一章 ゾンビだらけの秋葉原と幼女 5
しばらくして回復したおれは帰宅を再開する。
もう時間は深夜になっていた。あれから人は帰ってくることなく、イベントも中止になった。以前は大量にあったネオンの光はなく、寂しく足元を照らす証明灯を潜っていく。
スーツも肉体もボロボロだった。
さすがに歩くのが精いっぱいで、報復もしばらくあとにすることにしよう。
建物の脇を通ると、子供の声や大人のひっそりとはしゃぐ声が聞こえてくる。おれが最初に開発したアイテムであるZジェットをかけていることで安心しているんだろう。あれにはZが嫌悪する物質が入っていて、やつらを遠ざけることができる。
小さな平和を享受する彼らが耳障りだった。
顔面が余すところなく叩かれたせいか、鼻水が出てきて目元が潤みはじめた。
キグナスをクビになってからちょうど一年間。
どうやら今日の日付は、おれにとって最悪の日のようだった。
十四歳からの思い出が、脳裏に蘇る。
今みたいに常に命の危険があるわけじゃない世界。学校に入り、そこでキグナス設立当時のメンバーと出会った。
まだ若い仲間たちの姿が浮かんでくると、次第に景色が変わっていく。
花園にいた女。
もう具体的な日にちもどんな花があったのかも覚えてない。ただ、濡れた紫色の花の前にかがみこんでいたあの女のことは忘れていなかった。
彼女はおれの存在に気付くと振り返って――
「……」
いつのまにか、おれは家に辿りついていた。
花びらも雨もどこにもない。つけっぱなしのメイド喫茶の看板の下に、無機質な空間が広がっていた。
だが、そこに少女がいた。
幼さを感じる手足や背丈。おそらく一〇歳よりも年下だ。
記憶の彼女とは、髪色も顔の造りも違う別人だった。
けどなぜか、おれは初対面のこの少女を彼女と被せるように見てしまった。
「gaaa……」
Zの唸りが中からした。どうやらまた侵入したらしい。
なんとなくZがおれの家に集まってきたのが分かった。他の家と違ってZジェットを使っていなかったから、弾かれたやつらが寄ってきたのだ。
しょうがない。
今日はもう外にいて、明け方、自警団に駆除をお願いしよう。
「いや待て」
少女は動こうとせずに、屋内にじっといたままだった。
Zがいるのを分かってないのか?
たとえ今のまま音をたてずとも匂いに導かれてZは少女を襲う。外に出るのが、確実で賢明な手段だ。だが少女はZがすぐ傍まで来ても、停止したままだった。
足が竦んで動けないのか?
助けるという選択肢が出てくるが、見知らない少女におれがそこまでする得もなかった。だけどこのままなにもしないというのも、なにかが喉に引っかかるような思いだった。
「そこのきみ! こっちに来い!」
「えっ?」
あっ。噛まれた。
Zは少女の肩に食らいついた。腰が折れんばかりに窮屈な姿勢で、美味しそうに歯を動かす。
もう結末が決まった光景を、おれは眺めているだけしかできなかった。
このあとはもう一度死んで、噛まれた存在と同じ動く死体になるだけだ。
肉を千切ると、Zはおれのほうへ首を回した。
虚無のような眼底が見えた。
「やばい」
大声に反応しやがった。おれはもう少女のことなんか頭から吹っ飛んで全力で逃げ出した。
七メートルくらい離れたところで後ろを見ると、Zはもうすぐそこまで接近してきていた。駄目だ。もう怪我でろくに足が動かせなくなっている。
それでもジグザグ走りでなんとか距離を保つ。
Zの身体能力は高いが複雑な動作ができないため、このような逃げかたが理にかなっていた。
それでも五〇メートルほどで息が切れ、足の回転が鈍くなっていく。
クソ。
自警団じゃなくてもいい。誰かいないのか?
「おや。おまえは?」
なんの因果か、副班長がいた。
緊急事態のため、おれは過去を忘れて縋りつくことにする。
「副班長。助けてください」
「……誰だっけ? おまえ」
「葬逆です。あなたの部下です」
「ああ。そんなのいたな」
本当に、今、思い出したような反応を見せる。
近くで話すと、酒臭いのを感じる。どうやらおれの金で酒を呑んだみたいだ。
おれは衝動で怒鳴りそうになったが、抑えて、声をかける。
「Zに追われているんです。ほらすぐもうそこに」
おれは後ろを指さす。最初よりも明らかにZは接近していた。
副班長がいなければ危なかった。通常、こういう時のために市民はZジェットを持っているはずだった。
それさえ吹きかければ――
「本当だ、こりゃやばかったな」
「そうでしょ? だから助け」
「じゃあ自分の危険は自分でなんとかしてくれ」
副班長は、おれの太腿を蹴った。
痛みとともに力が抜けて、膝をつく。
「な、なにしやがんだてめえ!?」
「おまえ。復讐にきたんだろ?」
「はあ?」
「いやだからさ。ついさっきおれ、おまえのことリンチして金もらったじゃない。あれを恨んで、Zをけしかけようとしたんだろ?」
なに言ってるんだこいつ?
確かに金は奪い返そうとしたし、てめえなんて殺せるものなら殺してもいいさ。だが今のおれはただ救助を求めただけで。
「あばよ。永遠にな」
副班長は、千鳥足でおれから離れていった。
微かな希望さえも潰えてしまった。
そのことに朝と同じ恐怖を覚えると同時に、最悪の日にふさわしいラストだと思えた。
おれはシニカルな笑みを浮かべながら、これからお仲間になるであろう存在へ振り向いた。
「gururu」
「――この人はだめ」
Zが爪を突き刺したのは、さっき噛んでいた少女だった。
いつのまにこんな近くまで。
いやそんなことより重要な疑問が多く浮かんだ。
おれがそれを口にする前に、少女はZへ話しかける。
「お姉ちゃんの友達じゃないの。この人は」
「gaaa」
「うんうん。噛みたいなら、あたしをいくら噛んでもいいから。友達じゃない人に強引なことしちゃ駄目だよ」
「uuu」
まるで自分と同年代の人物のように少女はZへ接する。
そしてZも少女の言うことをきくように、爪をしまうとどこかへ去っていった。
くるん、とこちらへターンする少女。
「お兄ちゃん。大丈夫?」
ガシッ
おれは無我夢中で、少女の肩を掴んでいた。
「えっ、あの、ちょっと。えっ?」
戸惑う少女へ、おれは鼻息荒く尋ねる。
「名前は?」
「朝顔つゆ」
「年齢は?」
「九歳」
「好きなものは? 嫌いなものは?」
「好きなのは、おうたとピンク。嫌いなのは、苦いのとピエロ。お兄ちゃん、どうしたの?」
不思議そうに首をかしげる少女。
この娘をおれはまったく知らないため質問の答えが合っているかは分からない。だが、さっきのやり取りのかぎりだとかなり正気を保っていた。
おれは確信した。この朝顔つゆという少女は噛まれたのにZになっていない。
「なあ朝顔……いや、つゆちゃん。きみは、なんでこんなところにいるんだ?」
「お母さんを探しているの」
人類史上初。そして今、最も世界中で求められている素質。
やはりこの世は平等だ。
たぶん今日起きた不幸は、全てこのための布石だったのだ。
「分かった。ならきみの母親探しに協力するよ――その代わり、おれのことも手伝ってくれ」
おれは、この少女を利用する。
この娘さえいれば、もはやキグナスなんぞ目じゃないくらい再び成り上がれる。
花開いたような無邪気な笑みの前で、おれはマスクと同じくどす黒い計算をしていた。