第九話 迷い込んだ場所
「――おい!」
崩れ落ちそうになった瞬間声をかけられて、アーシェはパッと視線を上げた。
「……ナターシャ!?」
だが、そこにあったのは、捜し人とはまるきり別の少年の顔で。
「……おい、大丈夫か?」
流石に訝しく思ったのか、銀色の髪の少年がもう一度問いかける。その声音も、口調も当然、ナターシャとは全く別物で。
アーシェはとうとう堪え切れずに泣き出した。
クリスはぎょっとした。突然店にやってきた少女は、自分の顔を見るなり、火が付いたように泣き始めたのだ。
「お、おい……」
しゃがみ込んでしまった少女の細い肩に触れ、恐る恐る揺らしてみるが、少女は返事どころかこちらを見向きもしなかった。幼い子供よろしく、声を上げて延々と泣き続ける。
予想外の事態に、クリスは途方に暮れて後ろの青年を振り返った。青年は軽く肩をすくめ、
「さあ? 僕にもさっぱり」
頼みの綱をあっさりと切られ、クリスは仕方なしにもう一度少女に向き直った。
「…………どうした? 何があったんだ?」
辛抱強く何度か問いかけていると、しばらくしてようやく嗚咽混じりの反応が返ってきた。
「……ナタ、シャ、が」
「ナタ?」
「…………ナターシャ、が」
クリスは再び青年を見やった。
「いや、だから僕に聞かれても。……あー、多分、その子と一緒にいた子じゃない?」
青年はいかにも不承不承といった調子で答えた。クリスも言われて思い出す。確かに、路地で出会った時にもそのような名前を口にしていた気がする。
クリスは、幾度もしゃくりあげている少女に出来るだけ優しく――あくまで「本人にとっては」だが――言った。
「大丈夫だ。イライザがついてる」
「そうそう。見た目より傷も浅かったよ?」
しかし、少女は大きく首を振った。
「違……、ナターシャ、いなく、て」
「「――いない?」」
銀色の少年と細面の青年は揃って顔を見合わせた。青年の方が頷いて、
「そんなはずないでしょ。君の隣で眠ってたはずだけど」
「……でも、いなく、て、わたし…………」
少女の真っ青な瞳にまた大粒の涙が溜まっていく。どうやら感情が上手く抑えられないらしく、零れた先から次々に溢れ出してくる。
その様はまるで母親に置いていかれた幼子のようだった。不意に、しばらく黙っていたクリスが口を開いた。
「大事なのか」
少女は一瞬大きく目を見開いた。潤んだ空の色の瞳が、束の間クリスを真っ直ぐに映す。そうして、こくりと頷いた。
「分かった。――捜すぞ、エリノア」
青年はやや顔をしかめた。が、クリスの有無を言わせぬ眼差しに気付いたのだろう。一つ溜め息を吐き、
「……分かったよ。でも、手がかりくらいはないといくら何でも厳しいよ?」
「ああ」
クリスは少女に尋ねた。
「何か覚えていることはあるか?」
少女は戸惑いがちに目をしばたたかせた。だが、ややあって躊躇いながら答える。
「……あの、女の子がいて」
「女の子?」
「は、はい。白い……女の子」
「白い?」
クリスは表情を変えた。傍観を決め込もうとしていたエリノアが、恐る恐る問う。
「…………ちなみに、その子、名前は?」
「……え? 確か『ニーナ』って…………」
途端、クリスとエリノアが揃って脱力した。
「ど、どうなさったんですか?」
とっくに涙も引っ込んでいた少女が、慌てて尋ねると、クリスは疲れ切った声で何とか答えた。
「とにかく、戻れば分かる」