欲しいモノ ~喧騒~
真冬の寒さも峠を越えてきた頃――私が警視庁地下にあるオモイカネ機関本部に出勤してきた時からずっと、出入り口の対面に設置された型落ちのテレビでは、とあるニュースが報道され続けている。数日前から、世間を賑わせている事件についてだ。
『――引き続き、今、世間を恐怖に陥れている連続殺人についての続報です。昨夜未明、一連の事件と同様の手口で殺害された被害者の身元が分かりました。被害者は――』
「ったく、それしかやることねぇのかよっ!」
ソファに寝転がりながら悪態をつく鬼島警部に対して、自分のデスクに座る鳴海刑事は苦笑いを浮かべる。
「仕方ないですよ。こうも分かりやすい連続殺人なんて、この国でそうそう起きることじゃないですからね」
「そうですなぁ…この部署にいると、つい感覚が麻痺してしまいますが……」
そう言って、自分のデスクに座る大倉刑事は大きく溜息をつく。
確かに彼の言う通りで、この部署にいると仕事のほとんどは陰惨な事件かその後始末、そうでなくても捜査一課の手伝い――つまりは殺人事件などの強行犯事案に対処するため、体感治安はすこぶる悪くなる。
しかし、日本は世界と比べても――比べる必要があるのかは疑問だが――治安の良い国と国内外で評価されている。
そんな日本で、あからさまに連続殺人と分かる事件が起きれば、テレビの向こうにいるキャスターのように、早口でまくし立てるのも分かる気がする。
「なぁ、神牙。お前、なんか聞いてねぇのかよ? 事件が起きてから、もう二ヵ月くらい経ってるぜ? いい加減、俺達に話がきてもいいんじゃねぇか?」
私は鬼島警部の意見を否定した。今のところ、オモイカネ機関にはそのような話はきていない……もっとも、このまま事件が難航すればあるいは――。
「む? 何やら音が……」
ほら、きた。私は自分のカバンに入れておいた専用の端末を取り出して画面に指を走らせる。見ると、メールの欄に一件の通知がきていた。
『事件だ』
通知の画面を開くと、某チャットアプリ風の画面にそのような文が表れていた。
『分かっているとは思うが、昨今世間を賑わせている連続殺人の件だ』
『怪異絡みか?』
『違う。だが、これはマスコミには伏せてあるのだが、遺体の状況が普通ではない。捜査一課には荷が重いと思う。そこで、今回は一課の支援として事件に介入してほしい。
結果的に一課が事件を解決するなら、それでよし。君達が解決するならばそれでよし、ということだ』
『了解。すぐに取り掛かる』
『先方には話を通しておく。幸運を』
その文面を見た後、端末をカバンにしまってメンバー達に事件解決に乗り出すことを宣言した。
「おぉ~、やっとか! 待ちくたびれたぜっ!」
「了解しました。行きましょう、大倉さん」
「はっ! お供します、先輩っ!」
こうして、我々は下手をすればマスコミと世間の餌食になりかねない事件に首を突っ込むことになった。
※
そういうわけで、我々は『その者』からもたらされた情報を頼りに事件現場までやってきた。
現場は港区の一角にある寂れた路地。表通りのモダンな盛況ぶりと違って、普段は地元の人間しか通らないような閑散とした場所だが、我々が来た時は多くの捜査関係者が表通りにまで溢れ返っていた。
その現場を囲むように、路地のほとんどの出入り口となる道路には立ち入り禁止の規制線が張られ、その外側でマスコミや野次馬が所轄の警官を相手に問答している。
この事態に、私は少なからず焦ってしまった。我々オモイカネ機関は、公的には認められていない組織だ。一応、警視庁内部では『捜査五課』などとまことしやかに噂されているが、カメラの前に姿を見せるのは非常にまずい。
しかし、カメラをやり過ごすために迂回しようにも車はすでに通りに入っているため、バックすることも出来ない。
私は大倉刑事に、マスコミのカメラを避けるためにあえて直進し、前方に見える有料駐車場に止めるように言った。
「うむ、分かった」
意外と大倉刑事は素直に従い、そのまま車を直進させて住宅街の一角にポツンとある駐車場に器用に車を停める。
我々は車を降りたが、私は駐車場から来た道を覗き見て溜息をついた。
「なんだ? どうしたんだ、神牙?」
「マスコミの目が気になるんでしょう。僕達は、あまり人目に触れてはならない部署のようですし……」
私は鳴海刑事の意見に頷いた。
「むぅ…ですが、いったいどうすれば……」
我々が手をこまねいていると、不思議なことに徐々にマスコミの数が減ってきている。それに比例して、野次馬も解散し始めたようだ。その時、端末に通知が来る。
『これでいいかい?』
……構わないが、監視されているようで気分が悪い。
『ありがとう』
ただそれだけ打って送信し、返信を待つことなく私はメンバー達を伴って現場へ向かう。
このことから考えても、今回の捜査は一段と慎重に取り組む必要があるように思える――先程から『その者』から『どういたしまして』と返信が来ないことを考えると、私の監視されているという感覚を察しているのだろうか?……ぜひ、そうであってほしい。
帰りを急ぐ野次馬が作る人の波を、事件現場の方向へ出勤するかのようにごく自然にかき分けていき、規制線の前で周囲を見渡してテレビカメラなどが無いことを確認し、全員素早く警官にバッジを見せて規制線をくぐって路地に入る。
しばらく進むと、殺人現場では必ず付き纏ってくる、何とも言えない不快さを伴った鉄と血の入り混じった匂いが鼻腔を容赦なく刺激してくる。
同時に、我々の視界にはアスファルトの地面にしとど落ちる血の海と、その源となる遺体が映った。その遺体の周囲には、見慣れた顔が列挙する。
「……あっ!」
遺体を取り囲む捜査員のうちの一人が、こちらに気づいて小走りで駆け寄り、遠慮気味に敬礼する。
「お疲れ様ですっ! とうとう五課の皆さんも現場入りですか?」
私は駆け寄ってきた捜査員に対して笑みを浮かべて曖昧な返事をした。
「やっぱり! こんなこと、ホントは言いたくないんですけどね……ウチはもう煮詰まっちゃってるんですよ。手掛かりがまったくないなかで、あのマスコミの数でしょ? やっとれんですよ」
なんの躊躇もなく他部署の人間に対して内情を漏らす捜査員に対して、私は心の底から同情するフリをしてそれとなく捜査状況を聞いた。
「あ、えっとですね…今回の被害者は渡辺豊子。三十二歳の主婦です。死亡推定時刻は昨夜の十一時頃で、事情聴取の結果、友人とのディナーの帰りに犯行に遭ったと思われます。
死因は刃物による頸動脈切傷による失血死。それと、遺体には死後に付けられたとみられる複数の傷があります。この傷は、同一の刃物によって出来たとのことです」
「……妙ですね。見たところ、この方の身なりはかなり良いように見えます。そんな方が、友人とのディナーの帰りにこんな路地に来る理由はなんでしょう?」
「見たところ、被害者のものと思われる車もないようでありますな」
大倉刑事はそう言いながら辺りを見回す。私もつられるようにして周囲を観察するが、確かにそれらしい車はない。
「ということは、被害者は徒歩で帰宅していたということに……」
「ええ、我々もその線で捜査しようと思っています。というのも、彼女が友人とディナーを楽しんでいた店と自宅は、たった六百メートルほどしか離れていませんでしたから」
「六百メートルッ!? その間に殺されたってのかっ!?」
鬼島警部の言葉に、捜査員は悲痛な表情を浮かべる。
「ええ、そうなんです。被害者の自宅は、向こうの住宅街にあります」
そう言って、彼は遺体がある場所の向こう側を指差した。指差した先に目を向けると、そこには人工的に植えられたであろう木々の間から高級そうな住宅群がひょっこりと顔をのぞかせていた。住宅街の位置は、ちょうど表通りから続く道路を一直線に進む場所にある。今、我々がいる場所は、その中間地点となるビル群の裏通りのようである。
……この状況だと、鬼島警部が声を上げるのも理解できる。いくら都内とはいえ、六百メートルというのは犯行現場の範囲としてはあまりにも狭すぎる。もし、この範囲に防犯カメラなどがあれば、あっという間に犯行が露見してしまうし、被害者を選定して犯行に及ぶまでの時間も必然的に短くなる。突発的な犯行であれば、たまたま被害者の自宅と店の距離がその範囲だったと説明がつくが、それだと犯人はとっくに捕まっていてもおかしくはないし……もし、これが周到に準備されたものならば、犯人は被害者のことを知っていたのだろうか?
「神牙さん? どうかされましたか?」
私は訝しむ様子でこちらを見つめる神牙刑事達に、自らの考えを述べた。
まず、先程も考えたように、犯人は被害者のことを知っていたのかどうかだ。
仮に知っていたとすれば、当然彼女の自宅の位置も知っていたはず……わざわざこの場所で彼女を殺す理由はない。自宅で殺すこともできたはずだ。住宅街で騒がれることを嫌ったのだろうか?
私がその考えを口にすると、続けるように鬼島警部が口を開く。
「単純にもみ合いになって殺したんじゃ――いや、そりゃねぇか……」
鬼島警部は遺体に目を向けると、途中で考えを変えたようだ。
そう、被害者の遺体の状況からして、犯人はかなり執拗に被害者の全身を暴行、損壊したように見える。しかし、それらの傷はめちゃくちゃにつけられてはいるが、行きずりや成り行きの犯行ではここまでしないだろう。犯人から身をかばった際につく、いわゆる防御創のようなものも見当たらない。
とすれば、殺害や損壊は計画的に行われたことになるが、それだとやはり、ここに被害者の遺体があることに合点がいかない。
「もし、犯人が計画的に犯行に及んだならば、仮にこの場所で彼女を殺害して傷つけたとしても、殺害の発覚やその後の捜査を遅らせるために、遺体になにかしらの細工をしたり、あるいは遺体そのものをどこか別の場所に運ぶはず……そういうことですね?」
私は鳴海刑事の意見に肯定の返事をした。彼の言う通りだ。
「神牙?」
私はふと、遺体の近くに膝をつき、じっくりと遺体を検分した。
「……惨たらしいですね」
「ええ。並みの人間じゃ、こんなことは出来ないでしょう。あるいは、よほど恨みを買っていたのかも……」
「……うぷっ」
私の姿につられて遺体を見てしまった大倉刑事は、大きくよろめいて壁に手を付いている。
鳴海刑事の言う通り、遺体は非常に凄惨な殺され方をしていた。
両方の手足や顔は所々赤黒く腫れあがっており、ひどく無秩序に切り刻まれている。胴体に目を向けると、無数の傷と共に腹部が開口されており、内部の臓物が丸見えとなっている。切り口が非常に鮮やかであるためか、出血は少ないように見える。だが、その下……被害者の下半身を覆う紺色のスカートは、それとは対照的に血の海となっていた。
私は恐る恐る、被害者の衣類をめくった。
「なっ!?」
「……ひでぇな、こりゃ」
……被害者の下半身…本来、女性器がある部分は真っ赤に染まっていた。だが、それだけでなく、本来ならばあるはずのもの――女性器が綺麗に切り取られていたのだ。
「実は――」
呆然とする我々と同じように膝をつき、捜査員は小さな声で話す。
「……これまでの遺体も、すべて女性器が持ち去られているんです」
※
――その後、我々は現場検証を捜査一課に任せて、遺体の本格的な検視に立ち会うことになった。執刀医はもちろん、アシュリンである。
「これより解剖を始めます……開始時間、十四時ジャスト。よろしくお願いします」
凛とした低音が解剖室の静寂な空気を纏って鼓膜を振動させる。この場には主だった警察関係者が勢ぞろいしているが、その中でただ一人、大倉刑事はいつものように限界の向こう側へ行こうとしていたのは言うまでもない。
解剖室には、遺体が運ばれてきた時から不快な臭いが充満していたが、アシュリンが検視のために解剖を行うたびに、その臭いは我々の全身にまとわりつくようにどんどん強まっていった。
「――以上、これで解剖を終わります」
アシュリンのその言葉を合図に、大倉刑事は真っ先に解剖室を後にした。と言っても、すぐに廊下に出たのではなく、隣接している準備室へ駆け込んだだけだ。あそこには綺麗なシンクがある。
その後、私達も同じように後処理を終えて病院のロビーにて待機する。
しばらくしてアシュリンが来ると、いつものように警察関係者がドッと押し寄せてアシュリンの見解を窺う。
我々はその様子を遠目に観察し、警察関係者がロビーから姿を消すと同時にアシュリンの元へ向かった。
「それでアシュリン先生。どうでした、結果は?」
「まず、他殺で間違いないだろう」
鳴海刑事の問いに、アシュリンは自信ありげな様子でいった。
「損傷箇所が多岐にわたるため、特定には苦労したが……被害者の直接の死因は、頸動脈を切り裂かれたことによる失血死だ。これまでの犯行の手口と一致している」
「ということは、犯人はまず、被害者の喉を切り裂いた後にあのような拷問紛いな事を?」
「ああ、つくづく腹立たしい限りだ」
同じ女性に対して行われた仕打ちに対して、アシュリンは眉をひそめて呟いた。
私は彼女に、殺された渡辺の局部が他の部位に比べて流血していたことについて尋ねた。
「腹部の開口も、局部の切除も、かなり手際よく行われていた。だが、局部の切除は腹部の開口に比べて難易度が高い。刃物一本でやったならば、もたついている間にあれだけ出血していてもおかしくはないだろう。それに、腹部の方は血が体内に留まっていたため、他の部位と比べて出血が少ないように見えたんだ」
アシュリンの説明を聞いて、鬼島警部は吐き捨てるように言った。
「……とんでもねぇ野郎だな」
「あぁ、詳しく調査しなければ何とも言えないが、この犯行を実行した犯人はかなり精神に破綻をきたしている。十分に注意して捜査したほうがいい」
「分かりました、肝に銘じておきます」
「押忍、その通りでありますな」
その後、私は鳴海刑事達と共にアシュリンにお礼を言って病院を後にした。
※
「大変だ、またガイシャが出たぜっ!」
我々が神明大学附属病院を後にした翌日――事務作業をしている我々の元に、珍しく鬼島警部が慌てた様子でやってきた。
「ど、どこですかっ!?」
鬼島警部の迫力に押されるような形で、鳴海刑事が慌てて尋ねる。
「前の現場のすぐ近くだ、行こうぜっ!」
「自分、車を取ってくるでありますっ!」
知らせを受けて慌ただしく動くオモイカネ機関メンバーと共に、私は本部を後にした。
――その後は大倉刑事の車に乗り込んで現場へと向かうが、車内は相変わらず慌ただしい、半ば切羽詰まったような雰囲気に呑み込まれていた。
「クソッ! まさか応援要請を受けた次の日にガイシャが出るとはなっ!」
鬼島警部が口にする『ガイシャ』とは、警察内部の隠語で事件の被害者のことを意味する。
「ええ、まったくです。こんな…犯人は何か狙いでもあるんでしょうか?」
いつもは冷静な鳴海刑事も、この事態に困惑しているようだ。バックミラー越しに鬼島警部に目を向けたり、手元をいじくりまわしたりと、その仕草には普段の落ち着いた様子はどこにもない。
そのまま、我々を乗せた車は事件現場まで向かったが、我々が現場に到着した頃にはすでに大勢のマスコミや野次馬、警察関係者がおり、ちょっとしたお祭りのような雰囲気を醸し出していた。
「うわぁ…またマスコミの人達が……」
「ちっ! いっそひき殺すかっ!?」
「け、警部っ! そ、そんなことをしたら――」
「分かってるよっ! ちょっとイラついただけさっ!」
……鬼島警部ならやりかねないと思ったのは私だけだろうか?
私は大倉刑事に、前回と同じように目立たないような場所で車を停めるように指示した。幸いと言うべきか、今回の現場も近くにコインパーキングがあったため、大倉刑事はその場所に車を停めた。
我々は車から降りて、しばらく通りを進んでビルの物陰からひっそりと顔を覗かせた。
「……今回は、なかなか野次馬もマスコミも引き揚げませんね」
「そうですなぁ……」
「ったく、ゴミクズ共がっ!」
鬼島警部の、警察官にあるまじき言葉を受け流しつつ、私は鳴海刑事達と同じように周囲を観察する。
彼らの言う通り、野次馬やマスコミの数は前回よりも多いように思える……私は専用端末を手に取り、『その者』に連絡をとった。
『見てるか?』
『ああ』
返信はすぐに来た。間違いない、奴はこの事態を把握しているのだ。
『なんとか出来るか?』
『色々と手を打ってはいるが、難しい。ちょっと待て』
その返信が返ってきてから十数分ほど経っただろうか……徐々にマスコミの数が減っていき、それにつられるようにして野次馬の数も減っていく。まだ多少は残っているようだが、この数ならば現場に参入しても問題ないだろう。
我々は引き返していく野次馬やマスコミに気取られないようにして各々(おのおの)のやり方でやり過ごした後、現場がある通りを進んでいく。その道中で、端末に連絡が入った。
『事件の捜査にあたってもらって感謝しているが、なるべく急いでほしい。だんだんマスコミやら野次馬やらが過熱していっている』
それは、我々にとっては由々(ゆゆ)しきことだった。
我々は、いわば警視庁の非公然組織――そのような組織に属する人間が連続殺人事件の現場に何度も姿を見せるのは、出来るだけ避けたい事態だ。ましてや、厳密な意味で言えば、我々は警視庁傘下の組織でさえないのだから……。
私は『その者』からの連絡に『了解』とだけ返すと、端末をしまって現場まで向かう。
今回の現場も、人通りの少ないビルとビルの間にある狭い路地だった。
「あ……お疲れ様ですっ!」
我々がその声のする場所に思わず目を向けると、昨日と同じように捜査一課の捜査員がいた。
「お疲れ様です、どうでしたか、状況の方は?」
鳴海刑事がさも当然のように現場の状況を質問するが、捜査員の方も特に気にすることなくベラベラと喋りだす。
「えーと、今分かっているのは、被害者は都内在住の四谷愛美さん、二十六歳。都内で会社員として働いているようです。死亡推定時刻は午後0時頃で聞き込みの結果、どうやら会社から帰宅途中に犯行に遭ったようです」
「それで、結局の今回の犯行も前と同じ手口なのか?」
「ええ、そうです。でも、今回は被害者の自宅と会社の距離が離れていますね」
「ということは……犯人は前回の犯行よりも慎重にターゲットを選んだということでしょうか?」
鳴海刑事がこちらに視線を向けるのに気が付き、私は彼の言葉に答えを決めかねるように唸ったが、捜査員が先に口を開く。
「いえ、恐らくその可能性は低いかと……」
「どうしてでありますか?」
大倉刑事がそう聞くと、捜査員は胸元のポケットから手帳を取り出してパラパラとめくる。
「まず、被害者の自宅と会社の距離ですが、会社はここからすぐ近くにあるのに対して、被害者の自宅はここから地下鉄を二駅行ったところにあります。ですが、状況から判断して、被害者はこの現場で殺されたと推測されます」
「ってことは…ガイシャは会社を出てすぐ殺されたってことか?」
「ええ、恐らくは…まぁ、被害者の状況はその目でご覧になってください。どうぞこちらへ」
そう言って、捜査員は我々を犯行現場へと誘導してくれた。
我々が彼の後に付いていくと、そこには倒れた遺体の前で苦虫を噛み潰したような顔をした本郷警部がいた。彼は我々の存在に気付くと、そのただでさえ険しい顔により多くのシワを寄せる。
「……また来たか」
それは、私に聞き取られまいとするように放った、ごく小さな呟きだった。
しかし、あいにく私には聞こえている。だが、私は気にせずに本郷警部に挨拶をした。
「……ふん、どうぞ」
そう言って、彼は遺体の近くから部下達と共に去っていった……そんなに我々が目障りなのだろうか?
「すみません…課長、ここ最近はこの事件に忙殺されてまして…マスコミからは突き上げをくらうし、上層部からは早く犯人を検挙せよと圧力をかけられるしで、精神的に参っているんです」
「どうだかな」
鬼島警部は捜査員に対してそう吐き捨てるように言うと、遺体の近くに膝をついた。
「にしても、今回もひでぇありさまだなぁ」
彼女のその言葉につられるようにして、我々も遺体の周りに膝をついて観察するが、手口としては前回の犯行と同じように残虐極まるものだった。
「下半身が血の海で、この、ポッカリと開いた胴体からの出血が少ないってことは、この前と同じ手口ってことか……」
「ええ、それに見てください。この首のところ……真一文字に切り裂かれてます」
必死に胃酸の逆流に抗っている大倉刑事を尻目に、鳴海刑事と鬼島警部は調査を続けていく。
しかし……一見すれば確かに残虐非道な行いに見えるが、この首の傷といい胴体や下半身の傷といい、その切り口は実に鮮やかなものだ。単純な仮説だが、犯人は医療関係者かもしれない……私はその考えを皆に打ち明けた。
「……確かに、言われて見ればそうだな」
「ええ、一見すれば、他の打撲や切り傷に目がいって錯覚しそうですが……」
「で、では自分、これから付近の病院に聞き込みに行ってくるでありますっ!」
「自分も、捜査一課の同僚達に知らせてきますっ!」
そそくさとその場を立ち去る大倉刑事と、付近にいた同僚の捜査一課の刑事達の輪に加わる捜査員……非対称的な姿を見せる二人を見て、私は思わず心の中で笑ってしまった。
それは、この陰惨で残虐な事件が与える精神的なダメージを少しでも和らげるために、私の本能が咄嗟にとった防衛行動なのかもしれない。
※
それからしばらくすると、現場の調査を終えた我々の元に大倉刑事と捜査員が戻ってきた。
「押忍、聞き込みが終わったであります」
すでに遺体が搬送されたためか、大倉刑事の調子は元に戻ったようだ。
「調べてみたのですが、この付近には個人経営の病院が多いようでありますな。ほとんどの病院では、犯行の時刻にアリバイを証明できた者はおりませんでした」
「まぁ、時間が時間だけに、しょうがないかもしれませんねぇ……」
「ちっ、振り出しかよ」
私は大倉刑事に、現場で車などが使われた形跡はあるか質問した。
「え? いや、そのようは情報は聞いてないな。聞き込みでも、それらしい情報は得ていないぞ?」
私はみんなに、現場で車などの移動手段が用いられていないとすれば、被害者達と同様に犯人も徒歩で移動している可能性があり、しかもそれらしい目撃証言もないことから、犯人の居住地が犯行現場から近距離の位置にあるのではないかと伝えた。
「なるほど、確かにその通りですね」
「おい、ここから人目につかずに徒歩で行動できる場所にある病院はどこだっ!?」
「それなら、海野病院が近いでありますっ!」
「自分、一課の人間に応援を頼んできますっ!」
私は走り去る捜査員に向かって了承の返事と先に海野病院へ向かっていく旨を伝えて、大倉刑事に案内を頼んだ。
「うむ、任せろっ!」
その後、我々は乗ってきた車をそのままに、大倉刑事の先導によって海野病院まで向かった。
しかし、目的の海野病院は現場から通りを二つほど歩いてすぐ――大倉刑事の言う通り、前回と今回の犯行現場からも近い距離にあった。
「ここだ」
海野病院の前で、大倉刑事はそう言った。
ざっと病院を見た限りでは、この病院は典型的な個人経営の病院であることが伺える。
建物の上部に備え付けられた看板には白い文字で『海野病院』と刻印され、横から建物を見ると、病院の奥には二階建ての住宅が見えた。どうやら、この病院は住居と連結して建設されているらしい。通りに面した植木には同様に看板が掲げられ、診察の内容と時間帯が刻印されている。
病院の向こう側に目を向けると、高級そうな住宅街が見える。どうやらこの病院は、ちょうど事件が多発する裏通りと住宅街の中心にあるようだ。しかも、住宅の方は完全に住宅街の中にある。
我々は病院の正面玄関から中に入り、人の姿を探す。すると、院内に入って正面に見える受付のカウンターに、一人の中年女性が座っているのが見えた。
女性は我々の存在に気付くと、立ち上がってこちらに歩み寄ってくる。
「あの、まだ何か?」
か細く、弱々しい声……元々このような声質なのかは不明だが、その態度にはある種の痛ましさを感じる。
「いや、実は今回話を伺いたのはこちらの方達でして――」
そのように大倉刑事に紹介されて、私達はその女性に挨拶をしてそれぞれ自己紹介した。
「はあ……あの、私はこの医院で医療事務をしております、海野雅子と申します」
そう言って、妙齢の女性はしずしずと頭を下げた。
「それで……どのようなご用件でしょうか?」
我々の自己紹介が済んだ後も、女性は変わらず弱気な態度を崩さない。
私は彼女に、すぐそこの路地で起きた殺人事件について訪ねてきたことを知らせた。
「はあ……それなら、そちらの刑事さんにもお話したはずですが……?」
そう言って、雅子は大倉刑事に目を向ける。
「や、申し訳ございません、雅子さん。出来ればもう一度、こちらの方々に当時の状況を教えていただけないでしょうか?」
「まぁ、いいですよ? と言っても、昨日の午後十一時から午前0時までなんて、私は眠っていましたから……」
私は彼女に、他に同居している家族と、そのアリバイについて訊ねた。
「ウチは主人の正志と息子の雄二、そして私の三人家族です。主人はこの病院の院長で整形外科を担当しておりますし、私は先ほど申し上げたように医療事務の仕事を……他にも何人かの看護師さんや医療スタッフなどが在籍しております」
「なるほど、息子さんもこちらの病院にお勤めですか?」
鳴海刑事が何のこともなく問いかけたが、その質問に雅子は一瞬顔を強張らせた後に、ただでさえ鳥がさえずるような小さな声をさらに潜めた。
「いえ、勤務というか……息子は精神的に参っている状態でして、あくまで手伝いという形に……」
雅子の様子に、鳴海刑事は『しまった!』という表情を見せるが、鬼島警部は気にすることもなく続ける。
「息子さんも医療関係のお仕事を?」
「はい。と言っても、主人の専門が美容整形外科であるのに対して、息子は一般の整形外科ですが…それに、もう昔の話ですし……」
そのように遠慮がちに発言する雅子だったが、私はその時の彼女に、どことなく息子に対する愛情や誇らしさのようなものを感じた。
私は彼女に、美容整形外科と一般整形外科の違いについて訊ねた。
「私はそれほど詳しくないので、はっきりとは申せませんが……美容整形外科は、皆さんが想像するように見た目を美しくするための施術ですわ。対して一般整形外科というのは、首から下の脊椎や四肢の骨、関節や筋肉、神経などに関わる分野のものです」
「それは……我々が思い浮かべる手術の分野でありますか?」
「そうですね。患者さんの症状次第では、そのようなこともしますわ」
私は雅子に、美容整形外科と一般整形外科ではどちらが難易度が高いか質問した。だが、彼女はこの質問に顔を曇らせてしまった。
「どちらが…と言うのは、どのような施術を行うかによって変わりますわ。どちらの施術においても、簡単なものから難しいものまで幅広いので、一概にどうこう言えるものでは――」
「やぁ、神牙さん。ここにいらしたんですか」
雅子のか弱い声をかき消すようにして、私の耳に不快なダミ声が濁流のように流れ込んできた。
私が声のする方に顔を向けると、そこには海野病院の入り口付近で捜査一課の捜査員達を取り巻きのように従える本郷警部の姿があった。
「いけませんなぁ、我々はこの事件に共同で取り組んでいるんですぞ?」
そう言いながら、彼はずかずかと病院内に入り、海野雅子の目の前に立つ。
「海野雅子さん、ですね? 我々、警察の者です。そこの路地で起きた殺人事件について、いくつかお尋ねしてもよろしいですかな?」
「……はあ、どうぞ」
もはや幾度もその質問をされたゆえ、明らかに調子の悪そうな雅子に対して、本郷警部はマニュアル通りの質問をぶつけていく。
私はオモイカネ機関のメンバーを率いて、捜査一課の捜査員達が向けてくる容赦のない敵意の視線を横目に、病院を出て行った――途中、我々に対して少しばかりの会釈をしてきた、例の捜査員には感謝の念を抱かざるを得ない。




