序章 契り、愛する者のため
いつの日にか、永久の眠りは訪れるのだろう。
幾星霜、幾歳月。
どれほどの時を紡ぐかなど、誰にも見当が付くはずもない。
ただその中で守るべき者、愛すべき者が現れたのだとすれば、私はその者に永遠を誓いたい。
悠久の刻を、不変の愛を。
そして、ただ一つ。
その者に日輪の輝きが絶えぬことを。
序章 契り、愛する者のため
「琴尾……すまないな」
その日はやけに、晴れていた。
雀の鳴く声が遠く澄み渡った空を駆けてゆき、透きとおった空気を震わせてゆく。
開け放たれた障子戸。そこから降り注ぐ陽光が、暖かく室内を明るく照らしだす。畳の上に二人分、すぅっととおった光の切り絵を描いていった。
「何をおっしゃいますか」
すると美しい紅色の着物を纏った女性――琴尾が、烝の顔を見つめてきた。
小さな顔に、結い上げられた艶やかな黒髪。黒目がちな瞳をそっと細めながら、琴尾はくすりと微笑んでいる。しかしその顔には困惑にも似た色が見え隠れしており、どことなしか不安定な表情が滲んでいた。
「あなたはいつも、そればかり。会うたびに謝られる私の身にも、なってみなさいな」
琴尾はほうっと息をつくを、首を傾げながらそう告げてきた。
そういえば、前にも同じようなことを言われたかもしれない。
「そうだな。気付かなくてすまない」
「ほら、また」
言われてからはっとして、烝は口を噤んだ。そんな彼の姿を琴尾はさも楽しそうに見て、そして笑っている。烝は琴尾につられて、自らも笑みを浮かべてしまった。
己の失敗で笑っているとは、なんて可笑しなことだろう。
それでも不思議と、不快ではなかった。むしろ久々に感じる幸福感に、烝は喜んで身を投じている。
そういえば、いつからであろう。この幸せな光景が『願望』へと変わっていってしまったのは……。
チチチと小鳥が、宙を舞っていった。淡い風が頬を撫でてゆく中、二人は微笑み続けている。
無情にも過ぎ去っていってしまうこの時の中を、烝と琴尾は確かに共にあり続けているのだろう。
今なら、それが解る。
「ねぇ、烝さん」
しばらくすると、凛とした琴尾の声が烝の耳に届いてきた。
穏やかで、微笑んでいて。それでもなお引き締まった雰囲気を纏う、琴尾の声。安堵にも似た感情を胸の内に抱きながら、烝はそっと琴尾の顔を見やった。
障子戸の奥で、穏やかな風が吹いてゆく。
「どうした?」
烝の問いかけに長い睫毛を伏せると、琴尾は弧を描いている口元をゆっくりと開いていった。
「あなたが長い間家を開けようことも、私は承知しております。武士たる者、のうのうと安息にばかりかまけてなどおれませんもの」
朗々と紡がれていく言葉を一旦止めると、琴尾は烝の目をそっと覗き込んだ。
「それに、本当は存じておりますのよ。烝さんとこうしてお会いすることができるだけでも、十二分に幸せなことなのだと」
だからそんなに悲しそうなお顔を、なさらないで下さいな。
――と。儚いほど優しい表情を浮かべながら、琴尾はそう告げてきたのだ。
「だが琴尾。何故……」
しかし、烝は彼女の優しさが理解できずに双眸を見開くと、掠れた声でそう問いかけたのである。
それも当然だった。烝は逢瀬のたびに、琴尾に頭を垂れてきたのだ。それは他でもない。彼が琴尾に辛い思いをさせてしまっていると、そう感じていたからだ。
新選組。
それは元治元年(一八六四)の池田屋事件を期に、多く名を知れ渡すこととなった、一つの組織である。
もとは彼らも、京の治安維持と過激な尊皇攘夷派とを取り締まるために結成された、壬生浪士組という集団だった。それが時を経、名を『新選組』と改めたのは、文久三年(一八六三)のこと。
その翌年梅雨の頃、尊皇攘夷派から京の町を業火の海に投じるという悍まじい知らせを聞かされたのは有名な話だ。このことから彼ら攘夷一派をかの池田屋で取り締まったのだが――そのことが大きく出たのであろう。
斬ってのち、斬りかかる。
先を嗅いでは、奇襲し討つ。
奇抜で巧妙な戦いは、確かに凄まじいものだった。
烝自身は当日、屯所の守備に回っていたために直接的なかかわりを持つことはほとんどなかったといえる。しかしその話を耳にするたびに肌の粟立つ、戦慄とも興奮ともつかない感覚が芽生えるのを、しかとその身に感じていた。
そしてそのような集団であるが故に、京中に妾宅を持つ幹部もあったものの、烝は勿論、隊士の大半が我が家に帰ることさえ叶わない状況にあった。
いや。そもそもにしてそれ以前――入隊の頃よりの暗黙の了承。個々の命を懸けた上での役職とでもいおうか。隊員はそれだけの覚悟をしてまで、新選組に入隊してきているのだから仕方がない。
逢瀬の機会を与えられている。それだけでも幸せに思うのが常識なのだろう。
だが烝は元々摂津にある実家で針医をやっており、以後もその職を継いでゆく身であるはずだった。そこで琴尾と共に暮らし、子をつくり、平穏なままに老いてゆく。
――本来在るべき姿は、烝の『武士になりたい』という夢で無きものへと変わっていってしまったのだ。そしてその事実は、二人との間に容易く線を引いてしまう。会いたいとどれほど懇願しようとも、容易に叶わぬほどの距離をもたらしてしまったのだ。
まだ婚儀をして、そう多くの年月を巡ったわけでもない。ましてや子供すらいない状況で、琴尾を一人摂津国大坂にある実家へと残してしまっている。
その事実はどれほど頭を垂れようが償えるものではないと、烝はそう感じていた。二人で紡いでゆくべきかけがえのない時の一つひとつを、確実に失う道へと進んできてしまったのだから。
……しかしそう感じている烝とは裏腹に、琴尾は変わりないほどの優しい表情で彼の双眸を見つめていた。
そこからは言葉通り、この僅かな時だけでも会える喜びを噛み締めているかのような色さえ窺うことができる。
烝は琴尾のあまりに一途な態度に、今度は心中でのみ「何故」と呟いた。しかしそんな彼の姿を見てさえ、琴尾の意志に変化はない。
「理由など、申すほどのものではございません」
その凛とした声音。
一度瞬き視界を閉ざすと、琴尾は長く長く一呼吸した。
時は移ろい止める。
次には、零れんばかりのやわらかな笑みを、琴尾はその面に浮かべてきたのだ。
「『私がどの御武人よりも、あなたのことを信じている』……それだけではあなたの元にいる理由として、不十分でしょうか」
やわらかで儚いまでの、その声音。
琴尾の言葉が、すっと耳に入ってくる。
「いや、不十分でなどあるものか」
そのような返答など予想だにしていなかったものだから、烝にはそれしか返す言葉が思いつかなかった。すると、思わず琴尾をこの腕に抱きとめたい衝動に駆られてしまう。
だが、烝はそれを寸でのところで持ち堪えた。息を詰まらせた烝の心中には、キリリとした痛みが生まれてくる。
それはまるで、寂寞の風が癒えていない傷に染み渡るかのような感覚だった。塞がりかかっていた心の傷が、広がってゆく。
どうしてこんな思いをしているのだろうと考えて、「ああ。それは行動を押し止めてしまった未練からなのか」と気付いたのは、しばらく経ってからだった。
「不十分などではない」
「そうですか」
琴尾の言葉を染み渡らせるように繰り返すと、彼女は嬉しそうにそう呟いた。
「けれど烝さん。一つだけ、約束をして下さいませんか?」
障子の外からは、外界の心地よい喧騒が耳を突いてくる。
烝は琴尾の言葉を聞いて、思わず彼女の顔を覗き込んだ。
すると、琴尾は穏やかな表情をその顔に浮かべたまま、まっすぐな視線を向けて来、そして――。
「私と会う時には必ずや、その笑顔を見せて下さると」
あれから幾許の時を経たであろう。
時は激動の時代。
慶応も三年の暮れにまで差し掛かっていたのだから……。