怪物と因習 ~複雑な英雄~
「よしっ! では、行こうかっ!」
「はっ! 了解しましたっ!」
翌朝、加山巡査の自宅兼駐在所の前では、大倉刑事と加山巡査が朝っぱらから体育会系の暑苦しいノリでパトカーへ入っていくのが、加山巡査の自宅二階の窓から見えた。
私と鳴海刑事は準備を整えてから、自宅を出てパトカーに乗り込んだ。
加山巡査の自宅にカギを掛けるために彼から鍵を預かろうとしたのだが、『こんな田舎じゃ、自宅の鍵なんて必要ありませんよっ!』と彼に笑われてしまった……人が二人ほど亡くなっているのだが……?
まぁ……細かいことを気にしてもしょうがないので、私は加山巡査にパトカーを発進させるよう命令した。
今朝の朝食の時間に加山巡査にも言ったが、初めは村役場に行くのが良いと思う。
加山巡査によると、あの場所は村のほとんどの情報が集まってるらしい。確かに、このような小さな村で殺人事件が起きた場合、ある程度騒ぎになるだろうし、情報もあの場所に集まりやすいだろう。聞き込みで情報を得るにせよ、村人の中に行方不明者がいないかを聞いて回るにせよ、村役場は格好の穴場というわけだ。
しばらくして私達は村役場に到着し、加山巡査は駐車場の白線内にパトカーをピタリと停車させ、すでに降りていた大倉刑事と共に村役場へ向かった。
私はパトカーから降りると、ほぼ同じタイミングでパトカーから降りて役場へと向かおうとする鳴海刑事を引き留めた。
「ど、どうされたんですか?」
私は鳴海刑事に、大倉刑事と加山巡査だけで聞き込みをした方が、情報を引き出しやすいことを説明した。
「なるほど……確かにそうですね。分かりました、ここで待ちます」
そしてしばらくすると、大倉刑事と加山巡査が役場から出てきた。
ただ、彼らの後ろには一人の初老の男性がついてきていた。
見た目はカッチリとスーツを着こなして黒く染めた髪をオールバックにして固めて銀縁メガネをかけた、絵にかいたような有能な上司に見えるが、そんな彼は眉間にシワを寄せて不機嫌そうな表情をしており、私達の目の前に来るなり口を開いた。
「……ふん、加山の言うことだから付いて来たら……貴様ら、この事件が片付いたらさっさとこの村から出て行ってくれたまえよ?」
「もう……分かってますよ、迫水さん。さ、話して頂けますか?」
迫水……? 確か、第二の殺人があった現場から近い場所にある集落に住んでいる住人達も同じ苗字だった。この男はそこの住民なのだろうか?
私は迫水に対して、他にも同じ苗字を持つ住人はいるか訊ねた。
「……ふん、ここは狭い村だからな……親族や一族同士で寄り集まって暮らしたりするのは普通だよ」
なるほど……続いて私は、第二の殺人があった現場の近くにある集落の出身であるかどうかを訊ねた。
「ああ、そうだ。それがどうした?」
やはり……この見た目からすると、この迫水という男はその一族の中でもかなり地位が高いように思われる。何か知っているかもしれない。
私は彼に対して、ここ最近この村で行方不明になった者はいないか訊ねた。
「……」
が、その質問に即答することはなく、右手を顎に添えて考えている。
しばらくして、迫水は口を開いた。
「……わしの知る限りでは、いない」
……まぁ、信じるかどうかは別として、答えてくれただけでも良しとしよう。
続いて私は、先程迫水が自分で言った言葉……『村から出て行ってくれ』ということの意味を問いただした。
「当然だ。この村は今までのんびりとやってきた。頭のおかしな奴がしでかした殺人で村に注目が集まるのは好かん」
なるほど……マスコミ嫌いなわけか……ひょっとして、第二の殺人現場を発見した老婆も、同じような気持ちで我々に言ったのだろうか?
その真意は不明だが……私は今、迫水が話した内容の中で不審な点を発見した。
それはただ聞いていただけでは分からない事柄だろうが、私にとっては事件の核心に近づけるチャンスだ。
それは、なぜ殺人を犯したのが『頭のおかしな奴』だと分かるのか、だ。
私は思い切って、その事を迫水に直球に質問した。
「あ……」
迫水の隣で、加山巡査があからさまに動転し始める。
彼にとってはいささか私の質問は攻撃的に聞こえたかもしれないが、事件解決の糸口が掴めるなら私は何とも思わない。
「……」
が、肝心の迫水はその質問に答えることはない。何かを考える素振りも見せない。ただジッと、私を睨みつけてくるだけだ。
……これまでにも、自分が気にくわない相手に対してこの手を使ってきたのだろう。
鳴海刑事達はすっかりと縮こまってしまったが、あいにく私はそれ以上に恐ろしい存在達と幾度も命を懸けて戦ってきた。老人の睨み程度ではあまり怯むこともない。
しばらく私達がお互いに向かい合っていると、周りに人が集まり始めてきた。
普段は何もない村の一角で、ちょっとした騒ぎがあれば村人達は『何事か』と野次馬根性を発揮し始めるだろう。
迫水もその数々の視線に気づいたのか、フッと睨みを解いて脱力した。それと同時に私も警戒を解く。
迫水は、静かな声色で話し始めた。
「お前達の探している、村人達を殺めた犯人は……おそらく、仁科にしなだ」
「仁科?」
隣で鳴海刑事が、初めて聞く名に耳を傾ける。
それよりも、私は迫水の発した言葉に少なからず衝撃を受けた……。
本来、この役場には村人で行方不明になった者はいないか聞き込みをするつもりで来たのだが、まさか犯人の名を聞けるとは思わなかったのだ。
もっとも、本当にこの迫水という老人が言うように、仁科という人物が犯人であればの話だが……。
「ああ、今思い出した。あいつの姿だけはここ最近見かけていない。きっと……奴が殺したに違いないっ!」
言葉を紡いでいく中で語気を強める迫水に対し、私は行方不明者に心当たりがないか訊ねた。
……しかし、迫水は急に静かになり、だまってその場を立ち去ろうとした。
「あ、あの――」
「うるさいっ! 私は忙しいんだっ! 犯人の名前は教えたっ! さっさと捕まえて来いっ!」
まるで暴君のような振る舞いで、迫水は村役場へと戻っていった。
私は迫水を追いかける。彼にはまだ、聞いていないことがある。
「あ、神牙さんっ!」
「警視正殿、お待ちをっ!」
「どうしたんだっ!?」
三人の言葉を半ば無視して、私は村役場の中に入って受付を通ろうとする迫水に声をかけた。
「まだ何かあるのかっ!?」
最初に出会った頃の印象とは正反対の憤怒の形相を浮かべ、迫水は私を睨みつけてきた……が、当然こちらも怯むこともないので、彼に近づいてこの村の村長は誰かと訊ねた。
「私が村長の迫水幸太郎さこみずこうたろうだっ! 文句があるのかっ!?」
……文句はないが、驚いた……考えてみれば、もう少し早くこの村の村長と接触しておくべきだったのだが、事件捜査に頭が回り過ぎてその事をまったく気にも留めていなかった。
「ふんっ! 礼儀知らずな奴だっ!」
迫水幸太郎はそう捨て台詞を吐いて、役場の奥にある『村長室』と銘打たれた金属製のプレートが貼り付けられた扉を開けて部屋の中に消えていった。
「ど、どうしたんでありますか、警視正殿? 迫水さん、随分とえらい剣幕でしたが……?」
「まったくだぞ、神牙……」
「そうです、僕達にも説明してください」
後から来た三人に対して、私は一度パトカーに乗ってこの場を離れることを周りに聞こえないように指示した。
その様子を感じ取ってくれたのか、三人はそれ以上は何も言わずにパトカーに乗り込み、役場から離脱することが出来た。
しばらく車道を走り、加山巡査は適当な空き地を見つけるとそこにパトカーを停車させた。
「よくやったぞ、加山っ!」
「お褒めに預かり光栄でありますっ!」
相変わらずのむさ苦しいやり取りを終えて、大倉刑事は私の方を見て口を開いた。
「それで、いったい何が気になっているんだ? 貴様は自分に利が無ければ動くまい?」
……そこまで言われると少し傷つくが、概ね当たっている。
とにかく、私は初めにこの村の村長に接触しておくべきだったことを素直に反省し、迫水幸太郎が言った仁科という人物を捜索する旨を三人に伝えた。
「そ、それは……自分の責であります。自分が物分かりが良ければそんなことには――」
「いやっ! お前はよくやっているぞ、加山っ! 自信を持てっ!」
「うぅ……はいっ! 大倉先輩っ!」
……はぁ……。
私が心の中で溜息をついていると、加山巡査が口を開いた。
「して、大倉先輩っ! これからいかがなさいますかっ!?」
と、目を輝かせながら大倉刑事の方を見た。
よりによって、加山巡査はこの場でもっとも階級の高い私ではなく、大倉刑事に指示を仰いだのだ。
しかし、大倉刑事は腕組みをして唸るばかりなので、私がそれとなく、仁科の自宅に行った方がいいのではないかと提案した。
「お……おおーっ! そうだなっ! よしっ! 次は仁科の自宅に行くぞっ! 住所は分かるかっ!?」
「い、いえ、自分はまったく……そもそも、そんな名前の人物がいたことさえ知りませんでした……」
「なにっ!? 本当かっ!?」
「はっ! この加山、日頃から住民名簿には目を通しておりますので、間違いありませんっ!」
……警察官が日頃からそんなことをしているのはどうかと思うが……いずれにしても、捜査は思いもやらぬ壁に当たってしまった。
日頃から住民名簿に目を通している加山巡査でも知らない村の住人……その名は仁科……その仁科を犯人と決めつける牢山村村長の迫水幸太郎……そして、その仁科の姿は最近見かけなくなった……確かに、かなり気になる。
とはいえ、加山巡査が知らないという以上、村民に聞くのが手っ取り早いだろう。
私がその事を皆に伝えると、加山巡査の顔がパッと明るくなった。
「任せて下さいっ! 精一杯、頑張らせて頂きますっ!」
……聞き込みは大事だが、全力を出し過ぎた余りに犯人逮捕の際に使い物にならないようでは困る。
いずれにせよ、放っておけばまた犠牲者が出かねない。
私達は決意を新たにし、事件の捜査を再開した。
※
私達は村の中心部から少し車を走らせ、目についた家々に片っ端から聞き込みを開始する。
だが、どの家の住民も仁科という住人は知らないと答える始末だ。
「おかしいですね……」
私の隣で、鳴海刑事がそう呟く。私も同感だ。
私達が、迫水幸太郎の言葉を聞き間違えたのだろうか? だとしたらまずい……あの様子では、とても私達と会話をしてもらえそうにない。
私が諦めかけていたその時、ちょうど目の前の家に聞き込みをしていた加山巡査が手を振るのが見えた。
私が何事か聞いても、彼は嬉々とした表情で手招きをするだけだった。
仕方なく私がその家の玄関前まで行くと、その家の中に一人の女の子がいた。
女の子は淡い水色のセーターにクリーム色のスカートを履いており、年齢は九歳ぐらいで髪型は後ろを長髪にしてある。
私がほとほと困り果てていると、女の子は静かに口を開いた。
「……この道をずっと行って、右に曲がって……ずーっと進んで行くんだよ?」
「そうすると、仁科の家にたどり着くそうで……」
加山巡査が、言葉足らずな少女の補佐をする。
私は視線を少女から道に移し、少女に言われた通りにその道を目で追っていく……確かに、あの方面にはまだ行っていない。
私は加山巡査に出発することを伝えて、少女に礼を言って立ち去った。
「待って……」
しかし、少女は立ち去ろうとする私の袖を強く掴んで引き留める。
「……お願い、ママを助けて……」
……え……?
私が言葉の意味を理解しようとしている間に、少女は玄関の引き戸を閉めてしまった。慌てて引き戸を開けるが、すでに少女の姿は消えていた。大声で呼びかけるが、反応はない。
「神牙さん、行きますよっ!?」
空き地に停めておいたパトカーの方から、鳴海刑事が大声で呼びかけてくる。
……私は不思議に思いつつも、彼らが待つパトカーの方まで戻り、後部座席に乗り込んで加山巡査に改めて出発を命令した。
しばらくは崖と深緑、古き良き伝統を携えた家屋を眺めながら旅行気分で車窓からの景色を楽しむ……気を緩める時に張りつめ続けていると、いざという時に身体が動かないからだ。
もっとも、それは私の場合であり、ずっと緊張の糸を張ったまま事件を解決してしまう人もいれば、ただ単に運が悪すぎて殉職してしまう者もいる。その差は紙一重であり、その確率は人の理解を遥かに超えている。
なぜなら、私達の部署で相対する存在がそもそも人の理解を超えた存在であることがしばしばあるからだ。仮に人が相手だったとしても、間違いなく大悪人や狂人の類たぐいがほとんどである。
だからこそ、私はこういった状況下で気を緩めることを怠らない。
大倉刑事には不真面目に映るかもしれないが、それなりの月日をこの部署で過ごしてきた私が編み出してきた、生き残る術すべなのだ。誰の意見も聞くつもりは無い。
しばらく景色を眺め、目を閉じて仮眠をとっていると、パトカーの走る道がアスファルトから未舗装の道路に変わる感触を感じ、やがて車は停まった。
目を開けて車窓の外を眺めると、その子は深い山の中といった様子だった。
私が加山巡査にここが仁科の自宅か訊ねると、
「あの少女の言ったことが正しければ、そうであります」
と返事が返ってきた。
私は再び緊張の糸をピンと張り、パトカーから降りた。
もし……仮にだが、仁科がこの連続殺人の犯人だとすれば、我々に襲い掛かってくる可能性だってなくはないのだ。
すでに人間を二人も殺した者に、人を殺す事の罪悪感など皆無だろう。それは、私も良く理解しているつもりだ……。
私がパトカーを降りると、残りの者達もパトカーから降りて目の前の家を見る。
私達は今、仁科の自宅の前に着いた。
私は周囲を警戒する……仁科の自宅の敷地はアスファルトで整地されていたため、パトカーは往来の邪魔にならないように停車してあった。
ここはだいぶ草木が生い茂っており、昼間だというのに上の樹木が日光を遮って少し薄暗い。正直言うと、少し不気味な印象を受ける。
大倉刑事に関してはすでに不穏な気配を察知したのか、小刻みに震えている。
「せ、先輩? 大丈夫でありますか?」
「だ、大丈夫だっ! 問題ないっ!」
隣で心配してくれた加山巡査に二カッと笑って見せると、大倉刑事は加山巡査と共にぎこちない足取りで自宅の玄関へと向かっていった。
私と鳴海刑事も後から続き、彼らとは距離を置いて対応を見守る。
加山巡査が呼び鈴を鳴らす……だが、仁科が出てくる気配はなく、返事もない。
「う~ん……留守なんですかねぇ」
「どうだろうな……」
そう言って大倉刑事が呼び鈴を鳴らすが、やはり出てくる気配はない。
諦めて帰ろうか……。
私は隣にいる鳴海刑事にそう問いかけたが、彼は私の左側に広がる森林の方を見つめるだけで微動だにしない。
その目はカッと見開かれ、呼吸は不規則になっていた。
……私は恐る恐るそちらを見たが……彼がなぜそのような状態になっていたのかはすぐにわかった。
そこには女性が立っていた……衣服と口元を赤黒く染め上げ、右手に血の滴る斧を持った女性が……そう、その女性はまさしく、我々のすぐ近くにいたのだ……まったく気配を感じさせないまま……。
私が即座に仁科の名前を叫ぶと、女性は一瞬だけビクッと体を震わせて森の方へ逃げて行った!
「あ、神牙さんっ!」
鳴海刑事の声が聞こえるなか、私は全力疾走で女性を追いかける。
動きやすいスニーカー靴を履いてきたのが功を奏したのか、私と女性との距離はみるみるうちに縮まっていく。
時折、肌を切り裂こうとする樹木の葉を気にしながら、私は緩い下り坂となった山林を駆け抜けていく。
女性の方はというと、しばらくはかなり速い速度で逃走していたが、徐々に疲れたのか、逃走経路が緩い下り坂になると足をもつれさせて地面に倒れ、そのまま下り坂を転げ落ちていき、山林の平坦な場所で停止した。
私は急いで彼女の元に駆け寄って身柄を確保しようとしたが、背筋に寒気を感じた……気がついた時には、私は後方に飛び退いていた。
すると、先程まで私の頭があった場所に斧が水平に振るわれる! まさか……疲れたフリをしていたのかっ!?
私は反射的にナイフを取り出し、ガラ空きとなっている女性の両腕を切る。
「ギャッ!」
女性は短く悲鳴を上げ、よろめいた。斧はその手を離れ、地面に落ちる。
私がそのまま女性を押し倒して身柄を確保していると、後ろから鳴海刑事達が到着した。
「だ、大丈夫ですか、神牙さんっ!?」
私は女性から視線を外さずに鳴海刑事に問題ない旨を伝えると、大倉刑事に女性の捕獲を命じた。
「よしっ! 分かったっ!」
「自分も手伝うでありますっ!」
そして、大倉刑事と加山巡査はそれぞれ両側から女性の腕を持って立たせた。
私は皆に、いったん駐在所まで戻るよう命令し、その場を離れた。
※
加山巡査がパトカーを駐在所に隣接している駐車場に停めると、後部座席に座る私と鳴海刑事は、間に座らせた女性に声をかけてパトカーを降りた。
私は女性の両肩を隣に並んで掴みながら歩き、駐在所の中に入って奥の取調室兼休憩所に女性を座らせる。
受付から続く床の一段上の段差を上って畳の上に座った女性はいつの間にか呼吸が荒くなっており、予断を許さない状態だ。
他の者達も、ここからどう手を付けていいのか、分からない様子である。
仕方ないので、私は加山巡査に救急箱を取って来て女性を治療するように命じた。
「は、はいっ!」
相変わらず元気よく返事をした加山巡査は、休憩所の段差を降りて通路の行き止まりに設置されている白いロッカーを開けて中から救急箱を取り出し、再び女性の元へ戻って手早く処置を施した。
「治療、完了いたしましたっ!」
私は加山巡査に礼を言って、女性の治療が施された傷口を見る。
……意外にも、私が切りつけた傷口にはしっかりと包帯が巻きつけられていた。
加山巡査が治療を施す過程も観察していたが、見事の処置である。
そして、私は彼女に名前を訊ねた。
「……」
女性はこちらをジッと見つめて、ゆっくりと口を動かした。
「仁科……祥子です……」
その目はどこか生気の失せた印象を与え、山林で格闘した時とはまるで様子が違う。
再びチラリと彼女の傷口を見たが、衣服に血痕が付着しており、巻いたばかりの包帯にはすで赤いシミがポツリと浮かび上がっていた。
……一度、病院でしっかりと手当てをしてもらった方がいいだろう……傷つけておいてなんだけど……。
気を取り直して、私は仁科祥子にあの森で何をしていたのか質問する。
「……」
が、彼女はその質問を無視してうつむいてしまった。
私が再度質問するが、仮の取調室に沈黙が流れるだけだった。
……この状況をなんとか改善したいけど……どうすれば……。
私がそんなことを考えていると、私から見て仁科祥子の左隣に座っている鳴海刑事が口を開いた。
「あの……仁科さんはこの村のご出身なんですか?」
その言葉に、彼女は鳴海刑事の方向に首を向けた。
「……はい」
これは……一応、我々と会話する気はあるということだろうか?
自分にとって不利な証言はせず、あくまで会話ならしたいという……凶悪でずる賢い犯罪者などはよく使う手だろうが……正直、彼女からはそのような気配は感じられない。
私は思い切って、この村で起きている殺人事件に身に覚えがあるか訊ねた。
「……はい」
「えっ!?」
加山巡査が驚愕の声を上げる。
……まぁ、確かにこうもあっさり自供したら驚くだろう。私も少しだけ驚いている。
「あの……よろしければ、その殺人について詳しく話して頂けませんか?」
鳴海刑事が、丁寧な口調で仁科祥子に懇願する。
一般的な凶悪犯にこのような言動を取れば、かえって危険だろう。
だが、彼がそのような態度に出る理由は理解できる。なにせ、仁科祥子は未だにその全身と口元を血で濡らしているのだから。
「……娘のためです」
仁科祥子は、ポツリとそう言った。
それと同時に肩を震わせ、嗚咽交じりに彼女は語り出す。
「……私は娘を……明美あけみを怪物から守るために、怪物に生贄を捧げているのです……」
……あまりにも突拍子もない証言に、私も含めた面々は黙り込んでします。
それでも彼女は、話す事を止めることはない。
「怪物はあの子の命を狙っています……あの子を怪物から守るためには、迫水家の人間を生贄に捧げなければいけないのです……迫水家の人間を生贄に捧げれば、あの子を怪物から守れるし、他の村人達も平和な生活を送れるんです……」
……どうしたものか……彼女の言っていることがあまりにも現実離れしているが、この事件には人外の存在が関わっているということだろうか?
そのような存在がこの村にいれば、どれほど気配を隠していても私なら気づくと思うのだが……。
私は三人に仁科祥子を見張るように命令して、携帯端末を取り出して『その者』に連絡をとった。
『この事件には怪異が関わっているのか?』
メールを送信すると、『その者』からの返信は案外早く返ってきた。まるで、こちらの動向を監視しているかのようで気味が悪い。
それでも、返信が早くくるのはありがたいことだが……。
『いや、我々が把握している限りでは、怪異の存在は確認できていない』
端末の画面には、そのように表示されていた。ということは、仁科祥子の妄想なのだろうか?
私が思案していると、また返信がきた。
『なぜ、そのようなことを?』
『事件の犯人を確保して事情聴取したところ、そのような証言をした』
『犯人を捕まえたのか?』
『ああ。自供した』
それから間をおいて、再び返信がきた。
『それなら、詳しい事情聴取はこちらに帰ってからにしてくれ』
『なぜ?』
……その問いに答える気はないらしい。数分程経ってから、やっと返信がきた。
『どうしても無理か?』
『なぜ急に下手に出る?』
『別に君に媚びているわけじゃない。ただ、この案件に関わっている者達は君の部署が単独で捜査している事件を解決することを望んでいないし、仮にそのようなことをすれば、君自身や部署の人間に危害が及ぶ可能性があるからだ』
『なら、どうして君がそのようなことを知っている? 君も関わっているのか?』
『いや、私はただ単に自分の仕事をこなしているだけだ。だが、私だってそれなりに自分の保身を考える。そのために作り上げた人脈の中に、この事件やその村に深く関わっている者がいる。その者は、こうして私と君がやり取りしていることを知らない。
せいぜい、猟奇的な殺人事件の捜査を名も無き捜査一課の人間が捜査しているという程度の認識だろう。だが、その認識が間違っていることは君も良く理解しているはずだ』
『確かにその通りだ。では、改めて聞く。どうして彼女をこの村で事情聴取してはいけないんだ?』
しばらく経ってから返信がくる。
『それは言えない。すまない』
『質問を変える。この事件の犯人は、組織の関係者か?』
『違う。だが、彼女の存在はその村に関わっている組織の者達にとって非常に重要なものだ。その存在を消し去ろうとしているわけだから、連中も黙ってはいないだろう』
『君はこの件に関して私の敵か味方か?』
その質問に、『その者』からの返信が途切れる。
そうして時間が経つたびに、私の心の中に例えようもない不安が生まれてくる。
もしかして、我々はハメられたのだろうか……そうだった場合、私は自分でなんとかするとして、鳴海刑事や大倉刑事、加山巡査をどうやって逃がそうか……そのような考えが私の頭を駆け巡り始めた時、『その者』からの返信がきた。
『ハッキリ言ってやろう。私は今までも今もこれからも、君の味方であり続ける。それを行動で示すことは難しいが、努力する』
……なぜだろう……その言葉を、私は不思議と自然に受け入れることができた。
『分かった。とにかく、犯人を警視庁の方まで護送すれば良いんだな?』
『そうだ、いいか?』
『ああ、分かった。交信終わる』
私はそう返信して携帯端末をしまい、鳴海刑事達に向かって犯人を警視庁まで護送することを伝えた。
「なにっ!? 事情聴取はどうするんだっ!?」
私は大倉刑事に、事情聴取は警視庁で行うことを徹底的に反復して伝えた。
「む……ぐ……分かった、いいだろう」
「それでしたら、今から行きますか?」
鳴海刑事がそう聞いてきたので、私は駐在所の外の景色を見た。
すでに外は夕焼けに染まっている……本来なら今すぐにでも仁科祥子を警視庁へ護送するべきだが、ここは山奥の村だ。
時間が経てばそろそろ夜中になり、車のヘッドライトをハイビームにしても運転するのは危険だろう。
今夜はひとまず彼女の身柄を駐在所か自宅で預かり、明日の朝に護送するべきだ。
私はその考えを三人に伝えた。
「ふむ……確かにその方が良いだろうな」
「ええ、僕も賛成です」
「それでしたら、自分は支度をしてくるでありますっ!」
そう言って、加山巡査は一足先に自宅の方へ向かっていった。
「……ですが、仁科さんはどうしますか? 見たところ、拘置所のような施設は見当たりませんが?」
私は鳴海刑事に、自宅の方で交代で見張りを立てることを伝えた。
「そうですか。分かりました」
「あ、あの……」
突然、仁科祥子は口を開いた。不思議とその声は我々の心に深く突き刺さるように耳に入ってくる。それがかえって、彼女の不気味さをさらに増幅していった。
「か、怪物はどうするんです……? あ、あの子が、あの子が……」
……どうやら、仁科祥子は現状を正しく認識出来ていないらしい。その目は私達と合うこともあるが、すぐに宙を漂ってしまう。
私は大倉刑事に、彼女を加山巡査の自宅に連れていくように指示した。
「うむ、分かった」
珍しく、大倉刑事は私の言うことを素直に聞いて、仁科祥子を立たせて加山巡査の自宅へと続く引き戸を開けて彼女の共に駐在所を出ていった。
「神牙さん……大丈夫でしょうか、彼女……」
私は鳴海刑事に、分からないとだけ伝えた。実際、その通りなのだ。
彼女のあの様子が、嘘とは思えない。
だが、仁科祥子の言うことが本当ならば、『その者』の言っていた怪異が確認できないという言葉が嘘になる。あるいは、どちらも本当のことを言っている可能性もあるが……それを確かめる術すべはない。
私は鳴海刑事に、彼女が心神喪失で無罪になるかどうか、気分を変えるために質問した。
「……すみません、僕も分かりません。ただ、彼女がまともな状態になったら、しっかりと罪を償ってほしいです……たとえ、殺人の理由がどんなものであろうとも……」
そう言って、鳴海刑事は私に軽く会釈をして加山巡査の自宅へ入っていった。