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一章 浅黄色と在りし時間に(3)


     二、


 しばらく辺りを廻った後、二人はとある茶屋を前にして足を止めた。そこは先日、烝が伍長の島田魁の勧めで立ち寄った店だった。

 かつて諸士調役兼監察として共に働いたこともあって、烝と島田は非番の日を共にすることも少なくなかった。

 その上稀に見る大柄な風貌にも似合わず、島田は極度の甘党という意外な一面を持っており、そのせいもあってこのような店にもよく訪れている。そしてここは、そのうちの一軒だ。

 実に面白い御方と友になったものだ。

 胸の内だけで島田に感謝を述べると、烝は琴尾へそっと振り返った。

「今日は疲れたろう。何しろ、長いこと歩かせてしまったからな」

 注文を終えた烝はそう言うと、琴尾と共に店の前に置いてある腰掛けに腰を下ろした。燦々(さんさん)と降り注ぐ陽の光がほのかに温かく、歩きっぱなしだった足も、どこかほっとしているように感じられる。

 二人は互いに肩を並べると、目の前を行き来する人の流れにそっと目を向けた。

 さくさくと土を踏む人々の足並み。雑談に興じる婦人の姿。追いかけっこをする子供達が数人駆けて行っては、それを微笑ましそうに見守る町の者が軽い注意を促していて、子供達もまた軽い調子で返事をしている。

 そこにはいつもと変わらない京の町並みが広がるばかりだ。きっと特別に思える二人の姿でさえ、いつもと変わらない光景の一部に組み込まれているのかもしれない。いや、きっとそうだろう。

 久々の逢瀬とはいっても、傍からは、きっと仲のいい夫婦にしか見えてないのではないだろうか。

 だが、もしそんな風に見られているのだといたら、それはそれで嬉しいことかもしれない。烝はそんな風に感じていた。久々に会って……と思われるよりも、ただ仲が良いと見られる方が、気持ちとしてはずっと嬉しい。

「ねぇ、烝さん」

 しばらくすると琴尾に話しかけられ、「どうした」という烝の言葉をきっかけに、二人はぽつりぽつりと話し始めた。

「お仕事の方は如何ですか」

「大きなものも幾つかあったが、それ以外は以前とたいして変わらないな。朝は山口やまぐちさんに手合わせをしてもらい、それが終われば怪我や病を負った隊士の手当てをしたり、見廻りをしつつ町人の声を聞いたりもしている」

 以前より少なくなったとはいえ、秘密裏に動くこともあった。本当に何も変わってはいない。

「だが、確かに何も変わらないが、それが嬉しいとも感じている」

 変わらないということは、良くも悪くも世の中が安定していると捉えることができた。京の治安は荒れた部分も多いが、それでもかつてより悪くなったとは思えない。こんな時代だからか、そんなことにさえほっとしていた。

 琴尾は「そうですね」と頷くと、まるで自分のことのように喜んでくれる。ちょっとばかり照れくさくなった烝は頬を掻いた。いくら武士として生きようと決めたからとはいえ、愛する人からそんな風に微笑みかけられれば嬉しく思わずにはいられない。

「ところで琴尾。皆は元気にしているだろうか」

 烝はそんな気持ちを落ちつけようと、空を仰ぎ見ながら尋ねた。

 その先に浮かんでいるのは、優しき弟と今は亡き父母の姿。そして、旧友の笑顔か。

 逢瀬で烝が摂津に帰ることはそれこそ少なかった。故郷にいる旧友や家族と顔を合わせたのは、果たしてどれほど前のことだったか。それすら思い出すのに時間がかかるほど、たくさんの時間を隔ててしまっていたのも事実である。

 彼らは元気にしているだろうか。

 そんな思いを馳せていると、琴尾はふふっと微笑んで、「皆さん病気もなく、実に元気に過ごしておられますよ」と言ってきた。

 その言葉に胸を撫で下ろすと、烝は無意識のうちに「そうか」と小さく呟いていた。そうか、良かった。ただそればかりが、安堵と共に占めていく。

 ……だが、胸を撫で下ろしたのもつかの間か。風と共に快いとは言い難い言の葉が、二人の耳を突いてきたのだ。悪意のないものの鋭く研ぎ澄まされた言の葉は、容赦なく胸を抉ってくる。

 視線をさまよわせれば、それほど離れていない所に、屯している人々の姿が見て取れた。交わされている言の葉は、全てそこから生まれている。

 油小路のことも、殺してなどいない坂本さかもと龍馬りょうま暗殺のことも。その全てが……。

 確かに油小路での一件に関しては、新選組に過ぎた部分があったということは、当事者側から見ても否定することができるものではなかった。多くの血を流し、ましてや凄惨な現場を五日もの間、血肉に塗れたまま転がしておいたのだ。それも、人々の目につくと知っていながらだ。

 しかし、それによって坂本龍馬暗殺の濡れ衣を着せられるなどと、誰が想像できただろう。

 なるほど。日頃の行いが肝心とは、よく言ったものである。それは今日のようなことを戒めるために作られたに違いない。

 絶望を心の底から感じると、烝は硬く目を瞑った。

 反面、視界が暗く覆われたせいか、彼らの容赦ない非難は、より鮮明になって烝の元へと届いてくる。そしてそのたびに、内に秘められた暗澹あんたんたる気持ちは一層の粘り気を帯びてゆくようにさえも感じられる。

「ねぇ、烝さん」

 それは、琴尾とて同じことではないだろうか。

 噂話から受けたあまりの衝撃に、琴尾は烝の着物の袖を掴んで、愁いを帯びた面をそっと俯かせた。それも仕方がない。大坂に住む琴尾の元にはその事件が伝わってもいなければ、烝もまた彼女にその事実を話してなどいないのだ。自らの夫の勤める組織がそのようなことを行っていると知って、恐ろしがらない者などそういないだろう。

 しかし烝の考えとはまるで違い、琴尾は緩く首を横に振ると、「私という女は、いけませんね」と言ってくるではないか。

 突然のことに思考がついていけないでいると、琴尾はか細く震える声で続けた。

「このような気持ちではいけないと重々承知しておきながら、私は本当に、短慮たんりょな妻ですね。けれどあなたのことを考えると、身勝手ながらもそのような考えにたどり着いてしまうのです」

 それでもなお、彼女が何を伝えようとしてくれているのかが飲み込めずに、烝は滅入っていた心中と共に困り果ててしまった。と同時、琴尾が意味のない言葉を口にしないと解っているからこそ、彼女の言葉に潜むものがつかめない自分自身に嫌悪感を覚える。

 ただ、何も言わないままでいることもできない。そんなことはとうに解っていた。気まずいとか解らないとかではなく、何かしらの反応を示さなければ、琴尾の心を踏みにじることは、最早明白と言ってもいいだろう。必死になって言葉を探したのだが、

「それは……?」

 やっとの思いで見つけ出したのは、あまりに短い問いかけだった。

 この時ほど己の寡黙さを呪ったことが、果たしてあっただろうか。なかなか口をついて出てこない言の葉に。そして、まるで心に伝わらない言の葉に。どうして気の利いた言葉の一つも言えないのかと、自分が嫌になってくる。

 だが、自己嫌悪に陥っている烝に琴尾は小さく首を横に振ると、一呼吸置いてから、「琴尾の戯言として、お聞き下さい」と再度口を開いた。

「私はずっと、あなたと共に過ごしたいと思っておりました。それは今も変わることなく思い続けていることです。とはいえ、あなたが抱く望みがあるのだとすれば、それは私自身の望みともなりましょう。否定などできるはずもございません。ですが烝さん。私はあなたをなくしたくはないのです。この戦乱の世、武士なる御身はあまりに危険を伴うことと存じ、だからこそ心配なのです。不逞な者がいるとあらば、尚更に」

 辺りは静寂に包まれたかのように、全くの無音にしか感じられない。北風がこれほど痛いものだと、どうして今になって気付いてしまったのだろう。

 烝は胸に積もる気持ちを言葉にできず、唇を噛み締めた。

 今、この京には諍いが絶えない。ましてや新選組といえば、薩長どころか御陵衛士とも対立する立場にあった。命はいつ何時落してもおかしくないだろう。現に先ほどから囁かれているように、物騒な出来事は起こり続けているのだ。琴尾が案ずるのも、無理もない。

 冷たい風が、染入るように漂ってくる。

 それを肌に感じながら、烝は琴尾に向けていた視線をすぅっと落とした。すると、視界は地面と共に自らの足で埋められる。

 その足を見つめながら、烝は本当にこの足は逞しいのだろうかと不安になった。本当にこの足で戦場を、死線を、越えてきたのだろうか。自信に満ちたまま「そうだ」と言い切ることが、果たしてできるのだろうか。琴尾に心配をかけてしまっているこの身で、そのようなことをどうすれば言えるのだろうか。

 ……ああ。もしかしたら気づかぬうちに、私はどんな者より多くのものを、琴尾に背負わせてしまっていたのかもしれない。そんなことに、今更ながら気づかされた。

 視界を暗闇で覆われるような感覚が烝を襲ってくる。すると彼の着物の袖を掴みながら、すみませんと琴尾は小さな声で謝罪した。

 その言葉にはち切れんばかりの悲しさを覚えたのは、きっと罪のない彼女に謝らせてしまったことだろう。

 烝は緩く頭を振ると琴尾の手を両の手で包み込み、そして引き締めていた口を開いた。

「謝らなくていい。琴尾、どうか面を上げてくれ」

 烝の顔は悲しさのあまり、眉根は寄り、瞳は揺れている。

 それを見つめていた琴尾の顔もまた、悲しみかげっており、その心中をくみ取ればくみ取るほど、胸が苦しくなっていくのを感じた。

 包み込む手を見つめると、烝は更にその双眸を辛そうに細める。

「私のせいで、お前にまで余計な気を使わせてしまっていたのだな。解っていたつもりなのにまるで解っていなかったとは、己の不甲斐なさに憤りさえ感じる」

「そのようなことは――」

「いや、実際そうであろう。結ばれて間もなく家を出、浪人となり武士となり、挙句の果てには世の混乱に巻き込まれている始末だ。幾度お前を苦しめてしまったのだろうと思い知れば、どうしようもないほど私は自分が許せない」

 琴尾の言葉を否定してまで、抱き続けてきた思いを連ねてゆく。その言葉に琴尾は一層の翳りを見せるが、烝はあえて気付かない振りをした。

 このままでは己の心までもが折れてしまう。そう感じたためだ。

「だが……いや。だからこそ、お前に伝えておきたいことがある。それを今から、聞いてはくれぬだろうか」

 新選組への非難の声が消えぬ中、そう言うと琴尾は「勿論にございましょう」と頷いてくれた。

 烝は瞼を伏せると、そっと続ける。

「お前の言うとおり、今はこのような時勢だ。もしかすれば、この地で命を落すとも限らないだろう。だが、もし生き抜くことができ、かつてのような生活に戻れるのだとすれば、その時はお前の傍にずっといると誓おう。ずっと、ずっとお前の笑顔が続くよう、愛すると誓おう」

 夢のような話だとは、薄々感付いていた。

 大体、誰一人として新選組からは抜けられない。かの局中法度にも『局ヲ脱スルヲ不許ゆるさず』と記されているのだから。

 だが、烝は一縷いちるの願いに賭けていた。

 いつの日にか倒幕を目論む尊皇攘夷派の運動やいさかいも絶え、平和な世が訪れればと。

 そうすれば新選組にも、何かしらの変化が訪れるかもしれないだろう。勿論訪れない可能性も十分に考えられるが、もしも変わるのだとすれば、それは自ずと良い方向へと向かってくれるに違いない。

 新選組が消えることは望まない。確かにあそこは私がいるべき場所の一つであることに変わりないのだから。だから……。

 白雲は流れ去り、小鳥は天空を舞ってゆく。

 綿のような姿をした吐息が口の端から漏れていくのを見ると同時、琴尾が寄り掛かってくるのが肩に感じられた。

 衣越しの熱も、重さも、鼓動も、その全てが鮮明に思えてたまらない。

 呼気に揺れる胸の上下が、互いに重なった。

 やがて世界の全てが日輪に包み込まれ、

「待っております」

 すると、澄んだ声色が冷たい空気を震わせていった。

「次は是非、烝さんが大坂へと御出で下さいな。道程は遠いでしょうが、必ずやあなたを迎えにあがります」

 顔ごと視線を向ければ、寸刻前とはまるで違う。翳りのない微笑を湛えている琴尾の姿が、そこにあるではないか。

 あまりの美しさに、喜びを湛えた心の中はどこまでも温かい。

 それらをしかと胸中に抱きながら、烝はそっと返した。

「そうだな。では春の頃、そちらへと訪ねさせて頂こう」

 それはなんと楽しみなことだろう。

 非難の声はいつの間にか消えており、再三町に活気が溢れてゆく中、頼んだ甘味を看板娘が運んできてくれた。その甘い香りに包まれながら、烝はそっと琴尾の肩を抱き寄せた。




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