第一話 邂逅
間近で響く侍女の息遣いが、耳朶を刺激する。繋がれた彼女の手が、微かに強張っているのに気付いて、アーシェは唇を噛んだ。
王都の賑やかな雑踏は、もう遥かに遠のいていた。目前には薄暗い路地裏がただ延々と続き、一向に果ても見えない。
「大丈夫です」
年上の侍女は、また短くそう言って、もう一度手を繋ぎ直す。
「……」
その意味の分からないほど幼くもなく、さりとて彼女の気持ちを無下にできるほど冷淡にもなれなかった。
半ば祈るような思いで、自分よりも少しだけ大きなその手を握り返す。
足音は次第に近付いてくる。迷いのない足取りは、そのまま自分たちの行く末を指し示していて、アーシェは――
「大丈夫」
侍女がやにわに駆け出した。物陰の向こうへと、一気に飛び出す。
白刃が閃くのが見えた。斬撃が躊躇うことなく、たった一人の従者へと吸い込まれていく。
「――――ナターシャ!!」
白銀が舞い降りた。
燐光にも似た光と共に、一陣の風が通り抜ける。澄んだ涼風がアーシェの頬を撫ぜ、フードの下に隠した金の髪を揺らす。
アーシェはとっさに侍女へと駆け寄った。
「ナターシャ!」
主の声に、侍女は振り向いた。体勢を崩したのか、狭い道に座り込んでいる。その表情には戸惑いこそあるものの、少なくとも傷を負っている様子はない。
ひとまずほっとして、何が起きたかようやく確認しようとした時だった。
「大丈夫か」
突然降ってきた声で顔を上げたアーシェは、次の瞬間言葉を失った。
――まるで銀色の粒子が、空から落ちてきたようだった。
降り積もる雪よりもなお白い、白銀色の髪。少年と少女のあわいにあるような、端整な面差し。そこに嵌め込まれた双眸は、翡翠を思わせる綺麗な緑で、アーシェたち二人をじっと見下ろしている。
「……どうした?」
二度目の問いで、アーシェはやっと我に返った。華奢な外見の印象からすればやや低い、紛れもない少年の声。
「……アーシェ様」
侍女が小さく耳打ちをした。
アーシェが少し身を離すと、侍女はさっと立ち上がり、少年に向けて一礼する。
「助けて頂き、ありがとうございました」
辺りを見やれば、道の端で二人の男が倒れていた。服装こそありふれた庶民のそれだが、その手には無骨な剣が握られている。
一方の少年は、明らかに丸腰だ。その年頃にしては小柄な体躯といい、とてもこの男たちを退けられるとは思えないのだが。
「別に。大したことじゃない」
少年の視線はアーシェの方に向かっている。
アーシェは少し目を逸らした。顔を隠すフードを目深に被り直す。
ナターシャは主の様子をちらりと見やり、
「……申し訳ありません。私たちは先を急いでおりますゆえ、これで」
懐から小袋を取り出して、少年へと差し出す。上等な生地の下で、こすれ合うような音がちゃりんと響いた。
暗に口止め料も兼ねたそれを、少年は見向きもしなかった。
「どこに行くんだ」
「え」
「迷ったんだろ」
意図を測りかねたのだろう。ナターシャは、やや窺うように少年を見返した。
アーシェから見ても、少年の真意は読めなかった。助けてもらった手前、あまり疑いたくはないが――
反応が遅れた。
気絶していたはずの男二人がほぼ同時に立ち上がる。一人は少年へ、もう一人はアーシェへと肉薄し、最小の動きで急所を狙う。
何が起きたのか、まるで分からなかった。
濛々と砂埃が立ち込めて、ようやっと収まった時には、男たちは遠く離れた奥の壁に叩きつけられていた。ひびの入った壁からぱらぱらと埃が落ち、男はぴくりともしない。
――死んだのだろうか。
そう思ったのも束の間、不意に少年がアーシェの手を摑む。
「来い」
薄暗い路地裏を、少年に導かれるまま、通り抜ける。
見知らぬ道をいくつも過ぎ去っていくうち、今のこの状況が何か幻のように感じてくる。
だが、それは唐突に終わりを迎えた。
明るさにアーシェの目が眩む。いつの間にか、王都の大通りまで戻って来ていた。平和な喧騒が、アーシェの耳を刺激する。
「ここでいいか?」
アーシェは驚いて、少年を見やった。
少年の緑眼は、やはり真っ直ぐにこちらを見つめている。
「あの、……ありがとうございます」
少年は頷いた。手を離す。
「アーシェ様」
侍女が後ろから駆け寄ってきた。
「――珍しいね。どうして助けたの?」
不意に届いた声に、少年は振り向いた。
いつからそこにいたのか、路地と大通りの狭間に、一人の青年が立っていた。
二十歳そこそこの細身の体躯。緩く編んだ灰色の髪が揺れ、少年の顔を覗き込む。
少年は無言で通りの向こうを見やった。人でごった返す昼過ぎの雑踏の中に、少女たちの姿はもはや見当たらない。
青年は「ふうん」と呟くと、確かめるように問いかけた。
「それで、クリス君? これからどうするの」
*
目的の場所に辿り着いたのは、もう日が沈み始める頃だった。
王都の西外れに建つ大きな屋敷。それがアーシェたちが目指していた場所だった。
アーシェはゆっくりと息を吐き出した。早朝から歩き続けたせいで、足は既に棒のようだった。それでも、立ち止まることなどできず、ここまで来た。
「行きましょう」
気遣わしげなナターシャに微笑みかけ、一歩を踏み出す。
硬く閉ざされた門の前で、幾度か呼ばわると、奥から誰かが顔を出した。
大柄な男だった。服の上からでもそれと分かる鍛えられた体躯と、どこか無感情な冷たい眼差し。黒々とした瞳が、束の間アーシェを見下ろし、
「アーシェ様、それにナターシャ様ですね」
その腰がついと折られた。
「主がお待ちです。どうぞこちらへ」
威圧感のある外見とは裏腹に、それは随分洗練された所作だった。一瞬覚えた微かな違和感は、男の振る舞いによって解けていく。促されるまま、後に続こうとした時だった。
ぐいと腕が引かれた。
「……ナターシャ? どうしたの?」
ナターシャは傍目にも硬い表情のまま、主を見返している。逡巡が幾度か巡って、ようやく口を開きかけ、
「――お二人共」
どきりとした。先に奥へ進んでいた男が、淡々とした口調で告げる。
「あまり人目についてはいけません。どうぞ中へ」
アーシェと目が合うと、侍女は誤魔化すように笑んだ。
「何でもありません」
「――道中、何かございませんでしたか」
「え?」
綺麗に整えられた広い庭を、男に先導されて横切る。咲き誇る花々や丁寧に植えられた草木を、ぼんやりと眺めていたアーシェは、男の問いに顔を上げた。
男は振り向くことなく続ける。
「主が、心配なさっていたので」
「……レスター卿が?」
「はい」
不安に凍えていたアーシェの心に、微かな熱が灯った。
――『殿下』
恩師の優しい声が脳裏に蘇る。
「――いいえ」
アーシェは思わず後ろを振り返った。ナターシャは、半ば挑むような目つきで男の背を見つめている。
男はそれを一瞥したきり、何も言わなかった。
じわじわとした不安がアーシェの胸を浸していた。
通された玄関ホールに、不自然な部分は何一つなかった。華美なところのない落ち着いた内装は、記憶にある屋敷の主人の雰囲気そのままだったし、正面に位置する木製の階段には埃一つ見当たらない。吹き抜けになった二階の窓から、燃えるような夕日が差し込んで、辺り一面を赤く染め上げている。
おかしなところはない。そのはずなのに、このどうしようもない不安は何なのだろうか。
――『何でもありません』
先程のナターシャの様子が、頭にこびりついて離れない。
背後で扉の閉まる音がした。
「……ねえ、ナター―――」
どん、と急に勢いよく突き飛ばされた。バランスを崩した身体は呆気なく地面に倒れ、全身を強かに打ち付ける。突然訪れた痛みを無理に堪え、アーシェは侍女に目を向ける。
その顔からさっと血の気が引いた。
「…………ナター、シャ?」
ナターシャはすぐ側でうつ伏せに倒れていた。彼女の背中に刻まれた傷跡と、そこから溢れ出る真紅に、アーシェの頭はかき乱された。
「…………ナターシャ。……ナターシャ。ねえ、ナターシャ!」
刺客が剣を振るう。研ぎ澄まされた刃が、真っ直ぐに自分に向かってくるのが、千切れた意識の端で感じられ――
(――――え)
白銀の輝きが、幻のように視界を埋めた。