五章 切なる徒夢(4)
ここから残酷な描写が所々に入ります。
三、
奉行所の庭に出ると、帰ってきた土方が指揮を執るのと同時、どこかで火の手が上がっているのが見えた。夜だというのに、橙の灯りが辺りを照らし続けている。
立ち上った炎は、天上に立ち込める煙かも雲かも解らない物を、恐ろしいほどくっきりと照らしていた。
濛々と立ち込める煙は、まるでそのまま地上をも押しつぶしてしまうかのような圧迫感に満ちている。
あまりに悲惨な光景に、烝は武具を持ったまましばし立ち尽くした。
またどこかで、砲弾が破裂する音が聞こえる。ヒュゥという悍ましい音を引き連れては黒煙と炎とを巻き上げて、それは破裂していった。
市中からは逃げ惑い、怯え、混乱に陥っている民の声が絶え間なく聞こえてくる。どこかで赤子が泣き叫び、母親の悲痛な声が夜闇を劈き、そのたびに「水を!」「こっちに逃げろ!」と男達は懸命に彼らを守ろうとしていた。
ああ、本当に始まってしまった。
見たくもなかった、戦の惨劇。まだその一部だというのに、胸は張り裂けそうなほどに痛む。
どうしてこうなってしまったのか……。
着々と戦の準備を進めているというのに、幾度となく繰り返した言葉をやはり唱えてしまった。
どうして。何故。何で。
しかしそう唱えている間にも、一人、また一人と誰かが負傷し命を落としてゆく。今この瞬間も、火に、弾丸にやられて――。
破壊音。破裂音。それらが伏見の町を焼き、次第に建物が火中へと飲み込まれていった。建っていた物がじわじわと姿を消し、いつしかそこは昼間のように明るく、夏のように暑くなっている。
なんと、なんと残酷なのだろう。見放した神も、壊す人間も。生きとし生けるもの全てが、どうしてこうも残酷になれる。
烝は耐えられず、ぐっと拳を握った。しかし、とうとう奉行所にも鬼の手が伸ばされてしまう。
最初に砲弾が打ち込まれたのは、奉行所の――先ほどまで皆で集っていた集会所だった。
今までで一番大きな破裂音が立ち込める。集会所の屋根はそれに耐えることもできず、焼弾にやられては吹き飛ばされていった。
木片や瓦の残骸がパラパラと降り注ぎ、皆が悲鳴にも似た声を上げる。ざわめきが立ち込めた。
「全員庭に集まれ!! これより応戦の令を出す!」
それを土方の声が一太刀すると、恐慌状態に陥りかけていた隊士達が一斉に彼の元へと集まっていった。
その間にも砲弾は襲い続け、奉行所は見るも無残な姿になってゆく。梁が、柱が、ミシミシと音を立てる間隔が短くなっていった。
「敵は御香宮と桃山の双方から攻撃してきている。桃山は遠くて無理だろうが、御香宮だったらこの大砲でどうにか届くだろう」
土方はそう言い、一門の大砲に手を置いた。
「これは相手方の宣戦布告だ。是非もない……応戦するぞ」
これ以上薩摩軍の思うようにはさせない。
鋭い眼光で薩摩軍のいる方角を、土方睨みつけた。
しかし結果は、あまりに悲惨なものだった。
薩摩軍の持つ大砲とは違い、新選組が持つ大砲は旧式だ。確かに飛ぶことには飛ぶのだが、型が古い上に低地から発射しているため、全くといっていいほど飛距離は伸びない。御香宮を前にして落ちる砲弾のほうが圧倒的に多く、入る方が珍しかった。
その間にも奉行所はおろか、伏見市中へと砲弾は打ち込まれ続け、破裂音が至る所で巻き上がる。
業を煮やしていた土方は、永倉率いる決死隊を薩摩の陣営に向かわせた。
夜は徐々に、更けてゆく。
「如何なさいますか」
烝が奉行所が火の手に曝されたことと消化活動をしていることを報告に行くと、土方はチッと舌打った。
「如何も何も、燃えちゃあどうのしようもねぇだろう」
その顔には明らかな苛立ちが浮かんでおり、しかし取り巻く隊士達に不安を与えまいと冷静を装っている。
パチパチという炎上の音を聞く中、その明かりに顔を向けると土方は唇を舐めた。瞳の中で、秘かなる闘志が燃えている。
「……ふざけたことを、してくれる……」
朔風が炎の熱を帯びて吹き付けてきた。
火の粉が夜闇の中、舞い散ってゆく。
「山崎。他に空いていそうな隊にも声をかけて――」
「土方さん!」
だが彼の言葉を掻き消すと、数刻前に出ていった永倉の隊が戻ってきた。そのあまりに張りつめた声色に、土方は言葉半ばなのも忘れて永倉の方へと向き直る。
永倉は大層息を切らしながら駆け寄ってくると、呼吸も置かずに一礼した。
「報告に上がります。当決死隊、負傷者が多数出現。相手方を切り込み追い込むことには成功しましたが、あと少しというところで業火に阻まれ、やむを得ず引き返した次第です」
「業火だと?」
「ええ。両側の民家から火の手が上がりまして。おそらく相手側の放った砲撃によるものでしょう」
よく見れば永倉の顔や胴は、返り血の他にも煤にまみれていた。当然衣や袴にもついているのだろうが、濃紺のためよく見えない。
永倉の話を聞くと、土方は考え込むよう視線を足元に落とした。
建物の燃えるきな臭いにおいが、鼻元を掠めてゆく。
「解った。じゃあ負傷した奴らは山崎の所に連れてこい。大丈夫な奴は、奉行所の消火に当たらせろ」
「はッ!」
切れのいい永倉の声音が、爆音の中響き渡ってゆく。
「ってことだ。お前は隊員にそのことを告げたら、応急でいい。すぐに手当てに当たってくれ」
永倉の背中を見送ると、土方は烝にそう言った。
「承知致しました」
土方の目に何か強い光を感じると、烝はすぐさま消火に当たっている隊士の元へと駆けてゆく。未だ梁などの軋む、実に不安定な音がそこかしこで聞こえていた。
その中で決死の消火活動に当たっている隊員を見つけると、烝は彼らを呼び集めた。そして先刻土方から言われたことを告げる。
「建物が壊れやすくなっていることもありますが、相手方はこの奉行所を目掛けて大砲を撃っています。くれぐれもそれに当たらないよう、注意してください」
頼みました。
言うなり烝は彼らの顔を一様に見渡してから、その場を後にした。
今もどこかで打たれ破裂している砲弾の音が、嫌な旋律を奏でている。
どうか。どうか彼らを無事で居させて下さい……。
それだけを一心に祈りながら、今度は持ってきた医療具で、決死隊の負傷者の看護に当たった。苦悶の声も、嘆きも、しかとその耳に入ってくる。
しかし数人の隊士を見終えると同時、すぐ近くから大きな破裂音が鳴り響いた。身を竦ませ、双眸を見開いて振り返れば、なんと奉行所は火の嵐に飲み込まれているではないか。
なんということを……。
消火活動に励んでいた隊士が、蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑っていた。赤い鬼神は、あっという間に全てを焼き尽してしまう。
きな臭いにおいが、辺りを漂っていった。眼前が途端に、暗くなる。
「早く建物から離れろ!!」
土方の声が、やたらぼやけて聞こえてきた。