第五話 白い少女1
アーシェは大きく目を見開いた。
自分たち以外に誰もいなかったはずの部屋の中。そこにいつの間にか、真っ白な少女が現れていた。猫のそれを思わせる大きな金色の瞳が、こちらを見上げている。
「……どうしたの?」
しばらく悩んだ挙句、アーシェはそれだけを問いかけた。少し膝を折り、金の両目と視線を合わす。
幼い姿とは不釣り合いな、整いすぎるほど整った顔がこてんと傾けられる。その顔の向こうにうっすらと透けて見える部屋の壁を、アーシェは極力考えないことにした。
辛抱強く待ち続けていると、少女は桃色の小さな口をゆっくりと動かした。
――『――――――』
音にならない不思議な『声』が響いた。耳元で囁かれているような、頭の中で直接反響しているような奇妙な『声』。
彼女はこう言っていた。
『お姉ちゃんはどうしてここにいるの?』
アーシェは一瞬虚を突かれて黙り込んだ。少し考えてから答える。
「さあ、どうしてなんだろうね」
そう告げた言葉が酷く空虚に聞こえて、アーシェはすぐさま言い添えた。
「気がついたらここにいて。あなたは――」
『ニーナ』
「ニーナちゃんはここがどこだか分かる?」
少女はおもむろに腕を上げた。文字通りに透き通った白い指先が一点を指す。
その指は部屋の扉を示していた。
アーシェは曖昧な笑みを浮かべた。何やら話が嚙み合っていない。
「えっと」
『こっち』
少女がアーシェの手を摑んだ。
不思議な感覚だった。そこにあるのにそこにないような、触れているのに触れていないような、
水や空気を一生懸命に摑もうと足掻いているような。
アーシェはパッと手を離した。振り返った少女が不思議そうに見つめる。
その真っ直ぐな瞳に、我に返った。
「あ……」
アーシェは微かに声を洩らした。頭を軽く振り、今しがた浮かんだ幻想を努めて追い払う。
出来る限り優しく、少女に言った。
「……ごめんね、驚かせて。でも、私はこの部屋を出る訳にはいかない」
『どうして?』
「そこにもう一人、お姉さんが眠っているでしょう?」
少女はこくりと頷いた。アーシェは少し笑って、
「彼女はね、私のせいで酷く怪我をしたの」
思い出すだけで、今でも身震いする。
心臓が止まるかと思った。
自分などを庇って彼女が犠牲になるなんて、そんな馬鹿げたことあっていいはずがない、とすら思った。
「だから、私は彼女の側を離れてはいけないの」
事情を知らないこの少女にとっては、アーシェの言い分はまるっきり意味の分からないものだっただろう。
それで構わなかった。
案の定、少女は首を傾げている。アーシェは苦笑交じりにもう一度言った。
「とにかくごめんなさい。私は――」
眠る侍女の方を、何気なく見やったアーシェは言葉を失った。
ナターシャの姿が、どこにもなかった。