終章 見えぬ道の行方
「馬鹿か、お前はッ!」
ドンと突き飛ばされた烝は、口から小さな吐息を漏らした。
「武士になりたいだなんて、そんな者になれるものか! 大体お前は、医者の子だ。いい加減現実を見つめたらどうなんだ!」
「父上は何も解っていない。これは……これは私の人生ですよ。私だって、もう立派な大人なんです。自分の生き方くらい、自分で決められる!」
一度噎せてから鋭い視線を送ると、烝は突き飛ばされた胸が痛むのも気にしないで、口早に思いを吐き出していく。
「ふざけたことをぬかすな!」
だが、降り上げられた父親の掌がひゅっと下りてくると、それは乾いた音を立てて烝の頬を打っていった。後になって、じわりとした痛みと熱がこみ上げてくる。
「私は、お前を武の道に導くために、医の道を教えたのではない! それすらも解らぬとは――ッ」
怒りに顔を真っ赤にさせた父親は、拳を震わせると最後に言おうとした言葉を飲み込んだ。息子の顔など見たくもないと言わんばかりに、さっと踵を返してしまう。
未だに頬が痺れる中、烝は動くことすらできずに父親の後ろ姿を見送った。正直、反抗してもまるで父親には追いつかない。その思いで、胸が詰まるようだった。
医者としての技術は認められても、他の部分ではまるで認めてもらえていないのか。
パンと襖が閉まる音と共に自らの気持ちも弾けさせると、クソッと呟いて頭を抱え込む。
身につけた知識が、ひどく重く感じられた。
「あらあら。また、ずいぶんと派手に……」
赤く腫れ上がった頬を見ながら、琴尾は呑気にそう言ってきた。
「烝さんの頑固さは、御養父さん譲りなんですかねぇ」
「知らん。そんなこと」
「まあ、拗ねちゃって」
くすくすと笑いながら琴尾は手ぬぐいを絞ると、それを烝の腫れた頬にあてがった。ひんやりとした冷たさと酷い鈍痛が同時に襲ってきて、烝は思わず吐息を漏らす。
「誰が拗ねているものか」
「そうやって意見するあたり、拗ねていることを認めているんじゃないですか?」
「………」
ちゃんと押さえていて下さいねと念を押すと、琴尾は烝に手ぬぐいを渡したまま立ち上がった。何も口答えできない烝は大人しく手ぬぐいで頬を押さえ、俯きがちに視線を落とす。
やはり、拗ねているのだろうか……。
だがそれを認めたくもなく、だからといって琴尾が言うことに完全な否定もできやしなかった。父に認めてもらえないことといい、こんな自分の態度といい、これではまるで童のようだなと烝は自嘲する。
これでは認めてもらえないのも、無理もない。
「どうしたんです? 今度は黙り込んじゃって」
すると急須と湯呑を盆に乗せて持ってきた琴尾が、目をまん丸にして烝の顔を覗き込んできた。
「いや、別に……」
「『別に』なんていう顔なものですか」
彼女は溜め息を一つ吐くと、盆を置いてから腰を下ろす。
「烝さんも解っておいででしょうが、御養父さんは烝さんのことを心配なさっているのですよ。新次郎さんがいらっしゃるとはいえ、この林家を継ぐのは烝さんなんですから」
「そんなこと……」
本当は解っている。琴尾の言っていることなど、とうに自覚していて――だからこそ、烝は悩んでいた。
自分が長男であるからこそこの家を継ぎ、医者としての技術をも継いでいかなければならないことも。この林家を自分の代で終わらせてはいけないということも。だからこそ父親が必死になって武士になることを拒んでいることも、烝には全て解っていた。
しかし、一度思い描いた夢を諦めることもまた、彼にとっては困難なことだったのだ。もしかしたら今まで親に反抗したいほど何かを求めたことがなかったから、余計にそう思っているのかもしれない。
そんなこんなで、烝自身「どうかしている」と思う時が幾度もあった。ただ、そう思ってもなお諦められないような強い思いは確かに初めてだったのである。それに、これまた幸運なことに棒術を習っており、その上長巻まで稽古の一環で振っているため、体力にはそれなりの自信もあった。
それだけの想いを抱き、また、そこへ進める程度の体力が備わっているのならば、これも何かの運命。武士という夢に向かって、突き進んでみたくなったのだ。
ただ隊士募集の知らせを聞いたからといっても、それを叶えるための一歩を踏み出すことさえ、今の状況では険しすぎる。
まずは家族を納得させなければ。
だが、当初は簡単なことのように思っていたそれも、最初に立ちはだかる最大の難関だったということに、今更ながら思い知らされた。それも、自分と血の繋がっている親に否定されている。こんな状況を、どうやって打破すればいいのだろう。
「ですけど、私には烝さんの言い分も解らなくはないですよ。これもまた烝さんの人生ですし、御自分でやり遂げたいこともあるでしょう」
すると先刻とは違う、琴尾の優しい声が聞こえてきた。
「……聞こえていたのか」
「それは、あれだけ大きな声ですもの。隣三軒には、ばっちり聞こえていたのではないでしょうか?」
今度は別の意味で眉を顰めた烝を見て面白そうに笑いながら、琴尾はさらりと嫌味を言ってくる。
これで本当に隣三軒に聞こえていたのなら、今この場で腹をかっ裂きたい。こんな親子喧嘩、あまりに恥ずかしすぎる。
「あら。烝さんも、そんなにころころと表情が変わるんですね」
「悪かったな」
「いいえ。むしろその方が可愛いですよ。愛嬌に溢れていて――って、男性に可愛いはないですかね?」
ふふっ。失礼しました。と笑っている琴尾の表情は、華やいでいて幸せな気分にさせられるのだが、
「頼む、琴尾。どうかそれ以上言わないでくれ」
やはり恥ずかしさを押し殺すことはできなくて、烝は頬が熱くなるのを感じた。そんな彼の表情を見て、琴尾は更に楽しそうに肩を揺らしている。
こんな時、烝は彼女が童のように見えてしまい、どうしても憎むことなんてできなくなってしまうのだった。多少なりとも悪気はあるのだろうが、こうやって無邪気な表情を見ていると、心は穏やかになる一方で。こんな時「ああ、救われているな」と実感させられる。
くすくす小さな声を出していた琴尾は「解りました」と言うと、ほんの少し浮かんだ涙を指先で拭った。そして、「でも」と続ける。
「でも、烝さん。この琴尾、烝さんが御自分の意志を貫き通せることを、心より祈っておりますわ」
そこに浮かんでいたのは、日輪のように輝いた笑顔だった。
永倉等が順動丸で港を発った翌日の、正月十日。土方を筆頭においた富士山丸が、後を追うようにして江戸へと向かっていった。
富士山丸は看護の者数人を除いて、その大半が負傷兵といった状態。その中には先に大坂へと下っていた近藤や沖田の姿もあり、どこか物々しい雰囲気が漂っている。そうでなくても旧幕府軍は危うい状況に立たされているのだ。船内の空気が荒んでいるのも無理もない。
幾人もの負傷兵と共に雑魚寝状態で寝かされていた烝は、目を覚ますと霞んだ視線をゆっくりと横に向けた。
乗船をしてから、僅か一日。だが、そこには相も変わらず凄惨な光景が浮かんでいるばかりだった。
いくつもの呻き声が層を成し、自分のものかも解らない腐臭が辺りに立ち込めている。また、こと切れた者も幾人もいるようで、次は誰がそうなるのかと正気を保てる者はほとんどいなかった。どこか虚ろな双眸が、幾つも幾つも空を見つめるばかりである。
烝はそんな光景を見ているのが嫌になり、天井を見上げると細い息を吐き出した。
撃たれてから六日も経つというのに傷は一向に良くならず、それどころか悪化の一途を辿るのみだった。痛みは日を増すごとに広く鋭くなってゆき、最早耐えられたものではない。
ただ、それでも声を上げないのは、単にそれすらできる体力がないからだ。それに、こんな状態になったとなれば、今後どうなるかはおおよそ見当がつく。
親に無理強いをして、姓まで変えて――それでもなりたかったものの先が、これか。
だがそう思う反面、今まで胸に蔓延っていたわだかまりがなくなっており、思いのほか心は晴れやかだった。
何を目指し、何を求め、どこに辿りつこうとしている――?
幾度となく繰り返し、それでも導き出せなかった、この問いかけ。しかし、本当は最初から答えは出ていたのだ。
目指していたのは、自らの夢。求めていたのは、琴尾の祈りを無駄にしないための努力。そして、辿りつこうとしていたのは、それを満たせるだけの己自身だったのだ。
ただ時を経るにつれて、それを見失っていただけの話。馬鹿らしいが、新選組に入隊する以前のことを夢で見なければ、今の今まで思い出すこともできなかったのかもしれない。
ひどくぎこちない笑みを口元にだけ浮かべると、烝は目を瞑った。優しい闇が、全てを包み込んでくれる。
(私は、いつでも烝さんの味方ですよ)
すると、どこかからか琴尾の声が聞こえてきた。
それは昔の記憶を引っ張り出してきたかのような、でも、どこにも濁りのない鮮明な声だった。まるで隣にいて話してくれているような、そんな気さえする。
(ですから烝さんは、御自分を信じてくださいな)
だがこの言葉を聞いて、それが先ほどの夢の続きにあった物だということを思い出した。だからかは知らないが、
(琴尾。いつもすまないな。でも、お前がそう言ってくれるのなら、私は――)
「私は、自分を信じたい……お前を、裏切らないためにも」
あの時と同じ言葉を、同じ気持ちで口にする。
そうすれば、彼女がやわらかな笑みで微笑み返してくれるのを知っていたから。そして、それが彼女の望む言葉だと、知っていたから。
たとえ本心では、父と同じことを思っていたことに気づいていたとしても。それでも彼女の優しい顔が見られると、知っていたから……。
けれどお前に甘えるのは、もうやめにしよう。
今度は元気づけられた分、お前のことを元気付けてやりたい。夫としてできることを、精一杯お前にしてやりたい。
だから、この戦が終わって帰れたのだとしたら、きっとお前の元を訪ねよう。
そしてこの胸の内を、お前のために打ち明けよう。
そっと目を細めると「約束だ」と吐息にもならない声で烝は呟いた。目映いばかりの光が、東の空から溢れてくる。
波の音が、ずっと遠くに聞こえた。
終わり
参考文献
・新選組日誌 下(新人物往来社)
・新選組のすべて【増補版】(新人物往来社)
・新選組追求録(万代修/新人物往来社)
・新選組大事典(新人物往来社編)
・新選組の舞台裏(菊地明/新人物往来社)
・京都新選組案内【物語と史跡】(武山峰久/創元社)
・新選組 知られざる隊士の真影(相川司/新紀元社)
・新選組468隊士大名鑑【完全版】(壬生狼友の会/小池書院)
・新選組始末記(子母澤寛/中公文庫)
・新選組史跡紀行(学習研究社)
・歴史群像シリーズ31【血誠新撰組】峻烈壬 生浪士の忠と斬(学習研究社)
・歴史群像シリーズ特別編集【決定版】図説 幕末戊辰西南戦争(学習研究社)
・歴史群像シリーズ特別編集【決定版】図解 江戸の暮らし事典(学習研究社)
・書翰初学抄 江戸時代の手紙を読むために(田中善信/貴重本刊行会)