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三章 折れた柱の元で(2)


     一、


 どうして暗澹あんたんたる気は、こうも立ち込めようとするのだろうか。

 木刀のぶつかり合う幾つもの音を聞きながら、烝はふとそんなことを思った。

 手に握る木刀からも同様に、甲高い音と痺れを伴うほどの強い衝撃が襲ってくる。裸足と板の間が小さな悲鳴を上げた。くッと吐息を漏れる。

 状況が一転したのは、一昨日。新選組が伏見奉行所へと布陣した十二月十六日のことだった。

 なんと、新選組の内部に御陵衛士ごりょうえいじ残党の間者がいることが発覚したのである。その名は小林啓之助こばやしけいのすけといい、残党の篠原泰之進しのはらたいのしんとの密書が永倉によって表に出たのが全ての始まりだった。

 その密書には新選組内部についての事細かな動向から秘密事までもが記されており、これに永倉は勿論、近藤や土方も裏切りや怒りの念を感じたのだろう。

 その後小林は土方の前へと引き出され、「御用の儀は」との問いに首を垂れたのだという。

 それは、彼ら御陵衛士側との繋がりを認めたという確たる証拠となった。そのため小林は、土方と永倉のいる前で、島田によって絞殺されたと聞いている。

 だが、それにしても不穏だ。まさか未だに伊東側の間者が潜んでいようとは……。

 木刀を持つ手に一層の力が篭り、奥歯をぐっと噛み締める。

「ハァ――ッ!!」

 しかし一瞬の気の緩みがあだとなったか。構えていた木刀が弾かれると、腹に決定的な一打を食らわされてしまう。

 不意を付かれた烝はその一撃に身を構えることも叶わず、「ぐぅッ」という声を漏らしてしまった。打たれた腹は引き裂かれんばかりの激痛にさいなまれている。

 腹に手をあて二、三歩ふらつくと、相手をしていた山口二郎やまぐちじろう斎藤一さいとうはじめ)は慌てて烝の元へと駆け寄ってきた。

 まさかここまで上手く入るとは思ってもいなかったのだろう。普段は落ち着きをはらっているその表情にも、今や心配の色がありありと浮かび上がっている。

 山口は手にしていた木刀を床に置くと、苦痛に眉根を寄せている烝の肩を担ぎながら、大丈夫ですかとその顔を覗き込んできた。

「山崎さん。体調の方がかんばしくないのですか。昨日も感じましたが、らしくない」

 寒気に染み入るような、ささやかな声。『らしくない』という言葉に胸が痛くなるのを覚えると、烝は詰まった息を吐き出しながら、首をゆるゆると横に振る。

「いえ、すみません。少々考えごとをしておりまして……」

「稽古中に、あなたが?」

 烝の謝罪の言葉に、山口の驚きは更に上塗りされることとなった。

 苦悶に歪む表情の中に僅かな笑みを浮かべると、烝は吐息を吐き出すような小さな声で、「ええ」と答えた。

 そのことに山口の瞳が見開かれる。

 まさか稽古中に他のことを考えるなど、烝自身でさえ砂の粒ほども思いもしなかったのだ。それが他人から意外だと思われるのも、仕方あるまい。

 痛みに耐えて気丈な笑みを口元に浮かべると、烝は「もう大丈夫です。どうか手を離してください」と言葉にした。

 言われるままに、山口は支えていた肩からそっと腕を放す。支えを失った烝は少しふらつくも、すぐに体勢を立て直すと額に滲む汗を拭った。すると寒気が額を撫でてゆき、稽古でたぎった血を冷ましてくれるようだった。

 二人はしばし口を噤んでいたが、しばらくすると山口は「そうですか」と一言呟き、ふっと瞼を伏せた。

「先日のことですか」

「……ええ」

 山口の瞳には憂いにも似た光が浮かんでおり、問いかけるまでに不自然な間があった。彼自身、その事件に対して思うところがあるのだろうと理解する。

「悲惨というか、やりきれないというか。何故同胞だった者同士で、こうも諍いが絶えないのかと思いましてね」

 共に戦い、生き抜いてきた者だというのに、信じ合っていた仲間だというのに。一度壊れてしまった関係は、元に戻ることはできないのだろうか。

 思えば思うほど、傷口に塩を塗りつけられたかのように心が痛む。

 裏切りというのは、幾度遭っても慣れるものではなかった。遭うたびに心は傷付き、悲しみを覚える。本当に、これだけは慣れることがない。

 俯き、悲しみを帯びた表情を浮かべると、「どうしてですかね」と烝は呟いた。

 聞いたからといって、真の答えが出るはずもない。解っていたはずなのに、それを山口に問わずにはいられなかった。

 これを、意地が悪いというのだろうか……。

 ダンと踏み込む大きな音が、雷のように空気を振るわせた。甲高い木刀のぶつかり合う音も隊士の上げる声音も、全く絶えることを知らない。

 烝の問いに困ったように微笑んだ山口は、「それは果し合いの誘いですか?」と言ってきた。

 最初のうちは山口が何に対して言っているのか解らなかったが、烝はすぐに山口の受け持っていた任務を思い出すと、ぶんぶんと首を横に振る。

 それもそのはずで、山口は御陵衛士の内偵を近藤から命じられ、新選組にも御陵衛士にも一度は寝返ってきた者だからだ。

「い、いえ。そういうわけではないのですが――」

「すみません、冗談です。けれど俺のような立場から言っても、あまり気持ちの良いものではなかったですね。一度新選組をあざむいた時も、御陵衛士から抜け出した時も。正直、どちらも苦しかった」

 そう言うと山口は一旦振り返り、「続けながら話しましょうか」と木刀を構える。

 烝もまた手にしていた木刀を構え直すと、どちらともなく刀身を当てた。カツンと小さな音が、この大音量の中でやけにはっきりと聞こえてくる。

「確かに俺は、任務のためとはいえ――一度は新選組を裏切った。そのことは否めません」

 聞こえてくる声。それと共に刀身に力が篭っていくのが感じられる。

「新選組を離れ伊東甲子太郎いとうかしたろうへと、御陵衛士へとついた時の皆さんの顔は、今でも忘れられないですね。あれほど人は悲しみや怒り、えも言わぬ孤独感を一気に纏えるものだなんて知らなかった。間者として離れるのだと知っていても、辛かった」

 互い刀身を押し合い、飛びのくよう一歩距離を置く。

 手にかかる重圧は霧散し軽くなったというのに、緊張感のためか気は張りつめる一方だった。呼気が、鼓動が、全てを震わす。

「しかし新選組へと戻るために御陵衛士から離れた時も、やっぱり同様でしたよ。脱走という手段だったため彼らの顔を見なくて済んだ。しかしそれでも裏切るということに変わりはない」

 刀身を振り上げ、手を痺れさすほどにぶつかり合う。

「俺が『斎藤一』を捨てて『山口二郎』となったのは、何も表立って帰ることができなかったためだけではなかったのではないかと、今なら思えます」

 押し合い、互いの視線が合うと、山口はふっと口元だけに笑みを浮かべた。

「今までの自分を捨て、その行いをなかったことにしたかったのかもしれない」

 清算、とでもいうのだろうか。

 すっと心に大きな影が現われ、烝は山口の顔を見ることができなくなってしまった。

 彼に対しての憐憫れんびんや嘆きではない。そこまでの思いが彼の胸中に抱かれていたということに、ただただ自らの考えが如何に幼稚だったかを思い知らされたためだ。

 二つのものがあれば、その場には必然的に争いは生じてしまう。

 解っていたはずなのに、いつの間にか綺麗事ばかりを追いかけてしまっていた。彼らにも思うところがあるというのに……。

 右の足を横へとずらし、左の足を一歩引く。

 ぎくしゃくとその動作をすると、「すみません」と烝は噛み締めた唇を開いた。

「私は何も解っていなかった。山口さん。あなたから話が聞けて、本当に良かったです」

「礼を言うのは、こちらの方ですよ。こんな生活ばかり送っていたら、いつのまにか清い心を忘れていた」

 再度離れ、横一線に振られた刀身をはじいて受け止める。

「あなたのように、情に篤くなりたい」

「ははっ。隊士としては、あまりに不向きな心ですがね」

 薄情になるのに、相当の決心が要りますよ。

 笑って烝がそう言うが、刹那――

総司そうじッ!?」

 土方のただならぬ声が、朝の空気を震わせたのだった。


「やっと見つかったー」

 寒さだけでないのだろう。振り返るとほんのりと頬を紅潮させた沖田おきた総司が、ひょっこりと柱の向こう側から顔を覗かせているのが窺えた。

 近場にいた土方はそのことに大層驚き、またその場にいた隊士達も同様に目を見開いている。皆「沖田助勤!」「沖田さん!」などとざわめきだしてしまい、辺りは一時騒然となった。

 だが、土方は彼らを制止させると沖田を招き入れ、それと同時に荒々しく彼の肩をひっ掴んだ。沖田の双眸が、苦しそうにきゅっと瞑られる。

「どうしてお前がここに……ッ! 近藤さんの妾宅しょうたくで静養しているはずだろう!」

「ちょ、ちょっと土方さん。肩痛いですって」

「俺は真剣に聞いているんだ。話をはぐらかすな!」

 しかし痛みに眉根を寄せる沖田の言葉を一蹴すると、土方は叫び、沖田に向かって眼光鋭くキッと睨みつけた。

 その様相はまるで獲物に飛びかかろうとする獣さながらか。このままでは土方がいつ沖田に飛びかかるかも解らない。

 今にも張り裂けそうな危うい状況に、誰もが止めようとした。その前に、土方はもう一度低い静かな声で尋ねている。

「どうしてお前が、ここにいる」

「そ、れは……」

「言えッ!」

 だが、はっきりとしない沖田にすぐに痺れを切らすと、土方は咆哮と聞き間違うような怒声を響き渡らせた。

 普段の彼からは滅多に滲み出ないほどの怒りに、沖田は半ば茫然としたように立ち尽くしてしまう。その瞳には、明らかな恐怖や焦燥の色が浮かんでいて、普段の明るさなどまるで感じられない。

 視線を上へ下へとやり、沖田はもう一度震える声で言葉を紡ごうと試みた。が、その肩を不意に永倉にそっと抱き寄せられ、沖田はハッとして息を飲んだ。

「お言葉ですが、土方さん。総司が心配なのは存知ておりますが、何も今この場で尋問をなさらなくともよいではないですか」

「永倉……」

 凛ととおる、永倉の声音。すると土方は、その鋭い視線を沖田から永倉へと移した。苛立ちをあらわにする眼光は切っ先よりも鋭く、睨めつけられた者は背筋の凍るような感覚に囚われる。

 だが、それに臆することなく、永倉ははっきりとした声で言った。

「彼は病人です。まずは床につかせ気を落ち着かせたところで、改めて訊くのが良いのではないでしょうか」

 辺りはしんと静まり返る。

 永倉の揺るぐことのない視線にチッと舌打ちをした土方は、「山崎。総司を寝かせておけ」とぶっきらぼうに言い放った。

 張りつめた空気に呑まれていた烝はハッと我に返ると静かに頭を垂れ、皆の注目を浴びながら沖田の前へと歩み出る。

「行きましょう」

 永倉と視線を合わせ言葉なく頷くと、烝は沖田の肩を継いで抱き寄せ、その場を後にした。

 寒さとは異なる震えを、その腕に感じて。


 空いていた一室に蒲団を敷くと、烝は沖田に横になるよう告げた。

 未だに先ほどの衝撃が抜けきれていないのか。沖田は普段の元気を微塵も見せずに頷くと、大人しく蒲団の中へと潜り込む。

 横になった沖田の額に手を当て、もう一方の手を己の額に当てると、烝は互いの熱を測り比べた。沖田の方が格段に熱い。

 やはり無理が過ぎていたのか……と心中でのみ呟くと、「少しのあいだ席を外しますが、どうぞ楽にしていてください」と言い残し、烝は一旦その場から引き下がった。静かに障子を開け、冷え切った廊下へと裸足のまま踏み出してゆく。

 稽古がまだ続いているためだろうか。無人の廊下には稽古中の声がぼんやりと聞こえてくるだけで、やけに物静かだ。歩みの一つひとつが空気を震わてゆし、ひたりひたりという音を奏でてゆく。

 そのまま誰とも会わずに廊下を歩んでゆくと、朝餉の香り漂う台所から、烝は桶を一つ拝借した。それから再び廊下を歩んでゆくと、寒気の立ち込めている庭へと足を向ける。

 それにしても、何て物静かなんだろう……。

 庭へと出た烝は自らの足音を聞きながら、不自然に感じるほどの静まりように、胸がざわめくのを感じた。

 勿論、沖田の突然の訪問のせいもあるのだろうが、きっと近頃良くないことばかりがあったからだと烝は思っている。おかしなことを考えていると馬鹿にされそうだが、沖田の出現が、また新たな事件をにおわせているような気がしてならないのだ。

 井戸の水を桶いっぱいに汲み終えると、やはり誰ともすれ違わずに元来た廊下を辿ってゆく。

 部屋に戻ると、横になっていた沖田とすぐに視線が重なった。彼の不安そうな表情を見ると、同じように心細くなってくる。しかし、烝は安心させるように微笑みかけ、彼の隣へと腰を下ろした。

 桶を静かに脇へ置き、そこに持ってきた手ぬぐいを浸してやる。

 ちゃぽんという水音を響かせてからきつく絞ると、その冷たい手ぬぐいを沖田の額へと乗せてやった。

 すると冷たすぎたのか、乗せたと同時に沖田の肩がぴくりと跳ねる。思わず「すみません」と言おうとしたが、その前に穏やかな表情を見せられてしまったため、烝は何も言えなくなってしまった。

 ただ、邪悪な何から開放されるかのような沖田の表情に、こちらもほっとさせられる。

 深く息をつくと桶を後ろへとやり、それからしばらくは蒲団の中でもぞもぞとしている沖田を見ていた。

 とはいえ、沖田があまり静かな空気を好まないことは、今までの付き合いからも承知している。しんと静まり返った空気は彼にとって酷であろう。そう思うと、烝は不意に言葉を投げかけた。

「身体の具合は、いかがですか」

 腰を浮かせ、袴を払うように一度叩く。

 ありきたりな質問をしてしまったと烝自身感じていたが、実際にそのことは気にかかっていた。

 明け六ツ時(午前六時頃)に始まる朝稽古に姿を見せるなど、日も昇らぬうちにこの寒い中を歩いてきたことは明白だ。結構な距離を病人が歩いてきたのだから、そのようなことは、言葉にしなくても解りきっている。

 そっと掛け蒲団を直してやると、目をぱちくりさせている沖田と視線が重なった。

「あ。その、大丈夫です」

 少々歯切れは悪かったものの、沖田は意外にも明るい返事をしてくる。

「勿論元気もあり余っていますよ」と目を細めて言っているのを見つめると、烝は「そうですか」と頷いた。

 だが、幾ら本人が大丈夫と言っているとはいえ、沖田は労咳ろうがい(肺結核)を患っているのだ。いつ病状が変わるかも解らない。ましてやここまで来たためもあるのだろうが、熱もだいぶ上がっているようにも思えた。

 それが解っていたからこそ、彼の言葉を聞き入れながらも、烝は完全に安心をすることはなかった。何しろ、労咳は不治の病なのだ。決して侮ってはいけない。

「ですが、熱が出ているようですから気をつけてくださいね。それと身体に負担がかかることは極力控えるよう、心がけてください」

「解りました。努力します」

「努力って、それは少々大袈裟ではないですか」

 にっこりと微笑んで宣言する沖田に、思わず小さく笑ってしまう。

 しかし沖田は本気だったのか握り拳を胸の前で作ると、熱で赤くなった頬を更に紅潮させて口を開いた。

「そんなことないですよ。だって僕、じっとしているのとか苦手ですもん」

 子供じゃないですけど、まだまだはしゃぎたい年頃なんです。

 そう言う沖田を見て幸せに感じると同時、どうしてこの方が死病などに罹ってしまったのかと心が苦しくなった。

 神は本当に、残酷だ。二物などなくとも、せめて生だけは与えてくれても良いと思うのに……。

 以前よりも確実に痩せ細っている、沖田の身体。彼は微熱も続いている中、咳嗽がいそうの症状までも既に出ている。

 ここまでになってしまえば、助かる人はごく稀だ。

 沖田自身そのことについて十分に理解し、己の運命を受け入れているようであったが、それでもあまりに不憫すぎる。まだ彼は私より十も若いというのに、その若い身に死が訪れるというのだろうか……。

 キンと耳の奥で、何かが小さくも高い声を上げている。

 するとしばらくして、へヘっという沖田の笑い声が聞こえてきた。

「山崎さん。なーに暗い顔しているの?」

「えっ、いや……」

「それとも何です。僕が『はしゃぎたい』なんて言ったから、もしかして怒っているんですか?」

 無邪気で、優しい声。

「怒りはしませんが、はしゃぎすぎてはなりませんよ」

 がやがやと少々騒がしい隊士達の話し声が聞こえる中、つられてふっと微笑むと、烝はすくっと立ち上がった。

「では、朝餉あさげを取りに行ってきますね」

 沖田はそんな烝の姿を、どこか楽しそうに見つめていた。



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