイタズラをとがめられた子供のようで、少し滑稽に思えた。
ハッキリ言って、今まで大倉刑事と事件解決を共にしてきた身としては、彼は常人よりも霊感のようなものが強い方だと思える。そんな彼がこのような反応を見せる時は、たいてい『なにか』あるのだ。
私もそういった類には強い方だ……むしろ、それを専門にしていると言っても過言ではない。
ただ今回、私にはそういった『なにか』の気配や痕跡は感じられなかった。
しかし、鬼島警部のあの謎の体調不良を見れば、嫌でも『なにか』の存在を意識してしまう。となれば、ここは大倉刑事にさらに根掘り葉掘り聞くのが得策だろう。
案の定、大倉刑事は未だ電気の点いている鬼島警部の部屋を睨みつけたまま、固まってしまう……このままでは埒が明かないので、再度大倉刑事に発言を促す。
すると、大倉刑事はバックミラー越しに私を見つめてきた。
「……何か見たというわけではないのだが、どうもあの部屋はその……やたらと息苦しくてな……。それで、しまいには吐き気がどんどん酷くなってきて、お手洗いを借りようと玄関で靴をはこうとした時……」
そこまで言って、大倉刑事は一瞬、鬼島警部の部屋に目をやった後、小さく一回、深呼吸をした。
「そうしたらなんかこう、突き刺すような視線を感じてな……。おかしいなと思っているうちに、ますます具合が悪くなって……それで、恥ずかしいことだが、貧血を起こしてしまったのだ」
「それで鏡を……」
「申し訳ありませんっ! 大倉源三、一生の不覚でありますっ!」
隣にいる鳴海刑事のボソッとしたつぶやきに、大倉刑事は全力で頭を下げる……私にも、それぐらいの敬意を示してほしい。
「いえ……それはそうと、大倉さんの感じた視線というのは、僕らや鬼島警部のものじゃないんですか?」
「いえ、違うであります。こう、左手の方から……」
そう言って、大倉刑事は左手を上下させて『このあたり』と指し示す。それはちょうど、大倉刑事が割った鏡がはめ込まれていたあたりだ。だが、視線を感じようにも、そこには誰もいなかったはず……大倉刑事もそのことを悟ってか、中途半端に片手を上げたまま、バックミラー越しに困り顔で私に助けを求めてくる。
私は彼に、鏡から視線を感じたのかとたずねた。
「……と、いうことになっちゃいますね」
「……ですな……」
私の問いに、二人共神妙な面持ちで頷く……が、どこか違和感のある様子だった。
私はさらに踏み込んで、鏡の奥に隠されていた絵から視線を感じたのかと質問した。
『……』
……二人共、その沈黙は肯定の返事と受け取って良いのだろうか?
私がしばらく黙って様子を見ていると、大倉刑事が隣に座る鳴海刑事の方を見た。
「……先輩はどう思われますか?」
「……たぶん、そうだと思います」
鳴海刑事がそう答えると、大倉刑事はハンドルから両手を離してスーツの胸ポケットに手を突っ込む。
「実は……あの時は気分が悪くて、立っているのもやっとの状態だったであります。ですが、ここで倒れるわけにもいかんと、何かに掴まろうとしてあの鏡を壊してしまったのでありますが……」
そう言いながら、大倉刑事はスーツの胸ポケットから何かを取り出した。
「あの鏡の裏から、こんなものが……」
「これは……?」
大倉刑事が鳴海刑事に胸ポケットから取り出した物を渡すので、私も後部座席から身を乗り出し、二人の間に割り込むようにして鳴海刑事の手元に視線を向ける。
「破れてしまったでありますが、おそらく御札ではないかと……」
「……そうみたいですね」
鳴海刑事の手元には、紙切れのような物が握られている。確かに、ここから見るだけでもしっかりとした和紙で作られているのと、その表面に黒々とした墨で何か書かれているのが分かる。御札で間違いないだろう。ただ、残念ながらその表面に書かれている漢字は、私には読めない。
「なんでこんなものが、鏡の裏に……?」
「それは自分にも分からないでありますが、鏡の裏から出てきたということは、あの絵と鏡の間に挟まっていたのではないかと……」
「あぁ、あの不気味な……」
二人のその会話を聞いて、私の脳裏にあの異様な絵画の光景がフラッシュバックのように蘇ってくる。
「あの壁の……先輩には何に見えたでありますか?」
「それは、まぁ……女性の姿に見えましたね」
「やはり……自分の目の錯覚でそう見えただけかと思ったのでありますが……やはりあれは、女を描いた絵なのでありますね」
大倉刑事はそう言うと、自分を納得させるように何度も頷く。
私も鳴海刑事や大倉刑事と同じく、あの壁には女性の姿を描いた絵だと思う。ただ、なぜその絵が鏡で隠され、さらには御札まで張り込まれていたのか……その点については、まったく見当もつかない。
「おい、神牙」
唐突に大倉刑事に呼ばれ、思わず無意識にそちらの方を向いてしまう。
「その……自分は幽霊だの怨霊だのという言葉は一切信じない性質だが……鬼島警部の体調不良の原因は、あの絵にあるんじゃないか?」
……思いもよらぬ大倉刑事の問いに、ぽかんとしてしまった。
だが、彼はふざけてそのようなことを言う人間ではないし、私を見つめるその瞳は真剣そのもののように思えた。
「決して何かを見たというわけではないが……やはり、あの部屋はどうもおかしい……」
そう言って、私の返答を待たずに大倉刑事は再び鬼島警部の部屋を見つめた。
私も鳴海刑事も、彼のその仕草を見て、鬼島警部の部屋に目を向ける……部屋の明かりは点いているが、カーテンが閉まっているせいで中の様子は分からない。
だが、周囲の部屋は暗く、アパートの中でたった一つ明かりの点いたあの部屋は、闇夜の海に浮かんだ小舟のように頼りなく、今にもその闇に飲み込まれてしまいそうに思えた。
私は二人に、今日は鬼島警部の部屋を見張る旨を伝えた。
「うむ! 自分は賛成であるっ!」
「そうですね。何かあってからでは遅いですしっ!」
……毎度思うことだが、この二人は人の命がかかっているとなると、見違えるようにたくましくなるな……まぁ、それが彼らの取り柄と思えば、非常に誇らしい部下を持つ私は、大変幸せ者である。
そして、私は二人の抗議の声を無視しつつ、後部座席で眠りについた。