四章 暮れゆく年の瀬に(4)
三、
「蕎麦だ。やっぱり蕎麦が足りない」
ドタバタと隊士達が駆け回っている声を聞きながら、烝は吉村と縁側で雑巾を絞っていた。
足元に置かれた大きな桶に入った水は砂色に汚れており、気付かない汚れがあることを痛感する。
二人はそれを床に広げると両手を付き、本日幾度目かの雑巾がけに励んだ。
素足で懸命に床を蹴り、雑巾を抑える腕にぐっと力を篭める。
長い長い廊下の向こう側まで行くと、復路をまた同じように駆けていった。湿っているために足の先は冷たかったが、しかしそれさえも心地良い。
また元の位置にまで戻り雑巾を濯ぐと、聞こえてくる悲鳴に吉村がとうとう口を開いた。
「……なんか、大変そうですね。蕎麦打ち組」
「そうですね」
「すごい勢いで『足りない』って言っていますよ」
「あの慌てようからすれば、相当の量でしょうね」
ざぶざぶと汚れが取るよう揉み洗い、雑巾をぎゅっと絞ると二人は廊下の先に視線をやった。
蕎麦打ちに悪戦苦闘しているのであろう。手どころか顔まで白くした隊士が角から飛び出し、箒を持っていた隊士とぶつかりそうになる。彼は頭を下げそのまま廊下を駆けてゆくと、「蕎麦がねぇ!」と叫んでは、次の角へと消えていった。
思わず二人は無言になり、互いに顔を見合わせる。
「山崎さん、どうします。このまま年が越せなかったら」
「いや。さすがにそればかりは、彼らもどうにかするでしょう」
不安いっぱいといった表情を向けてくる吉村に、烝も苦笑混じりにそう答える。しかし「例えば?」という問いには、少々頭を悩ませた。
彼らなら、何をするか解らない。
「そう、ですね。例えばこれから蕎麦粉を買いに行ってくるか。もしくは……これ以上作るのは面倒だからと、剣の試合の勝者にだけ与える、とかですかね」
「うわー。それって最悪じゃないですか。大晦日にまで弱肉強食の世界だなんて」
そう言うと吉村はより一層眉根を顰める。烝はそんな吉村の表情を見ると、笑みを浮かべたのであった。
尾張藩士との面会があったその夜、土方は全隊士を集めると事の顛末を話し始めた。何でも近頃の新選組の行いが穏やかでないという理由で、伏見から撤するよう告げられたのだという。
そのことを承諾したのかと隊士が声を上げれば、土方は「ああ」と頷いた。その瞬間、空気が異様に張りつめたのを、今でも覚えている。
しかしそんな彼らを制すると、土方は続けたのであった。
「確かに利害を問われたことには服したが、長官の命がないとあれば私的な退去となってしまうだろう。だから、すぐに退去することは難しいと言ってやった。それに、だ。きっと幕府の上層部は、その建言を受け入れるわけがねぇ」
確信とばかりに土方は言うと、一息ついた。
「今、上層部が俺たちをこの場所から離せまいとしていることは必至だ。何せ伏見には薩摩藩邸があるからな。奴らがどう動くか解らない今、新選組をこの地から離れさせるなんてことは、できやしねぇよ」
そして土方が図ったように『撤退せよ』との命は降りて来ず、こうして六日経った今も伏見奉行所に宿陣していた。
加えて、この六日で隊士の取り組み方も良い方向に代わってゆき、近藤が負傷し抜けたという事態に荒んでいた者達も温和になりつつあった。
皮肉にもこのことが幸となったわけだが、それでも良いに越したことはない。
日輪が齎す光の帯が、隊士の部屋まで射し込んでいる。
「蕎麦あった!」
という平穏な光景が、その場には立ち込めていた。
吉村と共に、ホッとしたよう微笑み合う。
大掃除を終えて夕餉までの空いた時間に、烝は文を出してこようと思い立った。
すぐさま部屋へと行き、文机へと向かう。まだ一通――年賀状ではないが書いていないものがあり、紙を広げると筆を取った。
本当は後でもいいのだが、時間がある時に書いた方が賢明だろう。
墨の中へ筆の穂先をつけ、硯でそれを整えると、一息ついてから書き始めた。さらさらと書いたのは、妻の、琴尾の名前だった。
前文は前回とほぼ同じ。「寒いが体調を崩していないか」、「皆は元気にしているか」などと書き連ねる。しかし今回は烝自身、体調も崩さず元気にしていることを文面に記した。
というのも琴尾は普段の明るさからは掴み難いが、なかなかに心配性だ。元気にしているかという問いに無言を返せば、きっと烝の身を案じずにはいられないだろう。
しかし身体を壊していない者のことを遠くの地でひたすら案じているなど、それでは琴尾があまりに気の毒だ。いらない心配をかけるのは、少々忍び難い。
そう思い筆を運ぶと、烝は一度墨を付け足した。
――今、こちらは緊迫した状況にあり、近いうちに大きな戦があるかもしれないと周囲で囁かれています。もしも戦になったとしたら、私も一隊士として、名に恥じぬよう戦いたく思います。
実際、大坂へと下った十二月十四日の時点で、もういつ戦が起きてもおかしくない状態にあった。皆殺伐とした空気を纏っており、不穏な雲行きを感じさせる。……そしてそれは今も変わることなく、ひしひしと渦巻いていた。
もしかしたら明日には戦が起こっているかもしれないし、明後日に起こるかもしれない。今の時点では何も解らなかったが、ただその状況から抜け出せないでいるのは事実なのだろう。
烝はそのことを己の心にも言い聞かせると、「しかし」と文に書き足す。
――しかし、お前は武士の妻です。私はいつ命を落すかも解りません。ですが、そのことを嘆き、気に病んだりしすぎてはいけませんよ。私にもしものことがあったとしても、気をしっかりと持って歩んでいかなければなりません。
外からはやけに明るい隊士の声が聞こえてきた。
日輪が開け放たれた障子から射し込み、片付いた部屋を照らしだす。
しんみりとした文章になってしまったが、そこから目を逸らすまいとすると、烝は最後の文を書き始めた。
――最後になりますが、もし時間が取れるようであれば、先日言ったように春の頃、そちらへ伺おうと思います。恥ずかしながら、そろそろ故郷で皆に会いたいと思いまして。その時は、よろしく頼みますよ。
『慶応三年師走大晦日 山崎烝』
文末にそう記すと同時、烝は詰めていた息をふうっと吐き出した。
春の頃、そちらへ。
これはいわば約束だった。記さないまでも、私から琴尾への契り……。
雲が静かに流れ、形を変えてゆくのが遠目に見える。風と共に隊士の声が入っては、元気よくどこかへと旅立っていった。
雀が飛び去ってゆくのをその耳に感じると、烝はすっと立ち上がった。
書きたての文と年賀状とを、その手に持って。