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三章 折れた柱の元で


 せゝらきもせけは溢るゝためしあり 人のこころもかくと知らなむ


   烝『時事所感』





 暗雲に覆われているというのに、日の光だけは燦々(さんさん)と地上に射し込んでいる。そんな可笑しな空をぼんやりと見つめていると、烝は思わず踏み出した足をもつれさせてしまった。

 かくんと沈む視界と身体に、背筋が変にひやりとする。地べたに膝を付くどころか、このままでは顔から地面に突っ込むのではないか……。一時はそう思いぞっとしたのだが、どうにか踏ん張ったため、それを免れる。

 隣を歩いていた吉村はそんな光景に目をまん丸くさせると、心配そうに視線を向けてきた。

「大丈夫ですか?」

「ええ……どうにか」

 戸惑う吉村に対して何とも言えない恥ずかしさを感じると、烝はその場で足踏みをしてから、「大丈夫なようですね」と小さな声で言う。

 それを聞くなり吉村はホッとすると、口元に笑みを湛えた。

「それなら良かったです。先の長い道中ですからね。怪我でもしたら、何かと厄介ですし」

 それに、足を捻ると何だか無性に歩きたくなくなりますしね。

 そう言うと吉村は痛みを思い出したのか、眉根を寄せると「うわぁー」と声を上げている。それから何の傷も負っていないのに、そっと足をさすった。

「あー、やっぱりこういうことは思い出したら負けですね。何だか足が痛くなってきたような気がしますよ」

「それは昨日今日と歩いているせいもあるのではないですか」

「ははっ、確かにそれもありそうですね。それにしても、昨日歩いてきた道を間を置かずに引き返すことになるとは、まったく思いもしませんでしたよ」

 少しおどけた風の烝の台詞に、吉村は再度笑みを浮かべながらそう言葉を繋げてきた。

 吉村さんは表情に色がある。すぐにころころと表情を変える吉村を見ながら烝はそう思った。烝は彼の言葉に大きく頷く。

「そうですね。これほど短い滞在は、そうあるものではないですから」

「まあ、そう多くあったら嫌ですけどね。さすがに」

「それもそうですね」

 二人の笑い声が、民家の少ない土地に響いてゆく。

 風や空気の冷たさも、こんな時はどこか彼方へと飛んでいくような気がした。

「ですけど山崎さんと行動をするだなんて、何だか長州へ行った時のことを思い出しますよ。まあ、今回は道程も時間も、そう長くはないですけど」

「それはそうですよ。早急の警備を頼まれておいて、まさか半年もの先発なんてさせやしないでしょうし」

 烝は苦笑いを浮かべてそう言うが、吉村の着眼点は、どうも少しばかりずれているらしい。

「半年かぁ。すっかり忘れていましたけど、そういえば半年もの間、長州に行っていたんですよね。そりゃあ今回も探索とか偵察とか色々と頼まれていますけど、やっぱりそんな長くはないんですよね」

 ですけどこういうのって、何だかものすごく遣り甲斐を感じませんか?

 真正面から思いっきり輝いた瞳を向けると、吉村は訊ねてきた。いきなり迫ってこられたことには驚いたが、異論はないので賛同する。

「確かに、短かろうが長かろうが、こういった仕事は遣り甲斐がありますね」

「やっぱりそうですよね」

 同じ意見だったのがよっぽど嬉しかったのか、吉村はへらっと少年のように笑った。そんな彼を見ながら、烝はもう一年も前のことを思い出す。

 あの頃はまだ烝自身も諸士調役兼監察で、吉村とは行動を共にしてばかりいた。もしかすると、その年最も行動を共にしていたのかもしれない。

 その中でもとりわけ長州下りは厳しく、裏では『生死を賭けた、敵国への密偵だ』とまで言われていたのだという。

 確かに向かうのは倒幕派の本拠地。気が重かったのは、今でもはっきりと覚えている。

 間者と勘付かれようものなら、どうなることか……。

 当時は常にそんな不安ばかりが脳裏を過り、行き交う人の全てが恐ろしく思えたこともあった。今思い出してみても、あの日々の私達に気の休まる時はひと時もなかったのではないだろうか。

 そう考えると、実際の月日よりもずっと長く、その時間を感じていたのかもしれない。

 烝は足元に視線をやりながら、草鞋わらじが砂を転がす様をぼんやりと眺めていた。思い起こせばこの草鞋も、あの頃――いや、それ以前から履いていたのではなかったか。

 取り巻く状況が変わっていっても、身近な物は案外変わらないのかもしれない。

 そのことに僅かな安堵と焦りを覚え、烝は足元から正面へと視線を移した。

 延々と続くあぜ田圃たんぼが左手に、干してある柿や大根に彩られた軒先が右手にちらりと見て取れる。それらに挟まれた道は砂色にくすんでおり、所々に小石と枯れた雑草があるだけだった。

 また民家のずっと奥には淀川が悠々と流れており、そろそろ中流に入るのではないかと目算する。

 もうここまで来てしまったのかという思いと、まだここまでしか歩んでいないという矛盾した思いが、烝の心の中にすっと生まれた。

「ところで山崎さん、聞いてくださいよ。先日盛岡にいる妻から文が届いたんですけど、ついに末っ子がどこかで喧嘩をしたらしいんです」

「末のお子さんが?」

「ええ。まあ喧嘩をすることは成長している証だと思えて嬉しいんですけどね。反面、親としては大人しく朗らかに育ってもらいたいものですから、本当、嬉しいやら困ったもんやらで」

 どうしたもんですかねぇ。と尋ねる吉村の目尻は、すっかり下がりきっていた。

 少々寂しさを覚えていた烝は、そんな吉村の姿を見て胸が温かくなるのを感じる。それと同時に、家族の温かさをも思い出した。

「ですが、喜ばしい限りじゃないですか。人は誰しも喧嘩などを通して、心の成長を繰り返すものです。人を傷つける痛みも、傷ついた時の痛みも、そこで多くの人が学ぶものですからね」

 傷つけば、その痛みに悲しみを覚える。

 また傷つけた時は、その痛みを思い出して罪悪感にさいなまれる。

 そのようなことを繰り返して育ってゆくのは昔からで、それはどれだけの回数を繰り返したとしても、完全に覚えることなどできやしない。その証拠に大人となった今でさえ、誰かを傷つけ、傷つけられてということを幾度となく繰り返している。

「傷付いて、傷付けられて、だからこそ人は成長していくんじゃないでしょうかね。思いやりも、我慢も、そういうことを通して学んでいくものですから。それがやっと、あなたのお子さんにも始まったんですよ」

 烝にそう言われると、吉村は先ほどよりも引き締まった精悍な笑みを浮かべていた。左目の下にある古傷が、それに伴い僅かに上がっている。

「そうですよね。きっとこれから学んでいってくれますよね」

「ええ」

「優しい子にも育ってくれますよね」

 良かった――。

 本当に安心しきった声で呟くと、吉村ははたと口を開いた。

「そういえば一方的に喋ってしまいましたけど、山崎さんにも奥さんがいらっしゃるんですよね」

 元気にしておりますか、と訊かれ、烝もまた破顔して返した。

「先日の逢瀬の際には、わらべのように走るほど元気でしたよ」

「童って……それって褒め言葉なんですか?」

「妻自身そう言っておりましたし、あのような無垢な様は、童に例えるのが最適かと思いますが」

 道端に伸びる二つの影を、楽しい思いで見つめる。

 思えばあの日も、二つの影を並ばせて京の町を歩いたものだ。悲しいことも確かにあったが、あの時間はかけがえのないものであったように思える。

 蘇る記憶に思わず頬が緩むと、それを見ていた吉村が、隣で意味ありげな微笑を浮かべてきた。

「あららー? もしかして山崎さん、惚気てます?」

「そういえば土方さんにも、同じことを言われましたね」

「え、それって新選組公認ですか」

「それはどうでしょう」

 ふふっと笑うと、烝は晴れやかな顔を吉村へと向けた。

「けれどうちの妻は別嬪さんな上に温和で、家のことも得意としますからね。惚気ていると言われても仕方ないでしょう」

「それならうちの妻だってそうですよ。それこそ見た瞬間に胸がときめいて、息もできなくなるほどに」

 ちなみに得意料理はひつみです! と、必死ながらに輝きを湛える声で言う吉村に、烝は『してやったり』と言わんばかりの表情を向けた。

「ということは、吉村さんも惚気組みですね」

 にんまりと笑いながら、烝は吉村の顔を覗き込んだ。

 しばらくポカンとしていた吉村は、ようやく置かれている状況に気づくと『してやられた』という驚きを顔に浮かばせながら、開き直って烝の肩を小突いた。

「いいじゃないですか。惚気上等ですよ、私。むしろ惚気てなんぼです」

 川のせせらぎが、徐々に近くなってくる。

 先日の雨で水は増し濁りはあったものの、溢れることなく流れ続けていた。

 眼前には淀川を挟んで、山の裾が近くなってゆく様が目に見える。

「ええ。私も惚気てなんぼだと思います」

 そろそろ京へと入る頃か。

 親類や旧友の誰とも会えずに摂津せっつを出る。そのことに後ろ髪を引かれながらも、烝は努めて明るく振舞った。

 惚気てしまえば、寂寞たる思いも覆せると思ったから。



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