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四章 暮れゆく年の瀬に

 事繁き国の内外の秋なれは まつつちかはむやまと心に

   烝


 乾いた音が、雪に覆われている市中に木霊した。

 寝入ろうとしていた烝は蒲団を引き剥がすと、上体を起こしたまま首を左右に廻らす。床について間もないとはいえ、もう夜四ツ時(午後十時頃)だ。このような夜更けに一体何があったというのだろう。

 昼にも増して、刺すような冷気が身を蝕んでいく。

 まさか聞き間違いだったのでは……。

 突然のことにそう思うも、再度銃声が響き渡っていくのを耳にすると、その考えもあっさりと打ち消される。慌てて障子を開けると、烝は忙しなく外を見渡した。

 銃声だなんて、それだけでもうただ事ではない。

 すると同じことを思ったのか、隣室の原田も血相を変えて縁側へと飛び出してきた。互いに目が合うと、原田は足音を抑えようともせずに駆け寄ってくる。

「聞いたか?」

「先ほどの銃声ですか?」

「ああ、それ」

 口早に告げてきた原田は明らかに良くないものを感じているようで、その顔に焦りを滲ませていた。

 烝もひたりと縁側へ足を踏み出すと、音の聞こえた方角を睨めつける。そっと耳を(そばだ)てたが、何も聞こえてこない。

 しかし、今は誰もが寝静まっている時間帯だ。こんな夜更けに――それも銃を持って出歩くような者といえば、大方予想がつく。

 口の中がカラカラに乾いていくのが感じられた。

 ただでさえ御陵衛士の残党との(いさか)いを引きずっているというのに、局長までいなくなり、ここのところ新選組は不安定な状態に置かれている。もし先ほどの銃声が考えているとおりの者が発したものだとすれば……。

 そう考えるだけで、烝は身の毛がよだった。ただ、その考えを完全に否定できないからこそ恐ろしい。

 もし、彼らの仕業であったら。そして、もし見廻りに出ている隊が、彼らに遭遇してしまったとしたら……。

「……このような時に、どうして」

 拭いきれない不安から、いつの間にか考えていたことが口から漏れていた。ハッとしたが、既に遅い。

「山崎さん。それって、どういう意味なんだよ」

 そう言った原田は、いつのまにかじっと烝を見つめていた。どうして呟いてしまったんだろうと、烝は改めて己を責める。

 だが、ここで言葉をあやふやにしても、原田の焦りが消えないことは解っていた。それどころか言葉が意味深なだけに、隠されたら更に嫌な予感を抱いてしまうかもしれない。しかし――。

 葛藤を繰り返していた烝は、「私の思いすごしでしょうが」と前置きしてから、静かに口を開いた。

「もしかしたら先ほどの発砲は御陵衛士の残党の仕業なのでは、と感じまして」

「まさかッ!」

「いえ、あくまで『もしも』の話です」

 食いつかんばかりの勢いで返してくる原田に、烝は「もしも」を強調して答えた。だが、原田の表情が晴れる様子はない。

 戦慄(わなな)く掌で、原田はそっと口元を覆う。

「でも、仮にそれが本当だとして、もし見廻りに出ている奴らが遭遇でもしたら――」

 想像したくもなかった仮定が、言葉になったことで真実味を帯びていった。近藤が先日撃たれたものだから、余計にそう思ったのかもしれない。

 同じことを感じていた烝は、無言で訴えかけてくる原田に何も言うことができなかった。

 確定したわけじゃない。

 何度も自分に言い聞かせるが、動揺は隠せない。

 原田は「クソッ」と柱を叩いた。鈍い音が奉行所内を駆け抜けてゆくが、やがて深い静寂(しじま)の中へと消えてゆく。

 どこか遠くで、犬が声をあげていた。


 しばらくすると寒風に混ざり、言い争っているような声が聞こえてきた。それも、ゆっくりとだが近づいている。

 先刻の銃声といい、一体外で何が起こっているというのだろう。

 烝はそう懸念する一方で、先ほどの仮定が少しずつ頭をもたげ始めるのを感じていた。

「何の騒ぎだ?」

 原田は呟くと、そっと外を見、それから部屋を挟んで向かい側にある廊下を見つめる。

 誰かが廊下を駆けている。

 足音は徐々に大きくなってゆき、外から聞こえていた諍う音がかき消されていった。しかし二人のいる部屋よりだいぶ手前の部屋にでも入ったのだろう。足音はふつりと消え、後にはまた、あの諍いが聞こえてきた。足音が聞こえ始めた時よりも、やはり近い。

 今、ここで何かが起きようとしているのは、おおよそ間違いではないだろう。あの足音が土方の部屋へと吸い込まれていったのなら、尚更だ。

 張りつめた空気に、二人は決して動こうとも話そうともしなかった。ただ、これから起ころうとしている何かに備えて、心を落ち着かせている。

 外から聞こえていた声が喧騒へとなりかけた頃、パァンと襖の開く音が奉行所内に鳴り響いた。無遠慮な足音が、まっすぐこちらへと近づいてくる。

「薩摩藩士が奉行所に向かってきている。さっさと起きろ!」

 刹那、苛立ちの滲んだ土方の声が、奉行所内を支配していった。彼の言葉を聞いた烝は、今度こそ身の毛が総毛立つのを感じる。

「山崎さん。あんた、千里眼でも持っているんじゃないのかい?」

「まさか。大体、来たのは残党じゃなくて薩摩藩士でしょう。外れてますよ」

 二人は軽口を叩きあったが、その表情に最早余裕はなかった。

「私なんかより、さっきの話を聞いた限りでは、原田さんの方が千里眼持ちに聞こえますがね」

「ははっ。俺が奴らを呼び寄せたってか? まあ、それを言うのは実際に新選組の隊士が引き連れてきたと解ってからにしてくれないかね」

 原田はそう言うと、部屋に向かって歩みを進める。

「知らせが来たことといい、薩摩藩士が向っていることといい、もうほとんど確定したようなものですよ」

 互いの顔を見ることもなく(きびす)を返すと、二人はそれぞれの部屋へと戻っていった。奉行所内が、刻一刻と騒がしくなっていく。

「警備の用意をし、奉行所の門前に集え! 今すぐにだ!」

 土方の声が喧噪に負けじと響いていった。


 部屋に戻ると、すぐさま黒衣黒袴といういつもの装束に身を包んだ。袴を履き、後ろ紐をきつく縛ると、烝は壁に立て掛けておいた長巻を手にする。

 襖を開けて廊下に出ようとすると、そこは多くの隊士の姿で既にごった返していた。その波に上手く身を滑り込ませた烝は、他の隊士と同様に廊下を駆けてゆく。

 人に揉まれ、奉行所の門前へと集まる頃には、冬場とは思えないほどの汗をかいていた。舞っている雪を見ると、余計に汗が不釣り合いに思えて仕方がない。

 だが、それよりもおかしな光景が、門前に広がっていた。烝のいる場所からでは全貌を見渡すことなど到底できないのだが、幾人もの薩摩藩士でごった返しているのが見えたのだ。そして、その誰もが狂気に満ちた雰囲気を纏っているのも窺える。

 彼ら薩摩藩士は先に到着していた新選組隊士と、既に対立していた。口論は途絶えることなく、それどころかあちらこちらで言葉が飛び交っている。

 荒立つ人の気も、ぶつかり合う気迫に満ちた雰囲気も、これではまるで戦場だ。斬り合いが今すぐに始ったとしても、おかしくないだろう。むしろ始まっていないことが奇跡のように思えた。この荒みようは、最悪といってもいいかもしれない。烝はそれを、一瞬で悟る。

 提灯の僅かな明かりがゆらりと揺れた。雪が一片、頬を掠めては溶けてゆく。

 烝は長巻の柄を握る手に不自然な力を籠めると、殺伐とした場所へ自ら入り込んでいった。幾人もの隊士の間をすり抜けてゆく。

 かつて見られた浅黄色に白のだんだら模様の隊服姿も、今となっては着られなくなってしまい、大半の者が黒衣を身に纏っている。

 まるで果てのない闇を歩き続けているようだな。

 そう思った烝は胸中で苦笑いしていると、不意に誰かに肩を掴まれ、歩みを止めた。振り返るとそこには島田の姿があり、彼は「やっと見つかった」と息を切らしながら烝に向かう。

「山崎さん、副長がお呼びです。至急最前線に向かって下さい」

「解りました」

「それと、うちのところの隊長を見ませんでしたか?」

 言伝を受けた烝はすぐさま土方の元へ向かおうとしたが、島田からの問いかけに足を止める。

「永倉さんでしたら、先ほどあちらで声を聞きましたが」

 烝はそう言うと、今しがた自分が進んで来た方向を指さした。

「そうですか。わざわざすみません」

 軽く頭を下げると、島田は烝が指した方へと走ってゆく。あの様子だと、土方さんから助勤を集めるよう言われたのだろう。

 そうだとすれば、早く土方さんのところへ行かなければ。そう感じると、烝もまた走った。

 すると程なくして最前線へと突入した烝は、すぐに土方の姿を見つける。急いで彼の元へと駆け寄っていくと、既に疲労の浮かんだ土方の姿が見て取れた。

「何ごとですか」

「見てのとおりだ。巡察に出ていたうちの隊士が、都城兵(とじょうへい)に発砲したらしい。その後も何やらごたごたがあったらしく、そうしたら押し寄せてきたとかなんとかで……」

 土方はそう言うと、門前から少し離れた場所で大砲を構えている薩摩藩士を睨みつけた。その眼光は真の鬼と見紛う程冷たく、恐怖を掻き立てられるような色を浮かべている。

「……ったく。近藤さんがいなくなった途端、これかよ」

 だが土方自身、今回の諍いが新選組に非があることは解っていた。そのため、押しかけて来た薩摩藩士を完全に悪者扱いすることもできないし、ましてや手荒に追い返すことなどもっての外だ。

 局長不在という慣れない環境に苛立ちを感じるのは解らなくもないが、何が気に食わなくて発砲なんかしてしまったのだろう。

 降り積もる雪に、肌を震わせる。

「山崎。吉村に相手方の規模と武具をざっとでいいから調べるよう言ってくれ。それが終わったらすぐに俺のところに来い……少しでも睨み合いを長引かせるぞ。互に頭が冷えるまでな」

 土方は首を前に向けたまま近寄ると、喧騒に紛れるような小さな声で告げてきた。

「承知致しました」

 相手方に気付かれないように口を動かすと、烝は隊士の中へと身を隠していった。

 怒号が背後から聞こえてくる。


 夜がそろそろ明ける頃になると、双方共に疲労の色が浮かんでいるのが目に見えて解った。

 どうにかここまで話を伸ばし、睨み、対峙していたため、斬り合いにはならずにすんでいる。しかし緊迫した空気が消えたかといえば、そうであるはずもない。

 土方の隣に構え、時に口を開き、そのやり取りを身をもって体験していた烝には、嫌なほどそれが解っていた。

 話し合いでは埒が明かない。

 そう感じる隊士達が双方共に現われ始めており、武具を手にする者もいた。それを見た瞬間にはひやりとしたが、今はどうにか踏みとどまってくれているようだ。

 あと一刻も経てば、市中には人の姿が見えてくるだろう。

 そのため、戦には持って行きたくなかった。だが、この状況を見る限り、何かの一突きで戦へと発展していってしまうのではないかという危機感にさらされている。

 どうすればいいんだ。

「そちらの言い分は解ったと、何度言わせるつもりか!」

 すると鬼のような表情を崩さないまま、土方は声を張り上げた。怒涛の勢いで、それは薩摩陣営へと伝わってゆく。

「何が解っているだ。解っていれば何故そのように声を荒げ、我らに威嚇するか!」

 だがそれは薩摩藩士も、負けていなかった。同じように声を張り上げると、周囲の隊士が「そうだそうだ」と同調してくる。

 その言葉に表情を歪めると、身を乗り出さんばかりに土方は怒鳴りつけた。

「先程から威嚇などしていないと、何度も言っているではないか!」

 薩摩藩士の総勢は、三百前後だそうだ。その数は当方のおよそ倍で、また大砲や小銃などの武具を主に所有していると吉村からの情報で入ってきている。

 それは薩摩とは違い、少しばかりしか銃器を所有していない新選組にしてみれば脅威となるものばかりだった。いくら剣戟が強くても、やはり生身で飛びかかるしかないのだ。あれほど高速な鉄の弾に当たれば、ただじゃ済まないことくらい解りきっている。

 そのため土方は「威嚇ではなく、防衛だ」と延々と繰り返しているのだが、頭に血が上るとどうも思考が思うように働かないのだろう。同じことを互いに何度も言い合ってしまうし、また薩摩藩士は新選組の行動が威嚇だと信じきっていた。

 堂々巡りに苛立った薩摩藩士は、「だったら今突きつけている刀を下ろせ!」と言ってくる。

 その言葉に飛びかろうとする新選組隊士達をやはり冷静な者が制止させると、いつもとは違う氷のように冷たい表情で烝は薩摩藩士らを見やった。

「武器を先に構えられたのは、あなたがたの方でしょう! こちらにその要望を飲ませたいのなら、戦意のないことを先に示し、その物騒なものを下ろしたらどうです」

「ふざけるな! その奥に数多と控えている隊士の獰猛な目。こちらが先に戦意がないことを示そうものなら、切りかかられるも明白!」

 この場に我らの(むくろ)を転がすつもりだろう!

 怒りを抑えきれない相手の意見に、少なからず焦慮(しょうりょ)に駆られる。だが、それをどうにか胸のうちに静めると、烝は近藤と土方の言葉を再三反芻した。

『あいつ一人でどうにもなりそうもない時や無茶をしようとした時は、烝。どうかあいつを止めてやってくれ』

『……少しでも睨み合いを長引かせるぞ。互に頭が冷えるまでな』

 これが、今私に与えられた責務だ。怒りなどで我を失っては、元も子もない。

 深く深く、日が昇ったばかりの冷たい空気を吸い込んだ。それで苛立ちを鎮めさせると、烝は頭を働かせた。

 眼前でなおも必死になって弁明を試みる土方は、批判の中でも聞こえるように息を吸い込むと、大きな声を響き渡らせた。

「そのように外道な(やから)だと思われるのは心外だが、事実、我ら新選組はあなた方が思っているような、野蛮な輩ではない!」

 ――と、その時。

「では、双方ここいらで止めにしてはいただけないだろうか」

 凛と張りのある、威厳を持った声が突如入り込んできた。それはこの場の誰よりも静かで、しかし万人をも止めようほどの風格を持っている。

 はたと振り返れば、新選組の後方――奉行所の前に一人の人影が浮かび上がっていた。

 夜通しのいがみ合いに、相当疲労がたまっていたのだろう。烝は霞む眼を乱暴に擦ると、はっきりしてくる人影をしかと捉える。

 そこに立っていたのは、この伏見奉行所に勤める田宮(たみや)如雲(じょうん)だった。彼はひたりひたりと歩みを進めると、両陣営の狭間、門扉の丁度かかる場所で立ち止まった。

「ここがどこと心得ておるか。伏見に立つ遠国奉行(おんこくぶぎょう)ぞ。斯様な場所において諍いを起こすことは、勿論良しとせぬ。それに、市民も大層困り果てておるぞ」

 田宮はそう言うと、薩摩藩士の奥に広がっている市中へと視線を向けた。

 いつしか雪の止み、白銀に輝いているその場所は、確かにざわめき立っている。

「市民はそなた等が戦を起こすのではないかと、背筋を凍らせておる。そこでだ。この我に免じて、一旦この場から引いてはくれぬだろうか」

 田宮は薩摩藩士と新選組を交互に見つめると、まるで好々(こうこうや)のような表情を浮かべた。

 辺りは一度、静まり返る。

 鬼気迫る表情を浮かべていた土方は、ことなきを得そうだと感じると、肩から僅かに力を抜いた。しかし、田宮の意見を飲みたくないのか、すぐさま『否』と言う声を薩摩側は主張してくる。

「その遠国奉行に陣を張るこの集団は、都城兵に発砲したのだぞ。そのような者共が集っているというのに、主は引けと言うのか!」

「まったくだ。それこそ良しとせぬことではないのか」

 響く罵倒に周囲は加熱する一方、それも尤もだ烝は思っていた。

 確かに彼らの言っていることは、紛うことなき事実だ。発砲をされて、ここまで押しかけたのだから、今更引けるはずもない。それにそう言えば、ここにいるためのもっともな理由にもなる。

 しかし、新選組にも意図はあったはずだと烝は考えていた。詳しいことを聞いていないため解らないが、いくら近藤さんの不在に苛立っていたとはいえ、物事の善悪は解っていたはずだ。

 だとすれば、一体どうすればいいのだろう……。

 烝は土方へと秘かに視線を向ける。すると軽く顎を突き出され、また視線からも「行け。こうなったら更に奴らの頭に血を上らせてやるんだ」と、無言で言われてしまった。

 烝は今までとはまるで違うことを言う土方に疑問を覚える。だが、意見を変える気はないのか、土方はなおも視線で急かしてきた。

 怒らせてことが大きくなったら、この人はどうするつもりなんだろう。

 そう思うも土方に逆らうことなどできるはずもなく、烝は深く息を吸い込んだ。

「しかし、そちらだってこちらの事情など解ってはいないのではないですか? その上で発砲の事実だけを挙げて責めようとするなど、こちらにとっては迷惑千万」

 すると今までのざわめきがまるで虚構だったかのように、余韻を残しては消えてゆく。

 何? と反応を示してくれる薩摩藩士の声に笑みを浮かべると、烝は彼ら陣営を睨みつけた。

「今すぐ退けと仰る田宮殿のお言葉を、聞き入れればいいでしょう」

 刹那、その場の空気が凍りついた。

 迫真(はくしん)の演技、ではない。それは烝自身でさえ信じられぬほど、憎しみと苛立ちに満ちた声色をしていた。

 どこかから、誰かが息を呑む音が聞こえてくる。

「……ッ、ふざけたことを抜かすな! 主は我らを愚弄するつもりか!」

 すれば当然、怒りに震える声を薩摩藩士は上げてきた。しかし、

「何を言っているのですか。自分に都合の良いことばかりを並べ、その上で自らの行動を正当化するような方々に、私達についてどうこう言われたくはありません」

 それに心を痛めながらも、どうしてか言葉を紡いでいく声は冷ややかなままだった。

 表情だけは崩さずに、しかし小さく唇を噛み締めると、烝は胸奥で、『誰でも良いから、このやり取りに終止符を打ってくれ』と叫び声を上げる。そうでないと、自分を制御できなくなってしまいそうな気がした。

 視界が、どうしてか嫌にぼやけた。何かが急に競り上がり、冬だというのに背筋に汗が伝ってゆく。

 相手の怒号が聞こえ、それに楯突き――。繰り返せば繰り返すだけ、自分にとって大切な物が壊れていくように烝は感じていた。

「主ら、どこまで戯けたことを――ッ!!」

「止めにせいッ!」

 すると、突如終りが訪れる。

 堪忍袋の緒が切れたのか。薩摩藩士の言葉も半ばに、田宮は一喝した。

 好々爺はあっという間に姿を消す。代わりに土方にも勝る鬼のような形相で、彼は両陣営を一掃するよう睨みつけた。

「互い諍いを止め、この場から引くことを了承せい。さもなくば、それなりの成敗を下してやろうぞ」

 その場は見る間に、静寂に包み込まれてゆく。



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