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一章 浅黄色と在りし時間に


 君かへてなひくいほりにあたらしき この芽かをりて人そつとへる

   烝『新茶』




 夜が明けてからしばらく経つというのに、朝の空気は鋭いまでに冷たかった。

 それもそのはずで、見える範囲の全てを昨夜降り積もった雪がうっすらと白く覆い隠している。

 淡雪は日中には姿を消してしまうのだろうが、それでも寒いことに変わらなかった。

 その証とばかりに、長巻ながまきを持つ手はとうに凍えきってしまい、指先は赤くかじかんでいる。

 朝稽古は終えたが、他の隊士とは違い今日は非番だ。そのため今すぐにしなければならないようなことは、これといって特にない。

 それならばせめて鍛錬を、と思い庭に出て長巻を振っていたのだが――もうそれもやめにしたほうが良いのかもしれない。

 四尺もある刀身を天に向けてそっと長巻を壁に立て掛けると、烝は一つ息をついた。全長が七尺もあるためか、頂点に座る刃は日の光を浴びて、より一層の輝きを放っている。

 烝は指先を口元に近づけると、はぁっと息を吹きかけた。温かさを得た途端、指先は芯から温まっていく。

「何だ。もう仕舞いか」

 すると背後の縁側の方から、不意に声をかけられた。あまりに聞き覚えのある声音に、顔を見なくても、それが誰のものかを烝は察することができる。

「『もう』とはなんと手厳しい」

 凍えた風が吹き抜けていくのを感じながら、烝は口元に微笑を湛えた。すっと息を吸い込むと、どことなく喉に違和感を感じる。呼吸が乱れているのだろうか。そう思うと、口元の微笑も苦笑に変わった。

 思い起こしてみれば、日が昇る前から稽古に励んでいたのだ。これだけの重さの物を一心に振っていれば、それこそ呼吸の一つも乱れよう。

 そろそろ歳かなと感じると、烝は黒い袖を引きつつ声の主へと振り返った。

「それとも再度、稽古をつけて下さるのでしょうか」

「馬鹿を言え。長巻と打とうものなら、俺の愛刀がどうなることか」

 首をすくめながら、当人――土方ひじかた歳三としぞうは柱に寄り掛かっていた身体をゆっくりと起こすと、苦々しくそう言ってきた。「愛刀どころか、俺の方が先に馬鹿になっちまうか」と呟く声は、どこか冗談にならないという響きさえ含んでいる。

 トサッとどこかから雪の落ちる音が聞こえてきた。

 そうですねと烝は頷くと、縁側へ向かって歩みを進めていく。

「……やっぱり仕舞いかよ」

「時に休息は必要なものです」

 父がそう申しておりました。

 声を弾ませて言うと、土方は縁側にしゃがみながら「あー」と唸った。

「そういえば山崎やまざきの親父さんは、摂津せっつで医者をやっていたんだったな」

 時に奥方は元気なのか。

 土方にそう問われると、烝はさも嬉しそうに首を竦めてみせた。

「それは今に解ることです。私からはまだなんと申して良いのか……」

「何だぁ、山崎。こんな朝っぱらから惚気話かよ」

「土方さんには及びませんよ」

 私にはそのように多くの色恋沙汰はありませんからね。と、おどけながら言う……と、土方は「ほーう」と唸りながら、さっさと庭へと降りてきた。

「やっぱ稽古つけてやろうか? 昼前はふみに目を通すくらいしか予定はないからなァ」

 さて、木刀はどこにやったか。それとも真剣の方が良いかなどと不敵に言ってくる土方に、烝は「土方さんのやりたいように」と答えた。そこには余裕とも取れる微笑が浮かんでおり、土方の闘争心に一層火がつく。

「オラ、山崎。さっさと太刀構えろや」

「私はかまいませんが。ただ――」

 後ろ。

 という烝の言葉に振り向くよりも早く、土方は誰かに襟首を掴まれてしまった。首すじを掴まれた猫のように、土方はげっそりとした表情をあらわにする。精悍で婦女子を虜にする面立ちは、今や見る影もない。

「こんな時間まで稽古とは、感心だな」

「…………」

「だが、真剣勝負はどうかと思うがなぁ、トシ」

「ははっ。冗談だってば、近藤こんどうさんよぉ」

 空笑いと共に新選組局長の近藤いさみに視線を向けながら、土方は抜きかけていた刀身を鞘に収めた。射抜かんばかりの鋭い視線の中には説教じみた色が見え隠れしており、どことなく背筋の凍える感覚を受ける。

 未だに笑い声をあげている土方を見ながら、近藤もまた何かを押しこめたような笑い声をあげている。乾いた二つの笑い声が、寒空の下響き渡っていった。

「烝もあんまりトシを挑発するな。本気になって怪我でもされたら、それこそたまらない」

 そして矛先が自分に向けられた烝は、さっと深く頭を垂れた。近藤さんが本気で怒っていないことは目に見えて解るのだが、これはこれで圧力があるというか、なんというか……。

「以後気を付けます」

 烝の言葉をしかと聞くと、何とも言えない表情の二人を見てから、近藤は一つ大きく頷いた。それから烝に向かって言葉を続ける。

「それと忘れてはいないだろうが、琴尾さんとの逢瀬の時間もそろそろだろう。久方ぶりなんだ、早く行ってあげなさい。ここのところ、お前には仕事ばかりさせてしまっていたからな。琴尾さんもさぞかし会いたいと思っていることだろう」

「ありがとう御座います」

 烝は深々と近藤に礼をしたが、その表情はいまいち冴えていなかった。正直なところ、烝の心中は嬉しさと遣る瀬無さでい交ぜにになっていた。それも、まだ記憶に新しい七条油小路あぶらこうじでの出来事が、鮮明に蘇ってくるためだった。

 今日くらいはこの呪縛から解き放たれたかったのだが、そう上手くことが運ぶはずもない。それもそのはずで、ここのところの忙しさは油小路での一件が関わってきたと言っても過言ではない。

 この件は新選組を離脱し、伊東いとう甲子太郎かしたろうを筆頭に組まれた御陵衛士ごりょうえいじが、近藤勇の暗殺を目論んでいたことの発覚から始まった。新選組としては何としても阻止しなければならない計画だった。彼らの行動を鎮圧するために伊東を殺害し、その亡骸を用いて御陵衛士の者を誘き寄せ、そこを一気に叩くという残忍な手段に出たのである。

 だが、いくら局長暗殺を目論んでいたとはいえ、彼らも元は新選組の隊士――つまり同胞だ。あの地で散っていった者が旧友であることが覆るわけではない。霜月の悲しい夜風が吹き付けたあの様は、もう思い出したくないほど凄惨せいさんなものだった。

 それは口元にしか笑みを浮かべていない近藤も土方も同じことで、便乗したかの如く辺りには重苦しい空気が包み込んでゆく。だがそれに耐えられないとばかりに、土方は烝の肩を小突いてきた。眉間にはより深くなった皺が刻み込まれている。

「行けよ。惚気たんだろ」

 女を待たせるたぁ、いい根性しているじゃねぇか。

 視線だけでそう付け加えると、土方はもう一度だけ「行け」と烝に言い放った。

 未だにぎこちない雰囲気が続く中、どうすべきかと戸惑っていた烝は、眼前にいた近藤に視線を向ける。近藤はそれを受けとめると、ゆっくりと一つだけ頷いた。

 それだけで、心がほんの少しだけ軽くなった気がする。

「有難きお言葉、頂戴いたします」

 烝は今度こそしっかりと笑みを浮かべると、その場を後にした。

「今日くらいは、肩の荷を下ろしてこい」

 そんな二人の声が、背中越しから聞こえてくる。



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