二章 高峰の夢夜、闇に沈みて(3)
三、
一通りの仕事を終えると、欠伸を噛み殺しながら烝は卓上に紙を広げた。先日会ったばかりだから、というのもあるが、こうやって手紙を書くこともずいぶん久しいなと感じる。
疲れているはずなのに気分が高揚していくのを感じながら、烝は書道具一式を広げると、そっと筆を浸した。
『山崎琴尾様
寒気凌ぎ難く相成る中、一筆申しまいらせ候』
さらさらと書いた一文。
『寒さが堪え難くなっている中、手紙を書きます』だなんて、これでは琴尾に余計な心配をかけてしまうだろうか……。
心配をかけないためにも、こうして文を書いているのにな。
ふとそんなことを思うと烝は口元に僅かながら笑みを浮かべ、それから再度筆を紙の上へと下ろしてゆく。
――私達は京都を出て、今は大坂で落ち着いているところです。しかし、その道中で雷雨が強かったものですから、些かお前の身を案じてしまいました。近頃は寒さも一段と増しておりますし、体調を悪くしてはいないでしょうか。
あれからだいぶ経つというのに、今でもあの雷の音を鮮明に思い起こすことができる。思い出せば殊更心配する気持ちは募り、烝は筆の先を見つめ続けた。
一人にさせてしまっている妻を思えば、どうしても今すぐ実家へと駆けつけたい衝動に駆られてしまう。だが、
――本当なら、このような場所です。すぐさまお前の元へと駆けつけ、その顔を目にしたいとさえ思ってしまします。ですが、明日には同士と共に、伏見へと先に発たなければならりません。
灯火が視界の端で揺らめいた。
手元に僅かな翳りが生じ、そしてまた橙の明かりは手元へと戻ってくる。
――新選組も近頃は慌しく、一刻の時でさえ惜しいのは、お前も知ってのとおり重々承知しています。ただ、それでもお前に会いたいと思ってしまうのは、一体どうしてなのでしょう。
書いた途端、胸の内はえも言わぬ痛みを発し、同時に唇を噛み締めた。
『どうしてか』
そのようなことなど書かずとも、真意などとうに知れていた。誰もが抱くよう、妻を、家族を愛している。一体それ以外の何があるというのであろう。
気付いていた己の心。それを文面に記し見た時の衝撃は、脈動を早めるほどに強いものがあった。
眼前にある言葉の一字一句のせいで、『会いたい』や『いとしい』の気持ちがより鮮明となり、琴尾の姿をすぐにでも思い起こさせてくれる。いよいよ筆を置いて文も持たずに飛び出してしまいたいという衝動に駆られるところだった。
だがそれはあまりに許しがたいことだ。
どうにか昂る気持ちを抑え、硯の上で墨を足してから僅かばかり拭うと、再度文字を書き連ねていった。
――しかしどれほど願おうとも、今はまだ会える時ではないのでしょう。心苦しくもありますが天命に任せ、いつの日か会える時を待つとします。
筆の払う音が消えると、やがて夜の静寂が蘇る。烝は己を納得させると、全くそのとおりだと思わせた。
そうだ。今でなくとも、必ず琴尾には会える。苦してとも、悲してとも。待てば必ずや良き出来事と自然と巡り会えるのだろう。それが……物事の道理だ。時は我らを見捨てることなど、きっとしない。
記した一文に己をも納得させようとして額に手を当てると、ふぅっと長く息を吐き出した。白く凍えている吐息が、徐々に光の中へと消えてゆく。
――まだこれからは一段と寒さが増してゆくのでしょうが、以後も身体に気をつけて。留守を頼みます。
『師走十四日 山崎烝拝』
カランと音をたて、筆を硯の脇へと置く。
伝えたい気持ちを最小限に詰め込んだ文は、灯火に淡く染まっていた。
ただ不思議なのは、どうしてこれ程までに胸の中が落ち着かないのだろう、ということだった。
琴尾に会えないためか。それとも、仕事に対して一心になれない情けなさからなのか。理由がまるで解らないから、どれだけ考えても堂々巡りになってしまうばかりだった。
掌で目を覆うと、苦しいのも我慢して息を吐き出す。
私は一体、何がしたいのだろうな……。
そんなことさえも解らないだなんて、どうかしている。だが、そう思うものの自分の心がまるで見えないことに苛立ちと悲しさを覚えると、烝は「どうしてしまったのだろうな」と声にならない声で呟いたのだった。
夜は徐々に更けてゆく。




