五章 切なる徒夢
鳰の海の底まて照らす月影に あき風みせてなひくあし原
烝『月前葦』
年が明け、慶応も四年となった。
近頃は物騒な出来事が付いて回っていただけに、正月は返上になるのではないか……。
誰もがそう覚悟していたのだが、昨日の大晦日同様、正月についても例年どおり行うこととなった。
勿論それに喜ばないはずがない。隊士達はぱっと表情を輝かせると、近くの者達と顔を見合わせた。だが、すぐに土方からはしゃぎすぎないようにと釘を打たれる。
幾らここ数日で新選組の内部が平穏を取り戻しているとはいえ、その平穏はあまりに不安定だった。正月だ何だで箍が外れ、何かの拍子に先日のような事件も起こしかねない。特に薩摩の者と遭遇でもしたら、それこそ何が起こるか解らないだろう。
いつでも平静を保てる。それはいわば、己を見失わないことと同じだ。
土方はそう考えており、その旨を伝えると騒がしくなった隊士達を一度静めてから、普段どおり行われる市中見廻りの当番割が発表された。
それによると、烝の隊はこの後すぐに見回りに行くこととなる。
まさか自分達が一番手になるとは思っていなかったのか。面食らい落ち込んでいる隊員達を、烝は「その分、早くに仕事が終わりますよ」と励ました。
嫌なことが早くに終われば、その後の楽しみがより良いものになるでしょう?
すると彼らはその言葉に俄然やる気を出してきて、そうかそうかと頷いている。
その上今は初稽古を終え、朝餉をとった後だ。身体はずっと動きやすいに決まっている。
「さあ、今年初めての見廻りに行きましょう」
広がる青い空を仰ぎながら、烝はそっと彼らを促した。
伏見での正月は初めてだったが、ここも良い活気を見せている。
伏見市中を見廻っていると、普段にも増して人々の姿が輝いている様子が目に映った。
玄関先に飾られた注連飾りや門松の彩り。
歌留多などを興じる声音。
駆けてゆく子供はその手に凧を抱え、また新年の挨拶を交わす声がそこかしこで聞こえている。
時々勢い余っての口論をする者もいたが、それ以外はいたって平和だ。先日までは市中にも刺々しい雰囲気が立ち込めていたというのに、今やその影を見つける方が難しいのではないだろうか。
「では、くれぐれも熱を入れすぎないよう、注意して下さいね」
二人の男の肩を叩き、笑顔でそう口にする。
お気をつけてと彼らの背中を見送ると、どうしようもない安堵感に烝は襲われた。
本日幾度目かの口論を治め、ホッと一息つく。目を瞑り、深くゆっくりと呼吸を繰り返した。肩をおろしてから目を開けると、どこか新鮮な気がして仕方がない。
隊士を連れて歩いていくと、ほどなくして奉行所を取り囲む塀が見えてきた。道の先を見たところで不良な者もいないように思える。安穏とした様子が、そこには広がっていた。
――見廻りもここで最後、か。
そよ風が流れ去り、振り返れば袴の裾がふわりと揺れる。
「もう少しですが、気を抜かないで頑張りましょう」
隊士達に一声かけると、どこからともなくやわらかな空気が漂ってきた。見渡せば彼らは一様に、嬉しそうな色をその面に浮かべている。
暖かな陽射しのよう、烝の顔に笑みが漏れた。追羽根の軽快な音が、どこかからか聞こえてくる。
行きましょうと帰路への一歩を踏み出すと、彼らは爛々(らんらん)とした喜びを見せながら烝の後についていった。黒衣黒袴の集団が、元日の伏見を闊歩してゆく。
「なぁなぁ。戻ったら何したいよ」
するとその道中、唐突に一人の隊士が声を上げたのだった。
その表情だけを見れば、彼らが恐れられている集団になど、まるで見えやしない。
彼はニッと笑うと、人差し指を口の前でぴんと立てた。
「俺は断然、羽を伸ばす派!」
「あ、俺も俺も! 久々に碁とか打ったりしてぇなー」
「うわー、お前ら本当に元気だなぁ。正直俺なんか、たまには思いっきり寝たいよ」
「何だよそれ。新年早々寝正月決定ってか?」
「本当。何かもったいないじゃないのさ、それって」
至福に包まれた市中の一角から、口々に今日は何をしようかと話す声が、絶えることはなかった。
一つの集団とすれ違い、そこから聞こえていた声が次第に遠退いてゆく。
「じゃあ、山崎さんはどうですか? やっぱり羽を伸ばす派ですよね」
すると先日、琴尾からの文を渡してくれた隊士が話を振ってきた。瞬時に邪気のない視線を注がれて、烝は眉を下げる。
「楽しく話をするのも良いですが、まだ見廻りの最中ということを忘れないで下さいね」
一言だけ注意をしてから「ですが……」と言い、烝は市中を臨んだ。穏やかな市中からは戦が起きそうだったとは、まるで考えられない。
これといって何かが変わったわけではないというのに、年が明けただけで気分はやけに清々しかった。やはり一つの節目として、気持ちも変わるのだろう。
右手に奉行所の塀を見ながら歩んでいく。
このまま、穏やかな時が続けばな……と、烝はほっ息をついた。
「そうですね。私も帰ったら、久々に何かに興じてみたいですね」
私が碁の相手をしてもよろしいですか?
奉行所の門前まで来ると、烝は振り返り、そう言った。
それまで注意をされて項垂れたいた隊士達は、きょとんとした表情を浮かべる。しかしそれも一瞬のことで、すぐさま口元を綻ばせると、嬉しそうな声で彼らは頷いた。
「勿論。こちらこそお相手願います」
負けないですよ、と隊士はぐっと胸の前で拳を握り込んだ。
足並みを揃え奉行所の門をくぐると、いつもより穏やかな風景が見えるようだった。幾人かの隊士が、庭先で本気になって鬼ごっこをしている。
嘗て壬生寺に屯所を構えていた時は、よく境内で沖田を筆頭に、若い隊士が近所の子供達と鬼ごっこをしていたのを見たものだ。
今広がっている光景は、まさにあの頃と同じもののようだった。無邪気な声があちらこちらで上がっている。
大きく振った腕を伸ばすと、鬼役の者は前のめりになって相手を捕まえようと奮闘していた。全力で逃げ切った隊士が、近場にあった木に寄り掛かっては何かを言っている。おそらく、鬼役をからかっているのだろう。
「お、お前! とっ捕まえるぞ!」
鬼役の悲痛ながらに楽しげな声が、小さいながらも聞こえてきた。
なんて懐かしのだろう。
烝は庭を歩いてゆくと奉行所に入り、土方の元へ行くと報告を済ませた。
庭先でもそうだったが、今や奉行所内は以前の新選組を回顧させる光景で溢れかえっていた。皆が穏やかで、そのままの人間を曝け出している。
長閑な昼前の陽射しが、まるで細やかな音をたてて降ってくるような気がした。
歩みを止めると烝は柱に手を添えて、そっと縁側から顔を覗かせる。
こんな日を、幸せというのだろうか。それとも今までが事件の連続だったからこそ、今が幸せだと思うのだろうか……。
屋根の上で鳴いていた雀が、足音も立てないで二、三歩歩いた。そして囁くような音をで羽ばたくと、空の彼方へと飛び立ってしまう。
雀の姿を見送ってから烝は顔を戻し、どことなく充実した色を浮かべながら、再び歩みを再開させた。
部屋に戻り、長着にさっさと着変える。一呼吸置き一度視線を廻らせると、文机の端に置いてある手紙が目にとまった。
琴尾……。
彼女の優しさが、笑顔が、蘇ってくる。
琴尾と共に過ごした日々は、烝がこの『新選組』という場所で過ごした年月よりも遥かに短かった。
それでも共に語らい、家庭を築き、過ごし合ったあの日々は、とても忘れられるものではなかった。
ここでの幾星霜より、ずっと濃い。
ずっとずっと濃くて、楽しくて、いつも何かに満たされていて……。
琴尾。こんなことを言ったら、またお前は困ったように笑うのだろうか。いや、もしかしたら喜んでくれるのだろうか?
胸の奥が、ほんのりと温かくなる。
もしもこのまま泰平が訪れてくれるというのなら、琴尾は喜んでくれるだろうか……。
烝はそっと目を細めた。そこから見えたのは、何もこの部屋の光景だけではなかったに違いない。
もっと別の、もっと遠くにいるいとしい人へ――。
静かに静かに彼女の名前を呟くと、とくんと胸が高鳴った。
遠くから誰かの足音が近づいてくる。
「山崎さーん。準備できましたか?」
聞こえてくる呼びかけに、烝は縁側から顔を覗かせた。遠くに見える彼らに、そっと微笑みかける。
「ええ。今からそちらに向かいます」
光の下へ出、返事を返すと仲間の集う場所へと戻っていった。