第十一話 迷子の少女2
――『……ほんとに? ほんとにナターシャは、わたしの側にいてくれる?』
目を覚ますと、知らない部屋にいた。
身体がやけに重い。頭が酷くぼんやりとする。それでも、視線だけは無意識に主の姿を探す。
「…………え」
――いない。
「アーシェ様?」
返事はない。がらんとした殺風景な部屋は、いっそ寒々しいくらいで、それが余計に主の不在を際立たせている。
「…………アーシェ様」
ふらつく身体を、ナターシャは無理矢理に叩き起こした。曖昧なままの思考が、もう何年も前の『あの瞬間』だけを鮮明に蘇らせる。
――『ほんとにナターシャは、わたしの側にいてくれる?』
あの子を独りにするのだけは駄目だ。それだけは、絶対に駄目だ。
背中に走った鈍い痛みも無視し、部屋の外へ出ようとした時だった。
「おや、案外元気そうじゃないか」
声は、不意に落ちてきた。
「……と言いたいところだけど、随分無理しているようだね。様子を見に来て正解だったかな」
開かれた扉の先、ぞっとするほど美しい女が、にこりと笑んだ。
*
「……あの」
「何だ」
大人しく少年の後をついて行っていたアーシェは、何度目かの逡巡のうち、意を決して尋ねた。
「本当にこちらなのですか」
「ああ」
少年は迷いなく応じた。だが、アーシェの不安はどうにも拭えない。
「こちらは森の方角ではありませんが」
路地に建っていたあの建物――先程の青年が営んでいる店らしい――を出て既に幾分かの時間が経過していた。
店を後にした後、そのまま昨日と同じく大通りへ向かうのかと思えば、ひたすら路地の奥へ奥へと進んでいる。
昨晩少年に助けられたのは、王都西外れの屋敷である。ということは、アーシェがいたのは、おそらく西の森だろう。しかし彼の案内は、とても西を目指しているとは思えない。
「大丈夫だ」
少年はやはり一言だけそう返した。説明する気配もない。これまで目にした様子からすれば、単に巧く話せない性質のだけなのかもしれないが。
「…………本当に、大丈夫なのかな」
ふと少年が足を止め、こちらを振り返った。そのまま黙ってアーシェを見つめる。
一瞬訝しく思い、遅れて今の言葉が声に出ていたことに気付く。
「す、すみません! あの」
「……いや」
再び何事もなかったかのように歩き始める。それ以上何か言うこともできず、アーシェも俯きがちに歩みを再開し、
「――クリス」
「……え?」
「俺の名前。クリス、だ」
アーシェはしばし、ぱちぱちと目をしばたたいた。自分を見つめる少年を、同じように束の間見返し、
(…………あ)
信じられなかったから?
素性も知らない彼のことを、アーシェが不安に感じていたから?
だから、名前を?
「……アーシェ、です」
気付けば、アーシェもまた、伝えるつもりすらなかった名を口にしていた。
「アーシェ」
さらりとした口調で、少年――クリスが呼んだ。
「お前の大事な相手は、もうすぐそこにいる」
「え?」
それと気付いた瞬間、周囲の景色ががらりと姿を変えていた。
緑の匂いがした。鼻腔一杯に爽やかな草花の香りが広がる。
さわさわと揺れる木々の音。固い石畳の地面とはまるで違う、湿った柔らかな足元の感触。
視界の向こう。石造りの小さな民家。その扉の前に立つ人の姿を認め、アーシェの目尻がじわりと滲んだ。
「――ナターシャ!」
アーシェは幼い子供のように、たった一人の侍女に駆け寄った。