六章 戦場に舞うもの(2)
一、
「どういうことだ!」
淀城の城門を叩きながら、土方は悲痛な叫び声を上げた。
「淀城は我々旧幕府軍の本営に定められているはずだ。にもかかわらずこの振る舞い、一体何を考えておられる!」
しかし中から返事が返ってくることはない。
留守、というわけではなかった。何しろここには譜代大名である稲葉正邦が今もなお守っている城であり、また徳川の重臣でもある方の城ということで、本営として定められたと聞かされているのだ。
それにもかかわらず、稲葉はその城門を開けようとさえしなかった。えも言わぬ不安が、その場を駆け抜けてゆく。
土方はもう一度「どういうことだ」と叫んだ。空は既に茜色に染まっており、その東側からは夜の気配さえ感じられる。
するととうとう相手も根負けしたのか。土方の苛立ちが頂点へ達しようとした頃になって、ようやく返事が城内から返ってきたのだ。
「恐れ入るが――…」
しかし聞こえてきたのは、ふんぞり返っているような威張り声。それが彼ら旧幕府軍に仕えている者の心を深く傷つけたと解っていて、彼はそのような言い方をしているのだろうか……。
クソッとこぼすと、土方はダンッ! と城門を強く両の拳で叩いた。静かな空間に、それは長いこと尾を引き響き続けている。
「……本当にクソだな。大名ともあろうお方がよ」
地を這うような、低く怒りをあらわにした声色が、薄闇を揺らしていく。
土方は交渉の余地なしと踏むと、袴の裾を悲しげに揺らしながら、こちらに向かって歩を進めてきた。
「テメェの仲間さえ見限る奴の所になんざ、宿陣なんかしてらんねぇよ。……ほら、行くぞ。さっさと別の場所に陣を張ろうじゃねぇか」
その背中は言わずとも、衝撃を隠しきれないでいた。
その日の夜は途轍もなく冷え込んだ。
火を焚いているとはいえこのようにか弱い炎では、とてもでないが暖を取るには心もとない。それも官軍に居場所を感付かれないようにするためなのだから仕方がないのだが。
焚き火の近くに胡坐をかいて座っていた烝は、その足をぐっと伸ばした。衣擦れの音が僅かに聞こえてくる。久々に伸ばされた足はどことなく軽く、気持ちが良い。
すぅっと目を細めた後に手元にあった枝を火の中に投げ入れると、パチパチという音が静かな空間に響き渡っていった。
「まだ起きていたのか?」
すると突然声をかけられ、誰もが眠りの世界に入ったとばかり思い込んでいた烝は、狐につままれたような顔をした。
慌てて声のした方へ顔を向けると、そこには土方の姿がぼんやりと浮かんでいる。その姿はいつもとはまるで違い、言い表せないほどの疲労感を漂わせていた。
さくさくと歩んでくると、土方は「眠くないのか?」と言いながら、烝の隣に腰かける。
「ええ。生憎見張り番でして」
「へぇ、そうか。そりゃあ御苦労だな」
烝の返答に眉根を寄せると、土方は口元だけに笑みを浮かべた。整った顔も着物も泥にまみれているせいか、酷く草臥れているように見える。それとも、今日の戦がどれほど激しかったのかを表したというべきか……。
烝は「誰かがしなければいけないことですから」と言うと、手元にあった枝をもう一度くべた。パチンと音がしたと同時、焚き火の中から火の粉がはらりと舞い上がる。
それが天高く上っては消えてゆくのを見送ると、土方は「なぁ」と小さな声で呼びかけてきた。烝は無言で顔を向ける。
「人間ってよ、案外駄目なもんだな。すぐに周囲に流されて、楽な方、楽な方へと進んでいってしまう」
「どうしたんですか、急に」
「いや。なんとなくそう思ってな」
そう言うなり土方は夜空を仰ぎ始めてしまった。その双眸は憂い揺れており、烝はあえて何も言わなかった。
土方が心配されることを極端に嫌がるのを、烝は知っていた。いや、彼の下で働いていたので、自然と気づいたと言った方が正しいのかもしれない。
確かに心配なのは心配なのだが、暗黙のうちに決まっていたことだ。土方さんが言いたい時に言いたいことを、私は聞いていればいい。
しばらくしてから、土方は口を開いた。
「あの時……淀城でよ、言われちまったんだよな。『我々は新政府軍に就きます故、あなた方をこちらに宿陣させることはできません』ってよ」
それがあまりに聞き捨てならない言葉だったため、烝は自分でも気づかないうちに「えっ」と声を発していた。
土方は天を仰いだまま、言葉を続ける。
「彼の譜代大名がだぜ? まったく、笑っちまうよな。徳川方についていた人間が、錦の御旗が掲げられた途端、こうもあっさりと寝返るだなんて」
闇の中に紛れてしまいそうなほど小さな声で、土方は「ありえねぇよ」と呟いた。だが、すぐに風がさらってゆくと、土方は天へと向けていた視線をそっと焚き火の方へと移してゆく。
彼の双眸の中でも炎は同じよう燃えているというのに、土方自身の炎はいつもの面影さえ見せてくれやしない。
枝葉の揺れるさわさわという音が、風に乗って流れてきた。その音は少しの間続いて、しばらくすると闇に身を隠すように消え入ってゆく。
ああ。土方さんもきっと、気が滅入っているのだろう。
流れてきた枯葉が焚き火の中で燃え尽きるのを見ながら、烝はふとそんなことを思った。
今までもそうだ。土方さんがこの様な弱音を吐いてしまうなど、相当気が滅入っている時しかありえない。
真冬の空気が、ひしひしと身を蝕んでいた。
「大名だ何だって言っていた奴が、立場が悪くなったら、すぐこれだ。これじゃあよ、こうやって必死になっている俺達は何だって言うんだろうな」
蒼黒の空に、自嘲に満ちた笑い声が響いてゆく。
だが、それもすぐに止めると土方は立ち上がり、うんと一つ伸びをした。
「……つーのは聞かなかったことにしておけよな。俺は新選組の『鬼の副長』だ。女々しく弱音を吐くのも嫌いだが、心配されるのも同じくらい嫌いだ」
振り返り、ニッと――今度は自然なままで笑ってから、土方はその場を去っていった。
「じゃあな、山崎助勤。見張り番、気合い入れろよ」
その背はもう普段の彼に戻っており、さすがは副長だとつくづく思い知らされた。
やはり土方さんにはかなわない。
足を延ばすと、烝はふぅっと一息だけ吐き出した。温かな光の中、息が白く霞んでいるのが目に見える。
明日も、頑張らなければならないな。
そう心に誓うと、いつの間にか小さくなっていた焚き火に小枝を一本投げ入れた。