第十四話 我がまま
アーシェという少女は、昔から出来の良い子供だった。
勉強、歌、踊りに礼儀作法。教えられたことは大抵何でもすんなりとこなした。
それは周囲が驚くほどで、その反応にむしろアーシェの方こそ戸惑った。
「どうしてできないの?」
無邪気に――あるいは無自覚にそう問うと、大人たちは一様に黙り込んだ。その意味すら分からず、首を傾げるような子供だった。
教師役は次々と変わった。
そうしてやってきた何人目かの教育係が、レスター卿という、数代前の女王から仕えている人だった。
「殿下。常に目の前の者を思いやるよう心がけなさい」
やにわに言われた言葉に、幼い少女はぱちぱちと目を瞬かせた。
「どうして?」
「それが貴女に最も欠けているものだからです」
面と向かってそんなことを言われたのは生まれて初めてで、アーシェは何となくむっとした。
「どうして? わたしができるんだから、他の人ができるのは当たり前でしょ?」
少女の問いに、しかしレスター卿は首を振った。
「いいえ。貴女ができるからといって、他者もできるとは限りません」
「どうして?」
「人にはそれぞれ役割があるからです」
「役割?」
金の眉を寄せて問い返すと、レスター卿は「はい」とただ静かに頷いた。
分かるような分からないような、曖昧な説明だった。煙に巻かれたような気分で口を噤んでいると。
「貴女は今、私の言うことが理解できない、と感じておいでですね」
「……!」
アーシェは弾かれたように顔を上げた。素直に認めるのは癪だった。今までこんなことは一度としてなかった。
「そんなこと……ない、です……」
発した声はすぐに尻すぼみになった。
悔しかった。いいように言い負かされた気すらした。
「殿下」
その時、頭上から声が落ちてきた。目尻に溜まり始めた水滴が零れそうになるのを、必死で堪える。
「何ですか」
つっけんどんにそう応じると、レスター卿は言った。
「今のそのお心を忘れないようにしなさい」
馬鹿にしているのかと思った。だが、半ば睨むようにして見た視線と同じ高さに、レスター卿の眼差しがあった。
それは、初めて目にした大人の優しい瞳だった。
*
「――――さま。――アーシェ様」
アーシェはゆっくりと目を覚ました。夢見心地のままきょろきょろと辺りを見回す。見慣れない――だが見覚えのある狭い部屋と、かすかに低い、聞き馴染んだ心地良い声音。
「――――ナターシャ!?」
「はい、アーシェ様」
ナターシャは、常と変わらぬ穏やかな表情でそこにいた。立ち上がってとっさに抱き締めようとして、彼女が怪我を負っていたことを再び思い出す。
クリスに案内されて森に戻ってきた後、固辞するナターシャを看病しようとしてそのまま眠ってしまったことも。
硬いベッドにもたれていたせいで、身体中が何とも言えない悲鳴を上げていた。情けない体たらくに内心頬を染めつつ、念押すように侍女に問いかけた。
「ナターシャ、大丈夫?」
「はい」
「ほんとうの本当に大丈夫?」
「はい」
返事の通り、その顔色はさっきよりずっと良くなっていた。ベッドから半身を起こして、侍女がゆっくりと手を伸ばす。
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
そのままアーシェを優しく抱き寄せた。
夢でも幻でもない、彼女の確かな温もりがアーシェへと伝わってくる。アーシェはその肩をそっと握った。
「……うん」
「これから、どのようになさいますか」
アーシェが落ち着いた頃を見計らって、ナターシャが静かに口を開いた。
「……私は」
言いかけ、少しだけ躊躇う。
脳裏に浮かんだのは、やはり昨日の光景だった。血溜まりに沈む彼女を目にした瞬間の、どうしようもない絶望感。
「私は、これ以上ナターシャに危ない目に遭って欲しくない。……でも」
これは、単なる自分の身勝手だ。ただ徒に彼女を巻き込むだけの、子供じみた我がままだ。
――それでも。
「ナターシャとも、離れたくない……」
不意に、ナターシャがアーシェの頭に触れた。
「私も、あなたと離れるつもりはありませんよ」
「え……?」
顔を上げると、ナターシャは微笑んだ。不意に声の調子を変え、
「――私の主の望みは、お聞きになった通りです」
扉が開く。ナターシャの視線を追ったその先。
「……え」
銀色の髪の少年が、そこに立っていた。