五章 切なる徒夢(2)
一、
梅の花が香り、鶯が愛らしい声を上げて鳴いていた。
青く透きとおった空が天上いっぱいに広がっており、うららかな春の陽射しがやわらかに射し込んでいる。
烝は妙に嬉しい気分で縁側を降りると草履を突っかけ、庭に出た。
その面は実に実に楽しそうで、少し腰を曲げやれば両の手をめいっぱいに広げる。
「―――」
誰かを呼んでいるのだが、声はまるで聞こえなかった。
しかし前を見れば、まだ四、五歳かと思われる男児が駆け寄って来るではないか。
烝はその両腕で彼をしかと抱きとめる。
だが抱きとめた途端、男児の勢いがあまりにありすぎて、烝はトンと尻餅をついてしまった。
僅かな痛みが、じわりと生まれる。
しかしそれでも満面の笑みを浮かべていて、ひとしきり笑ってから、烝はその男児を抱き上げ、肩車をしてやった。
高くなった視線に喜ぶ男児の声を聞き、話しかけ、笑い合い、時にちょっかいを出しながら庭の中を歩き始める。
無邪気に声を出し合いながら走ったり、少しばかり童心に返ったり。
さんざ走り回ってから、烝は梅の木の下で立ち止まった。
天を仰ぎ彼にもそれを促すと、指でそっと示してやる。
さらさらとした春の風が、梅の香りや花弁を揺らしては、この空間を流れてゆくのが目に見えた。
甘く清い、爽やかな芳香。
鶯が一声鳴き、また別の鳥が宙を泳いでゆく。
なんて穏やかなんだろう。
包み込むささやかな幸せに、烝はうっとりと目を細める。
すると突如、眼前に何かが現われてきた。
烝はぱっと目を丸くし、それが何かをじっと見つめる。
しかし、烝が認識するよりも早く、子供の澄み渡った声が、彼に「はな」と伝えてきてくれた。
同じよう澄み切った双眸。
それで見つめられた烝は、そっと男児の前に手を差し出した。
すると実に満足げに彼は微笑むと、烝の掌に一輪の花を乗せてきてくれたのが目に映った。
軽く、瑞々しい梅の花。
――ありがとう。
声にはならない声で烝が礼を言うと、彼はにっこりと笑みを浮かべる。
そしてもう一度手を伸ばすと、再度梅の花を採ろうと試み始めた。
小さな手が一所懸命、高くにある花を掴もうとする。
梅の枝はそのたびに大きく揺れ、さわさわという音を奏でては春の香りを躍らせていった。
しばらくしてから烝は促されるままに、男児を肩から下ろした。
すると彼は手にした花を一つ烝に渡すと、残りのもう一つを大切そうに持ったままトコトコと駆けてゆく。
烝は彼の姿を嬉しそうに視線で追い、それと同時にはっとした。
風に靡き、梅の花弁が宙を舞う中、その奥――縁側の所に座っているのは、琴尾の姿だった。
また彼女の腕の中には、まだ一つにも満たないであろう赤子が抱かれており、そして隣には七歳ほどと思われる女児が座っている。
男児がそっと琴尾に花を差し出すのを見ると、心が晴れていくかのようだった。
優しい、和やかなこの感覚。
これが、家族……か。
烝は眼前の光景を微笑ましそうに見つめていたが、やがて女児がこちらへと駆け寄ってくるのを目にし、そっと向き直った。
ふわりと振り袖を靡かせて向かってくる、無邪気な笑顔。
烝は今度こそ尻もちをつかないように気をつけると、ひょいと彼女を抱き上げた。
途端、歓喜の声が少女の口から聞こえてくる。
それを見ていた男児、「あーっ」と不満の声を上げた。
そしてすぐさま駆け寄ってくると、その腕を烝の足に回してくる。
琴尾はそれを見ると更に笑みを深くし、腕の中の赤子にそっと囁きかけていた。
温かな陽光が五人を照らし、小鳥が空を飛んでゆく。
ああ。なんて幸せなんだろう。
烝はそっと瞳を閉じると、やわらかな気持ちをその胸に描いていった。
そっと瞼を持ち上げるとそこは肌寒く、夜明け前の杜若色に染まっていた。
今まで見ていたものが夢だと。そう解ってはいても、現実に戻されるとどうも寂しい。それはこの漆黒に塗られた空のためもあるのだろうが、烝は目を細めるとぼんやりとだけ見える己の掌を見つめた。
いつか、あのように幸せな家庭が築くことができるのだろうか。
この手で、琴尾を、彼らを守ることができるのだろうか……。
胸に残る、幸せの残滓。
温かかった彼らの笑顔。
まだ触れることはできないそれを夢の中で触れた手を、ずっとずっと見つめていた。