六章 戦場に舞うもの(3)
二、
千両松には一本道の堤が通っており、悠々と流れている宇治川の右岸には幾つもの松が植えられていた。この松は嘗て、豊臣秀吉が築防のために植えておいたものだが、年月を経た今となってはその光景も見事の一言としか言いようがない。それを裏付けるように、この「千両松」という呼び名は、松の立派な様から名付けられたのだという。
そして土方率いる新選組と佐川官兵衛率いる会津別選隊、そして遊撃隊の剣士達は、その堤の下にある蘆葦の中から薩長軍を待ち伏せることにした。加えて街道上には三門の大砲を備えており、これで伏見方面からやってくる薩長軍の進撃が阻止できる。そう踏んでいたのだ。
「薩長の奴は、絶対この堤を下ってくるはずだ。そこを一気に攻めれば、きっと奴らも落ちるに決まっている」
そして、そう言った土方の言葉は半ば当たっていたといってもいいだろう。ほどなくして現れた薩長軍と、その後銃撃戦となったのだ。
しかし銃器の数がまるで違ったことが仇となり、新選組や会津藩の隊士達はすぐに抜刀し、鉄の弾が降り注ぐ中へと飛び込まなければならなくなった。
それは烝とて例外ではなく、自分が任されている隊士を引き連れては虎のように素早く敵軍の中へと攻め入り、その長巻で決定的な一太刀を浴びせていった。時折鋭い痛みを腕などに感じたが、それでも衣や肌に付く血は圧倒的に相手方の返り血が多い。
長巻を、渾身の力で横に凪いだ。元から重たい長巻に、更なる重みが加わっていくのがありありと感じられる。
だが、それさえ確かな手応えの一つであることは、今までの経験からも解りきっていた。烝は長巻を持つ手に更なる力を込めると、己が振り回されないように足を踏ん張った。地面と草履とが、悲痛な声を上げている。
次――ッ。
背後で絶え間なく続いている破裂音をかき消さんばかりに咆哮を上げると、烝はそのまま相手の亡骸を振り切り、視界の端に現れた敵を素早く薙ぎ払った。肺の中に溜めていた息を一気に吐き出し、浅い呼吸を幾度も繰り返しながら視線をぐるりとさまよわせる。
そこには雄々しくも凄惨な光景が、果てしなく広がっていた。木々の合間から漏れる日の光はどこまでも輝かしいというのに、堤防上に広がるのは、いつにも増して赤い血の色と、無造作に転がる幾つもの死骸だ。
そのためか松林の中は生臭い血の臭いが立ち込めており、歩けばピシャリと水音が聞こえてくる。ツンとした濃い血の臭いに、烝は思わず眉を顰めた。
これは味方の血なのだろうか。それとも、自らが殺めた者の血なのだろうか……。
だが、そう思うのも束の間で、突如かかってきた敵に向かい、烝は反射的に長巻を振るっていた。血だまりの中に新たな血が注がれるのを、どこか麻痺したような感覚で見つめている。
私は何をしたのだろう。
私は何がしたいのだろう。
私は人を殺めるために、武士になりたいと思っていたのか――?
一度止んでいた銃撃の音が、どこかから聞こえてきた。味方の倒れる声が、それと同時に湧き上がってくる。
烝は自らの脳裏を過っていった言葉を必死になって振り払うと、不安定な心を押さえつけて、眼前を睨みつけた。
何を馬鹿なことを考えているんだ。私達は今、敵を押しているんだぞ。
それなのに、そんなことに怖がっていてどうする? 今の状況なら勝利を収められるかもしれないというのに、戦場で敵を殺めたことを誇りに思わないでどうする。
土方の力強い声が聞こえてきた。それに突き動かされるようにして烝は隊士を引き連れると、果敢に敵陣へと飛びかかっていく。
しかし、なんて無情なことだろう。その時背後から、またもや不吉な音が聞こえてきたのだ。
それは銃を構える幾つもの音と、揃えられた幾つもの足音で――。
「照準合わせ、構えッ!!」
空気が瞬時に凍りつく。
振り返り、動揺を隠せない双眸が見開かれる。ハッと息を呑んだのと、今の状況とを理解したのと、果たしてどちらが先だったのか。それすら最早解らない。
まさか追っ手が来るだなんて、一体誰が思おうか。それも、元いた軍と追手に挟まれるだなんて、悪夢としか言いようがない。
数え切らないような銃口が、一斉にこちらへと向けられる。
長巻を持つ手に、再度力が篭った。
――倒さなければ。相手を。
内なる炎が、燃え滾る。使命にも似た、この感覚に、身体が理解するよりも早く、烝は敵勢へと向かって走っていた。
風景が一気に流れてゆき、徐々に徐々にと相手へと詰め寄ってゆく。そして足を踏み出すたび、相手の動揺する顔が鮮明に浮かんできた。
この長巻を振るうまで、あと――。
見据えた眼前で、銃口がぬらりとした光を放っていた。背筋に汗が、幾筋も伝ってゆく。
すると突然、井上率いる一隊が、烝の率いる隊を抜かしていった。抜かされざま、井上はその荘厳な顔に優しくも勇猛な色を浮かべて、烝を見やってゆく。
「我々が先にかかります。後方支援及び後太刀の方、お願いします」
ぐっと拳を突き上げ、大丈夫だと言いかけてくる井上の姿に、烝は目を見開いた。
その言葉は、何て心強いのだろう。
「援護、承りました。お願いします」
烝が言葉を返すと、井上は「お願いされました」と身を低く――すぐに一太刀を振るえるような体勢になりながら返してきた。
彼らを先に通し、首だけで自身の隊へと振り返る。
「これより援護に回ります。井上さんの隊に続いて、くれぐれも離されないように!」
短く返された、幾つもの返事。それをしかと受け止めると、烝は眼前を見据えた。
もうあと少しで、井上の隊が薩長軍へと切り込みにかかろうとする。
聞こえる慟哭。
ザッと砂が擦れ合った。
縛った鉢金の紐は風に靡き、後方へと流れていって……。
だからこそ、銃口から鉄の弾が吐き出されたのがやけに鮮明に見えた。
それは休む間も与えぬほど、後方と入れ替わり立ち替わり、新たな弾をどんどん浴びせてくる。
それを避けきれなかった隊士達が、目の前で鮮血を吹き上げながら次々に倒れていった。そして、あの井上までもがその餌食となり……。
悲しみに、身体の動きが一瞬鈍った。
視界が真っ白になるかのように、頭がギリギリと締め付けられてゆく。
降り注ぐ弾丸は、やはり途切れることを知らないとばかりに轟音を上げていって、だが……。
何を目指し、何を求め、どこに辿りつこうとしている――?
天からの問いかけが聞こえたような気がして足が止まると、辺りは一面、見方か敵かも解らない血に染まっており、幾つもの亡骸や負傷兵がそこかしこに転がっていた。と同時、丁度入れ替わった銃の引き金が引かれるのをしかと目にすることになる。
くいっと指に力が篭められると、乾いた音が天空ではじけるような錯覚を起こさせた。鈍色の閃光が幾つも幾つもこちらへと向かって来て、そして……。
「山崎さん――ッ!!」
悲鳴にも似た隊士の声が、寒空の下を響き渡っていった。強い風が吹き抜け、松の葉が一斉に細やかな歌を奏でてゆく。
まずい。
だが、そう思った時には既に遅い。気付いた時には目の前にまで、弾丸は押し迫っていたのだ。
敵兵の一人と、視線が重なり合う。
身体を三発、熱い塊が貫いていった。