三章 折れた柱の元で(4)
三、
近藤の肩に包帯を巻いている最中、上層部の隊士が集い、緊急の会議が開かれた。
話によれば、近藤は二条城で開かれた軍議からの帰路、夕七ツ時(午後四時)頃に伏見街道の墨染から丹波橋にかかる辺りで狙撃されたのだという。
狙撃してきたのはどうやら御陵衛士の残党のようで、見たところ七、八人。またこれによって平隊士の井上新左衛門と馬丁の芳介の二人が討死にしたと島田が報告した。
更に沖田が静養していた近藤の妾宅に、今朝方刀を持った男が訪れ、「沖田総司がここにいたようだが……」と尋問をしてきたという報告も入っている。
これが御陵衛士の残党によるものかはまだはっきりとしていないが、それにしても同じ日に暗殺未遂や不可解な尋問があったとなれば、さすがに関連性を疑わざるをえないだろう。
烝も近藤の怪我の具合を報告し、そしてその場から皆が去ったのは、もう夜も更け始めた頃だった。
片付けた医療具を持つと、烝は原田と共に部屋へと戻ろうと腰を上げる。静かになった奉行所の廊下に、ひたひたと二つの足音が響いていく。
「あ、山崎さん」
すると不意に声をかけられ、二人ははたと立ち止まった。そこにいたのは烝の隊に属する隊士で、彼は「少々お待ちを」と言うと、懐から一通の文を取り出す。
「急に呼びとめてしまい、申し訳ありませんが、山崎さんに文が届いておりましたので」
はいと烝に文を手渡すと、彼はやわらかな表情でにっこりと微笑んだ。彼が小さく首を傾げると、ふわりと優しい気配が空気に溶け込んでゆく。
「今日は大変でしたからね。本当は昼頃に届いていたのですが、渡すのが遅くなってしまいまして」
そう言うなり彼は一礼をして、「では、おやすみなさいませ」とその場を去っていってしまった。
疲れていたのもあるのだろうが、嵐の如く去っていった彼に、烝も原田も「おやすみ」としか声をかけられず、しばし茫然と立ち尽くす。
しかし、「で、誰から?」という原田の声に我に返って、烝は早速文を裏返した。と、
「……妻からだ」
目に飛び込んできたのは、見覚えのある美しい筆跡。
胸が高鳴るのをまるで他人事のように感ながら、ぼうっとした声のまま烝はそう告げた。
「へぇ、奥さんから。そりゃあ楽しみじゃないのさ」
同じく他人事のようでも、如何にも楽しんだような声音で、原田は烝の肩を小突いてくる。文を見、それから烝の顔を覗き込むと、原田は感嘆の声を上げた。
「早く読みたいんじゃない?」
「そうですね。嬉しくて嬉しくて、今すぐにでも読みたいですよ」
「へへぇー。んじゃあ、さっさと部屋に戻らにゃだな……あ、それ半分手伝うって」
医療具の半分を持ち、さあ行こうと原田は口元を綻ばせながら先立って歩いてゆく。だが、その双眸に悲しい色が潜んでいたことは、顔を見なくてもその空元気から窺い知ることができた。
朧々(ろうろう)と照らす月明かりを頼りに、部屋へと再び歩みを進める。
「ありがとうございます」
前を歩く原田は烝からそう言われると、いいんだってと片手を上げた。
文を開くと、女性らしい小さくも整った文体がその目に入ってきた。
『山崎烝様
お手紙拝見いたし候。寒冷の節、いよいよご安康にお凌ぎあそばされ、恭賀たてまつり候』
そこからは温かな彼女の気持ちが、自然と溢れ出している。どうしてか、琴尾が文面を通して微笑みかけてくれていよう気さえしてしまった。いや、その姿はありありと瞼の裏に浮かんでくる。
無事であること。
それを琴尾が一番に願っていることを、今までの文のやり取りからも知っていた。
烝は口角を微かに持ち上げると、続く文面を目で追う。
――先日、新選組の方々が某天神にて宿陣したことは、風の便りにより聞きました。雪とならずとも凍てつくような雨風の中でのお仕事と聞きますが、お身体の具合はいかがでしょうか。こちらは皆、病に冒されることなく過ごしておりますよ。
行灯の灯火がさっと揺れ、全ての影がゆらりと蠢く。
誰も病に冒されていないと知るや否や、烝は安堵のあまりほっとした。
大切な者が苦しむのは、もうたくさんだ。
奇しくも今日一日でそれを痛感し、最も強く胸に抱いていた。大切な者が苦しむ姿など、見たくもない。
震える心。それを宥め抑えながらも、文面を追ってゆく。
――さて私事ですが、烝さん方が大坂を去った後、こちらでは雪が降りました。たいした量ではなく、ごくごくわずかなものでございます。しかし、その光景と先日の逢瀬の光景とが相重なりまして、心の臓が温かくなるのを感じました。
その文章から、故郷の程よい活気に包まれた町並みがやわらかに蘇り、烝はそっと目を細めた。
そうか。あの日のような光景だったのかと感じれば、胸は嬉しかった気持ちでいっぱいになる。
整った文面をいとおしそうに見つめ、その一文を指でなぞった。サッという小さな音がやけに大きく響いてゆく。
――まさか同じような光景が見られるとは思いもせず、嬉しさと懐かしさに、しばし立ち尽くしていたのを思い出します。
きっと、ほんの少しだけ恥ずかしがりながら書いたのだろう。他の文より細くなっている文字を見て、ふっと烝は口の端を上げた。しかし、この文章を読んだだけで、琴尾が玄関先でその光景を前に、感慨に耽っている様が容易に思い起こせる。
しかし、どうしてだろう。
――最後になりますが、私も烝さんにお会いしたく存じます。ですが、けして飛び出してきてはなりませんよ。時の神に、会えることを願いましょう。
『慶応三年師走 琴尾』
手紙を閉じ、そっと瞼を震わせる。
どうして読み進めるたびにこれほど心が痛むのか、烝には解らなかった。
嬉しいはずなのに、優しいはずなのに。その思いにさえ素直に喜べない。
今を取り巻く状況とこの感情が、あまりにかけ離れていたからだろうか。それとも、琴尾の与えてくれたこの時間が、もう与えられないとでも思っているのか。取り戻せないとでも思っているのか……。
思えば思うほど頭の中はぐちゃぐちゃになり、唇を硬く噛み締め、緩く頭を振る。
私は、何がしたいんだ。
何を思い、何を信じ、どうありたいんだ。
誰かが歩む音が過ぎ去り、しんとした静寂が戻ってくる。
解らない、解らない。答えなどとうに見えているはずなのに、どうしてか何も解らない。
頭を抱え双眸を瞑ると、いつもは感じる微かな光さえ見えなくなっていた。
心の臓は太刀を添えられたかのよう、ひやりと竦む。
もう今までの生活には戻れないと、誰かがずっと囁き続けているではとないかとさえ思えてしまった。
縁側から、障子の隙間を縫っては冷たい風が入り込んでくる。
一体、何故……。
そんなどうしようもない気持ちばかりが烝をさいなんでいた。
二日後の十二月二十日、近藤と沖田の両名が、幕医松本良順の治療を受けるため、大坂へ下ることとなった。
支度を整え、また烝も近藤の包帯を換えるため、その日は朝から慌しかった。
「俺がいない間は、トシに新選組を任せっぱなしになる。だが、あいつ一人でどうにもなりそうもない時や無茶をしようとした時は、烝。どうかあいつを止めてやってくれ」
包帯を巻いている途中、そう言った近藤の声にどうしてか憂いを感じた。今でもそれの答えは、まるで見つからない。
だが、そんな思いを振り払うと「そのお言葉、しかと受け承りました」と是を示した。すると近藤は頼んだと満面の笑みを向けてきてくれたのだった。感じた憂いなど、お前の見た幻影だとでも言うように。
しかし、それでさえ胸の突っかかりが消えないのはどうしてだろう。
二人の姿が見えなくなってもなお、烝はその姿を目で追い続けていた。
枯葉が一枚、視界を横切ってゆく中。