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五章 切なる徒夢(3)


     二、


 新選組が伏見から退去するよう勧告されたのは、正月三日のことだった。

 肥後(ひご)藩士の池辺(いけべ)悰右衛門(そうえもん)桜田(さくらだ)惣四郎(そうしろう)が土方と面会をした際に、そのようなことを告げてきたらしい。

 先日の件でもそうであったが、こうも立て続けに伏見から出るよう言われてしまうと、どうも気分は優れない。

 苛立ちをあらわにした土方だったが数人の隊士を引き連れると、徳川家が入洛(にゅうらく)するということで、すぐに京橋の方へと向かっていった。

 しかし、なんという不吉な……。

 近藤も居らず、また土方さえ不在となった伏見奉行所で、誰もが何か得体の知れない――良からぬものを感じていた。

 心をざわつかせるのは、殊更(ことさら)厚い曇天のせいなのだろうか。

 自らの心に何度と問いかけても、答えはまるで出てこなかった。ただ、じわりと滲み出る嫌な感覚だけが、全てを不安にしているといっても過言でない。

 ああ、早くこの日が過ぎてはくれないだろうか……。

 願望。祈り。

 だがそれは、無情にも神に聞き入れてもらうことさえ叶わなかった。


 不吉が確信へと変わっていったのは、慶応四戊辰年(ぼしんのとし)正月三日の夕七ツ時(午後四時)のことだった。

 永倉や原田など二十人余りの隊士が、奉行所内にある集会所で銘酒を酌み交わしていた時のことで、そのうちの一人が御香宮(ごこうのみや)で何かが動いているのだという。

 腹を下しているという隊士から相談を受け、癪の丸薬を探しに行っていた烝は、原田の慌てた様子からその危機感を察した。

 影の射してきた部屋の中に、不穏な空気が渦巻き始める。

「御香宮ですか」

「ああ。何か動きが怪しいんだって」

 カタンと薬箱を棚に戻す。

 丸薬を手にした烝は顔の色を曇らせると、視線を畳に滑らせた。

 御香宮とは薩摩藩士が布陣している場所の一つで、この伏見奉行所から北へ少し行った所に位置する神社だ。そこで不穏な動きがあるといえば、思い当たる節は一つしかない。つまり、薩摩側が動き始めたということだろう。

 それに、日の暮れかかった時間帯に、あえて動いているのだ。大体何が起こるのかは見当が付く。

 烝は一つ息を吐くと、畳に滑らせていた視線を原田に向けた。

「解りました。原田さんは先に戻っていて下さい。私もこれを渡したら、すぐにそちらへと向かいます」

 言い合い、原田と別れると、すぐさま身体を休ませている隊士の元へと行った。丸薬を渡すと、嵐のようにその場を去ってゆく。

 嫌な胸騒ぎは、どうしてこうも外れてくれないのだろうか……。

 烝は前後に腕を振りたると、懸命に足を動かす。拳にぐっと力を込め、灰色に染まった廊下を一心に走っていった。

 いや。まだ何かが起こると決まったわけではない。嫌なことが必ずしも起こるわけではない。

 そう己に言い聞かせて、普段よりも長く感じる廊下を走ってゆく。

 次の角を曲がれば集会所はすぐだった。

 荒い途切れ途切れの息が、やけに耳に突く。足音を控えようともせずに烝は集会所へ駆け込むと、そこには淀んだ空気が渦巻いていた。

 足音は途端に、ぴたりと止まる。皆の視線が、一斉に集まってくるのが感じられた。

 緊迫に包まれた静寂が、この空間を過ぎってゆく。

「山崎さん、こっち!」

 だがそれを突き破ると、原田は呆然と立ち尽くしている烝を大きな声で呼んだのだ。

 立ち尽くしていた烝はその声で我に返ると、促されるがままに大股で歩み寄っていく。

 烝は原田の隣に来ると、皆が息を殺して見つめる先を同じよう見やった。最初は薄暗くて何も見えなかったが、しだいに目が慣れていく。すると鉄色(くろがねいろ)の物が兵士によって引かれてゆくのが、不気味なまでに浮かび上がってきた。

 あれはおそらく――大砲だろう。それも大量の。

 何かが起こると決まったわけではない。

 たった数分前まで抱いていた思いは否定され、嫌な胸騒ぎはとうとう確信へと繋がった。

 ぬるりとした汗が掌に滲み、生唾を飲み込むと、頭の奥が大きく脈打つような感覚に襲われる。

 眼前に広がる光景が幻ではないかと、烝は(わら)にも縋る思いでもう一度目を見つめた。しかし見えるものは、何一つとして変わらない。

 一体、この場で何が……。

「薩摩兵が、大砲を引き上げているようです」

 永倉の声が、やけに大きく聞こえてきた。

 解っている。

 知っている。

 それなのに彼の紡ぐ言の葉が、どうしてこうも生々しく響いてくるのだろう。

 頭上からサーっと血の気が失せてゆくのが解り、また足元もサーっ冷えてゆく。それは身体から全ての体温が奪われていくかのような、恐ろしい感覚だった。

 大砲が次々に、運び込まれていく。

「このままでは本当に、いつ戦が起こるかも解りません」

 鼓動は脈打ち、呼気はやけにはっきりと空気を揺らしていった。

『いつ、戦が』

 それはなんて悍ましい響きなんだろう。

 震える掌に、たいして入りやしない力を懸命に篭める。烝は永倉の横顔を見つめると、「ええ」と頷いた。その声があまりに小さくて、現実を恐れているのだと受け入れる。

 重たいばかりの沈黙が、降り積もっていった。頷いた言葉さえ、どうしてか嫌に生々しい。

 キンと聞こえる耳鳴りは、どうして止まってくれないのだろう……。

 一同は御香宮を臨んだまま、一言も口にない。

 しばらくすると、局長も副長もいないこの状況で、永倉が凛とした声で決断を口にした。

「出陣の準備を、いたしましょう」

 全ての時が、動きを止める。


 奉行所内はしんと静まり返っていた。

 そこにいつもの活気など微塵もない。寂々とした空気がどこまでもしつこく鎮座しており、また誰一人として一言も発しやしなかった。

 これではまるで、墓場も同然だ。

 悲しい思いと共に、そんな言葉が烝の脳裏を過ぎってゆく。胴をつけ終えると、両手をだらりと下ろした。

 微かな衣擦れの音が、やけに大きく聞こえてくる。

 それがどうしてこんなに響き渡るのか。そんなことさえ、今の烝には解らなかった。

 どこか頭のずっと奥で、得体の知れない何かがぼぅっと全てを阻んでいる。

 感覚が、狂う……。

 喉元に手を当てると、くッと詰まっていた息が吐き出された。まるで疾走後のような息苦しさに、心も苦しくなっていく。

 先日までは、あれほど穏やかだったというのに。何が嫌で、私達を狂わす。何が嫌で、私達を振りまわす。

 バサッと何かが、庭先から飛び立っていく。

 徐々に呼気が整うと、烝は喉元から手を放し、そして今朝方と同じように両の掌を見つめた。

 そこには日頃の鍛錬で肉刺ができており、また節がやけに目立っている無骨な手があらわになる。

 医者の息子として生まれたこの身で人を助けるのではなく、この手でまた人を殺めるのか……。

 胸が苦しくなった。一人の武人として立派に戦いたいと思う反面、人が争い、血が流れるのを見たくないという甘い考えを抱いてしまう。

 この戦で敵兵を討てば、伏見に住んでいる多くの人の命が救える。

 そう言い聞かせてもなお、心は頑として動こうとしなかった。

 このような心意気ではいけない。

 そう解っているというのに、心を完全に鬼にすることができやしない。それどころか、いつも心が鬼になることを拒む。

 はぁ、と息がついて出た。

 一旦双眸を閉じると、愁いをどこにもやれないでそれを開く。烝は俯くと、身体を守る胴を指先でそっと撫でた。ずいぶんと前につけた刀傷(とうしょう)が、しつこく指の腹に引っかかってくる。

 自分自身が纏っているものの物々しさを、その時改めて感じさせられた。薄闇に染まったその恰好に、遣りきれない虚しさが湧き起こってくる。

 いつの間に、事態はここまで動いてしまっていたのだろう……。

 見当も付かない。

 ただ見えない場所、隠れた処で、いつの間にか止めることさえ叶わない状態へ全ては動いていたのだろう。

 重く厳しい恰好に、更に鉢金(はちがね)を巻くと、烝はゆっくりと視線を上げた。鉢金の紐が、それに伴い肩を滑ってゆく。

 そろそろ六ツ半時(午後七時)になる頃か。

 長巻に手をかけ、深く息を吐き出す。

 段々と覚悟を決め、皆の元へ行こうと足を踏み出したまさにその時、天を吹き飛ばすほどの爆音が夜闇を震わせていった。

 胸が、どうしようもないほど締め付けられてゆく。

 戦いの火蓋が、とうとう切って落とされた。



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