二章 高峰の夢夜、闇に沈みて(2)
二、
二条城の警護という名誉ある役職は、結局彼ら水戸藩に手渡すこととなった。その最たる理由として、彼らは徳川慶喜将軍より直々に、二条城警護についての命を受けたのだと主張してきたからだ。
確かに慶喜公は水戸藩出身であるから、彼が同藩の者に二条城の警護を頼んだとしても、まるでおかしい話ではない。
そこに疑う余地がないことは解ったが、だからといって、すぐに引き下がれるはずもない。何しろ新選組もまた、命を受けているから二条城の警護に当たっているのだ。
近藤はその旨を伝えた上で、新選組も城の警護に参加する意を示したのだが、それは水戸藩士に聞き入れてもらうことさえ叶わない。
最終的に御三家の筆頭である水戸藩の前で近藤は引き下がらざるをえず、今日十二月十四日、新選組は短き二条城警護の任を終え、京を後にしたのだった。
そして新選組が若年寄である永井尚志に付き添い、大坂へと下って行ったのは、昼八ッ時(午後三時)を幾許か過ぎた頃合。天は日輪をも隠す暗雲に覆われており、彼らは道中、身を射抜かんばかりの横殴りの雨に打たれ続ける羽目となったのだ。
一同はびしょ濡れの身体を震わせながら、宿陣する天満天神(大阪天満宮)へたどり着いた。
到着した途端に隊士達は武具などを置き、濡れた身体を拭いたり、腕をさすったりしている。それどころか寒さのせいで声はすっかり震えており、それはなかなか治まることもない。
見渡せば大半の隊士が血色も悪くなっており、時折鼻水を啜る音やくしゃみをする音さえも聞こえてくるではないか。その光景はとてもではないが、万全とは言えなかった。
烝は見渡していた視線をそっと下ろすと、彼らと同じように濡れそぼった身を無言で拭くことに専念した。
冷たく鋭い冬の雨に打たれた肌は、布が触れると幾筋もの傷をつけられたような感覚にさえ襲われて、思わず顔を顰めたくなってしまう。
暖を取ろうにも身体は芯から冷え切っているために、末端の掌や指にいたっては氷のように冷たかった。痛む腕に掌を当てても何の意味もなさず、どこか浮ついたようなおかしな感触ばかりが生まれるだけ。
仕方ないと鑢にさえ感じられる布を宛がうと、肌に纏う水滴を丁寧に拭った。そういえば、髪もびしょ濡れだったっけ。
ああ、これでは病に犯される者も出てしまうのだろうな。と、烝は感じた。病魔は滅入る気と弱った身体を好み、巣食うと聞く。そう考えると、今日は病魔にとって好条件すぎるではないか。何と言っても、全ての要素が揃ってしまっているのだ。
今晩は隊士の具合に気をつけて見て廻ったほうが賢明かもしれないな。処置は速いに越したことはないのだから……。
すっと肩から力を抜くと、烝は隊士達を見渡した。ざっと見ただけで体調が悪そうな隊士が数人いたことに、今から先が思いやられる。
だがそんな思いも半ばに、通りかかった土方に肩を叩かれた。思考を廻らせていた烝は振り返る。
「おい、山崎。局長会議だ。今すぐ近藤さんの所に来い」
その声は低くぶつ切れており、彼自身気分が良くないのは、確定と言ってもいいだろう。
烝はそんな土方の背に眼を向けると「はっ」と短く返答した。
辺りで隊士が、徐々に徐々にと動き始める。
局長会議には、諸士調役兼監察の吉村貫一郎の姿があった。局長会議とは助勤以上の者が参加する会議であり、監察の彼がここにいることには、少なからず疑問を覚える。
だがそれも会議が始まると、すぐに納得がいった。
「今後の行動について、話をしたい」
そう近藤は口を開くと同時、部屋の両側に相向かうよう並んだ隊士一人ひとりに視線を向けていった。その双眸は昨日の憤りからは既に開放されており、今後を見据えた真剣さが浮かんでいる。
胡坐をかき、その膝の上に置いた手をぐっと握りしめると、近藤は大きく深く呼吸を繰り返した。
行灯の火がゆらりと揺れ、一同の影をも揺らしていく。
「まず第一に、近々京へと戻り伏見にて警衛をすることになると、各々の隊にて伝えてほしい」
「近藤さん。それは一体どういうことか、詳しく聞かせて下さいますか」
助勤達が驚きに顔を染め、呼気の音しか聞こえてこない静寂の中を、永倉新八の声が響き渡った。
確かに彼の言うように、その真意を知りたいというのは事実だ。助勤達は永倉の意見に同意を示すと、近藤へと視線を注いだ。
それを受け止めた近藤は、確かにそのとおりだなと小さな声で同意すると、一度目を閉じる。
「慶喜公が会津・桑名の両藩を従わせ下坂したということを聞いたため、我々も同様に大坂へと下ってきたのは、皆も知ってのとおりだろう。だがな、実はここへ来る道中、永井殿が伏見で警衛をしてはどうかとのたまわれたのだ。また容保公からも、伏見の警護について言い渡されている」
そう言うと近藤は視線を畳へと滑らせ、乾いた唇を僅かに舐めた。
「お前達も解っているとは思うが、倒幕派との抗争が最悪の事態を迎えそうにあるのは、下坂前に目にした薩摩の軍勢を以ってすれば一目瞭然ともいえよう。ましてや彼ら薩摩は、伏見に藩邸を持っている。戦ともなれば、そこが彼らの拠点にもなりえるだろう」
静寂ばかりが降り積もっていった。外から聞こえてくる激しい雨音は、最早外つ国のこととさえ思えてしまい、仕方ない。
烝は胸の内に広がるざわめきをひしひしと感じながらも、右手奥に腰を据える近藤へと視線を注いだ。
永井に付き添い慶喜公の待つ大坂城へと行き、そこで護衛を仕る。
先日はそのように聞かされていたものだから、道中にてそのような言葉が交わされていたとは、尚更思いもしなかったのだ。
だが若年寄だけでなく会津候(松平容保)からも命が下ったとなれば、最早新選組に選択の余地がないことは明らかだ。
だからこそ烝は、近藤の悔いも見せない視線に、ただただ驚き、感服してしまったのだ。
これほ瞬時に気の持ちようが変えられるとは、さすがは近藤さん。何て長に相応しい方なのだろう……。
「そこでだ。先発として助勤の山崎と監察の吉村の両名に、明日伏見へと発ってもらいたく思っている」
だが突然――それもあまりに大きな事柄に、烝は双眸を見開いた。はっとして息を殺せば、油皿の中、ちりちりと燃える木綿の音がやけに鮮明に聞こえてくる。
まさか、私達が? そう思い、不躾にも近藤を凝視してしまったのだが、注いでいた視線は近藤に注がれ返されてしまい、これが空耳ではないのだと思い知らされる。
そんな中、静かな声で「頼めるか」と聞かれてしまったのだから、それを拒むことなどできるはずもない。
表情を普段のものに戻すと、烝は「承りました」と頭を垂れ、また左隣に座っている吉村も「承知致しました」ととおった声でそう答えた。
それにしても、先発という大役が回ってこようなど、誰が想像できただろう。
喜ばしいのか、恐ろしいのか。それさえも最早解らなかったが、頼まれた任務に応えなければならないことは、入隊した頃から知っている。それにこれだけの大役を任せられるということは、それだけ信頼されていると取ってもいいだろう。
それを思うと、どうしても緊張の中にさえくすぐったいような気持ちが生まれてくるのを抑えられない。けれど、これも毎度のことだなと感じると、烝は改めて気を引き締めた。
遠く部屋の奥に構えている近藤の雰囲気が、若干やわらかくなるのを肌で感じる。
話はその後も、幾許か続いた。