飯島佳代子編 狩人のルール ~隠遁生活~
「ふぅ……今日はこんなものでしょ」
自宅の壁際にうず高く積まれた薪の山を見ると、今日も一日頑張ったと思える。
初めてこの生活を送ることになった時は、この先やっていけるだろうかと不安になったが、どうにかなっている。
むしろ、都会で暮らしていた時より自分に素直になれた分、今の暮らしの方が居心地が良い……とはいえ、やはり不便さを感じることもある。特に火を起こす時などは、薪をくべてもなかなか燃えないから時間がかかってしまうのだ。
「でも、まぁ……こういう生活も良いよね」
都会では仕事に追われて自分の時間がほとんど取れなかったが、今は好きなだけ本を読むことが出来るし、時には自分で料理をすることも出来る。それに何より、夜には暖かいベッドでぐっすり眠ることだって出来るのだ。
「んーっ! 今日もいい天気ねっ!」
大きく伸びをしながら空を見上げると、そこには雲一つ無い青空が広がっていた。私はその眩しさに目を細めながら、もう一度深く深呼吸をした。すると、森の木々や土が混ざったような匂いが胸いっぱいに広がる。
――あぁ、なんていい気分なんだろう……このままお昼寝でもしたいくらい……そう思った時だった。
「ん?」
不意に誰かに見られている気がして振り返ると、少し離れた場所にある木の陰から何かがちらりと見えた……よく見るとそれは人間のような姿形をしているようだったが、ここからだと逆光になっていて誰なのかまではわからない。しかし、その姿にはどこか見覚えがあった。
(あれって確か……)
そう思いかけたところでハッとする。
(いや……そんなはずないじゃない……だってあの人はもう……いないんだものっ!!)
慌てて頭を振って嫌なことを振り払う――だが一度浮かび上がった考えというのは中々消えてくれないものらしい。私はじっとその人物らしき影の様子を窺っていたのだが、どうにも気になって仕方がない。
(やっぱりそうだわ……絶対に間違いないっ!)
何故なら、私の視線に気付いたのかその人物は慌てた様子でその場を走り去って行ったからだ。
「待って!!」
考えるよりも先に身体が動いていた。
私は急いで立ち上がると、その後ろ姿を必死に追いかける。しばらく走るとやがて森の奥へと入り込んでいく人影を見つけることが出来た。
(よかった! まだ間に合うかもしれないっ!!)
とにかく一刻も早く捕まえなければという気持ちだけが先行していたせいで、この時の私は冷静さを欠き過ぎていたようだ。そしてそのまま勢いに任せて木の間を縫うように進んでいくと、あっと言う間に行き止まりになっていたことに気付かなかった。
「えっ、行きどまりっ!?」
目の前に立ち塞がる壁を見て愕然とする。
おかしいと思いつつ辺りをキョロキョロと見回すが、どこから見てもただの森にしか見えない。そもそもどうしてこんな場所に来てしまったのかという疑問さえ湧いて来る。
「一体どこに行っちゃったのよ……」
まさかここまで来て見失うとは思わなかった。
しかも、この先は崖になっているようで下を覗き込むだけでも危ない感じがする。こんな時にスマホがあれば位置情報からすぐに探し出すこともできるのにと思うが、今更嘆いてもしょうがないことだ。
(落ち着くのよ……とりあえず来た道を戻ってみましょう)
踵を返そうとしたその時だった。
突然背後に大きな物音が聞こえたかと思った瞬間、凄まじい突風が吹き荒れた。まるで台風の目の中にいるかのように周囲の物が宙に舞い上がる。
「きゃああああ!!!」
あまりの強風に立っていることも出来ず思わずその場にしゃがみこむと、今度は上からバキバキッと枝の折れる音と共に何かが落ちてくる気配を感じた。私は咄嵯に身を低くしながら頭上を見上げたが、その時には既に手遅れだった。
――耳が痛くなるほどの轟音を響かせながら大木が地面に落下した衝撃により地面が激しく揺れ動く。パラパラと土埃や小石が降り注いでくる中、私は恐る恐る顔を上げた。
「……嘘でしょう」
さっきまでそこにあったはずの道は見事に崩れ去り、遥か下方に見える森に向かって大きな亀裂が入っていた。そして、運の悪いことにその場所は私が目指していた場所でもあったのだ。
(そんな……これじゃあ……)
さすがにここまで落ちたら無事では済まないだろうと絶望感に打ちひしがれていると、ふと足元に落ちている物に目が留まった。それは誰かの落とし物なのか小さなポーチのようなものだったが、よく見ると革製のベルト部分にはペンダントのような装飾が施されている。
(これは……あの人の?)
そう思うと同時に、さっき見た後ろ姿が脳裏に浮かんでくる。
「……」
一瞬迷ったが、ここで放っておくわけにもいかない。
私は意を決してそれを拾い上げると、急いで元来た道を引き返していった。
※
「はぁ、はぁ……やっと見つけた!」
森の中を走り続けてようやく先程の人物の姿を見つけた時には、全身汗だくになっていた。だが、それも無理は無いだろう。なにしろあれからずっと走り続けていたのだから。
(だけど、何とか追いついたわ……)
私は呼吸を整えようと深呼吸を繰り返した後、改めて相手の様子を窺った。
だが……よく見てみると、その人物はすでに私が知っている姿形をしていなかった。
そして、その人物は私が今はあまり会いたくはない相手だった。
「お久しぶりね」
「……ええ」
名前も知らない、どこに住んでいるのかもしれない……そんな得体のしれない存在であるこの女性は、今まで私を何度となく助けてくれたし、神牙さんにも会わせてくれた。実際問題、今もこうして私が生きていられるのは、この女性のおかげと言ってもいい。
しかし……いや、だからこそ、あまりこの人とは会いたくない。自分の運命がこの目の前の女性に握られていると思うと、胸糞悪くなるからだ。
私が彼女と手短に用件を済まそうと思って口を開くと、彼女はそれよりも先に話始めた。
「さっきはごめんなさい。質の悪い存在だったから、思わず力を使い過ぎてしまって……」
その言葉を聞いて、私の脳裏にあの人の後姿が思い浮かぶ。彼女はそのことを察知したのだろう。先回りするように言った。
「あ、誤解しないでね? ハッキリ言わせてもらうけれど、あなたのお父さんはすでに亡くなっているわ。それは間違いない」
「……そう」
はらわたが煮えくり返るような思いだったが、彼女としては私の機嫌を損ねないように言ったのだろう。完全に逆効果だ。
私はいつの間にか上着のポケットに入れていたポーチを強く握りしめていた……そうすることで、父の存在を身近に感じられるような気がしたから……。
「これからも、あなたの周りに巣くうあの世の存在は私がなんとかする。あなたはいつも通りの生活を送って構わない」
「……ありがたいわね」
それは本心だった……神牙さんとの接点が消えた今、無闇に危険な行動を起こすわけにはいかない。私は、自分がこの国で全国的な指名手配犯であるという事実をしっかりと認識している。
しかも、どういうわけだかこの逃亡生活を送るようになってから彼女が言うような『あの世の存在』とやらに目をつけられてしまったらしく、予断を許さない状況が続いている。
ふと、彼女がそのような存在を私にけしかけているのでは、と考えるが、証拠がない以上、疑っても疲れるだけだ。
「それじゃ……もう行くわ」
「ええ、気をつけて」
――私がそう言って瞬きをした時には、すでに女性の姿は消えていた。
(……さてと……)
とりあえず朝から嫌な気分にさせられたところで、これからもしばらくこの場所で生活を営んでいくことに変わりはない……ということで、麓の村まで買い出しに行かなければいけない。
幸い、この辺りの山地はすでに慣れ親しんでおり、すぐに自宅に帰ることが出来た。買い出しの準備を終えて、自転車で家を後にし、この場所にたどり着く唯一の人の手が入った緩やかな下り坂を下っていく。
今の私の状況からして、車などを正規の手段で購入することは出来ない。かといって、何か非正規のルートを持っているわけでもないので、この生活を送ってからしばらくの間は、移動手段は徒歩だけだった。
この自転車は、そんなある日にこの村の近くにある茂みの中で偶然に見つけた代物だ。最初は使い物にならなかったが、街のホームセンターで色々と部品や工具を買って修理したら、今では手放すことのできない移動手段となっている。
村と私の家を繋ぐ道路まで出ると、私は周囲を警戒しながら右に曲がって村の中心部までペダルをこいだ。この辺りはあまり人通りはないが、万が一と言う事もあるので、常に警戒は怠らないようにしている。
(それにしても……)
私はふと思った……神牙さんの事を……彼は今頃どうしていることだろうか……彼のことだから、きっと元気にしているに違いない……そんな風に思う一方で、彼がいない事で寂しさを感じている自分に腹が立つ。
(何を考えてるのよ、私はっ!)
頭を振って余計な考えを吹き飛ばすと、私は再び周囲に視線を配り、油断なく進み続けた。
「……」
しかし、その道中では特に怪しい気配を感じることはなく、いつも通りの平和な時間が過ぎていった。
何気なしに空を見上げると、太陽の位置がだいぶ高くなっていたことに気が付き、もうお昼時になっている事に気づく。
今日は何を作ろうか?……いや、そろそろ食材を買い足さないといけないわね……。今日の夕食と明日のお弁当用の材料を買うついでに、買い物をしていこう。
やがて村の出入り口を通り、そのまま中心部まで行くと、この寂れた村で唯一活気のあるエリアとなる商店街にたどり着く。
商店街と言っても、ほとんどは家屋と一体となった自営業者の集まりのようなものだ。店主やその家族達は、今やほとんどが顔なじみである。
私は、そのうちの二軒に立ち寄ることにした。米屋と八百屋である。米屋は、私がやってきた村の出入り口からほど近い場所にあり、八百屋は同じ通りの中心付近に位置している。
私が自転車で米屋の前に到着すると、さっそく商店の中から声が聞こえてきた。
「あら、神牙さん。こんにちわ」
「こんにちわ。いつも通りお米、もらえますか?」
「ええ、ちょっと待ってね」
そう言って、手際よく袋に精米を詰め込んでいく女性――名前は忘れちゃったけど、彼女にはとても良くしてもらっている。たまに消費期限ギリギリの米なんかを譲ってもらっている。
私が米を受け取るのを待っていると、後ろで車の音がした。
(あ……)
思わず振り返ると、そこには一台のパトカーが見えた――今まさに、この商店街を通り抜けようとしている。
私は咄嗟に、なんでもない様子を装った。だが、その努力も空しく、パトカーは米屋のすぐ先で止まった。
「こんにちはー」
中から警察官が出てくるのを見てもうダメかと思ったが、それは杞憂だった。
現れたのは、最近この村にやってきた若い駐在警官だった。もちろん、彼は私の正体に気づいてはいない。もし気付いていたら、とっくの昔に捕まっていただろう。
一度だけ、この村の偵察がてらに駐在所を訪れたことがあるが、駐在所の連絡板には昭和後期か平成初期の指名手配犯ばかりで、私の顔写真や名前は載っていなかった。
その後も何度か偵察しているが、一向にそれらの手配書が更新される気配はない……こちらとしてはありがたい限りだ。
「あら、お巡りさん。何か買っていきます?」
「あ、いや、パトロールの帰りなので。それより、家の戸締りはしっかりしてくださいね」
警官がそう言うと、米屋のおばちゃんの顔から笑みが消えた。
「……分かっていますよ」
「ならいいですが。それじゃあ、また何かあったらお願いしますね」
それだけ言い残して、警官はパトカーに乗り込んでその場を後にしていった。
(…………)
私はその様子を無言のまま見つめていた。
この平穏な村で、わざわざ戸締りを気にする必要なんてあるのだろうか?……その理由としては、せいぜい野生動物の被害に遭わないようにしか考えられないけれど……だとしたら、おばちゃんの顔から笑みが消えた理由が分からない。そこまで深刻に考えるようなことではないのだから……。
「はい、どうぞ」
そんなことを考えていると、いつの間にか大量の米が入れられた袋を、おばちゃんが手渡してくる。
「あ、ありがとうございます。それじゃ、これで」
「はい千円ね。これおつり」
私としては、笑みが消えた理由を本人に聞きたかったが、その思いを振り払っておつりを受け取る。
「どうも」
良くしてもらっているところ悪いが、手早く会話を打ち切って袋を自転車のカゴに入れ、そのまま自転車を押して八百屋へ向かう。
八百屋の前に着き、店主に声をかける。
「こんにちわ」
「おう、神牙さんっ! 今日もいい野菜が入ったぜ!」
威勢の良い声で出迎えてくれたのは、恰幅が良く豪快な笑顔を浮かべた男性――名前は知らないけど、いつも新鮮な野菜を売ってくれる人だ。
「本当ですか? 今日は何があります?」
私は少しだけ嬉しくなりながら、店の奥へ入っていくと、彼はいくつかの品物を指さしながら説明してくれた。
「今日はこの大根とニンジンがおすすめだよっ! あと、こっちにあるのはナスかな? それと……」
「どれも美味しそうですね。今日はこれにしようかしら」
「おっ、どれにするんだい?」
「えっと……このジャガイモとタマネギにしましょうかね。後は、大根とニンジンもください」
「あいよっ!!」
威勢良く返事をするなり、彼はそれらの品物にビニール袋を手早くかぶせて手渡してくる。
私がお金を手渡そうとすると、彼は腰に巻いたバッグに目を向けてさっきまでの表情を一変させ、バツの悪い顔つきで『ちょっと待っててくれ』と言って店の奥に入っていった。
私はそれを微笑ましく眺めていたが、ふと背後から視線を感じて振り向く――するとそこには、一人の女の子がいた。年齢は小学校高学年くらいだろうか?
彼女は、私の顔をジッと見つめたまま動かない。
「ん?どうかしたの?」
私が話しかけても反応せず、ただじっと私を見据える少女。
「あのー」
「……」
再度呼びかけるが、それでもまだ私を凝視している。
(参ったわね……)
私は内心ため息を吐きつつ、今度は彼女の目線までしゃがみ込んでみる。
「あなたの名前は何ていうの?」
「―――」
だが、やはり何も言わない。ただひたすらに、私を見ているだけだ。
その様子に、私は諦めて立ち上がる。
(……仕方ないか)
「――お主、だいぶ業が深いの」
「えっ!?」
突然、おかっぱ頭の女の子はニヤッと笑って口を開く……その見た目とは明らかにギャップがある年老いた口調にも驚いたが、私が一番驚いたのはその内容だ。
業が深い……そのまま言葉を受け止めるのなら、この子は私の正体に感づいていると言うことになるけれど……。
「お待たせ、神牙さんっ! 悪いな、手持ちがつり銭が無くってよ!」
「っ!?」
いつの間に戻ってきたのか、背後でおっちゃんの声が聞こえた。
私は慌てて表情を取り繕い、再びお金を手渡す。
「あ、村長」
おっちゃんのその声につられて、彼からつり銭を受け取った私はそのまま振り返った。
「どうも」
そこには、一人の老人がいた。だが、さっき私が見かけた女の子の姿はすでにそこにはなかった。
老人は、胸元まで長く伸ばしたアゴヒゲをさすりながら口を開く。
「もう聞いていると思うが……戸締りはしっかりして、充分用心するように……」
「はい、もちろんです」
「じゃ……」
八百屋のおっちゃんから村長と呼ばれた男性は、それだけ言って歩き去っていった。
私も、おっちゃんに礼だけ言ってそそくさとその場を後にする――小規模な村とはいえ、人目に付く場所はなるべく避けたい……特に今は……。
私は自転車を少し早めにこいで家に向かいながら、先ほどの事を考えていた。
(あれは間違いなく、妖怪の類だった……)
私は神牙さんと違ってその道の専門家ではないが、これまでの逃亡生活でそういった類の存在には事欠かなかった。だからこそ分かる。
だが、それだとしたら妙だ。私の正体に気付いたというのならば、なぜ直接何かを仕掛けてこなかったのか……それどころか、こちらの様子をうかがっていたようでもあった。
考えられる理由としては……。
1:気付いていないフリをしている
2:私に対して敵意がない
3:私を試していた
4:そもそも正体が分かっていない
5:単なる勘違い
6:興味本位で観察していた
7:私の事をよく知っている人物
8:私の知らないところで勝手に動いている
9:その他――以上のどれかだろうけど。
1はあり得ない。
2に関しては、今までの付き合いの中でそんな素振りは一度も見せたことはない。
3と4に関してもありえない。
5は、私の事をよく知る人物がこんな田舎にいるとは思えない。
6は、もっとありえない。
7は……正直分からない。
つまり、あの子の正体に関して最も可能性が高いのは、8か9のどちらかということになる……だけど、一体誰が何のために……?
――結局、来た時と同じように、周囲を警戒しつつ家まで戻ってくると、すでに日が暮れていた。自転車から降りて荷物を持った私は、扉に手をかける。
鍵を差し込む前に、一度深呼吸をして気持ちを落ち着けてから、ゆっくりと回す……カチャリと音を立てて開いた玄関を開けて中に入る。
「ただいま」
返事はない。まぁ、当然だ。この家は無人なのだから。
私は靴を脱いで廊下を進み、居間へ向かう。そして、買ってきた食材の入ったビニール袋をテーブルの上に置いて、台所へ――流し台の上には、すでに夕食の準備が整っているようで、というか、朝にある程度準備しておいたので、鍋の中には手つかずのシチューが入っていた。
私は冷蔵庫の中から麦茶を取り出してコップに注ぐと、一気に飲み干した。渇いた喉に冷たい液体が染み渡る感覚に思わず『ぷはー』と息をつくと、少しだけ気分が落ち着く。
「ふぅ……」
私はもう一度大きく深呼吸してから、エプロンを身に着ける。それから手洗いとうがいを済ませて、料理に取りかかった。
トントンと小気味良い包丁の音が鳴り響く部屋の中に漂う香りが、私の鼻孔をくすぐる。
――ぐ~。
するとその時、まるでタイミングを見計らったかのように、私のお腹が鳴った。
「……」
……恥ずかしかったが、誰も聞いているわけでもないし別にいいやと思い直した私は、作業を再開する。
――今日も今日とて、ご飯とみそ汁、残り物の焼き鮭の切り身だ。シチューは明日食べよう。逃亡生活でこれだけの食事にありつけるのだから、まぁ、悪いほうではないだろう。
……いつものように、一人での食事を終える。
この家の前の持ち主はすでに老人ホームに入居しており、親族もいない。しかも、家は老朽化が進んでいるためかこの辺りが田舎であることもあいまって安く手に入った。
はじめはどうなることかと思っていた逃亡生活だが、このままなら意外と何とかなるかもしれない……どういうわけか、妖怪なんかはあの女が退治してくれるし。
食事を終えてついでに洗い物も済ませると、今度は風呂の準備に取り掛かる。ここは、なぜか電気と水道はきているのにガスはきていない。ということで、昔懐かしい釜茹で風呂だ。
いったん外に出て、薪置き場から薪を取って、風呂のかまどに入れてチャッカマンで火を点ける。
風呂場に戻って水を風呂に入れていると、かまど内に火が通ったのか、途中で湯気が立ち込める……手を風呂の中に入れてみるが、今日も良い湯加減だ。最初は、この湯加減を実現するのに苦労したのを覚えている。
あとは、火が消えないうちに体を洗って風呂に入って温まるだけ……それほど悪い気はしない。
風呂から上がってリビングでテレビでも見ようかと思っていたら、タイミングよくチャイムが鳴った。
(誰?)
もし警察だったら……そう思い、私はあらかじめ玄関に置いてあった包丁を見えないように携えながら、ゆっくりと引き戸を開ける――そこには、先ほど会ったばかりの女の子がいた。
「こんばんわ」
――その声を聞いた瞬間、私の背筋に寒気が走った。
「どうして――!?」
私が言い終わる前に、少女はその手に持った何かを振り下ろした――!
「――っ!」
私は咄嵯に身を屈める事でそれをかわすことに成功したが、頭上すれすれをかすめたそれは、床に当たって鈍い音を立てた――直後、私の視界が真っ暗になる。
「くっ!」
私は視界が暗闇に包まれると同時に、持っていた包丁を振り回す。だが、手応えはない……ほんの少し経ってから、視界は元に戻った。
(……いない?)
慌てて少女の姿を捜索するが、玄関付近には彼女の姿はなかった。
いったい何が起こったの?……さっきまでそこにいたはずのあの子はどこに?……なぜ私の目の前から突然消えた?……ただの幻覚?……まさか、これもあの子の能力?……分からないことだらけの中で唯一確かなことは、今私は何者かに襲われているという事。そして、おそらくこの世の存在ではない少女に私が襲われているにも関わらず、あの女は助けに来ないということだ。
私は内心では恐怖に震えながらも、立ち上がって逃げようと試みるが、すぐに足を引っかけられて再び転倒してしまう。
「うくぅ……」
私は痛みに耐えかねて小さくうめき声を上げる。そして次に襲ってくるであろう衝撃に備えて包丁を構えて身を固くしたが、予想に反して追撃はなかった。
私は恐る恐る顔を上げた――そして、息を呑む。月明かりに浮かぶその姿は、間違いなくあの子だ。
しかし、その目は、今まで見たことのないような色をしていた。
――それは、狂気。
「……」
彼女は無言のまま、私に向かって歩いてくる。そしてそのまましゃがみ込むと、おもむろに両手を伸ばしてきた。
「……」
私は短く息を飲む。
私は彼女に捕まった。彼女が何をしようとしているのか、考えただけでも恐ろしいが、今の彼女からはそんなものは微塵も感じられなかった。
――殺される。私は本能的にそう思った。
次の瞬間、彼女の手が私の首元に触れた……かと思うと、今度は胸に触れられて、また頬を撫でられる。
「ぁ……」
私は思わず吐息のような声を漏らした。
私は、抵抗しようと思えばできただろう。だが、できなかった。
私は、怖かったのだ。
私の体は小刻みに震えていた。
私は、何もできないまま、ただされるがままにされていた。
やがて、私の全身をくまなく触り終えた少女が立ち上がるのを見て、ようやく私は我に返った。
――逃げるなら、いまだ。
そう思って私は立ち上がったが、足腰に力が入らずよろめいてしまう。
そんな私を見た少女は、一瞬驚いた顔をして、それから口を開いた。
「――大丈夫かえ?」
……へ? 私は拍子抜けしてしまった。
どうやら、彼女は本当に心配してくれているようだ……この子が、あんなことをするはずがない。
私は、自分が襲われかけたという事を理解した。だが、それでもなお、目の前の少女の事が信用できなくなっていた……私は、包丁を固く握りしめたまま少女に尋ねることにした。
「あなた……一体何者なの?」
すると、少女は少し考えてから、言った。
「わらわは……そうさな、さしずめただの妖怪じゃ」
そう言って、少女はケラケラと笑う。
妖怪、という単語を聞いて、私は改めてこの少女の姿をまじまじと見つめた。
言われてみれば確かにそうだが、とてもじゃないけど信じられない。だって、こんなに可愛い女の子が……私がじっと見ていることに気が付いたのか、少女は恥ずかしそうにしながら言う。
「信じられんか? ま、無理もないわな。じゃが、本当の事だからしょうがなかろう……ところで、お主……思っていた以上に複雑な事情を抱えているようじゃの?」
私は言葉に詰まってしまったが、すぐに答えを見つけた。
「……なんのこと?」
「決まっておろう? お主の過去の事と現在の事じゃよ」
「……」
「ふむ、図星みたいじゃのう」
――見透かされた。
「だったら、何だっていうの?」
「別に何もせんわい。ただ単に興味があっただけじゃ……それとも、何かされた方がよかったか?」
「そういうわけじゃないわ!」
私はムキになって否定した。
「そう怒るでない……ほれ、これを見ろ」
少女はポケットから一枚の写真を取り出した。そこには、幼い日の私と……在りし日の父が写っていた。
「これは……」
「お主の昔の写真じゃ。心当たりがあろう?」
「……それがどうかしたの?」
私がそう聞くと、少女はまた犬歯を見せてニヤッと笑った。
「まぁ、聞け。はじめは神牙の事を思って貴様を始末しようとしたが――」
「待って、神牙さんを知っているの!?」
私が思わず大声を上げても、少女は眉一つ動かさなかった。
「ああ、知っておるぞ。ついでに言うと、奴とは同棲している仲じゃ」
「なっ!?」
ニヤッと笑みを浮かべる少女を見て、私は一瞬我を忘れて少女を包丁で刺しそうになったが、なんとかこらえて深呼吸する。
こいつが、神牙さんと同棲している?……こんな少女が……にわかには信じがたい話だった。
「とにかくお主。神牙に未練があろう? それを断ち切るため、そして奴の重荷を少しでも軽くするためにこうして襲ったわけじゃが、お主と殺しあうなかで事情が変わった。お主もいわば被害者じゃ。そうじゃろう?」
「……」
……黙っていても、この少女には通用しないだろうが、素直に認めるのもしゃくなので結局黙りとおす。少女も特に気にすることなく話し続ける。
「まぁ、そういうわけでお主個人の恨みを晴らそう。お主を殺すかどうかは、その後に決める」
「……言ってくれるじゃない」
「まぁの。それじゃ」
そう言って、少女は外に出て引き戸を締めた。
……彼女の影がすりガラス越しに見えなくなると、私は念のために引き戸を開けて外を確認する……だが、すでに少女の姿はどこにもなかった。
……あの少女、自分の事を妖怪と自称するだけあってただものじゃなかった……なにより、奴は神牙さんの事を知っている。それが本当の事かは今は分からないけれど……今は、彼女相手に下手な行動は出来ないわ。
それよりも……あの女、私があの世の存在と対峙する時は助けると言ったくせに……まぁ、よく考えてみれば、こんな時間にすぐに駆け付けるとも思えない。あいつだって人間……生活サイクルというものがあるでしょうしね。
私は引き戸を締めて再びリビングに戻ったが、また玄関の呼び鈴が鳴った。
(また……)
今度はいったい何者か……そう思いつつ、包丁を片手に隠し持ちながら玄関まで言って引き戸を開ける。
「こんばんは、神牙さん。今、いいかしら?」
「あ、どうも……」
……幸い、現れたのは警察官でも妖怪少女でもあの女でもなく、この村で暮らす近所の奥さんだった。例によって名前は知らない。彼女の表情はどことなく優れない様子に見える。
「あのね……今、村の皆に伝えて回っているんだけれど――」
そこまで言って、奥さんの声のボリュームがワントーン下がる。
「実はね……ここ数日、ウチの村で人が何人か行方不明になっているのよ」
「……え?」
……それは、思いもよらない言葉だった。
この村は、いたって平和そのもの……そうそう人が行方不明になるようなことはない。
「あの……道に迷ったとか、用水路に落ちたとか、そういうことではなくてですか?」
「さぁ……いなくなっているのは、皆子供ばかりから、もしかしたらそうかもしれないけれど……ウチの主人も、他の男衆と一緒になってそういう場所を捜索したんだけど、まったく見つかっていないの。
まぁ、近いうちに回覧板で正式にそのことが知らされると思うけど……神牙さんって、この村でも離れたところに暮らしているじゃない? だから、念のために伝えておこうと思って」
「そんな……ありがとうございます」
私がそう言うと、近所の奥さんは『気を付けてね』と最後に念押しして、旦那さんと思われる運転手が乗った軽トラックに乗り込んで走り去っていった。
車が見えなくなるまで玄関で見送った後、私は一呼吸入れて家の中に戻る。
すでに時刻は夜となり、家の周囲は街灯がないためか闇夜の外套に包まれている。
(人が消える……いい気はしない)
それは、偽らざる本心だった。こうして自分の所にも話が回ってくる以上、行方不明になった者が見つかろうと見つからまいと、警察が介入してくるだろう。この村にいる駐在警官などではなく、街の方に居を構える本格的な警察が……。
そうなってくると、今の生活を続けるのも危うい……ここを潜伏場所に選んだのも、人に見られても通報される心配がないためだ。
それが、どこかの馬鹿の犯行か、あるいは本人の不注意か……いずれにせよ、誰かのせいで終わりを告げるかもしれない。
そう言えば、商店街で買い物をしていた時に警官や村長が戸締りをしっかりするように言っていたのは、そういうことだったのだろうか?
(まったく……)
イラついた気持ちはまったく収まらなかったが、残りの家事を済ませて布団に入り、ある写真を見ると……その気分もいくらかは和らぐ。
なんて言ったって、今の逃亡生活はこの人が原因であると言っても過言ではない。それでもこうして気分が和らぐのは、同時に自分がこの人に恋をしてしまったからだ。
「また、会えるわよね? 神牙さん」
私――飯島佳代子が、人生で唯一恋をした相手、神牙さん……今、どこで何をしているのかしら?
たぶん、今も何かの事件を解決しているのでしょうね。




