一章 浅黄色と在りし時間に(2)
一
ある一軒の宿屋に入り主人に尋ねると、まだ出立はしていないとの声が返ってきて、烝は胸を撫で下ろした。
琴尾が京に来る際にこの宿に泊まるのは解っていたのだが、何しろ今回は来るのに時間がかかってしまった。勿論遅れたのは、烝が気後れしていたためもあるだろう。そのため彼女がまだ宿にいてくれているのかという心配があったのだが、嬉しいことに杞憂で終わってくれたらしい。
二階の右手最奥の部屋だという主人の言葉を思い返しながら、烝は玄関からすぐの所にある階段を上っていく。一歩踏み出すごとに軋んだ音が足元から聞こえてくるが、不安も心配もまるでない。
ほどなくして階段を上り切ると、すぐに琴尾がいるであろう部屋を視線が捉えた。胸がこれ以上ないくらいに高鳴っている。
落ち着け、落ち着け、と胸中で幾度も唱えた。そんなに胸を高鳴らせるほど、若いわけでもないだろう?
ひたひたと廊下を歩んでいった烝は、そっと襖に手をかけた。悔しいことに、心の臓は落ち着くということを知らないらしい。烝は一度、長く細く息を吐き出した。それからふと、思い起こす。
前回会ったのは、果たしていつだったか……。
緊張にも勝る喜び。ああ、前回は初夏の頃だったかと、しばらくして思い出す。
そうか。もうそれほどの月日が流れていたのか。
思えば思うほど、幸福感は募ってゆく。歳を重ねたからって、何が悪い。幸せと思うことに、そんなことなど関係ないだろう。自分で思ったことにケチをつけると、もう一呼吸置いてから烝はそっと襖戸を滑らせた。
すると視界に入ってきたのは、部屋の片隅から階下の行き交う人々を眺めている愛妻の姿だった。正座する膝に小さな手が揃って乗っているのも、ぴんと伸びるその背筋も、昔から何一つとして変わっていない。
藤色の着物を纏った琴尾は襖が開いたことに気付くと、ゆっくりと振り返りながら大きな瞳をそっと細めた。立ち込めていた空気が、それだけでぐっと軽くなる。
「ずいぶんとまた、練習をされてきたのですね」
「え……」
「だって烝さん、呼気が乱れておりますもの」
それてとも、遅れると思って走られたのですか? と笑みを浮かべる琴尾に、烝は部屋の前で立ち尽くした。
どうやら琴尾には全てを悟られているらしい。それとも窓の外から、走ってくる姿を見られたのだろうか。
くすくす笑っている妻を前にして、思わず声を出すことさえ忘れてしまいそうになる。
「そうか……いや、そうだな」
だが、それを真っ向から認めるのも男としては恥ずかしいなと思うと、自然と口から出てくる言葉は曖昧なものになっていた。部屋に入り、小さな音を立てて襖を閉める。
どうせ見られていたのなら、墓穴を掘ろうが構うものか。
口元に手を当てて必死に笑い声を堪えている琴尾を見て、烝は頭を掻いた。しかし、烝の赤く染まった頬には小さな笑みが浮かんでいる。どうやら笑みというものは伝染するらしい。
「やっと微笑んで下さいましたね」
琴尾は烝を見ると、さも嬉しそうにそう言ってきた。
まさかこのような問答が続くとは、思いもしませんでしたよ。と、からかってくる彼女に、烝は面目なさそうに「すまない」と呟く。
「あまりに懐かしくてな。つい」
「まあ。では約束をお忘れになったわけではないのですね」
「当たり前だ。誰がお前との約束を忘れようものか」
冬の空気さえ寄せ付けないほどの温かさを纏いながら、二人は互いに微笑みあった。
『私と会う時には必ずや、その笑顔を見せて下さると』
烝がその言葉を忘れたことなど、一度としてなかった。愛する者と交わした約束を、どうすればそう頭の隅へと追いやれるだろう。
脳裏を過ぎってゆく、あの日の光景。
忘れたことなど、たったの一度としてあるものか。言葉も、契りも、琴尾のことも――。
室内はやがて心地よい静寂に包み込まれた。キンと耳の奥で聞こえてくる音は、果たして冬の鳴き声か、それとも冬の駆け足か……。
「けれど本当に久方ぶりで」
椿のように艶やかな紅を引いた小さな口元を綻ばせながら、琴尾の微かに感情の篭った声が空気を振るわせた。
「あなたとお会いできるこの時が、これほどまでにいとしいと感じたことなど、今までに何度あったでしょう」
白く細い右の手が、そっと彼女の胸元に当てられる。
瞼を伏せ感慨に浸っている琴尾の姿に見惚れる烝も同じように口元を綻ばせた。その口から、ふっと一つ吐息が漏れる。
「私はお前ではないから、その喜びが如何ほどのものかなんて、到底理解することもかなわない。だが、私だっていつも、その様なことを感じていた。お前と会えばいつでも嬉しく、その全てがいとおしくさえ思えてしまう」
瞼を下ろせば、淡い闇が視界を包み込んでゆく。
琴尾の手とはあまりにも違いすぎる、無骨で色黒な自分の手。それをゆっくりと額に当て、そうっと双眸を開いていった。
「ずっと……ずっとお前に会いたかった」
普段にも増してゆっくりと、一つひとつの言葉を紡いでゆく。元々、烝は普段から口数の少ない青年だった。故にその言葉には重みといおうか。胸に響くものが確かに宿っている。
琴尾は胸に当てていた手を小さく握ると、彼とは反対に俯き目を閉じた。そんな琴尾を前にして、何か気に障ることでも言っただろうか……と烝は不安に駆られる。
すると突如、膝に乗せていた手がふわりとした感覚に襲われた。今までの不安もどこへやら。今度は何ごとかという思いで、胸の中がいっぱいになる。
「琴尾?」
それも琴尾が両手で彼の手を包み込んでいたからだと解ると、烝は吐息のような声で彼女に呼びかけた。
琴尾は相も変わらず目を瞑っていたが、烝の声が届いたのだろう。包み込んでいた手にきゅっと力が込められるのが感じられた。ただ、それがあまりにも弱々しく思え、烝の胸中には新たな不安が押し寄せてくる。
琴尾。お前は一体何をその胸に抱いているんだ……。
烝にとって琴尾の心は解らないからこそ、怖くてたまらなかった。そして、夫婦の契りを結んでいるからこそ、相手のことが解らずに、ましてや何一つとして気の利いたことができない自分が許せなくて、情けない。
胸が詰まるのを感じると、烝はさまよわせていた視線を琴尾にやった。すると彼女が何か呟いているのことに気付いた。
上手く聞き取れなかった烝は、「どうしたんだ」と尋ねた。琴尾は小さく頭を振ると、俯かせていた頭を上げ、
「まさか烝さんがそのようなことをおっしゃってくれるとは思いもしませんでしたので、何だか感極まってしまいまして……」
いつもなら胸の内だけで済ませてしまうでしょう? と言いながら、嬉しそうな表情を向けてくる。
そういうことだったのかと納得すると、途端に強張っていた表情が緩んだ。烝は思わず安堵の息を漏らしてしまう。想いが筒抜けだったのは置いておくとしても、確かにいつもなら口にはしないようなことだった。
「烝さん」
優しい声が、心地よく空気を揺らす。
どうした、と聞き返すと、琴尾はまっすぐに烝の目を見ながら口を開いた。
「私もあなたに、会いたかった」
さらさらと流れる時の音色。
以前会った夏の日とは異なる、静々とした雰囲気。
全てが色褪せてゆくこの季節の中で、どうしてここばかりは鮮明なのだろう……。
包まれた手に添えるようにして、琴尾の小さな手を包み返した。胸の中には春が訪れたような暖かさが沁みわたっていき――それなのに、胸にはしこりが感じられる。
理由なんて、そんなことなど知れていた。だからだろう。烝の口からは、自然と言葉が紡がれていった。
「いつになれば、お前に『帰った』と言えるのだろうな」
それはこの和やかな雰囲気に容易く亀裂を入れてゆく。烝自身、今までとは明らかに異なる静けさに感付いていた。
勿論口にしてしまったことへの後悔はすぐに生まれたが、それを今更なかったことになどできるはずもない。
そもそも新選組が――そして隊士達がさいなまれている問題は、背負うにしてはあまりに大きすぎていた。戦も不逞浪士も、厄介な存在であることに変わりはない。だが、尊皇攘夷派から外者から、問題は時を経るごとに増すばかりだ。心に余裕を持つのも難しい。
そして烝も新選組の隊士とはいえ、一人の人の子にすぎなかった。
だから、「一体いつになれば、平穏は訪れるのか。それとも端から、時代は時の流れに飲まれる他ないのか」ということに心を囚われることも少なくなかったし、婚儀をして間もなく離ればなれとなって以来、一人残してきてしまった琴尾と会うたびに、早く「帰った」と言ってあげたいという思いに駆られ続けていたのだ。それも、その望みが現時点では叶わぬ戯言だと知っておいて、だ。
それは酷く彼の心を痛めつけ、精神を追い込んでいった。ただ、普段は多忙な仕事で、その思いを押し殺していたにすぎない。
時代はいつになれば、私を琴尾の元へと帰してくれるのか。それとも時代はもう、私を琴尾の元へと帰してはくれないのか……。
そしてその問いかけは、琴尾とこうして会った時にだけ、ひょっこりと頭を覗かせてくる。今回はその思いが、胸から口をのぼってこぼれてしまった。たった、それだけだった。
烝は自らの過ちで表情を翳らせている琴尾を見て、このままではいけないと感じ取る。不安そうな琴尾に微笑みかけ、
「だが帰る場所は、今も昔も変わらぬか」
そう言って握っていた手をほどくと、代わりに彼女の方に膝を進め、琴尾の身体をきゅっと抱きしめた。お互いの鼓動が、とくんとくんと感じられる。
「いつかは解らない。だが……その時はお前の元へ帰っても良いだろうか」
すると、普段は見せない弱みと甘えが、するりと口から出ていった。そんな言葉をかけてきた夫に琴尾はくすりと笑うと、控えめに烝の背を撫でさすってくる。
「当たり前ではないですか。私の隣は、あなたのためにあるようなものですよ。そのようなことを言わずとも、この場をあなた以外の方に捧げるものですか」
いつでもあなたの場所は、とっておいてありますよ。
そう告げてくる琴尾の言葉に胸がいっぱいになると、烝は抱擁を交わす中、たった一言だけ呟いた。
「かたじけない」と、たった一言を。
日が頂点へ達する頃になると、烝は琴尾を連れて宿屋を後にした。
今日は普段の黒衣黒袴の出立ちとは打って変わって、草色の長着に榛色の中羽織といった物を烝は身に纏っている。しかし、相変わらず腰には脇差を佩いていた。
隣を嬉しそうに歩く琴尾を見た烝は、心が底から温かくなっていくように感じる。
あれからしばらくの間、二人は室内で――それこそ夫婦らしく他愛のない言葉を交わしていたのだが、折角ここまで来たのだからと、京の町を見て廻ることにしたのだった。
逢瀬でもない限り京都に足を運ぶことのない琴尾は、ひどくそのことを喜んだ。大坂とはまた違う人々の活気や言葉の使い方を、殊更気に入っているらしい。
しかし、山崎烝といえば新選組の、ましてや副長助勤という身分の者だ。長人(長州人)に正体が気付かれようものなら、この先何が起こるかも解らない。そうでなくとも今まさに、この日ノ本の国は平静を保つには危うい状況にあるのだ。
いくらかつては諸士調役兼監察という裏の仕事を受け持っていたとしても、烝も新選組に務めて早四年。名ばかりはとうに知れていることだろう。
そのため姿を悟られるわけにもいかず、このような身なりをせざるをえなかったというわけだ。
もっとも刀は一般の者の持ちえる物ではないので、それだけでも十分に目立っていたであろうが。
足を踏み出すたびに、下駄が小さな音を立てる。
透きとおった冬の空は突き抜けるように青く、また雲はそれに溶け込むかのように白い。淡い空色の階調。その中を一筋の風が駆け抜けていくのが目に見えるようだった。
「あまり急ぐな。転んでしまうぞ」
橋の手前に来た途端、烝の隣を歩いていた琴尾が軽い足取りで駆けていく。
いくら機嫌がいいからといっても、格好が格好だ。そのためやんわりとした口調で烝は諭したのだが、
「大丈夫ですよ、烝さん。これでも私、昔からかけっこは得意なんですよ」
と、彼の心配などどこ吹く風で、琴尾は実に嬉しそうに振り返りながら、橋の中ごろまで走っていってしまった。
まったく、我が妻ながら元気なものだ。と烝はその顔に苦笑を浮かべる。
「しかしそのような身なりでは、些か動きにくいだろう」
「そうでもありませんよ。慣れてしまえば、我が身も同然です」
何でしたら、童のように走ってみましょうか?
舞うような滑らかな動きで腕を振ると、花のような表情が向けられる。
言うが早いか、今度はもと来た道を辿りながら、琴尾は烝の方へと駆け寄っていった――と、烝との距離あと二、三歩の所で、不意に足が縺れてしまった。
琴尾の身体が倒れていく中、烝は素早く自らの両腕を差し出した。それが彼女を受け止める衝撃を受けると同時、二つの小さな悲鳴が空気を震わせててゆく。
しんと辺りが静まり返る中、烝は安堵からか、ついつい僅かな笑い声を漏らしてしまった。形勢逆転、とは言わないが、
「やはり動きにくかったな」
琴尾が見ているのを知っていながらも、そう声に出した。当の琴尾は、やはり恥ずかしいのだろう。烝の胸に顔を押しつけながら、「そんなことありません」と小さくもきっぱりと否定してくる。
その様があまりに愛らしくて、烝はそうかと頷くと琴尾の背を優しく叩いた。
「だが気を付けて歩まねば。怪我に苦しむのは嫌であろう」
差し出した時とは違い、ゆっくりと両の腕を離していく。
それが完全に離れた後、琴尾はほんのりと赤く染まった面を上げてきた。
道中を行き交う人々の声を遠く聞きながら、琴尾は「そうですね」と言うと、恥ずかしそうに瞼を伏せる。
身を震わせるほど冷たい風が、人々の合間を縫っては駆け抜けていった。
赤面する妻を目にした烝は、悪いと思いながらも更に顔を綻ばせ、俯く琴尾の前にすっとその手を差し伸べる。
いつもは気丈で、だけど時折童心に返るその姿がいとおしくて、
「行こうか。お日様は待ってくれないからな」
そんな彼女とだからこそ、多くの時間を笑顔ですごしたかった。普段は会えないから、余計にその思いが強かったのかもしれない。
ざわめきの蘇る町の中を、烝の澄んだ声が彩ってゆく。彼の穏やかな表情を見た途端、琴尾は今までの恥ずかしさも他所に、溢れんばかりの笑みを向けると、確かな声で「はい」と言った。
琴尾が重ねてきた手を取る。二人はゆっくりとした歩調で歩みを再開させていった。町の温かな雰囲気に包まれながら。