プロローグ おはようゾンビだらけの世界
今朝起きたら、おれはゾンビに囲まれていた。
葬逆梅人ことおれは、自宅を腐った肉体をした人間たちがたむろしているのを見下ろしている。
目にも悪いが、匂いと音がものすごい。潰れた喉から不気味な鳴き声をさせ、自分で自分の足を踏んでグチャッと使い終わったばかりの雑巾のような音をたてた。酸っぱさが混じった腐敗したタンパク質の臭さ、じめりとした肌への感覚が嫌悪感を煽る。もし落ちているやつらの肉を拾って味わっていたら、五感を制していたと思うと怖気が走った。
おれはスプレーを体にまぶしてから、階段を降りていく。
一階に到着すると、屍の群れに入る。足を失って床で暴れているやつを越えて、元々あった席に座る。
背もたれに寄りかかり、机の上で足を組む。
「……」
ゾンビどもは、まるでおれが空気かのように無視して徘徊を続けていた。
どうやら実験は成功みたいだ。
おれは黒ずみと血で薄汚れた壁と歩く死体を目にしながら、リラックスする。
……しかし降りてきたはいいが、匂うな。
腐臭にスプレーの香りも入り混じったものが、とても鼻につく。
ジッパーを少し開いてから、おれは紙巻バニラに火を点け、スマートフォンにさしたイヤホンからドヴォルザークの「新世界より」を聴くことにした。
有名サメ映画のテーマにも似た盛り上がる響きで頭の中を埋め尽くしながら、フィルター越しに漂ってくる甘い匂いで口内を満たす。
感覚が目の前の彼らから切り離されると、徐々に思考が正常になっていく。
「フー」
溜まった煙を吐き出す。
まずおれは彼らをゾンビと呼んでいたが、訂正する。
この腐った人体の持ち主たちの名前は、Z。
アンデット、動く死体、グール、クリーチャー、鬼、屍人、キョンシー、レプナント、クリーパー。国ごとや民族ごとに彼らは世界中で色々な呼ばれ方をしていたのだが、世界政府直属の軍でのコードネームが「Z」とされていることが知られてからはそれで統一された。
今や世界の人口の約八割が、Zだ。
ギュルルル~
落ち着いたら腹が減ってきたので、おれは机の引き出しを開いた。
中には、ふたつの物が置かれていた。どちらも街からの支給品で、ブロックとアルミ缶だ。
幸運にも片方は食べ物だったため取り出し、残ったもうひとつのほうは奥のほうへ指パッチンして転がす。
ボリボリ、とビタミンCを含めた活動に必要な栄養素が詰まった小麦製品を噛み壊していく。
パサパサで無味なため水を飲みたかったが、今は近くにないためバニラの香りで誤魔化しがら我慢して喉を通す。
頭部を完全に覆う黒白鳥のマスク内で反響して、オーケストラの節々で聞こえてくる生理的な音が身近に感じる。
Zはただの化け物なんかじゃない。人間が、病気にかかってこうなっているのだ。
新型コロナウイルス――第四次世界感染を退けた当時の人類にもはや恐れるべき病気などないと思われていた。
しかしすぐに、新たな世界感染は起こった。
それが、Z。
Zは今までのウイルスと違い、誰も止められなかった。国家規模の策も打破され、最終的には立場も能力も関係なくZに支配された。
死者が蘇り、生者に食らいつく様は間違いなく地獄の光景だった。
Zは空気感染だけではなく、Zの爪と犬歯に傷をつけられた人間をも患わせてしまう。Zになると、人は積極的に周囲を襲いだす。病人なら病人らしくベッドに横になっていればいいのに、どいつもこいつも同じように厄介な行動を繰り返しやがる。
紙巻が全部燃えた。
おれは次のバニラをポケットから探す。
ともかく、Zこと第五次世界感染後から八年たった今でも治療方法は発見されていない。またその兆しすらもないため、Zになるということはもはや死同然だった。
ゴソゴソ
紙巻がない。いい加減イラついてきたところで、
ピピピピピ!
「やべっ」
イヤホンのみではなく、スマートフォン本体からもアラームが鳴りはじめる。そうだ。本来ならばこの時間に起きるため、設定をしておいたんだ。
唐突な異音にZどもが反応して、おれの元へ集合してきた。
「gururu……」
オフに見つかったアイドルかよってくらいZに囲まれた。
本当に人だったとは思えないくらい、鋭利で禍々しい牙と爪が至近距離に達する。早起きは三文の徳というが、まったくそんなことはないな。宋樓鑰詩を恨んだ。
だが、彼らの誰しもがおれを襲おうとしなかった。
……よかった。スプレーが効いているんだ。
調子に乗っててきとうな一体を蹴りつけると、おれの足があった場所をZは空振りする。危なかった。Zは人間の約三倍の身体能力なため、すぐに引いてなかったら切り裂かれていた。
おれはアラームを消して、大人しく彼らが去っていくのを待つことにした。
静かになると、一体ずつZたちは離れていく。
Zは人が放つ匂いと声に敏感なため、それらさえ誤魔化せれば襲われることはなかった。
だからといってさっきのような近くの物音にも反応するため、おれはなにも触れないように椅子の上で体育座りしていた。
最後の一体となった。
こいつさえいなくなれば、あとはここから出ていって駆除を依頼する。しかし、Zはまるでおれの願いを断つかのようにじっとおれに目の焦点を合わせながらそこに立ち止まっていた。
早く消えろ早く消えろ……どういうことだ?
なにもしないZに違和感を覚えると、おれは気付いた。
まさか薬の効果が切れた?
どうやらその考えは当たっていた。
静止していたはずのZはおれに向かって大口を開き、黒い涎をまき散らしながら走ってきた。
まずい終わった。
おれの運動神経じゃ避けられない。
脳裏に、Zになった後がよぎる。
知能を感じられない行動。ただ人を食らう日々。人の敵とされ、武器をぶつけられる。
どれひとつとして、なっていいことなんて思い当たらなかった。
拒絶の感情で心が溢れるが、だからといっておれに現状を打開する手段なんてなかった。
Zがあと一歩というところまで迫った。
ガキィン
上下の顎が閉まると同時に、壊れた玄関から多人数が入ってきた。後方のひょっとこマスクを被った唯一の人物を除いて、誰もが全身を隙間なく覆う防護服を纏っていた。
自警団。この街を守っている集団だった。
所持している冷却鋸でZどの首や四肢をぶった切っていく。マイナス一〇度によって脆くなった死体に、超音波振動の刃がスッと抵抗なく入った。
「葬逆さん。平気が?」
Z全てが活動不能になったところで、ひょっとこがおれのところへやってきた。この人は竹さんといって、今の仕事の同僚だった。
「運よく大丈夫だったよ」
「そうがよかっだ。いやあんだがいつもの時間になっても来ないから、おら心配になっちまって。そんで様子を見にきたら、Zがこんないて腰抜けちまったよ。そんで自警団の人に心配されたからあんだの家のこと言ってな」
「助かったよ。でも腰については歳なんだから気つけなよ」
「心配あんがと。でも、ほんとによく無事だったな。よかっだ」
地方出身で、独特のイントネーションで喋る竹さん。
彼に苦笑いをしたおれは、手に持っているスプレーに目をやった。それはポケットにあった空き缶より、ひと回り小さい品。
こいつをZに噴射して退かせたことで、おれは一命をとりとめたのだ。
そしてそれは引き出しの奥にやったやつで、白鳥をあしらったマークが印刷されていた。